創造性を破壊するもの

 創造性がないと言われる日本人。その原因を解明する手段として、藤田紘一朗教授の話が参考になるのではないかと考え、ここに抜粋させていただきます。

遠山 勉
(01/10/01)


「消臭社会」日本の病理(読売新聞
200193日号)

 藤田紘一郎教授(東京医科歯科大学:寄生虫学)

 この夏も異常に暑かった。湿度の高い日本の夏は汗の季節といえるだろう。今年の夏は「制汗スプレー」が若い女性などに飛ぶように売れたということだ。テレビでは体臭予防のコマーシャルが毎日のように繰り返し流されていた。「口臭予防」や「サラサラヘアー」のコマーシャルとなると、夏に限らず1年中のことだ。1日も欠かさぬ朝シャンやデオドラント、「これは異常な現象だ」なんて思っているうちに、今や、におわない便を出すための飲み薬を飲むというところまでエスカレートしている。日本人の「脱臭・消臭病」もくるところまできてしまったという感じだ。実は、私はこの夏の後半をインドネシアですごした。私が訪れたスラベシ島マカッサル周辺の子どもたちはとても元気だった。ウンチやオシッコが流れる河で水遊びをしたり、魚を取ったりしている子どもたちの肌はツヤツヤツルツルしていて、アトピー性皮膚炎やぜん息で悩んでいる子どもは一人もいなかった。彼らイスラム教徒は「流れるもの、皆清い」という考えをもっていて、「ウンチやオシッコは汚くない」という考え方が浸透していたのだ。
 ひるがえって、日本人はどうだろうか。今まで自分の体の中にあったウンチとかオシッコを、体から出た途端に忌み嫌う。ウンチなどはその姿を見ないうちに水で流してしまう。当然のように、ウンチのにおいなどはたちどころに消臭してしまう。誰でもするウンチなのに、ウンチすることがいじめの対象となる。日本の小学生の男子児童の70%から90%が小学校でウンチしない。こんな社会に生きていかなければならない日本の子どもが、インドネシアの子どもにくらべて、元気がなかったりするのはむしろ当然のように私には思えてきた。
 インドネシアの子どもたちや若者たちは、父母を大切にする。おじいちゃんやおばあちゃんを大事にする。病人にはとてもやさしい。彼らはごく自然にこれらの人々にやさしく振る舞うのだ。日本では、世の中でいちばん嫌いなものは「オジン臭」だと若者はいいかねない。時に年寄りや病人は「臭い」といって、老人ホームや病院に追いやられる。しかし、私が訪れたマカッサル周辺の村には老人ホームも病院もない。お年寄りも病人も同じ部屋に寝ている。でも誰一人「くさーい」なんて言わない。彼らの周りには、ウンチのにおい、オシッコのにおい、チョウジのにおいなど、いろいろなにおいが充満しているからだろう。これらのにおいが、加齢臭や老人臭など自然に発生するにおいを意識させないようにしているのであろう。
 日本社会は、今、抗菌社会から消臭社会に突入した。しかし、においを排除していくと、加齢臭など自然の体臭が気になってくる。体臭は誰にもあるものだ。それを過剰に意識させ、だんだんとその度合いを強めていくと、ついには汗もかけない、息ももできない状況になってくるのではないだろうか。
 日本社会の消臭志向は画一的な学校教育にも現れている気がする。制服を着せ、同じメニューの給食を食べさせている。運動会でも1等賞をとるような生徒はつくらない。個性はいわば体臭なのに、平等主義の旗印の下、脱臭に取り組んだりして、とにかく「目立たないように」努力している。
そして、校則は「不純物」や「異物」の排除に精を出しているようにさえ思えるのだ。企業側も同じだ。建前はともかく、異物を嫌い、無臭の人材を求める傾向が目立つ。品質管理の面で世界にとどろく産業界は、人の面でも均質な規格型を求めるようになってきたのではないか。そして、さらに困ったことは、このような消臭社会はヒトにとって敵か味方かを見極めることなく、すべての異物を排除しようとする思想を生んでいるのである。


 以上が、教授の説ですが、異物を嫌い、無臭の人材を好むという傾向があるのであれば、そこには、新たな創造=他人とは異なることをする機会は、
存在しない。ということになってしまうのではないでしょうか。
 近頃、不登校の小学生、中学生が増え、さらには、社会に入っていけない子供達が増えており、その根底には、どうも「排除の理論」があるように思えてなりません。
 問題は、なぜそうなってしまったのかという点しょう。そこに、日本人の「創造性」の問題解決の原因もあるように思えます。