『山スキーとサイクリング論』(N氏作)

 

[はじめに]

 

山スキーとはスキーで雪山を登ることである。

したがってスキーが雪に滑ってはまずいというジレンマをはらんである。

これを解消するがシールである。シールとはseal(アザラシ)に由来する名前で、もともとはアザラシの毛皮をスキーの裏に貼って雪の上でも滑りにくくしていたからだ。

今では合成モヘアが用いられている。

山スキーの利点は、雪が多くの障害物を埋めて山を平滑にしてくれるので、他の季節では容易に行きつけないところでもスタスタとたどりつけることだ。

そして頂からの雪景色のすばらしさは山スキーの大きな魅力の一つだ。もちろん下りの爽快さ速さは他の登山手段では経験できない。

しかし冬山ゆえ、他の季節の登山より危険である。

 

さてこの冬、ぼくは山スキーに行こうと計画したが、実は自分はそれまでスキーを履いたことがないし、冬山にも登ったことがなかった。

それでこの冬のぼくのとった山スキー体験への選択は、おしなべてみて常識を逸していたと評価されても致し方ない。

 

まず、山スキーをやりたいと思いついて、ついにそれを実行したのは、お座敷という青年の発言に端を発している。

彼はぼくが勤めている会社のサイクリングクラブの仲間で、それも、例えば雪山を自転車に乗って登るのを素敵だと思っているような、常識をさかなでする発想をよくし、かつ実行するタイプの独身男であり、そのくせ一見真面目な性格と容貌の持ち主でもあるので、こちらは彼の話とその真剣な目つきについ気を許してしまう、といった男である。

 

ある昼休み、社員食堂で食事をしていると、お座敷君はふらっとぼくのいたテーブルにきてすわった。

いつものようにサイクリングの話をするのかと思っていると、突然、山スキーというぼくの知らなかった山スポーツについて語り始めた。もしこの時彼がいわゆるゲレンデスキーのことを話題にしたのであったなら、ぼくは彼の話に引き込まれなかったろう。

たしかにぼくは以前よりこの冬にはスキーを初体験すると口約していたが、ある出来事によりぼくは自分に対しもっと厳しくなろうと心機一転することがあり、リフトやゴンドラで高所に上げてもらい滑り下りてくる、一見体力も気力も、おそらくは知力も要しない娯楽本位のスポーツと思われたスキーをこころよしとしなくなっていた。

しかしお座敷君の説明する山スキーはちがっていた。重いリュックを背に負い、濃霧や、時には吹雪の中を黙々と登ってゆき、下るときは新雪の上を、雪崩を起こさせないように上手にコースを選び滑り下りてくる、まさに体力と気力と知力を結集して山に遊び、自分の野性を楽しむことのできるワイルドスポーツであった。

もともと冒険指向の強いぼくはこのようなものにすぐ興味を示してしまう。それを見てとったお座敷君は

「Nさんもどうですか。一緒にやりませんか?」と誘ってきた。ぼくはすぐに、新雪に美しくおおわれ、青空の下で眩しくしかも静かにうねる白銀の山稜をスキーで滑走する自分の姿を思い描いた。どこからか、野性の呼び声が聞こえてくる。

ぼくはその声に応えるかのように、「うん」と言った。そして次の日にさっそく、秋葉原で会って、御茶ノ水にスキーを買いに行くことに話がまとまった。

「しかし、Nさんはスキーの経験はないんでしたね。それがちょっと不安だなあ」とお座敷君はぼくと食後の散歩の時、赤信号に立ち止まって言った。

その時初めて彼はひとにぎりの常識を披露して、ぼくの気持ちに水を差した。彼が、「不安だ」とか「心配だ」と言うときは、もう手遅れになっていることが多い。一度思い立ったことを容易には変えられないぼくは、そんなことは大丈夫だろうと言った。

だが、コースを誤ってまっさかさまに谷に落ちるスキーヤーのような心持ちになっていた。

 

翌日、最初に行った山スキーをおいているスキー屋で相談したら、店員は、スキーの初心者が山スキーをするのはまったくの論外であり、まずゲレンデでゲレンデスキーによって練習を積まないといけませんと力説し、ぼくがスキーのまったくの初心者であることを知ったからには山スキーは売るわけにはいかないというふうだった。

こういうことであったので、山スキーを買うことが躊躇された。やはりゲレンデスキーを買わねばならないのだろうか。

次の店にゆく途中で、お座敷君が名言をはいた、

「買ってしまえばこっちのものだと思いますけどねえ」。

なんとこれは素朴で説得力のあるアドバイスであったろう。

次の次の店でぼくは、初心者であることをかくしてまんまと山スキーとストックを買った。そして2番めに行った店に引き返してお座敷君が欲しがっていたコフラック社製の山スキー用の靴を買った。

 

それ以後のぼくのスキーへの取り組み、我ながらみごとと思える上達ぶりの様子に関しては、お座敷君の作成した詳しい記録数編にそれらがうかがえるので、興味ある方はそちらを読んでいただこう。

そのメリットは、だいたい初心者というものは、何にしても少々できるようになると、己れは人と違ってこの新たに始めたことに才能があるのだという錯覚に陥りやすいもので、

それに関してはぼくも例外ではなさそうで、おそらくぼくはスキーの才能があるのではないか、実はスキーの天才なのではないだろうかと今では信じるようになっていて、

この裏付けとなる急速な進歩の経過をどんなに控えめに書いても、自分の筆で書くかぎり、読者はぼくが自画自賛していると思い腹立たしく感じるだろうから、他人の記述したものを紹介することにより、客観的にぼくの才能を読み取ってもらいたいと思うわけだ。

ただ付け加えておきたいのは、ぼくのスキーの好調な滑り出しは、今までサイクリングで足を鍛えていたことと無縁ではなかろうということである。

 

 

さて、お座敷君のレポートをすでに読まれた読者は、ぼくが山スキーに関してすでに浅からぬ知識を有しており、またサイクリストとしても経験豊富であるので、

これから論じようとする山スキーの仲間とサイクリングの仲間の比較論が、公平な見地から考察されるものであろうこと、

従ってサイクリングと山スキーとではどちらが自分にあっているだろうかと悩んでいる多くの人々にとって一読の価値のあるものとなるであろうことは、理解されるであろう。

 

[山スキー仲間とサイクリング仲間の比較]

 

今回ぼくが知り合い、同行した山スキー仲間は、A山岳会のメンバーたちである。彼らは、隔週で登山するグループで、その頻度の高さに驚かされる。

各個人のキャラクターに関しては上掲のお座敷君の記録に詳述されているのでここでは割愛することにする。

A山岳会は個性の強そうな人間が集まっていて、山の中でも中傷に近い暴言を交えた論争が絶えず、ぼくはかつて残酷な総括をくり返しながら山岳行軍をした悪名高い連合赤軍の集団はかくあったかと連想せずにはいれなかった。

しかし、A山岳会は爆弾を抱えているような不安を感じさせながらも、ちょうど太陽系のようにバランスがとれていた。みんなが同じ思想を持っているのではなく、一人一人が違った意見で他を牽制しあっているのである。

リーダーが太陽として、他のメンバーはこの太陽に引っ張られてもそれに近づこうとせず、むしろ離れよう離れようとして系のバランスに寄与している惑星であろう。

そんな中に彗星のように新参者として入りこんでいったお座敷君とぼくは、彼ら一人一人に対する自分たちの適切な立場を探るのに少々気を使った。

このような場合、誰かに特に接近することは全体のバランスを崩すことになりだれからも嫌がられる存在になってしまう。

賢明な方策は、できるだけ存在感を感じさせない低能者を装うことである。これがあるときにはお座敷君をしてぼくを「年令を感じさせない先駆的エイジレスマン」と思わせたのであろう。

 

山スキーをする人たちの中で視野の狭い人を見つけることは難しい。彼らはひまさえあればいつでも遠方の山々の方を望み見て雪の状態を観察するくせがついているので、広い視野を自然に身につけるようになる。

彼らより広い視野を持っている人種がいるとしたら天体観察マニアくらいだろう。しかし星座を相手にする彼らは夜行動することを強いられるので夜行性となり、せっかくの広い視野もほとんどは暗やみに向けられているだけであり、心も暗くなり不遇な人生を歩む人たちが少なくない。

それに比べると四季の豊かな変化を見せてくれる山々を自分の視野の中に持つ山スキー仲間は豊かな心を持つようになり、人生を楽しむこととなる。

 

ハイル・ベルク・シーロイファー!(山スキー万歳)

 

さてそれではサイクリストたちはどうだろうか。ぼくの知っているサイクリストたちはすべて独身である。

独身主義者もいるが、結婚はしたいのだがなぜか独身のままずるずるときている者がほとんどだ。

サイクリスト仲間の中で唯一の例外既婚者であるぼく自身、家を出ると完全に家庭のことを忘れ自分が独身だという錯覚にいつも陥っている。

だってあなたには奥さんがいるじゃない、などと言われて初めて自分が妻帯者であることを思い出すこともあった。

これと対照的に、ぼくの知っている山スキー仲間はみな既婚者である。

どちらも健全な身体を持っている仲間達であることを考えると、この極端な相違は必ずしも偶然とは言えないだろう。

この相違の原因を分析するならばおそらくこれら二人種の本性の違いの秘密を究明できるかも知れない。

 

山スキーをする仲間は一日に一つの山しか登らないものだ。その日の目標はその山の登頂だ。登り始めるともう目標を変えることはできない。

登りつめるかあきらめて途中で下山することになるかの選択しかない。

しかし自転車乗りは目的地を転々とすることが多い。その日の目標を立てるとしたら、きょうは日暮までこの村にたどりつこうとか、あの駅に何時何分発の東京行きにまにあうように到着しようとかいった目標になってしまう。

このような種類の目標であるから、山スキーの場合に比べて、目標を固守することにそれほど重要性がない。

目標よりももっと過程のほうが大切になる。

この坂道は険し過ぎるからバスにしようとか、きょうは暑すぎるからこのへんでもうテントにしようとか、雨が降ってきたからいちばん近い駅に行って輪行しようとか、そのときどきの現状と環境に照らしてみて、優柔不断にその日の計画を合理的に変えてゆくのである。

そして結局は何の目標も達成しないで東京に帰ってくるものだ。このような習慣を身につけるサイクリストたちは、日常生活においても優柔不断に現状と環境に照らして行動する。

たとえばぼくのように会社を転々とするサイクリストは少なくない。

3年前、北海道で会った横浜のコックは職をやめて北海道を1ヵ月のんびりと走り、あげくの果てに横浜に帰っても仕事をする気がしなくまた旅にでたと南の島から絵はがきをよこし、

同じ頃会った専門学校の学生も、未だに自転車旅行中で定職についていない。

優柔不断なサイクリストたちはアタックする異性をも転々と変えてゆくことになる。

目標よりも過程が重要だというわけだ。あの女性はきれいだが性格が険し過ぎるからよそうとか、この女性は気立てが優しくていいが化粧が厚すぎるのがいやだとか、いろいろ理由をつけて自らをごまかし、彼女を最後まで追い詰めることをしない。

こうしてせっかくデートをしても、結局は何の目標も達成しないで自分の部屋に帰ってくるものだ。

 

「むすめさんよく聞けよ、山男には惚れるなよ・・・」という歌があるが、これは山男に惹かれる女性があまりにも多いから、それを抑制するためにできた歌であろう。

しかしサイクリストに惚れるなと警告する歌は聞いたことがない。それはその必要がないからである。女性は優柔不断な男性には惹かれないものだ。

 

しかしサイクリストたちよ、うなだれる必要はない。君らにとってはそのほうが幸せなのである。旧約聖書には、死より恐ろしいものがある、それは女である、とある。

しかり、結婚は人生の墓場ともいう。さあ、サイクリストたちよ、また目標を変えよう。ペダルを勢いよく蹴って、その墓場を迂回しようではないか。

山スキーの仲間のいる雪山をこぎ登るのも素敵かもしれない。君らが自転車乗りになったのは決して偶然じゃない。生まれながらにして君らの血の中にはその呼び声を持っていたのだ。サイクリング万歳!

終わり

戻 る