信州旅行記(野麦峠・乗鞍岳・上高地)(199X/08)(N氏作)

 

期間: 8月11日(土) − 8月19日(日)

 

携行物

 

8月11日(土)午前中は旅行の準備におわれ、あっという間に昼になる。

午後、武蔵野線新三郷駅にこの旅のために新しく買ったマウンテンバイクで行き、これを汗だくになって分解して輪行袋に詰め込んだ。

この作業はいつもながら汗だくになる。いよいよ輪行開始だ。

いでたちは背にザック、片手に両サイドバッグをつけたままのリヤキャリヤー、肩に輪行袋ストラップ。

ハンドリング(steering)を軽くするためにサイドバッグはリヤ側だけにした。

山岳サイクリングを軽快にしてくれるマウンテンバイクも担ぐとやはり重い。

ここでその他の主な携行物の紹介をしておこう。

 

ヘルメットとしてはアメリカで買った Cincinnati Redsのプラスティック製赤ヘルをかぶることにした。このためどこでも目立ってしまうことになるが、松本城内見学中に低い梁に頭を打ちつけたときのプロテクターとして貴重な役目を果たしてくれた。

そろそろまともなヘルメットを買わなくてはなるまい。サイクリストはいつも頭を俎板の上に載せて道を走っていると思わねばならない。

 

酷暑の夏であったが、山スキー用に買った羽毛のジャケットを迷わず持っていくことにした。

このような防寒服は標高の高い地に行くときには真夏でも必要だ。

雨の野麦峠、雲に包まれた乗鞍岳の山頂域、天候の不安定であった上高地、これらの所で、ぼくは羽毛ジャケットに助けられた。

羽毛は軽くて圧縮しやすいので持ち運びが便利である。新たに購入した羽毛のシュラフとともにぼくの心強い愛用品である。

 

ところで寒い夜のための体内燃料として持っていった、ウィスキーコンテイナーに入れたレミーマルタンは、上高地での二晩目の就寝時に余りにも寒くなったので身体を温めようとしてつい飲み過ぎてテントの外に吐いてしまう一幕もあった。

この時はぼくが焚火でこたつ用に暖めておいた石を、O君がバスタオルに包んでぼくのテントに差し入れてくれてやっと眠りにつくことができた。

 

4年前の第1回北海道旅行より愛用しているビーチサンダルも忘れず携行した。

雨が降りだしたら少々寒い時でも迷わず靴とソックスをビーチサンダルに履き替え、長ズボンも半パンに替え、その上に山スキー用に買った防水ポンチョを羽織り、頭にはシャンプーキャップをかぶる。

こうすることにより靴や靴下やズボンを濡らさないですむ。しかしサンダルでは足を怪我しやすいということで異論を唱えるサイクリストも多い。

このビーチサンダルもいよいよいたみがひどくなり、とうとう今回で使用不能の域に達し、サイクリングが無事終了した松本駅前のごみ箱に捨てられることとなった。長い間ご苦労様であった。

 

装備をできるだけ軽くするよう携帯物を取捨選択したが、思案したあげく鉈(なた)は持っていくことにした。

今回の旅は熊との遭遇がありえたので、武器が必要であった。結局、この鉈はキャンプ地で焚火用の木を割るのに役立つこととなる。

 

今回初めて携行するのは自炊のためのアルミ食器一式とプリムスバーナーである。

同行者O君のポリシーに従って今回の旅では終点の松本に着くまでは一度も食堂には入らなかった。

自炊か、スーパーマーケット等でパンや缶詰を買って三度の食事を賄った。

木曽福島ではイワナとニジマスを買ってきて串刺しにして焚火で炙って食べたが格別の味わいがあった。

久しぶりに炊いた米もまずくはなかった。ほこりだらけのサイクリストはレストランや喫茶店は似合わない。風のそよぐ木陰の中、あるいは星の下での焚火のまわりこそ誇り高きサイクリストたちにふさわしい宴の場である。

 

輪行

 

重い輪行袋を抱え2回の乗り換えで汗だくになってJR新宿駅にたどりつく。特急あずさの発車するプラットホームに行くと、自由席整理券をもらうには遅すぎたが、その後の列に今から並んでいれば座れるはずだと言われた。

ここで席に座れるか、ずっと立って塩尻近くまで行くはめになるかは大きな違いがあった。

今回の山岳サイクリング旅行の行程の険しさを考えれば、なんとか体調をベストの状態にして臨みたいところであった。

このプラットフォームでは、この時期特急あずさを利用する人に登山者やサイクリストが多いためか、飴が「ご自由にお取りください」と書かれた紙に添えて用意されてあった。ひと握りもらったこの飴が野麦峠を攻めるときの助けとなる。

 

あずさは夕刻出発した。運良く自由席になんとか座ることができた。立っている若くない人たちもいるが、今は席を譲ることはできない。キャリアーを棚の上に載せたが一方のバッグが棚からはみ出したままで落ちてきはしないかと心配が続く。

 

塩尻駅で各駅停車の列車に乗り換えた。これは冷房がきき過ぎていた。窓を開けると、冷房と同じくらい冷えた雨混じりの風が入ってくる。

夜になるとこの地方は冷え込んでくる。半袖半ズボンのままでは寒過ぎる。ジャージの赤ズボンをザックから出してはき、ソックスもはき、長袖のシャツを着、やがてはダウンの青ジャケットまでも着た。

たちまち冬の服装となった。おまけに中津川駅に到着して電車を下りるときには赤ヘルをかむり、巨大な黒いショルダーバッグを肩に掛けたので、真夏の夜のプラットホームに異様な姿を呈することとなった。

そして改札を越えて出迎えてくれた袖無しシャツに半ズボンのいでたちのO君は、ぼくを見つけると「どうしたんですか、その格好は!」ととがめるように言った。

ぼくは改札の駅員にも聞こえるように冷房のきき過ぎを苦言した。しかし駅員は容赦無く手荷物代を請求した。

 

中津川の夜は多少の雨が降ったりやんだりしていた。ぼくが自転車を組み立てると、互いにこれからの旅行の成功を祈って2級酒で乾杯した。この酒が翌日の頭痛のたねとなる。

 

ぼくらは駅の玄関で駅寝をしたが、夜通しタクシーやマイカー、オートバイが駅前ロータリーに侵入してきたので、ぼくは駅寝に慣れたO君のようには熟睡できなかった。

 

翌朝自炊した朝食を食べて出発。O君はいつものようにノーキャップで汗止めとしてバンダナを額に巻いていた。ぼくは頭が薄くなってきてますます直射日光に気をつけるようになりキャップを欠かさない。

 

旧中山道

 

中津川は木曽路の始点である。翌朝中津川の駅を発ち、旧中山道を探す。

中津川駅のように古い駅の付近の街路はたいてい迷路のようになっていることが多く、これから正しい出口に抜け出すのは容易ではない。

いかに早く抜け出して目的の道路を見つけるかによって自分の方向感覚をテストしてみることができる。

自分の本能の指し示すままに走って無駄なく目的とする幹線道路に出ることができたなら、君のサバイバル感覚は鋭く、リーダーの素質を備えていることになる。

しかし駅前迷路を紆余曲折し、それでも目的の道路にたどり着けず、あげくのはてにまた駅にたどり着いてしまったなら、そのまま自転車をたたんで電車に乗って帰ったほうが無難であろう。

 

旧中山道を見つけるまでに、ぼくらは中津川市街でわずかながらループを作ってしまった。

運よく旧中山道は車が少なかった。直射日光がすぐにぼくらを汗だくにする。

登りの時の汗でびっしょり濡れたランニングシャツは、下りの時の疾風で乾かされ、また登りでずぶぬれになる。

このアップダウンを繰り返しているうちは、気分も軽快で走行にも弾みがつきリズムが保たれ、二人の会話にもジョークが飛び交う。

しかし、登りばかりの単調な道程になると、汗は噴き出しっぱなしで道に滴れ、顔はしかめられて、会話も途絶え、たまに何か言っても、「あー」とか「うー」とか返事するだけで続かない。

そして、ろれつさえ回らなくなってきて、次には正常な思考も次第に不能になってくる。

こんな時だれからともなく休憩が提案され、あの木陰まで行って休もうということになる。

ぼくらは水をがぶ飲みし、次に少々のカロリー源を摂る。

O君はさらにとうもろこし製のパイプを出して一服する。ぼくらはどんな所でもそこをたつときにはゴミを残さない。

 

木曽路の旧宿場として、馬篭宿・妻篭宿がある。これらは、昔の面影を残しているが、ほとんどが復元されたものである。

急な山道を越えて来た昔の旅人はこれらの宿がオアシスに見えたに違いない。しかし、先を急ごう、ぼくらの宿はもっと先だ。

 

木曽福島

 

旧中山道から国道19号線に入ると木曽川沿いを行くことになる。

木曽川に寝覚の床(ねざめのとこ)という興味をそそられる名の名所がある。川辺にそそり立つ岩々の様子が寝覚めの床のように乱れているからそのように呼ばれるようになったらしい。

しかしここを訪れる男女のカップルはいずれは縁切れしてしまうという迷信はここの寝床の乱れといかに関わっているのかはわからない。

 

ぼくらは国道に自転車を残したまま、ここに降りて行き、岩場をひと歩きしたのち、一眠りしようとして頂面が平らになった岩の上で横になった。

・・・突然稲光が走り雷鳴が轟いて目が醒めた。見る見るうちに雨雲が上空を覆っている。すぐに雨がぱらつき始めた。

ぼくは、それまであまりに天気がよかったのでつい自転車の荷物を防水装備しないままでいた。

それであわてて自転車のほうに戻ろうとして急いだが、ひどいどしゃぶりにみまわれた。自転車の荷物もかなり吸水してしまった。とんだ寝覚の床であった。

 

幸い雨は通り雨だった。木曽福島に着くとまず関所跡を訪ねた。ここも復元された建物のみであった。この町でその夜の夕食の材料と酒、旅を通しての糧とするための米を買った。

そして適当な野営地を探しながら木曽川沿いをさらに登り、国道を外れて川を渡ったところにゲートボール場がありここの休憩用の屋根だけの建物の下でテントを張ることにした。

こうすれば雨が降ってきても安心だ。その夜の料理で特筆しておくべきものはニジマスとイワナだ。

木々を集めて焚火を起こし、魚を枝を削って作った串に刺して地面に立て焚火であぶる。原始時代からの最上の酒の肴だ。

 

 

ここでO君を紹介しよう。彼は函館出身、24才、現在兵庫県西宮市在住で、大手醤油会社の社員だ。

中学生の頃から天体観察を趣味とし星座には詳しい。中国拳法を心得ている。京都での大学時代にラーメン屋のアルバイトをしていた根っからの料理好きで、アメリカにラーメン屋のチェーンを作るという夢を持っている。

学生時代に北海道を走った時、異様に日焼けして奇怪な外見を呈したらしく、サイクルスポーツ誌にもそのもようが数ページにわたり紹介されたという。

今でも彼はこのことを誇りとしてなつかしむ。しかし彼はサイクリストというよりは登山家である。

登山の一手段として自転車を愛用しているのだ。高い山に登ってテントを張り、たき火にあたりながら果てしない星の世界を肴に酒を飲む。これが彼の本望である。

 

何千光年も彼方の今はもう存在していないであろう星座群から何千年も前に放たれた無数の光を愛で、想いは時空の彼方を彷徨するとき彼は現実の生活を忘れる。

星のハーレムの中で甘い陶酔に浸る。しかし彼をこの陶酔から現実世界に引き戻すでしゃばりものが彼の注意を引く。流れ星だ。

彼は反射的に願いをかけてしまう。そしてその瞬間、彼は宇宙から地球に引き戻され醤油会社に勤める社会人に戻る。

人の願いはいつも現実の俗生活に向けられるからだ。彼の願いとは、彼の心をとりこにしはじめている会社の女性とのハッピーエンドであろうか、それとも野心的な米国におけるラーメンチェーンストア企画の成功であろうか。

いずれにしてもこの時彼の星のハーレムの陶酔は醒め、宇宙は暗やみと化し、星群はでたらめにばらまかれたただの光の粒になってしまう。しかしもう夜も遅い、たき火を消してテントに入ろう。

 

野麦峠

 

木曽福島から木曽街道を北上。登りが続き体力保持のため新宿駅で得た飴をなめる。

昼食時を過ぎたとき、走りながら食品店を探すがなかなかない。登りだから空腹のままではハンストしてしまう。

野麦峠への別れ道が始まるところで立派な建物があり、レストランかと思って近づいてみると山菜加工工場であった。

そこの人に聞くともう野麦峠まで店などないとのことだった。ここで今から米を炊くとロスタイムが大き過ぎる。

この時、O君は、こういう時のために非常食として用意していた、彼の会社が製造販売する「ガンバレ玄さん」なるインスタントぞうすいをザックから出して2人分をぼくにも分けてくれた。

作り方を間違えて水が少な目だったので塩辛かったが、空腹にまずいものはなし、きれいに平らげた。

その後ぼくは必ず一食分のインスタント食料はいつも持っておくよう心がけた。

こうしてぼくは「ガンバレ玄さん」に救われたが、当の玄さんは発売当初はテレビのコマーシャルの人気でよく売れてたのに意外と早く売れ行きが落ち、今では製造中止になりそうだという。

そして今回持ってきた玄さんがO君所有の最後の在庫ということだった。彼の分析によると、雑炊なんてご飯の残りから適当に具をみつくろって入れれば容易にできるので、消費者はわざわざ金を出してまでしてインスタント雑炊を買おうとは思わなくなったというのだ。

さらに彼はもし玄さんをスーパーマーケットなどでなく、山屋に置いていたらもっと玄さんのライフサイクルは長かっただろうにと言った。

そして彼の分析が正しかったことは、この旅行の数日後東京で証明された。ぼくらは、彼の東京での研修のための上京を利用して信州サイクリング反省会をサイクル寿司屋で開いた。

そしてそのあと御茶ノ水に行って山スキーを見るべく山屋巡りをした。

そしてその数店でもはや一般マーケットからは姿を消している玄さんに巡り合えることができたのだ。

ぼくは感激してつい二つくらい買ってやろうと手が出かかったが、たしかに雑炊なんてご飯の残りから適当に具をみつくろって入れれば容易にできるではないか、わざわざ金を出してまで買うなんて、と思って思い止まった。しかし今度サイクリング旅行に行くときには、玄さんもつれて行こうと思う。「ガンバレ、玄さん!」

 

さて野麦峠にたどり着くまでに再び空腹をもようし、飴もすべてなめ尽くしてしまい、最後の一粒が無くなりかけてこれでもうおしまいだと思ったときにやっと峠のお助け小屋にたどり着いた。

ここまでくればもうあとは下りであった。饅頭を買ってハンストを防ぐ。雨が降りだし急に寒くなってきた。ダウンのジャケットとポンチョを着て下りの空冷を凌いだ。

雨はやがて止んでくれたが奈川温泉辺りで暗くなってきたので野営地を探す。食購した酒屋で教えてくれた広場に行ってみると保育園の運動場だった。

水道もあり水銀灯も輝いており、たき火はできなかったものの快適な夜を過ごすことができた。

 

乗鞍岳

 

翌日の乗鞍岳への自転車登頂は、今回の山岳サイクリングの道程の中でもクライマックス(3026メートル)をなすものであった。

今までに経験が無く、またそういったことは自分だけはすまいと思っていた自転車の担ぎ上げもすることになってしまった。しかし乗鞍登攀の記録は省略しよう。どのように注意しても自慢話になってしまう。

ちょうどすばらしい映画を見たらそのストーリーを友達に話したくなるように、今あの乗鞍登攀のストーリーをここに詳述したいのは山々である。

しかしたとえばこれからその映画を見ようとする人にとってはストーリーを明かされるのはありがた迷惑であるように、これから自転車で乗鞍に登ろうと企てている人たちにあの聖山がサイクリストたちに用意してくれているストーリーをここで暴露したら、せっかくの楽しみも半減して迷惑であろう。

また、ある種のサイクリストたちは怖じけづいて自転車による乗鞍登攀計画は断念し、それでも乗鞍には行きたいので自転車を捨ててオートバイやら自動車に鞍替えして騒音をかきたて空気を汚しながら乗鞍を目指すことになるかもしれない。

しかし彼らモータリストたちが知ることとなろう乗鞍ストーリーは、映画で言えば予告編版のようなつまらないものだろう。

ぼくも何度かバスや車、あるいはロープウェイ、ケーブルカーに乗せてもらっていろんな山の頂上に行ったものだが、それはいつも風景の変化を鑑賞する受動的な登山で自分は自然からは窓ガラスによって隔離されているので自然の中に参加することは許されない。

たかだか頂上についたら、車から寒そうにして出てきてポケットに手を突っ込んだままよろめきながら歩き「わー、高いなあ」と当たり前のことを言うくらいだ。

そしてたいてい下りの車中では居眠りをしてしまう。やはり山は自力で登って初めてストーリー性が出てくるのだ。山を征服するとか・・・

 

「Nよ、わかった、自慢話はもういい。しかしどうしてもストーリーを話してくれないのなら、こんどはぼくを連れて一緒に自転車で乗鞍に登ってくれないか」と君は言うかもしれない。

しかし、乗鞍を自転車で登った者はもう二度と自転車では登ろうとはしたがらないはずだ。それはもう一度生まれ変わってきたとしてもである。

 

上高地

 

長さは比較的短いが今回の忘れがたい難所のひとつは勾配20メートルを誇る釜トンネルの登りであった。

これは手掘りのトンネルということで、手彫りの彫刻のごとく内壁がごつごつと荒削りにできていたので、難所にふさわしい威厳を示していた。

ここを通らねば上高地には入れない。登りは15分くらいの持ち時間が与えられ、この間に通過しなければ今度は、下りの車が一斉に降りてくる。ライト無しで蛇行などして登っていると跳ねられてしまうので気を付けねばならない。

 

ここを通過してしまえば上高地は我々マウンテンサイクリストの天国と言って過言ではない。

まず車は規制されているので、上高地ではじゃまになるだけだ。歩く人たちはそれが目的だからどんなに遠くへでも平気で黙々と歩くが、ぼくらは彼らをどんどん抜いて先に行くことができる。

巧みなハンドルさばきで岩道を進んで行くぼくらを見てうらやましがる登山家たちは少なくなかった。

ぼくらはおそらく少なく見積もっても二、三十人のマウンテンサイクリストの誕生に貢献したかもしれない。

ロードレーサーの連中にとってはここは道が悪すぎる。かまわず乗っているとタイヤがパンクしてしまうであろう。繰り返して言うが、上高地はマウンテンサイクリストの天国と言って過言でない。

 

ぼくらは徳沢に行き、そこから梓川の川原に出て野営することにした。そしてそこが気に入ったので連泊することなった。

 

石が多くテントを張るのに苦労したし、寝るときも腰あたりに石があったりして寝にくい体勢を強いられた。

しかしここはまさに別天地であった。すぐそばに前穂高がそびえいつも雲が絡んでいる。

この別天地での2泊はぼくにとって心の洗濯を受ける経験だった。洗濯といえば、ぼくらはこれまでの道程で一度も風呂に入ってはいない。そこでこの梓川で体を清めることにした。しかしその水の冷たいこと、足を10秒以上浸けておくことはできない。頭をシャンプーして水洗いしていると、冷たさでだんだん頭から神経がマヒしてゆき頭をしごいても何の感覚も無くなり自分の頭でないような気がしてくる。

O君はまめにwearの洗濯もし、ぼくもそれをまねて両手で汚れたものをしごいた。

 

しかし天候は不安定で、雨が降ってくるとテントに潜って止むのを待った。

そんな時ぼくは本を読んで時間を過ごした。西部劇映画によく出てくる馬小屋で夜を過ごす旅のカウボーイのごとく、英語の新約聖書を読んだ。

こんなにのんびりと読書ができたのは永い間なかった。雨が止んでテントから外に出てみると、O君はもう外にいて岩の上に腰をおろしパイプをくわえて何か書き物をしている。

ぼくはたき火用の木切れを拾いに川下の方に歩く。川の土手をたまに登山者が通って行く。それ以外には人気は全くない。川下から雲が登ってくるのが見えると、また一降りくる前兆だ。日が暮れると寒くなるのでたき火を起こす。

 

夜空には星が一面に散りばめられる。O君は忍耐強くぼくに星座の説明をしてくれる。ぼくは彼の指差す星を見つけようと目をこらすが、たいてい2つ3つ離れたところの星を見ていた。

しかしこの地上での彼の指先の2・3ミリの誤差は、あの遠大な天空に投影されるなら恒星の2つや3つぶんの誤差になってしまうからむつかしいのだ。

天の川も久しぶりに見ることができた。ぼくらはいろんな話をしたが、寒い上高地ではどちらかというと無口であった。

その間にも梓川の流れは日夜絶えることなく続き、そのせせらぎはこの巨大な天空間をも支配する時の流れの音かとも思われてくる。

しかしもう遅い、あすはいよいよこの上高地も去らねばならない。

 

安曇野(あずみの)

 

三日目の朝、上高地を発って梓川沿いに下って行く。ずっと下りであるのでばてることもないだろうと、坂巻温泉旅館でひと風呂浴びた。

そこには露天風呂もあったのでそちらにもつかった。出るときにある画家の描いた上高地の絵はがきをもらった。

これを赤ヘルの中に入れて走りだした。そこから先は長いトンネルの多い下り道だった。これはサイクリストにとっていやな行程だ。トンネルの音響効果で遠くの車のエンジンの音もこだましてもう近くにきているような聴覚錯誤を起こさせる。登ってくるサイクリスト連中ともすれ違ったが、お互いにトンネルの中では陽気なあいさつを交わすことは難しい。

 

ずいぶん下ってようやく最初のスーパーマーケットにたどり着いて時計を見るともう2時に近かった。

その店先で昼食をし、思いついて東京の会社に電話してみたがだれも出なかった。おかしいなと思ってカメラの日付を調べてみるともう土曜日になっていた。だれも出ないはずである。

中津川の駅に着いた日からもう1週間が過ぎ去っていたのだ。上高地でののんびりした日々はぼくらと時間との絆をときほぐしかけていたらしい。もうしばらく上高地に長居していたならぼくは完全に時間から解き放たれ、今から思えば危険な時空をさすらう迷子になっていたかも知れない。

このような時空にさまよい込んだ人の報告としては中国では桃花源記、アメリカではリップヴァンウィンクルの話、日本では浦島太郎の話があまりにも有名である。

 

「土曜日」と知って驚いたのはぼくだけではなかった。

「土曜日ということはもうあすは日曜日?じゃあ、あすはぼくは西宮のアパートに帰っていなくてはいけないということだ」とO君もあわてる。

「おかしいなまだ2日くらい残っていると思っていたのに」と彼は納得せず、店のおかみさんにきょうは何日の何曜日かと聞いた。おかみさんは笑いながら18日の土曜日だよと言った。

上高地でならいつまでもぼくらは自分たちをごまかせたかもしれないが、下界ではそうはいかない。二人は急いで坂を下っていった。

その夜、安曇野でその日二度めの温泉に入り、野営地で羊肉をたっぷり料理し祝杯を上げた。

 

翌朝、道祖神を探しながら安曇野を走り「大王わさび園」を訪れた。

ここで珍しいわさびのソフトクリーム買った。店の前で写真を撮ってもらおうとカメラを差し出したところソフトクリームがコーンからそっくり地面に落ちてしまった。

親切な店員君がぼくのコーンの上に新たにクリームを盛ってくれたので無事わさびの効いた写真を撮ることができた。

しかしできた写真を見ると、地面に落ちたばかりのひねりのきいたわさびクリームがちょうどあの形よろしく写っているではないか。これはとんだわさびの効き過ぎであった。

 

安曇野は緩やかな山裾の上に載った町で、今までのアップダウン主体の行程に比べるとずっと楽な道をぼくらは行く。

こういうゆとりのある緩やかな行程ではぼくは自然に心でオーケストラ音楽を奏でる。最初にメロディーを発し、これを変奏してゆく。

時には口笛でフルートのパートを演じたり、声を出してさまざまな楽器に歌わせる。

第1楽章が終わると、拍子と調を変えて第2楽章が始まる。そして途中で何からも中断されなければ、4つの楽章を歌い切り一大シンフォニーが完成する。

まるでレコードの溝をこすって走るレコード針のように、ぼくと自転車はアスファルト道を走りながら、泉のように沸き出る音楽を汲み上げ鳴らすのである。

 

そうこうしているうちにいよいよ最後の訪問地松本に入った。松本城見物をし、駅前で名物の蕎とラーメンを食べた。そして松本駅で自転車を解体した。

ぼくは山スキーの本を2冊買い、すでに読んでいたほうをO君にプレゼントした。

帰りの車中で他の本の大半を読んだ。ぼくの思いはもうすでに山スキーに向いていた。松本から三郷までは青春18切符を利用した。

ぼくはもう40才になっている。しかし今までにこんな苛酷な夏を過ごしたことがあったろうか。

大学の留年時代に汗だくになって英語の学習に打ち込んだ暑い夏が思い出される。とにかくぼくの夏休みがまたひとつ終わった。

 

終り

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