台湾ツアー’89

 

 1989年のゴールデンウイークに台湾の東北部・蘇澳南端・墾丁まで走ったときの記録です.

 

[1]期  間:1989年4月29日(土)〜5月8日(月)

 

[3]参加者:お座敷、S、F先輩

 

切符をゆずってもらうことになったのは、3/2x

Sは例によって、2日早く出発し、台湾の田舎で落ち合おうという。

前日までは相変わらず、残業の毎日

 

4月29日 割り箸製のエンドアダプターを自作

 

      2時出発 2時半五反田から乗る。佐倉で特急に乗り換え

成田は予想通りの混雑輪行袋を抱えてヨチヨチ歩く。

黄昏の南ウィング帰省する中国人の会話を耳にし、頭痛がしてくる。

 

これから9日間はこれとつき合うのかと思うと。

 

 成田 18:20 UA(ユナイテッド航空)137便

 

スチュワーデスは白人と日本人、中国人見るべきものはない。

夕食は、ステーキが売り切れで、鮭のムニエールを食わされる。

 

隣は日系3世のアメリカ人。GEの原発エンジニア 低気圧の前線に飛びこみ、揺れる。

 

 台北 中正国際空港21:00 (時差 −1時間)20分遅れの到着。しっとりと湿った空気。

 

空港の建物の黴臭い空気。時間が遅いせいか構内の店はみなしまっている。

入関の登録はWANGの端末。氏名を漢字入力している。

通関を済ませて、ドアをあけると、パンドラの箱。雑踏と熱気が襲ってきた。

 

キャスターのうまく回らないカートをぐいぐい押しながら、輪行袋を落としそうになりながら、銀行を捜す。

バスの時間も気になるが。8万円を台幣(タイピー)に替える。

 

カウンターの銀行員が、怪訝な顔つきなので、少し多すぎる気もするが、構わない。

 

レートはNT$1=¥5.4 4年前、¥7だったのに比べると、大名旅行できそうだ。次にバスの切符を購入。72元である。

 

前回より全く値上がりしていない。台湾経済は優秀である。

タクシーの客引きを追い払いながら、汗だくになって、輪行袋をバスに載せる。

 

このバスは前回と違って、蚊は2、3匹しかいなかった。

横に座った少女とは、一言も口をきかない。後ろに飛び去って行く、暗い街灯に照らされる椰子の木を眺めていると、早くもホームシックに襲われる。

 

高速道路の高架から見えるアパートの明かりはほの暗い蛍光灯。 

高速を降りると町中暴走族のようなバイクと車の洪水。

空吹かしとクラクション。

 

バスはいくつかの有名ホテルの前で停まって、台北駅の南側の降車場に着いた。

ファミリーマートやら吉野屋が街灯のない街にひときわ明るくめだっている。

台北駅は、地下化の工事をしていると聞いていたが、前と全く変わっていない。

駅の南側のビルは少し囲いより姿を現していたが,

工事の進捗は日本の常識とは、ちがうようだった。

 

何事もすばやい台湾人には似つかわしくない。

というようなことを思いながら、バイクに占領されてすっかり狭くなった歩道を輪行袋とザック、フロントバックを抱えて、へばりそうになりながら歩く。

 

今夜の目的地は蘇澳である。台北は西北の端にあるとすれば、宜蘭より先まで列車に乗らなければならない。

11時台の夜行列車だが、これを逃すと、1時発になり、3時間近くかかるので、明日のランまで寝ている暇がなくなる。

 

地下道の雑踏と物売り(地攤)、乞食を避けながら、やっと火車站に着く。

出札はまだろくに機械化されていないようだ。近郊区間も自動販売機などはなく、12〜3人の列が、10くらいできている。「今天車票は二階」と案内が読める。

 

階段を昇って二階へ。混雑の状況は下と変わりなかった。北廻線の窓口に並ぶ。

11時である。僕の乗る「呂光号」は11時10分発である。列の前にはまだ7〜8人いる。もう1本あとにあるとはいえ、プレッシャーを感じる。

無邪気な台湾人が僕に火車の時間を尋ねる。

僕はわからん(不憧:プートン、ティンプートン)という。

 

喉が乾き、飲み物が欲しいが、列を離れるわけにはいかない。

漸く僕の番が来るが、10分発にはもう間に合わないという。

そう言ってる間に切符を作らんか!僕が中国語(中文)が分からんと思って、窓口の後ろでぼーっとしていた年寄りを連れてきて説明してくれる。

 

そうしている間に何人に追い越されたとおもっているのだ。

要するに、指定席がないということなのだ。

「無座」で構わないといって、6元引きの車票を作って貰う。

プリントされた軟券だが、オンライン制御されている風もなく、売り上げ金額の計算だけをおこなっているのではないか・163元。既に8分である。

 

柱に立てかけた輪行袋の背負い紐を肩に通して、改札へ急ぐ。

閉じてしまったが、となりに割りこんで、強引に通る。

「台湾の列車は遅れる」という信念を持って、ホームへ急ぐ。

 

すると、気のせいか、手招きするひとがいる。女である。それも若い。

3番月台(ホーム)に下りると、案の定朽ち果てたような客車が待っていた。

デッキまではみ出している乗客を輪行袋を盾に蹴散らしながら客室に入って行く。

勿論、席はない。標準軌であるが、客車の幅は、日本と変わりないようだ。

夜行の座席列車。通路が狭く、自転車の置き場に困る。

 

 客室の端の給湯機のスペ−スに無理やり輪行袋をねじ込む。

わずかな隙間に女性がうずくまっているにもかかわらず。

発車間際、ひとつだけ席が空くが、そのとき、くだんの女が乗ってきた。

一瞬目線が合って、空席を譲り合う。僕は1時過ぎの下車だから、ここで座ってしまうと、寝過ごしそうだし、彼女の好意を頑なに拒む。

お互い、意地になってしまい、そのうち後からきたすばしこい女性に席をとられてしまい、二人で、給湯機の脇に並んで立つことになってしまった。

(この時まで、身振りのみで意思疎通している。)話すことがなくなってっしまったが、彼女が時刻表を出して、眺め始めたので、蘇澳に着く時間を聞いてみた。

 

どうも要領を得ないが、どうやら1時過ぎとなるらしい。

 

退屈しのぎと、眠気覚ましのため、筆談を試みる。

中日対訳会話帳が役に立つ。といっても、発音して通じるわけもないので、

「現地の人と楽しく話す」の項を片っ端から指で指し示すのである。

熱海の新人研修のとき、泥縄式で勉強したのがよかった。

基本文法と語彙はなんとか分かる。僕の書く中文は意味をなしているらしい。

 

 彼女の名前は蘇淑恵(ス−・シュウ・ホエ)24才で、台中在住、独身。

商業高校を卒業して、台中市内で勤めている。

今日は羅東の友達(小莉)のところに行くのだという。

風貌は高部知子に似ている。

美人のタイプではないが、心根の優しさがとても気に入った。

 

彼女にそういうと、高部知子を知らないらしく、

日本の女優で奇麗なのは、中森明菜だと言っていた。

しかし、羅東に着くのは、12時半くらいだ。

非常識というか、エネルギッシュというか、  

冷房が効かないので、さかんにハンカチを出して、額を拭う。

 

彼女は、腹が減っているらしく、僕にも弁当を買ってくれようとするが、

ぼくはむしろ喉が乾いているのだ。給湯機からお茶を出して飲む。

彼女は弁当売り(夜中の12時だというのに、私設社内販売が狭い通路を無理やりやってくる)から、豚肉ののったようなぎとぎとの弁当を買い、背を向けて、立ったまま食い始めた。水気はまったくなし。

 

 弁当を食い終えて、しばらくすると、ジュ−ス売りがやってきたので、スポ−ツドリンクを買おうとすると、彼女が素早く40元を出してしまっていた。

 

 蘇澳に着く時間を時刻表によって教えてくれ、というが、3時だといったり、1時だと言ったり、時刻表の読み方をしらないのか、Sは果たしてまっていてくれるのか、おちあえず、1週間ずっと一人旅になるのではないかと不安だった。

 

 そうしているうちに宜蘭。彼女の降りる羅東に近づいてきた。

2時間以上立ち通しだったが、退屈しなかったし、疲れを感じなかった。

「最後に写真を」一枚と思って頼むと、快く応じてくれた。

ただ客室内でフラッシュをたくと、めだつのでデッキに出ようという 

デッキは狭く、寄り添わなくては一緒に写らない。そこに立っていた男にシャッタ−を頼む。まるで恋人気取りで肩を寄せ合い、

(くっついてきたのは彼女のほうだった)

僕もいい気になって、彼女の肩に手を回してしまった。

 

 さて、ひとり列車に残されてからの時間は長かった。

ものの数10分だったと思うが、どうやら、蘇澳に着いた。

蘇澳新站は街から外れているので、駅前は暗い。

 

セメント会社のミキサ−タワ−(?)だけが闇の中、照明があたって不気味だった。

 

 それでも20人くらいの乗客が降りた。

コンクリ造りの袴線橋を越え、

改札を出たが、悪い予感が当たり、Sは待っていない。

 

 4月30日、午前1時40分である。

 

時差1時間だから2時40分までおきていることになる。

少し待てば、来るかも知れないと思い、待合室にいた山地人の家族と写真を撮ったりする。

 

蛍光灯に虫が群がって、すっかり夏だ。ときおり、タクシ−が駅前で旋回して去って行く。

 

 2時近くなり、サイクリング装束(短パン、ティ−シャツ)で日焼けしたSが現れる。

この日は、野柳岬等を廻り、基隆から輪行してきて、疲れて寝過ごしてしまったのだという。

 

街は新站から3キロ位離れているという。

丁度タクシ−がきているので、これに乗ることにする。

誰も通らない夜更けの道をボロいクラウンで飛ばす。

 100元。 高いのか、安いのか分からない。

 

旅社のシャッタ−は閉まっていたが、開けさせる。

部屋は2階、ツインの割合広い部屋。400元で窓と、空調はないが、テレビがある。食い物はひからびた稲荷寿司と、海老の炒めたもの。

 

まず、風呂に入る。なによりもうれしい。紹興酒を一本空ける。

 

 4時に寝て、窓がないので、扇風機をつけっぱなしにしたが、七時半には起きた。

 

 

4月30日(日) 晴れ時々曇り

 

 まず,自転車を作る宿の主人が手伝ってくれる.子供が眺めている.

 

朝食はとらずに,パン屋で野菜パン等をピン食として購入.

今日は100キロ近く走らねばならない.右側通行,雑踏,ぼくは台湾に来たのだ.

 

街はすぐ終わり,港を見下ろす登り坂,おきぬけの一発というやつだ.

何度かアップダウンを繰り返し,東澳に着く.腹が減ったので,おでん定食をたべる.40元.

 

蘇澳と花蓮を結ぶ,蘇花公路は,断崖絶壁にへばりつくようにして2つの街をつないでいる.

 

この前より,だいぶ改良工事が進んで道端が広くなっている.

工事中でダートのところもある.内陸に入り込んで峠っぽくなったところで,サイクリストに出会う.

 

まったくめずらしいことだ.フラットバーで,キャンプ装備である. 

ラジカセをがんがんかけながら,坂道を押して歩いている.

僕たちは彼を追い越していってしまうつもりだったが,

挨拶がうまく通じず,こっちも自転車を降りて筆談を始めてしまった.

 

彼とは翌日の天祥まで一緒に行動することになる.

旅社捜しでは,通訳がいて助かった.

 

彼の自転車が重装備なので,どうしても遅れる.

我々が特別強いわけでもないのだが,力強く登っていく我々を見て,好感を覚えたのだろうか

 

 我々の今日の予定では,天祥まで行くのだが,彼は遠すぎるといい,

キャンプするという.我々は付き合う気はない.

 

 太魯閣に着いたのは5時くらいだったが,まだ明るくて,東西横貫公路の門のところでは記念写真を撮る観光客でまだごったかえしていた.

 

今晩の宿は,Sが台湾サイクリング協会で紹介された「太魯閣大旅社」である.

狭苦しく仕切ってあって,風呂とトイレが外だが,300元.ダブルの部屋である.

 

夕食はこれまたサイクリング協会推薦の

「藍々飲食店」である.

 

 彼,羅経祥君は基隆の高中3年で,この7月から工科大学に進むという.

 

 今は3日間の休暇で太魯閣まで来たのでという.夕食はオレンジジュースとチャーハン  蛤のスープ,烏賊の炒めたもの等.どうでもいいが盛りがいい.

 

 コップのガラスがやたら肉厚だが,すぐに割れてしまう.香吉士(サンキスト)と書いてある.

 

 風呂は一人ずつ入るので時間がかかる.3人のうちひとりがいなくなると,2人で筆談している.しきりと大陸に行くのはいつか,と聞いてくる.

 

 洗濯をして,風呂あがりには台湾ビールも飲んでいいきぶん.ライトビールであり,ホップにいいものを使ってないのか,慣れるまではちょっと飲みにくい.

 ダブルベットは相手の寝返りでスプリングが揺れて寝にくいものだ.

 

 

 5月1日(月)  晴れ 後 曇り

 

 今日は今回の最高地点を越える.東西横貫公路を突破する日である.

天祥までぼちぼち400mくらい登って,バス輪行する.

 

太魯閣峡谷は狭い道を観光バスが擦れ違えないで立ち往生している.

このダンゴ状の所を通過すると,まったく車に出会わなくなった.

 

 天祥は,一足先に着いた観光バス軍団でごった返していた.

 

 さて,ぼくたちを峠(大禹嶺)まで連れていってくれるバスは12:15発.

 

 但し,そこが最高地点ではないので,先に行くタクシーも捜したが, 

3000元等とべらぼうな事をいうので,バスにする.

バスは大禹嶺まで,74元である.

 

 大禹嶺から最高地点の武嶺までは700メートルの登りでダートなのだ.

 

結局大禹嶺からタクシーを傭った.

これは700元でトラクタのようなタイヤを履いているボロボロのクラウンだった.

 

 この74元のバスが曲者だった.

席はなく,2時間以上立たされた.まあ,それは床にうづくまるからいいとして,運転の荒さには肝を冷やした.

 

断崖絶壁を車体を左右いっぱいに揺らしながら,ジェットコースターのように走るのだ.  50キロは出ていたように思う .

すっかり酔ってしまい,これからダートを下れるのか心配になった.

 

 羅君が親切にも天祥で買ってくれた弁当が芯飯でなんとか全部食ったが,どうも腹の様子がおかしい.

 

 大禹嶺,2425メートルは快晴,気温は15度くらいか,ここにくだんのボロタクシーがいた.

交渉の結果,合歓山まで600元で行くという.ひとり300,¥1500である.

 

これを利用.大禹嶺の狭いスペースを出るとすぐにダートになった.砂利が多い.

あの一帯は 台湾で唯一スキーのできるところである.雪はまったくない.

 

 合歓山に着いたものの最高地点ではない.おっさんは勝手に山荘の前に停めて,今日はここに泊まれと言い出す.

我々は 最高地点の武嶺に行って欲しいというと,あと100元欲しいと行った.

まったく商売のうまいところは中国人である.

 

 武嶺は曇り,ときどき下界が雲間からのぞく.3275メートル 寒い.

5度くらいか早々に自転車を組み立てて,写真を撮ったらくだろう.

こんなダートの林道にもバイクのツーリストが来る.

 

 

 下りの道は長かった。勾配が緩いのだ。翠峰まで延々ダ−ト。

 

30キロくらいあったような気がする。下りの途中に素晴らしい賓館があった。

後で調べると、一泊800元だそうである。

この日は補里(プ−リ−)まで行きたかったが、霧社で日が暮れてしまった。

 

霧社大飯店の地下の部屋やに泊まる。100元。

夜、ロビ−のテレビで「志村けんの”大丈夫だあ〜”」を字幕付きビデオを見ていたので、それを批評しながら、見る。

 

水蜜桃ジュ−ス、成田で買って重かったシ−バスリ−ガルのハ−フボトルを飲む。

なかなか減らない。筋肉痛の薬を買おうと、サロメチ−ルというが、よろず屋で買えたのは、サロンメロ−ゼルという軟膏だった。

 

5/2(火)晴れ後驟雨    霧社 補里

 

こんな山の中なのに、朝から露店が沢山出ている。かけうどんを食う。20元。

霧社は、茶の山地なので、茶行に入って試飲してみようということになる。

 

茶行の若い店員は快諾してくれた。

茶を入れるのは、儀式である。時間のない我々にとっては、じれったい時間だった。

 

しかし、朝摘みの春茶を喫することができ、満足だった。

何煎したかわからなくなるほど、茶腹になってしまう。

小さな茶碗であるが、10数杯飲んでいると思う。

 

また香りを嗅ぐだけのために存在する器(茶碗によくにている。)もおもしろかった。そうこうするうちに10時半になる。

 

今日は北港まで150キロを走る日なのだ。

 

長居は無用。一缶、450元というとてつもなく高い茶を買って、出発。霧ケ丘神社の記念写真を撮る。霧社事件の現場である。

 

 霧社の標高は1700メ−トル。いっきにゼロまで下る。

東西横貫公路の支線のため、ほとんど車は通らない。

 

爽快な道である。Sとどんどん差がつく。どうも足が廻らない。

ギアが低いせいかとも思うが、一度休憩した時気づいた。

 

後ろブレ−キが輪行をくり返したため、リムに当たりっぱなしになり、回転抵抗となっていたのだ。それを直す。

 

 山を下ると補里である。鉄道は集集までしか来ていないが、平地の最後の集落なので、物産の集散地となっているようで、たいそう賑わっていた。

 

 ここには、台湾中心の碑がある。

街を見下ろす丘の上である。足がきつかったが、登ってみる。

眺望がきくので、軍が管理していた。

 

 ひとしきり、写真を撮って山を下りる。中心地のバスターミナルに行き、昼食をとる。ワンタンメンを食べる。25元。

 

空が暗く、ぽつぽつ降り出す。もう一度食堂に入り 、二回目の昼食。

スコールとなる。バイクは合羽を着て、相変わらず走り回っている。

 

 1時間ほど待つがやまない。必然的にここで泊まることにする。

 

なかなか好きな田舎町だ。まず飛行機のリコンファームをしようと、公衆電話から台北に掛けるが、回線がろくなものではないので、全く聞き取れない。

 

台湾銀行なら優秀な電話があるだろうと、合羽を着て、移動。

ところがそこでは、電話を貸してくれず、換金を勧めるだけ。

 

国営銀行の癖に商売気がありすぎる。 次は電話局に移動。

ここは新しい建物で、局員も優秀。

 

市外電話は申し込み式になっており、基本料金が36元。

局員がユナイテッドの台北オフィスに掛けてくれて、

僕は別に設けられたブースに入って話すのだ。

 

飛行機会社のオペレータはさすがに英語を話せたが、電脳が故障しているという。

10分後に再度挑戦。なんとかリコンファームはできた。今度は宿捜し。

 

町で一番高層の金山大飯店に行く。

やたら複雑な建物。八階建てくらい。エレベータもあった。

しかし、高い。ダブルで700元。

 

 その2軒隣の東京旅社。ここはツインで500元。

もう一軒見てみるがよくないので、東京旅社に決める。

窓の無い部屋だが、広い。テレビもある。空調はあるが、機能しない。

 

 時間がありすぎるので、町を探索することとする。

フロントで傘を借りる。大きな派手なパラソル。

 

一つしかないので、Sと一緒である。

大抵の通りは、軒が出ているので、傘は要らない。

四つ角を横切るときと、町外れに来ると傘を差す。中央市場に入ってみる。

 

ビルになって、洗練されているが、売っているのは衣服と食料品、デパートというには苦しい。

 

Sは靴下を買いたいというが、一足20元もする。安くない。

 

 ひたすら、歩く。貸し本やをいくつか見つける。

マンガは、いまだに日本の海賊版が全盛で、奇妙な翻訳に苦笑する。

猫眼(キャッツアイ)等。

 

文房具店では、封筒、便箋類いがおもしろかった。

バースデイカードが特におもしろい。しかし、買わなかった。

 

 日が暮れても歩き続ける。

夕食を取ろうと言い合うが、適当な店をみつけられない。

そこらじゅう食堂だらけなのだが。

 

熊、鹿を料理する店を見つけるが、非常にたかそうだった。

8時すぎて、キャバレー風の怪しい喫茶店”FAUCHON(腹之香)”に入る。

 

80元で、ピラフと紅茶のセット。

安いと思ったが、量が日本と同じ位少ない。

水がでてきたり、BGMを流したり、雑誌をおいてあったり、

全く日本の喫茶店のようだった。

 

Sは少なすぎると訴えるので、包子を買う。

バスターミナルの直ぐ横だったが、11時近かったため暗かった。

 

 円環(ロータリー)の近くの市場にも行ってみる。

この辺りは新市街で、道幅が広い。

 

精工時計の電光掲示版がでたらめな時間を告げていた。

 

補里は紹興酒の原産地だが、東京でみるものと、違う様子はなかった。

陳年のものがいちばん良いというのも、変わりない。

 

 

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5/3(水)晴れ 補里   日月潭    水里   集集  斗南  北港

 

日月潭の青い空。同宿していた蝶取りの日本人青年(夜は別のことで忙しい)に

東京大旅社の前で写真を撮ってもらう。

 

今日は昨日の分を取り戻さねばならない。

 

朝食は市場で取るが、おかずを取りすぎ、

また変な味のやつだったので(コリアンダーの入れすぎ)、殆ど残し、

芋粥しか食べなかった。

 

それでもたった25元だったが。

Sは、香草のはいった肉炒めもかまわず食べ、くいたり無くて、

豚の切り身を載せた超脂っこい弁当を作って貰っていた。

 

ねたはともかく、弁当のオーダーメイドができるのは、楽しい。

 

僕は屋台で小龍包(しゃおろんぱお)を買う。10ケ30元。

一口サイズの肉饅頭で、飲茶でアツアツのところを食べると、とてもおいしい。 

 

さて、Dパックをハンドルにくくり付けて、出発だ。

 

日月潭へは、400Mくらいの登りだが、道が非常に良くて、疲れを感じない。

国道の途中で、諸葛孔明廟を見つけ、少し道は逸れるが見物してみる。

 

30Mはあろうかという巨大なコンクリート製の諸葛孔明の像が聳え立っていた。

装束の風に靡く様子もコンクリートで表現している。

 

 他には誰も訪れる人もない、のどかな寺だった。

30元出して、参拝の線香と紙銭を買い、御神籤を引く。

 

半年以内に結婚するという、大吉(星震卦)だった。

 

 寺の金銭管理をしているというおじさんに、説明してもらう。

今日は時間がないのに、1時間も長居してしまう。礼を言って、出発。

 

 日月潭はそこから直ぐだった。水がエメラルドグリーンである。

 

ピン食の小龍包をいっぺんに食ってしまう。

 

先を急いで、湖岸道路を右に行く。

日月潭のバスターミナル周辺は結構賑わっていた。

 

前回は夜遅かったせいか、とても寂しいところだと、感じたが、

今度は観光巴士のひしめくようなところだった。

 

 湖を取り巻く外輪山をトンネルで通り越し、水里までは下りだった。

バナナ畑が続き、南国の景色となってくる。

 

この道はどういうわけか、日本の国道1号箱根峠を思い起こさせる。

 

 鉄道と交差する付近で、交通事故の検証をしているところに出くわす。

けが人は運ばれてもういなかったが、

 

道の真ん中に牛乳一本分くらいの鮮血が流れていた。

ホンダの135CCのスポーツバイクがカウルを割っていた。

バイクに無防備で乗るからここの人はこわい。

 

 昼を少し過ぎて、集集に着く。

 

自助餐で昼食を取るが、蠅が多くて、情けなくなる。

 

すぐ脇に生ゴミの集積所もある。

Sのボトルケージが折れる。

自転車屋はあるが、水筒を付けるような金具はおいていない。

 

無理やり折れたのをくくり付ける。

どうも、自転車の修理というのは、無理やりというのが多い。

 

 気分はちょっとブルー。でも町まではしらなければ。

斗南、斗六、と国道1号が近くなるに連れて、車の往来が激しくなってくる。

 

 林内の駅で、休憩。今日は日に焼けすぎているかも知れない。

坪井ときたときも通った道である。国道を横切り、一路北港へ向かう。

 

田圃に囲まれたなんとも長閑な道である。牛が歩いている。

途中で迷い、店で道を、聞くが、なまじ中国語できくと、答えがわからない。

 

Sが英語で聞いて、地図で示してもらう方が役に立つ。

 

 新港に着く。小さな町だが、夕方の退勤時間か、バイクと車で大層混雑している。

 

奉天宮で写真を撮る。女子高生にシャッターを推してもらおうと、袖を引っ張ってくるが、恥ずかしがってだめ。

 

境内で屯していたおっさんにやってもらう。

 

 北港はそこから5キロのところだった。

馬祖廟(マーツーミャオ)の門前町というだけあって、

参道の通りは補里より賑やかだ。

 

90キロくらい走って、疲れたので、まず宿捜し。

500元のツインで4階、ぼろい、というのがあったがやめる。

 

通りであひるの卵のゆでたのを売っている。

町イチバンの高層ビル「福泰大飯店」を尋ねる。

新築8階建でみるからに高そう。

フロントのおっさんは日本語ができないが、えらく調子が良かった。

 

 入ったところで、部屋の様子がバックライトの写真で見られるところがラブホテルみたい。実際そう使われているのだろうが。ダブルで660元。意外と安い。

 

寝返りの打てない窮屈な夜はいやだったが、それ意外は部屋も広いし、冷蔵庫もあったりして、気にいったので決めてしまう。

 

エレベータは勿論ある。廊下の証明が、キャバレーみたいというか、

クリスマスの電飾みたいで、豆球を天井と壁の隅に何百と並べてあるのが奇怪。

 

絨毯が真っ赤なのは普通かも知れないが。

日本のビジネスホテルのように没個性で冷たい感じはしない。

手作りの感触が大切だと思った。

 

 風呂に入ってくつろぎ、夜の街に繰り出す。

馬祖廟(マーツーミャオ)までは歩いて3分。

 

夕食はさんざん迷った挙句、イチバン大きそうな店で、あひるを食べる。

ビール一本と、チャーハン、牡蠣スープで240元、アヒルが120元と高かった。

 

 直径15センチくらいのパイを買って、食いながら歩く。

中は餡とくるみ等が入っている。

 

廟の向かい側のビルの二階が舞台になっていて、

ふだんは芝居でもかかるのか知らないが、今夜は幕を下ろし、

それをスクリーンにして、ドライブインシアターのような事をやっていた。

バイクのドライブインシアターである。

 

 部屋で熱湯が出るので、コーヒィを作る。アーモンドチョコも食ってしまう。

Sはなかなか靴下が買えない。  

7階にもかかわらず、蚊が部屋に入ってしまい、寝つかれない夜だった。

 

 夜中、2トントラックの荷台を改造して、後ろのデッキでミニスカートの女がカラオケをガンガンがなっていたのはなんだったのか。

後に知ることになるが、見るからにいかがわしい、変わった娯楽である。

 

 

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5/4(木)雨後晴れ 北港繙朴子(ポ−ツ)繙縺i北回帰線突破)

水上嘉義(巴士)高雄(巴士)恒春墾丁

 

また、雨である。Sは不機嫌。でも嘉義まで走れば、後は巴士だ。

朝食はカットして出発。

田圃の真ん中の道で昨晩の不思議なトラックの編隊に出会う。

 

7、8台いただろうか、走りながら、

てんでばらばらの歌をボリュームをいっぱいにして歌っている。

騒音の塊のようだ。

 

三味線を抱えたおばさんの楽隊を載せたトラックやら、大道具のトラックも続く。

何とも壮観だった。歌っている女は、化粧は濃いがかなりわかそうである。

 

いくら払ってどんなサービスを受けられるのか、ぜひ試してみようと心に誓う。

 

サイクリングの方は情け無い。

合羽の上だけと、つば付き帽子を被っているが、霧雨っぽいのであまり役に立たない。おまけにミスコース。

 

南東の嘉義に戻らず、小琉球へ渡る港のある方へ向かっている。

朴子(ポ−ツ)まで来てしまう。

三角の二辺を走ることになってしまった。

 

おまけのおまけにSはハンガーノック。

僕は至って燃費がよく、何ともない。茫然と街道の店先にへたり込む。

 

 北回帰線の碑で記念撮影をおざなりに済ませ、一路嘉義へ。

Sは昨日北港で買った煎り豆で食い繋ぐ。

 

嘉義市内に入ると鉄道を陸橋で越え、駅に着く。雨は降ったり止んだり。 

 

ここから恒春までは巴士である。 高雄で乗り換えねばならない。 

 

接続の良い巴士は30分後。急いで輪行。

タクシーの勧誘をかわし、台湾客運の出札で要領を得ない会話をして、

高雄行きの切符118元を手に入れる。

その間、Sは小龍包を買っている。酸梅汁が旨い。

 

 高雄行きの巴士は頻発しているので、すいている。

日本人の中年男性と乗り合わせる。

台湾人の女性を連れており、中国語を解するようだった。

 

 高雄では、駅を4、500メ−トル過ぎた所で下ろされ、

えっちらおっちら乗り継ぎ地点まで、歩く。

 

高雄の滞在はこの時だけである。

接続よく、20分くらいで恒春行きがある。幹線でないためか高い。138元。 

 

雨は止んで、曇っているが暑い。

27、8度か 屏東を通らず、林港の方を通る経海線である。 

グアバジュースのブリックパック、350 がすぐなくなる。

 

道添いに歩兵が小銃を構えて立哨している。

 

 枋寮、水底寮、楓港、車城など懐かしい町だ。

あっという間に恒春に着く。4時近い。

自転車を作り、あと10キロ、墾丁までのビクトリーランを楽しむ。

 

猫鼻頭(マオピートウ)の原発を右手に見ながら、海の現れる角まで覚えている。

白人はジョギングしている。シーザースパレスの客だろう。

 

 墾丁公園内に、青年活動中心がある。前回と違って、入口で入場料をとる。

宿泊客は要らないのではないかとSはごねるが、

結局、10元ずつ払って、ベスパの兄ちゃんの先導で入る。

 

自転車置き場に置いて行けといわれるが、盗難が心配なので、拒否する。

扱いにくい客と思ったことだろう。石畳の道を押して行く。

 

 フロントには、日本語の話せる女性事務員がひとりいた。

ルックスも、ちょっと可愛い感じ、声がハスキーであるが、

「ここにサインして、お願いします。」と舌足らずに言う 

 

まだ、日が高い。西原というサラリーマンと同宿になる。

中国みんなん式という、土蔵のような建物にベットを6つ入れてあり、

非常に凝った造りであるが、昔風なので、網戸もない。

 

蚊香がちゃんと用意してある。4ヶ所くらい同時につける。これで万全だ。

 

 シャワーを浴びて、さっぱりして、夕食を食いに食堂へ行く。

茶館のような食堂が活動中心の中にある。

 

料理はなかなうまいのだが、

器が例のスチロール製の吹けばとぶようなやつだったので、情けない。

 

それに団体客とメニューに差があった。食い物の恨みは深い。

 

(鳥の脚のあぶったもの、野菜炒め、揚げ豆腐、卵スープ、脂っこいソーセージ等)

 

 テレビもなく、夜が長いので、シーザースパークをひやかしに行く。

 

 夜空に一際明るい、ローマ風の冠のマーク。

椰子と棕櫚の植えこみが、リゾートホテルの正統を誇る。 

建物の向こう側にプールが見える。ガラス張りになっているのだ。

 

土産物屋をのぞいたり、ディスコの音を壁越しにきいたりして、文明の匂いに触れる。ボーイは、みるからに客ではないとわかる我々に対しても、微笑みを忘れない。

 

 日本人客が多い。大阪から来ている人がめだったように思う。入口で記念写真を撮る。

 

シーザースパークを出て、暗闇を3人の日本人は歩き出す。

脳天気なオープンバギーが通りを行ったり来たりしている。

 

南国の自由を満喫している。

墾丁の中心地では、爆竹が鳴り、カフェテリア風の喫茶店に白人が屯している。

白人が多いのもここの特徴である。

 

 食堂の軒先でカラオケを歌っている女性がいる。

 

客寄せのつもりなのか、しかし真ん中に陣取っているので、だれも入れない。

 

キーボードと、エレキギターの伴奏も付いて、豪華だが、この伴奏が自己満足で、

唯音がしているというだけのものなので、うるさいだけだ。

 

しかし、当人は陶酔の境地であり、

我々もそれを受け入れる寛容な気持ちを今は、持ち合わせていた。

 

 墾丁のメインストリートを行く我々であった。

 

ここのくだりは気分いいので、長く書きたいのだが、

あんまりよく覚えていない。僕はまた木瓜牛乳を飲む。30元。

 

部屋に戻って、シーバスリーガルを空け、蚊香を継ぎ足して、寝る。

 

 

**************

 

 

5月5日(金) 休 息 日               同上    泊

 

薄曇りの朝である。朝食は、食堂でとる。包子と玉米湯等。

 

西原氏は高雄に戻るという。僕達は雨が降ってこない内にウォーランビに行って、エメラルドグリーンの海で記念写真をとらなければならなかった。

 

装備を全部外し、軽くなって出発。ハンドルが軽すぎておっちょこちょいなのは、キャンプをしていて、急に装備を外したときと、同じだ。

 

カメラを肩に掛け、ウエストバッグだけで走る。

 

 墾丁公園は上り坂。予想外だったので、ディレイラーの調子も悪く、起き抜けの脚に応えた。

 

 墾丁からウォーランビはアップダウンでかなりある。10キロくらいか。

 

ウォーランビは、台湾最南端の観光地。台北からのバスツアーも来ている。

日本人もいっぱい居る。グアバジュースを買って、岬の突端で飲もうという。

 

20元。350CCの缶が20で、250のブリックパックが15元のようである。

 

自転車を駐車場にデポ。前回は入場チェックはなかったが、今回はゲートができており、10元取られた。

 

灯台へ通じる小道ができており、貝殻細工を商うおばさんたちがいた。

灯台と蒋介石の像の前で、大阪のおばさんと記念撮影。遊歩道を歩く。磯に出る。

 

ガイドのおっさんによると、フィリピンが見えるそうだが、1000キロも離れているのだ。

 

足場は悪い。釣りをする人がちらほら。海の色は湘南あたりと変わらない。

ところどころ展望台がある。景色のいいところで、思わず居眠りしてしまう。七星岩が見える。

 

 駐車場に戻ると、遂に雨が降り出した。立ち入り禁止の砂浜で記念写真を撮る。どこも前より警備が厳しくなったというか、せちがらくなっというか。

 

 昼食は南星大飯店、牛肉麺とチャーハン、気のいいおばさんと奇妙な日本語を喋るおじさんがまとわりついてくる。10人くらいの家族連れがいたので、賑わっているかとおもっ

 

たのだが、蠅がむやみに多くて、ゆっくり食っていられない店だった。

ざっと見て、50匹はいた。それでもめげずに食っていると、急に驟雨となった。

 

この店で雨宿りもいやなので、濡れながら宿までひた走る。

活動中心の広場は洪水。階段が川のようだ。

 

フロントでずぶ濡れになって、祭淑玲嬢に鍵を頼む。

人をほっとさせるような表情をする少女である。

中国人には珍しい。

 

どうも日本式の教育をどこかで、受けているのではないかと思う。

 

 部屋に戻ると兎に角着替え。

僕は乾いているものがあったがSは連泊のため一遍に洗濯をしてしまい、着るものがないので、Tシャツを貸す。雨は止まない。

 

Sはぼやくが、どうしようもない。不貞寝する。

この時間帯に寝るのは、なかったことだ。

本当は砂浜で寝そべっていたいのだが、板の間の煎餅布団のほうが疲れが取れることだろう。

 

 夜は(あっという間に夜になる。)

小雨だったが、食堂の差別飯はいやなので、外食する。

 

横文字の看板の出ている食堂。

紅白のチェックのテーブルクロスのかかっている白い外装の店。

 

外からも白人客の多いことがわかる。

値段も2割方高いが空調が効いていて、蠅は少なかった。

 

ポークソテーライスと水餃子、スープを頼む。240元。

 

白人はアメリカ人かと思ったが、ドイツ人が多かった。

おばさんと若い女の4人組。これはわかるが、夫婦とその息子2人、それも20才過ぎてるようなのというのは、不気味な取り合わせだった。

 

中国人もこの国際的な店に来て、高い茶を飲んでいる。

 

 Sは食いたりないらしく、帰りがけに焼き烏賊を買う。

 

焼き上がったのをならべてあるのではなく、

注文されてから改めて焼き始め、醤油?を塗りたくり、山椒をたっぷり利かせるのだ。ぼくは水蜜桃のジュースを買う。朝のアイオープナーである。

 

 この晩の同宿は、張という建築関係のサラリーマンと、日本人の大学生だった。

 

 

**************

 

5月6日(土) 墾丁繙繙恒春 (バス)繙繙台中

 

 墾丁との別れ。祭淑玲嬢と広場で記念撮影。

 

今日も曇り。8時半の台北行き直通、国光号をつかまえようと恒春へ急ぐ。

原発の出勤時間らしく、門前で交通整理をしている。

 

 恒春に着き、朝食を取る。チャーハンと水餃子どうも同じメニューになってしまう。

おまけに木瓜牛乳まで頼んでしまう。

 

しゃれた店で、給仕の姉ちゃんがホステス風で髪を風になびかせている。

この単なる食堂にこういうウエイトレスがいるという、ミスマッチ。

これを買いたい。

 

牛乳腹になってしまい、水餃子は殆ど食えなかった。

 

 白人の若い女が二人、コーヒーを頼んでいた。小娘(シャオチエ)くらいは言えるらしい。

 

その後は”Do you have coffee?”に戻ってしまっていた。

 

 彼女らに地図を貸してやり、二言三言言葉を交わす。

一人は積極的だったが、もう一人は海外貧乏旅行にふさわしくない、

曇った表情をした陰気な少女だった。

 

 僕は9時10分発の台中行きに乗る。

Sはというと、急に晴れ間が覗いてきたので、ここに残るという。

そろそろ別行動の時期かとも思っていたので、好都合であった。

 

 僕は初日に夜行列車で会った蘇淑恵の家を訪ねることにした。

 

**************

 

  恒春 〜 高雄 〜 台中 (バス輪行)

 

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 台中駅は大きい。地下道を輪行袋を抱えて、歩き回るのはごめんだ。

自転車をつくってしまう。今日の宿を東城旅社に決める。250元。破格に安い。

 

台中の駅前1分である。まだ開発は完全に終わっていない町だ。

まず、風呂に入って身繕い。4時なのに髭も剃ってしまう。

コロンはないが、石鹸の匂いをさせて、手ぶらで出発。

 

龍小百貨店でネックレス(405元)を購入。準備万端。

 

 太平郷へ行くバスは台中客運と、市バスのふたつある。

台中客運のに乗る。8元。中高生でこんでいる。

 

 

 *ただ今、ウィンクの歌と、バーボン「フォア・ローゼズ」のオンザロックで、快調に執筆しております。これが、今の僕の最大の娯楽だ。テレビはおもしろくないし、現実はグレーの色がついている。台湾から早く手紙の返事がこないかな。

 

 台中市内の目抜き通りは大した規模ではない。高崎くらいか。

 

その通りは幅が広すぎて、露店は出ていない。

角を折れると、派手な床屋が10数軒、

そしてマイコン関係のジャンクショップが数軒。

 

ディスプレイでは、WANGのパソコンで「三国志」をやるのが人気のようだった。

 

漢字が出ないので、すべてローマ字表記である。色は黄色い。

光栄のソフトがこんなに外国でうけているとは。

 

補里の玩具やでも壁にずらっとファミコンのソフトが並べられていて壮観だったが。

 

あそこは、ゲームセンター風に一回5元くらい取って子どもをあそばせていたなあ。 木製のコントールボードが何とも懐かしかった。

 

 さて、太平行きのバスは後車站を回りこんで、

郊外へ帰る人々を拾ってから市外に出る。濁水河を渡ると。太平郷である。

 

ここも農村ではなく、台中の延長で大きな町だ。中太平につく。

中山路や、忠孝路はあるが、彼女の地趾である「新高路」は現れない。

 

 だんだん、バスは寂しい住宅地に入りこんできた。大型車が通るとは思えない路地までやってきてしまった。

 

どうもその何とか社区が終点のようで、あらかたの客は降りてしまった。

不安になり、運転手に「新高路」と書いて見せて、ここに着いたら降ろせと主張するが、30台半ばという感じの彼は、「イチ、ニー」 とか何とか、言って要領を得ない。

あと二停留所ということか。理解に苦しむ。

 

バスは乗降口を開けたまま走り続ける。

 

あーあー、と思っているうちに、元の中山路に戻って来てしまった。

 

周回コースになっているのだ。

納得しないまま台中の駅に着く。太平の中心地から歩いて「新高路」に行こうと思い、

 

「我去再一回中太平!(ウォージエ、ツァイイーホエツォンタイピン!」と言うが、バスターミナルで乗降の整理をしているおっちゃんに無理やり引きずり降ろされる。

 

「なにすんだよー!」と抗うが、彼の意図していることは別にあった。

 

「12番、12番(シュウアル、シュウアル)」と言っているのだ。

 

「12番可以去「新高路」(シュウアル、コイジエ「シンガオルー」?)」と聞くと、

「対、対的(トエ、トエダ)」という答えが返ってきた。

 

 12番のバスは目立たないところから出ていた。市バスである。10元と高い。

5、6分待って、乗客が溜まるまで、乗車できなかった。

イチバン最初からいたのに、ぼやぼやしていたので、座れなかった。

 

 太平に向かう道筋は台中客運のとは違い、台中公園を通っている。

かなり北の方を通っているようだ。

河を別の橋で渡ったとおもったら、そこが「新高路」だった。

 

慌てて、通路を塞いでいる学生たちを掻き分け、下車する。

もうすっかり暗くなっている。

 

 「新高路」3号は見つからない。食堂やら、床屋、食料品店で道を、聞くが要領を得ない。街灯のない通りを、バス通りからどんどん離れる方向に歩く。

 

はるか右手に新興住宅地 が見える。

台湾には珍しい一戸建ての新築の家が立ち並んでいる。工事中の物も多い

 しかし、そこではなかった。もっと先に行くともう歩道はなくなり、道幅も狭くなったが、遂に「新高路」の住居表示を見つける。それも番号が若い。今まであるいていたのは、新高社区だったのだ。露店も出ていない真っ暗な路地を入って行く。

 

 表札が出ていないので、捜しにくい

。角で立ち話をしていたおばさん5人に3番地の位置を訪ねると、次の角を曲がれという。ひとつだけ明かりのついている家があった。床屋だった。

 

 10番地まで肉迫するが、まだ見つからない。4番と5番を見つける。

 

3番はガレージのある家のようだ。

通りで夕涼みしていたおばさんの助けを借り、庭先まで行ってみるが、不在のようだ。 ここは違うとおばさんは言い出す。

 

 はす向かいの家、一階が居間になっており、ちょうど淑恵ちゃんの両親とも思えるような夫婦がテレビを見ていた。勇気を出して、手帳を取り出し、会話を試みる。

 

「在淑恵嬢馬?」と母親らしき人に聞くが、どうも不審におもわれたようだ。

しかし、パーマを強く掛けすぎてるんじゃないかと思えるほど、娘?とは全然似ていない。

 

「侫不知道”淑恵嬢”馬?」と聞くが、老眼鏡を斜めにかけた白髪の父親が出てきて、

何やら語調も厳しく、僕を追い払おうとしている。必死に食い下がるが、相手にされない。

 

「僕は羅東へ娘さんが行った時、列車で乗り合わせた者で、怪しい者ではない(?)。

 外国に来て、親切にされて、非常に感動した。一言お礼を言いたくて、わざわざ旅程を変更して、太平郷にやってきたのだ。台中を4時にでたのだが、迷ってこんな時間になってしまった。」と言ったが、全然取り合ってもらえなかった。

 

............

 

 予想していたことではあったが、僕はdesperateな気分になって、新高路を後にした。

 

さっき道を教えてくれたおばさん連に礼を言って、表通りに出た。

そういえば、看板に出てたけど、太平郷にストリップの小屋がかかっていたな。

 

台中市内になく、こっちにあるのが不思議だが、それだけいかがわしいということか。せっかくここにいるのだからちょっと寄っていこうかな、などと思い直し、その小屋を捜す。

 

やはり、新興住宅地の新高路より、中太平の方にあるのだろうな、などと思いながら、あてずっぽうに歩き始めた。

 

河に沿って、南下するつもりだったが、道が蛇行しており、自動車学校のあたりから本格的に真っ暗になってきた。

 

しかし、引き返したり、タクシーを使うのも癪なので、構わず歩き続ける。

ちょっとした商店街があり、また住宅地に30分くらい歩いて、台中行きのバスに追い越されるようになった。

 

 道幅は狭いがメインストリートの太平路に出る。

右に行くと、暗闇に馴れた目に眩いばかりの露店のひしめきあう通りに出た。

 

やっと生還できたと思いながら、時計を見るともう9時だ。夕方最初に来た通りとはかなり離れたところだ。家並の陰にバスの連なって走る通りが見える。

 

 人並を掻き分け、その通りにたどり着くと、ちょうど台中行きのバスが通りすぎようとしているところだった。ストリップは諦め、手を挙げて、乗りこむ。

 

すると、運転手が一度目にのった時とおなじだった。ただ、一人でぐるぐる周回しているだけなのかもしれない.

 

 

僕は何をやっていたんだろう? 

 

通りすぎる、太平の街を眺めていたら、さっきから捜していたストリップ小屋が見つかった。

 

川べりに蛍光灯をこうこうと点して、トタン板で囲ったちゃちな造りだったが、それがまた裏ぶれた今の気分にあっていた。

 

 しかし、僕はバスを降りなかった。裸を見たいという欲望より、早く寝たいという気持ちが強かったのだ。それにまだ夕食も摂っていない。

 

 運ちゃんは、僕に「新高路には、いけたかい?」と聞く。「もちろん」と答える。

にやっと笑ったその顔を見て、なぜか旧友に再会したような気がして、ほっとする。

 

 その夜は外食するのも億劫でビールとパンと、翌朝のグアバジュースを買ってきて、

窓のない部屋で晩餐をした。蚊香で煙っている部屋。

Tシャツは扇風機のおかげですっかり乾いていた。

但し蚊香で燻蒸されていたが。

 

 この宿は僕以外はアベックばかりだし、壁の向こうの予備校の板書の音がうるさく寝つかれなかった。何という1日だったのだろう。

 

 

5月7日(日) 晴れ  台中   (巴士・新型中興号MCI)  台北

 

 こんな町は、早くおさらばしたい。自分で笑っちゃう。 グアバジュースと饅頭の朝食。

 

パイ皮の中に卵の黄身がそのまま入っている、甘くないが、ぼそぼそした饅頭だ。今日の10時、または17時にSと待ち合わせていたが、10時は無理だ。9時25分発の中興号に乗ることにする。バスターミナルでは、ガム売りのおばさんにつきまとわれる。水蜜桃の青臭い缶ジュースを買う。

 

今では、この方が野性味があって好きになった。

中興号は最新型、MCI製で。10本タイヤだった。アメ車なので、カーブの時など、ローリングがすごい。柔らかい乗り心地だ。

 

窓にはシェードが掛かっていて、空調も完全に効いている。

僕の席は40番の最後で、トイレの隣だった。バスにトイレがある!画期的なことだ。

 

ドアは、落書きとも注意書きともつかないマジックの言葉でよごされていたが。蚊も殆どいない。僕はジュースと卵饅頭で快適な2時間半を過ごした。

 

 台北はYMCAホテルと反対側の降車場だった。歩道橋をエッチラオッチラ輪行袋を抱えて上っていると、下から支えてくれる人がいる。だから中国人は好きだ。

 

 YMCAホテルは百貨店の裏、サーティワンの隣だ。玄関が裏通りに面しているが、安全で比較的安い(ツイン1143元)のため、外国人でいっぱいだ。ルームサービスのおばさんは日本語が通じるし。

 

 僕がチェックインしたのは、13時ちかく。Sはいなかったが、メッセージが残されていた。17時に会うとの再確認だった。

 

僕は部屋について、輪行袋を降ろし、ベットに横になった。

Sの輪行袋はない。駅に預けてきたのか。

 

何もする気にならず、テレビのスイッチを入れる。

コマーシャルとニュースがおもしろい。ニュースには字幕が入らないので、さっぱりわからない。

 

2時から「百戦百勝(パイチェンパイスン)」という番組を見る。「風雲たけし城」のパロディである。 

 

飛び石渡りと、プールに飛びこむ滑り台、迷路の3種目しかなかったが、やたら出場者が多く、チームに編成されていて、自分チームの宣伝をしたりして、たのしかった。町に出るより、テレビの字幕を見ていた方が、言葉の勉強になる。

 

 ただ台湾最後の日をテレビだけ見て過ごすのも、寂しいので、待ち合わせの時間まで、西門(シーメン)街をぶらつくことにする。西門のまんなかのストリップ劇場を見つける。

 

獅子林大楼というビルの10階でやっている。このビルはよくある雑居ビルで、4基あるエレベータのうちまともなのは、1基だけ、そこがまたいかがわしい。

 

外壁のない怖い展望エレベータだった。9階は、飲茶をたべられるようになっており、昼間の時間帯だったので、客足はまばらだった。

 

  遠東百貨店などをひやかし、とりあえず、ホテルに戻る。

 

  冷房が効きすぎてるなあと思いながら、うつらうつらしていると、ドアにノックの音。墾丁では、さっぱりとわかれたが、こうして再会すると懐かしい。

 

いつも僕の海外旅行は喧嘩別れが一回ある。堪えが効かないのだろうか。

 

 Sは恒春のバスターミナルで別れたあと、墾丁に引き返し、猫鼻頭などに行ったという。高雄の夜は不発。夜行列車で、今朝早くこのホテルに着いたのだという。

 

 今まで、西門周辺を歩き回って、お土産を買いあさっていたのだという。

 

そういえば、僕はろくにお土産を買っていない。台湾なんて外国だと思っていないのだ。

 

 少し、Sの足を休めて、ポットのお湯をのんだりして、夜の街に繰り出す。

 飲茶100元というところに行ってみるが、これは自助餐のちょっと高級なやつ。

 

確かに清潔でにぎわっているが、台湾最後の夜の豪遊を目指している我々にとっては

 

、地味すぎた。結局僕がさっき見つけた獅子林大楼の9階「金獅楼」という、香港風飲茶の食堂に入る。さっきとは違い、凄い混雑。床がぬけるかと思うほど。

 

あんな貧弱なエレベータじゃ火事になった時が怖い。

非常階段には、リネンが積み上げてあるし。

 

 とにかく、日本語のわかるウエイトレスを見つけ、席に案内してもらう。

 

 まず、烏龍茶で乾杯。春巻、餃子など見慣れたものから行ってみる。寿司コーナーもあって、ガラス張りのワゴンで運ばれてくるが、どうも美味しそうに見えない。寿司のぴっしりしまった外見がなく、今にも崩れそうなのだ。

 

 鍋を頼んで見ることにする。180元。海鮮八珍湯というのだが、でてきたのは、烏賊と卵、白菜等の汁気ばかりのものだった。それを何とか食いこなし、総計400元。

 

 まだ8時である。龍山寺と、台北の歌舞伎町、華西街に行ってみることにする。

 

 歩いて、30分近くかかってしまったが、龍山寺は大層な賑わいだった。カセットテープを150元、5本ほど買いこむ。

 

 華西街は、奇妙な街だ。ゲームセンターの隣が, 売春街になっている。

横浜の中華街のようでもあり、表通りは全く普通の台湾の街なのだが、一歩路地に入ると、蛍光灯にピンクのセロファンを巻いて、若い(高校生くらいか)女の子をたばこをくわえて、客待ち顔にしている。

 

僕がみたところで、二人ほど、いい子がいた。チョンの間で、300元だそうである。

 

****

 

 

 さて、見学を終えた我々はまだ、時間がある(9時)なので、華西街のアーケードをひやかす。

 

「オランウータンがスッポンを料理している」、評判の店で写真を撮る。

説明のあんちゃんが、大同芸人のように、ワイヤレスマイクをマスクのように、顎に引っかけて、がなっている。人垣ができている。

 

この街は蛇を料理する店が多い。アーケードの真ん中にガソリンスタンドがある。

この国には、安全基準というものがない。

 

 僕たちは、300元を別のことにつかった。

獅子林歌庁でなく、華西歌庁である。

 

あんまり流行っていないらしく、客引きが入り口にいっぱいいた。

僕たちはためらわず、切符を買う。すると、頼みもしないのに、割り引きの軍票250元を出してくれる。自主的ディスカウントである。

 

 うす暗い通路を通って行くと、100席くらいのちいさな劇場だった。

きんきんに冷房が効いている。最前列は埋まっている。但し、舞台のそでには30センチくらいの高さの透明なアクリル板が張り巡らしてあり、観客の登壇はないものと予想された。

 

 席は前の方から、半分くらい埋まっていた。舞台を囲むように3方向から見られる。

 

2列目の真ん中辺に陣取ると、早速ドリンクの注文取りが来た。

僕はコーヒーを頼む。酒は無いようだ。

あったかいカフェオレがグラスで運ばれてきた。50元。さすが高い。

 

 なかなか開演しない。9時はすぎているというのに。それにしても寒い。冷気の噴き出し口の真下にいるというわけでもないのだが。

 

 さんざん待たされて、中年の司会者が登場。ここまでは、日本と全く同じ。演歌調の音楽が、ガンガン流れ始めた。さて、期待の歌姫が着衣のまま登場。

 

マイクを握って、本気で歌っている。、まさかこれは単なる歌謡ショーでおわるんではあるまいな。と不安がよぎる。

 

だが、そうではなかった。歌のワンコーラスが終わって、間奏の時、彼女は舞台の袖に隠れ、早業で衣装を脱ぎ捨て、ビキニスタイルで再登場。但し、煽情的な振りつけは全く無く、ちょっと腰を振りながら、さっきと同じ調子で歌い続ける。これは前座かなあ。

 

と思ったが、そうではなかった。これが延々2時間続いたのだ。

 

中に一人だけ芸をしたおばさんがいた。

男と組んで、アクロバティックな踊りを実演したのだ。その他、目にとまっ

たのは、白いビキニになった、いたいけな少女だった。

 

小柄で、化粧が濃く、右の太股に彫りかけで、青い輪郭だけの入れ墨があった。

彼女の笑わない顔に、何かを感じた。胸なんか全然小さくて、中学生くらいの年かと思われた。

 

華西街では驚くに当たらない年齢だが。うたっていたのは、演歌ではなく、ビートの効いたポップスだった。

 

 その他、途中で席を立つ客を引き止めようと、歌の途中なのに、振りを無視して、客を罵倒する女がいたりして、楽しい劇場だった。

 

 2時間を過ごし、台湾最後の夜は更ける。宿へまた歩いて行かねばならない。夜風がなまあたたかい。どうも、冷房にやられたようだ。

 

宿に着くと、下痢の症状。金獅楼の料理ではなかろう。やはり、華西歌庁の冷房のせいだ。

 

 

**************

 

5月8日(月) 晴れ  台北   桃園   (飛行機)   成田  (京成線)五反田 10時50分の飛行機にのるために、8時の空港行きバスに乗る。

 

体調は絶不調。熱があり、下痢が続く。機内食のステーキを楽しみにしていたのに、全く食欲が湧かない。

 

 朝食はとらずに、空身でもふらつくというのに、

輪行袋とフロントバッグ、リュックを背負って、通りの向こう側のバスターミナルまでたどり着く。

 

体を苛めていると、熱を忘れてしまうものだ。

 

前回、嘉義で発熱したときも、1日の休養で阿里山に登っているから、

意外と丈夫なものだ。 

 

脱水症状になるとこわいので、好物になった水蜜桃のジュースと新聞「民生報」を買う。新聞は10元。

 

 輪行袋をバスの腹におしこんで、なんとか席に落ち着く。生きた心地もしない。

 

 空港で、余った金を日本円に戻す。2万5千円ほどになった。

2000元を台湾元のまま残し、酒を買う。ジャックダニエルが売り切れている。

 

 機内で、墾丁で同宿した西原氏に再会する。

僕は熱と腹で、口中に苦味を感じながら、座席に埋まって、毛布をかぶり、

脂汗をかきながらみじろぎもできずにいた。

 

 昼食はうまそうなステーキだったが、Sにやってしまい、

僕は牛乳とパン、デザートのフルーツタルトだけを食べた。 

飛行機の中はなんであんなに寒いのか。

 

 成田は空前の混雑。月曜だから、多少は空いているかとおもったが、大間違い。

入関の行列が壁際までできてしまい、横断できなくなってしまっていた。

 

荷物用カートも取り合い。京成空港駅までの連絡バスも、殺人的な込み方で、この時点では、みんな大荷物を抱えているので、悲鳴がきこえてくるほど。 

 

これがあるから、海外旅行に出るのをためらう人がいるんだろうな、と思う。

僕は190円の乗車賃を払わないできてしまった。

 

 スカイライナーは使わず、特急に乗る。1030円。高い。 

上り電車は空いていた。五反田駅では、気温の低さに悪寒を覚えながら、

自転車を作る。息をつきながら、十一屋の坂を上り、家に着いたのは、6時半だった。熱を計ると、37度4分。

 

あせみどろだったが、風呂に入らず、正露丸を飲んで、寝てしまった。

 

 9日は、通常通り出勤。熱は下がっていたが、腹は本調子ではない。

しかし、S部長の誘いにのって、大手町ビルの地下で、

ミルクティーと、サンドウイッチで、みんなにつきあったのだった。       

 

         5月25日     了

 

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