喫煙ばかりが

人間は役に立たないことでも快楽を覚える生き物で、 ついつい花を愛でたり写真を撮ったりしてしまうわけです。更に 「無用な知識の数が増えることで快感を感じることができる 唯一の動物である」(アイザック・アシモフ) わけなので、 旅行に行ったりコーヒーを飲んだりお化け屋敷に入ったりしても不思議ではないのですね。 役に立たないことの中でも刺激になるものは特に魅力が高いらしく、 たとえばジェットコースターなどというものがあります。 冷静に考えると、無駄に上ったり下ったりして、しかも怖いのが優れている謎な遊戯で、 何が楽しいものやらと思ってしまうのですが、楽しいのだからしょうがないそうです。 無駄で刺激を与えるだけで、しかも周囲に騒音をまき散らしているのに。 というのは以下の話を正当化するための単なる冗談ですけど。

嗅ぎ煙草、という煙草があります。「かぎたばこ」と書いても「嗅ぎタバコ」と書いても構いませんが、 早い話が、鼻で吸う煙草です。英語では snuff と綴って「すなっふ」と読むようです。 煙草の一種なのですが、最大の特徴として煙が出ません。 噛み煙草と共に、「喫煙しない煙草」に分類されます。 喫煙ばかりが煙草ではないのです。

モノとしては煙草の葉を粉にしたもので、5gから 10g がケースに入って売られています。 これを手の甲に耳掻き一杯分くらい出して、鼻から直接吸います。 ですから鼻の粘膜の弱い人にはちょっとお薦めできません。 そのへんのたばこ屋でふつうに売られていますし、ちゃんと税金も払っています。 嗅ぎ煙草は、たばこ税法では「かぎ用たばこ」であり、紙巻や葉巻やパイプたばこなどの「喫煙用たばこ」 とはちょっと異なる扱いになっています。ちなみに税金は、嗅ぎ煙草2gで紙巻1本分に相当します。

煙草ですのでちゃんと人体に刺激を与えますが、煙が出ないということは当然副煙流もありません。 喫煙しない煙草ですから喫煙所でなくても吸えます。 噛み煙草はガムみたいなものなので、唾が出てきて周囲に迷惑を及ぼすこともありますが、 嗅ぎ煙草は極めてクリーンです。 もっとも、公共の場で吸うのは、あまり見た目の良いものではないので考慮が必要でしょう。

種類としては、純粋な煙草、メンソールの入った煙草、着香された煙草、などがあります。 煙草を使わない Mint Snuff や、片栗粉にメンソールをまぶしただけのものなども 売られていたりするのですが、嗜好品なので味の好みは人それぞれでしょう。 僕の好みを言わせてもらえるなら、メンソールがあまりきつくないやつが一番いけます。 片栗粉はさすがに駄目駄目でした。金沢で一度見たきりなんですが、 果たしてまだ売られているのかどうかも不明です。

煙草といえば、俳優が映画のシーンの中で吸っていたり、ミュージシャンがステージで吸っていたり、 ギャングが葉巻を加えていたり、 ポールマッカートニーが横断歩道の上で持っていたりという具合に、 有名人が吸って格好良いもの、という印象がすり込まれている人が多いかも知れません。 嗅ぎ煙草の友達の噛み煙草に関しては、野球選手がフィールドで噛んでいたりするわけですが、 嗅ぎ煙草については、有名人が吸っている場面が公共の場に流れることは稀のようです。 やはり見た目が美しくないのでしょうか。吸っていた有名人が少ないわけではなくて、 僕も吸っていますし (何様だおいら) 歴史的には、J. S. バッハも吸っていたと言われています。

あと、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズの冒険」に入っている「赤毛連盟」(The red-headed league) の依頼者のウィルソン さん (Mr Jabez Wilson) もやってましたね。 依頼者を一目見て、その属性を並び立ててびっくりさせ、なぜ分かったかを説明するってのは ホームズ話の非常によくあるパターンですが、 この話でもホームズはウィルソンさんとあまり話をしないうちに、 ウィルソンさんは力仕事をしていたことがあって、 嗅ぎ煙草をやっていて、フリーメイソンで、中国にいたことがあって、 最近非常に沢山書き物をしてきた、ということをさらっと言うんです。で、びっくりして

「まったくもって、なんでそうしたことの全てが分かったんですかホームズさん」とウィルソンさん。 「例えば力仕事についてはどうやって分かったんですか。確かに船大工してましたけど」

「手ですよ。あなたの右手は左手よりだいぶ大きいですね。右手を使う仕事をしていたから 筋肉もついたんです」

「じゃあ嗅ぎ煙草とフリーメイソンについてはどうなんですか」

「どうやって分かったかをあなたの知性に説明してもしょうがありませんね。 特にあなたは規則に反して、arc-and -compass のタイピンをつけていますし」

「おお確かに。忘れていました。それにしても書き物については」

と続くわけなんですが (僕によるテキトー訳)、 あれ、嗅ぎ煙草についての説明はどこにいったんでしょう。 ホームズが説明し忘れたのか、ワトソンが書き忘れたのか、ドイルが書き忘れたのか、 編集の途中で抜け落ちたのか、版が進むにつれて抜け落ちたのかは分かりませんけど、 少なくとも僕の手元にある版には書かれていません。 まあ、僕の持っている版は時間潰し用の安い作品集のペーパーバックだから、 ちゃんと編集された本には書かれているのかも知れません。 もっとも、ホームズでなくても、親指付け根に嗅ぎ煙草の粉が残っているとか、 そこが黒ずんでいるか、鼻の穴が茶色くなっているとか、そんなあたりで 嗅ぎ煙草をよく吸う人は分かりそうな気はします。 実際ウィルソンさんは後の場面で吸ってますから、説明しなくても話は通じるんですけどね。 って、シャーロキアンでもないくせに何書いてるんだか。

そんなわけで、 喫煙者に厳しい社会になってきた中で俄然脚光を浴びるように、は、なっていませんね。 煙を燻らせる煙草に較べるとどうしても地味だからか、敢えて試す人も多くありませんし、 初めて吸うとかなりきついので、むせ返ってしまう人も多いでしょう。 しかも、街角で吸っていると怪しい薬でもやっているように見えるかもしれません。 別にやましいことをしているわけではないので通報されても構わないのですが、 まあ、暖かい目で見守って欲しいなあ、と。


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