宮古島の11日間(1992/04-05) その3

 

4月27日

未明、ぼくはすさまじい声を聞いて目を覚ました。

それはカタカナで表すなら「オギャー、オギャー」という大人の男性の威嚇的な叫び声だった。途端にぼくの上半身がガタガタと震え始めた。

眼を見開き、起き上がろうとしたが体が金縛りにあったように動かない。

ぼくは「やられた、もうこれでおしまいだ」と悟った。

こういう場合テントの中にいる者は無防備の不利な状態に置かれていることになる。

その狂気と悪意を帯びた攻撃的叫びはすぐこちらに襲いかかってこようとする勢いを持っていた。声の方角からすると、ジャック博士がまずやられただろう。

そしてすぐにI君とぼくのテントがめちゃめちゃにされるだろう。逃げようにも動けない。

からだは震えるときには硬直してしまい、それで特に上半身が一枚の板になったかのようにうまく震動する。

しばらくこの状態が止まらなかったが、狂気の声はすでに聞こえなくなっていた。

ぼくはそのままじっと金縛りの解けるのを待った。風でテントの天井が左右に揺れているのが見える。

 

夢というにはあまりにも大きな声だった。

ぼくはこのような大声を夢の中で聞くことは今までになかった。

そして、もし夢なら、目が覚めたときに、どういうストーリーがあってこういう眼の覚めるような経験をすることになったのかを思い出せるはずだ。

目が覚めた直前の夢は容易に思い出せるからだ。

そして声の主も誰であるかだいたい見当がつくはずのものである。

しかしこの時の声は何のストーリーもなくやぶからぼうに襲ってきた。

従ってぼくは何の夢も見ていなかったと信じられる。

いわばぼくの夢テレビはスイッチオフの状態になっていたのだ。

従ってあの声は現実の声だったのだとぼくは思った。

やがて金縛りは解け、ぼくは起き上がった。ぼくは恐怖の経験ののち立腹していた。

あの野郎ただではすまさないぞ。しかし同時にまだ身の危険も感じていた。

まず、ジャック博士の安否を確かめねばなるまい。今やられている最中だとしたら早く行って助けねばならない。ぼくは恐るおそるテントのチャックを開けた。

海岸を打つ波の音と木の葉を揺する風の音だけが聞こえる。ぼくは素早く運動靴をはいた。そしてテントの中から唯一の武器であるナタを取り出した。

I君のテントはドルフィン型のもので馬蹄形に曲げられたグラスファイバーのポールで幕が膨らまされている。

しかしこのポールの一箇所が折れており、骨の折れた傘を開いたときのような情けなさを漂わせていた。

しかしこれは最初の夜、彼がテントを設営するとき失敗して折ってしまったものだ。

ぼくは、20メートル先の吾妻屋のジャック博士のテントを見てみた。星明かりにぼんやり彼のテントは見えた。

どうやら壊されてはいないようだった。しかし、念のためにぼくはそこまで行ってみた。

テントの外に人の気配はなかった。やはり夢だったのだろうか。

ぼくは安堵したが、不可解な気持ちが残った。テントに戻ったぼくはしばらくこの不可解な経験を反芻してみた。しかし、なんら納得のゆく説明がつけられなかった。悪霊がぼくだけを襲ったのだろうか。

 

朝、紅茶を飲みながらこの話を二人にすると、ジャック博士はぼくの近づいてきた足音に目を覚まし、それは覚えている、なんだ君だったのか、しかし叫び声は聞かなかったぞ、と言った。

I助手はずっと熟睡していたようだ。博士はこのあたりの霊がぼくだけを訪れたのだろうと解説した。そして、ぼくがそういう霊に敏感な能力を持っているからだろう、とも付け加えた。

 

宮古島とその辺りの離島を訪れるならすぐ気づくことであるが、どの家にもシーサーと呼ばれる、陶器の魔除け唐獅子が門や家の玄関の両側に置かれている。

これらはみなこわい顔で睨んでいるので、本土の神社等の狛犬の石像の親類である。

のちに渡った離島の大神(おおがみ)島では、貧しそうな構えの家では、陶器の唐獅子の代わりにヒトデのように角を放射状に張り出した鬼貝とでも名付けたくなるような異様な貝をシーサーとして入口の両側に立てていた。

さらにどの島でも少し注意するなら気づくことであるが、ほとんどの家の壁の下部には「石敢當」という三漢字が刻まれていたり、あるいは路角にそのように彫られた石塔が立っている。

博士が地元の人に尋ねたところでは、これも魔除けのまじないであるという。

ではなぜこの土地ではこのように神経質なまでに徹底した魔除け処置をとるのであろうか?この傾向はこの土地のどういう現象を反映しているのであろうか?その後ぼくは二度と同様の霊の訪問を受けなかった。

 

しかしぼくは、27日未明の経験を今では感謝している。

眼鏡などにこびりついたとれにくい汚れは超音波をかけて震わせて遊離させ落とすように、あの威嚇的叫び声はぼくを震わせ、ぼくの精神にしがみついていた臆病なものをすべて離散させてくれたようであった。

あの恐怖のあとにぼくが抱いた怒りは、これからぼくが経験するいかなるおどしのあとにも必ず頭をもたげ、けしからぬ者にぼくをけしかけるであろう。

 

その朝は、ジャック博士もI助手もいっしょにインギャーの内海で泳いだ。

その後、熱帯魚を探して海水に潜るのはほとんど日課となった。

博士は当初、カヌーを借りたり釣り具を借りたりして海の楽しみを満喫しよう、と提案していたが、この素晴らしい海の中をかいま見てからは、もう潜ることに専念することにしよう、と考えを改めた。

ぼくはもう一つ欲を言うと、サザエやタコを捕まえて、おかずにすることを望んだが、これらにお目に掛かることはなかった。

海の中ではこういうのは専門家でないとなかなか見つけ出せないらしい。旨いものは自然に保護されているのだ。

 

水から上がりシャワーを浴びたのちテントをたたんでいると、数人の男性が車でやって来てゲートボール場にポールを何本か立て始めた。

彼らの持っている細長い袋は中にライフルが入っているように見えた。そこでぼくは、射撃の練習ですか、とひとりに尋ねた。

しかし笑いながらその人は「グラスゴルフ」と言った。

そして袋から彼が取り出して見せたのは全体が木製のクラブだった。

これはその後この地のいたるところで見受けられた。そしてこの競技は大人だけでなく子供もプレーしていたので、ゲートボールの敬老のイメージがなく、ゴルフの金権イメージもない。これならぼくもやってみようかなという気にさせる。

やがて体力が衰え、自転車を入れた巨大なショルダーバッグを担げなくなったら、ぼくもキャンピングサイクリストをやめ子供たちとこの草ゴルフを楽しもう。

そして、ゲームのあと家に帰ってビールの栓を開け、

「波のたわむれ」「雨音のしらべ」「小川のせせらぎ」「虫のセレナーデ」「野鳥シリーズ」などの自然録音CDのひとつあるいは二つ以上を組み合わせてBGMとして流しながら、サイクリング旅行記のどれかをゆっくりと読む。

ゆっくり読むのは、何度も文字を追うのを中断して、宮古島や、北海道、信州、九州などの現地を記憶の手すりをつたいながら再び訪れるからだ。・・・黄金の回想。

 

さて今回のトライアスロンレースに関して、ひとつ不可解なことがあった。

コースポイント通過予想時間表の地図を見ると、宮古島の北端には、池間島をはさもうとするかのようなカニのはさみに似た二つの岬が延びており、一つが世渡崎、もう一つが西平安名岬である。

スウィムの後、前浜で自転車に乗ったライダーたちはまず一路北に向かい離島の池間島を目指す。

地図の自転車コースを追うと、世渡崎から池間島に線が延びている。

そして池間島折り返し点でターンして再び世渡崎にもどる。しかし、ぼくが空港で得たレンタカー会社の地図にも、この通過予想時間表の地図にも池間島と世渡崎との間に橋などはかかっていないのだ。

いくら海が浅いとはいえ自転車で渡るのは無理だ。ぼくらはこの謎を解き明かすためにも宮古島の北端世渡崎を目指すことにした。

 

ぼくの持参したプリムスバーナー用のガスが早くも不足してきていたので、途中平良市市街地で購入するためいろんな店を訪れた。

しかしどの店にもなく、とうとうぼくらは炭を一袋買った。そしてぼくはさらに釣具店で缶入りの固形燃料を購入した。

これらはどちらものちに役に立ったし必要だった。

固形燃料を消費したあとの空缶と炭との組み合わせがぼくらの自炊生活をサポートしてくれた。

なお、博士のピークワンはその朝、全体が炎上してスクラップとなっていた。こうしてぼくらは文明生活からまたさらに一歩遠のいていった。そして遠のけば遠のくほど、ぼくらの野性は牙を剥いて貪欲になっていった。

 

ところで、トライアスリートたちがいかにして池間島に渡ったかの謎は、平良市街で見つけたあるポスターで解けた。

そのポスターは、ある地元の演歌歌手の新曲発表コンサートを宣伝するもので、その新曲の題もずばり「池間大橋」というもので、開通式に人々が立派な橋を歩いて渡る写真も載っていた。

この年の2月に開通したばかりで、それも架橋工事が始められて1年足らずで完成したのだった。

それは海が浅く、しかも底が硬質の岩礁よりなっているので、橋よりも高架の高速道路を作るに近い技術で間に合うのだろう。

いずれにしてもこの橋が2月にできたことも考え合わせると、宮古島の一大イベント、トライアスロンが架橋の大きな動機になっていることはまちがいない。

同様に前浜から来間島に建設中の橋も来年はトライアスリートたちを来間島に渡すことであろう。

 

さて橋でつながったので池間島はもはや離島ではなくなった。

強い風に煽られながらぼくらは島に渡った。橋の世渡崎側にも池間島側にもそれぞれ公園があった。そしてどちらにも砂浜もあった。

橋のどこから海を見下ろしても必ず底が見えた。それは水がきれいだからというばかりでなく実際に浅いのだ。

隣の西平安名岬からでなく世渡崎から橋が架けられたのはこちらのほうが海が浅いからであろう。

同様に、来間島への橋が前浜ビーチからの最短のコースを取らないで、皆愛から斜めに延びるように架橋されようとしているのも、浅い棚部分を示す地図を見るならその理由は一目瞭然となる。浅いところを利用したほうが架橋がずっと容易だからなのだ。

 

西平安名岬といえば、ぼくらは池間大橋を渡りながら風力発電のための大きな風車を見た。まだ政府から許可が下りていないため試験運転の段階で本格的運転はまだなされていなかった。東平安名岬の付近では太陽発電の試験場があった。

山がないためほとんど川らしい川のないこの島では水力発電はできず、火力発電のためのオイルも採れない。すべて他よりエネルギー源を頼らねばならない。

しかし強力な太陽光と、強風には恵まれている。これらを利用して電力を得るならばここの島々は潤いを増せるであろう。

 

ぼくらは、まず港にハンドルを向けた。

「ありがとう、池間丸」と書かれた横幕をつけたままの古びたフェリーボートが岸壁に横付けになっていた。

ここに来る途中には、「祝、池間大橋落成」という横幕を見かけた。

さっそうとデビューしたスマートな大橋、そしてくたびれて引退する錆びたフェリーボート。

橋ができるまではこの船は島の生命線だったに違いない。

島民は公園かどこかに保存するのだろうか。

ぼくは、新曲演歌「池間大橋」の中に一言でも「池間丸」の名が出てくるのだろうかと思った。

 

ここの漁港は地形の利を生かした良港であった。ぼくは漁業組合の人と掛け合って一匹魚を売ってもらった。名を聞くと「暴れん坊」ということだった。ピンク色をしていた。

組合の人は親切に刺し身包丁で身を切ってくれたのでぼくらは新鮮な刺し身にありつけた。その間にジャック博士は沖縄産の「オリオンビール」を買ってきていた。

I助手に醤油とワサビを買いに行かせると、そこには醤油はキッコーマンのLサイズのボトルのものしかなかったので彼はそれを仕方なく買ってきた。

ぼくはその後、腰バッグのウォーターボトルを差し込むポケットにこのボトルを差し込んで持ち歩いた。

スーパーマーケットなどに入るときは自転車のそばにおいてから中に入った。

皮肉なことにその後醤油を必要とする料理は殆どしなかったので、殆どが余り、最後のテントサイト前浜のキャンプ地に置いてきた。

 

さて、その夜のテントサイトは大橋のたもとの公園にした。シャワー設備はなかったが、水道があり、ぼくのプラスチック製ヘルメットで水をためて浴びれば、体を洗うことができた。

ところで、今回の旅でもぼくのこのシンシナティ・レッヅの赤ヘルがいろいろと役に立った。水浴びのための桶、炭をおこすときのうちわ、まくら、腰掛け、そしてパンクしたときの穴さがしのための洗面器等。

 

さて、この公園には、橋を羊羹を切るようにして得た実物大で厚さ2メートル余りの三片のコンクリート大ブロックがモニュメントとして並べられており、これらは断面が逆台形で中は空洞であった。

ぼくはこの中にテントを張った。ジャック博士とI助手はこのブロックのひさしの下に設営した。

ブロック間にベンチとテーブルがあったが、料理は浜に下りて、炭をふんだんに使ってなされた。

博士の指導で、暴れん坊の刺し身にした残りの部分を水で煮て醤油を加え、吸い物を作った。これは旨かったので、ぼくは断熱ポットに入れてあとでまたテントの中でゆっくり飲んだ。

 

毎夜のことであったが、まずオリオンビールで乾杯したあと泡盛をあおった。

博士は、バーボン・ウィスキーを最も好むが、郷に入っては郷に従え、とどんな小さな店にも必ず置いてあった地元の泡盛を買い続けた。これのお湯割りもなかなかよかった。ぼくらにとって一日は紅茶で始まり泡盛で完了するのだ。

 

その夜は特に星がよく見えた。ぼくらは公園から急な坂を降りたところにある浜で夕食と晩酌をした。

ぼくは泡盛をいつもより多く飲んだせいか、いつのまにか水際近くの砂の上に横たわって星を眺めていた。

波の押し寄せては引く絶え間ない音の繰り返しが足元で聞こえる。博士と助手が、頭の後ろのほうで何やら話している。

ホタルがあそこにいるとか、星がみごとだとか、そういえばパソコン用の星座ソフトを買った、とか。

ふと、先ほど公園で会ったある漁師の話を思い出した。

「今夜あたり、ウミガメが卵を産みに浜に上がってくるかもしれんよ。」

ぼくは、おもむろに立ち上がり水際をヘッドライトの明かりを照らしながら歩きはじめた。

カニがあわてて逃げてゆく。波がサンダルを履いたぼくの足を気持ちよく洗ってくれる。

夜の海に釣り舟が幾つか出ていて、明かりが波の上をチラチラとゆれている。

ときたま大橋を猛スピードの車が走る。もうウミガメはこの浜には来ないだろうという気がした。ぼくらは食器や炭など貴重品でない物をすべて浜に残し、公園のテントに戻って寝た。

 

夜半、ぼくは目を覚まし、波の音が気になったので、浜に下りて行ってみた。

ライトで照らすと波打ち際はぼくらが去った時より数メートルほど上の方にあった。

しかし、食器類は無事だった。ぼくは安心したが、念のためにそれらをずっと上の方に移動した。テントに戻りポットからまだ熱い魚スープをコップに注いで飲んだ。

そして、横になって昔のことなど思いめぐらしていたが、やがてそれも fade out して眠りが訪れた。

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