三原・因島・大久野島(1990/05)

 

* 出発の日

 

>> 04月28日(土)曇り 一時雨 <<

東京 17:40

新幹線 ひかり

三原 22:39

三原市N宅泊

 

* 瀬戸内の島巡り

>> 04月29日(日)晴れ <<

08:30 N宅出発

国道185号

09:10 忠海(タダノウミ)港発

\180+\100(自転車)

09:30 大久野島 着

毒ガス資料館・貯蔵庫 製造所跡

10:45 大久野島 発

\280

11:00 大三島 盛港 着(愛媛県)

三村峠(76)

大山祇(おおやまずみ)神社

お好み焼き「オレンジ」

14;15 大三島 井口港 発

\390 -- (広島県)

14:30 生口島(イグチ)瀬戸田港着

耕三寺(コウサンジ)(別名:西日光)

高根大橋

15:00 高根島 N宅を訪問

 

 

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04月29日(日)続き <<

15:xx 生口島 坂田港 発

\40+30

因島 鬼岩港 着

(「いんとう」或は「いんのしま」)

因島大橋を目指し、走行する

 

16:45 因島 土生(はぶ)港

時間切れのため引き返す

 

17:00 因島 金山港 発

\40+30 因島市営フェリー

17:10 生口島 赤崎港 着

国道317号 生口島の南半分15

18:30 生口島 瀬戸田港 発

三原観光汽船フェリーのため無料

19:00 本土 須波港 着

19:30 N宅 帰着

 

 

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陽光の瀬戸内海、島巡りの日々

今年の5月連休プランには手間どった。

当初、僕自身は四国プランを考えていたのだが、この2年、一緒に行動しているSは、05月04日・盛岡での友人の結婚式に出るというので東北に行くという。

また、信越のNさんグループは、Nさんの実家、広島県三原経由で宮崎・日南方面に向かうという。一人で四国に行くことも考えたが、石鎚、瓶ケ森剣山等、単独では危険と思われる箇所が多いので、Nさんのプランに便乗することにした。

実際のところ、連休の前半、5月1日までは快晴が続いたが、後半は前線が停滞し風雨が強く、予定を切り上げ、4日に帰京してしまったのである。

四国は更に豪雨であった模様。東北地方の雨は少なかった。しかし、体験としては満足のいくものであった。残りの2日間は、記録をまとめるのに費やすとしよう。

04月28日(土) 連休初日であるが、昨日まで残業して取り組んでいた課題にけりがつかず、11時ころ出社。

上司の要望でコピー取りなどするうち3時20分になってしまった

17時に東京発の新幹線の指定をとってあるので、余裕がない。東京駅中央口付近の売店でライ麦パンを買う。10cm立方程度の塊が\250。ほの酸っぱいような淡白な味でピン食に最適である。このシリーズには凝りそうである。

東京駅は遠出する客でごった返している。平日とは客層が違う。その光景の色彩が明るい16時。帰宅。東京17時40分発であるとわかり、安堵する。茶漬けと、おはぎ、牛乳で昼食。初夏の風が爽やか。連休の始まりのそわそわした気分を盛り上げる。

妹のリュックサックを借りる。容量は十分。今回は露営を予定しているので、シュラフ、ツエルト、マットが嵩ばっている。軽いものばかりのはずなのに、背負い紐が肩に食いこむ。ピークワンも持って、完全な蝸牛型装備といえる。

目黒駅でキャリアも共に輪行。スムーズにパッキングでき、幸先がいい。輪行の出来不出来はサイクリングの運を占うのに適している。

17時30分ころ、ホームに到着。Nさんに先導され、自由席の禁煙席におちつく。ビールとライ麦パンはよく合う。大阪までは70〜80%の混雑。以西は空く。新幹線がもったいない。

インフラが充実していてうらやましい。整備され始めた地方都市は清新な感じがして心地好い。歴史を忘れて無機質になってしまってはいるが、東京の過密よりはよほどいい。

N家訪問については、その感を強くした。

 

22:39 定刻に三原着。小雨が降っている。駅屋を改装中で、臨時のものから出口まで輪行袋を担いで歩かされた。三原市は帝人の企業城下町だったが今はその存在感は薄れている。

N家は筆影山(314m)の中腹にある。タクシーで行く。\1200くらいだったと思う。JR呉線で一駅、「須波(すなみ)」が近い。暗くてわからないが、車はどんどん高度を上げて行く。

一度行ったことのある、Iは「庭から瀬戸内海の眺望が素晴らしい」と述懐していた。その言に誇張はなかった。

2階建ての白い洋風の建物。2階建の物置もあり、園芸の道具がしまわれている。山の尾根の突端である。建屋の先は先細りの庭となっており、大理石(?)のテーブル・丸椅子、飛び石、数々の庭木、そして尾根伝いに降りていく道がついていた。

眼下には瀬戸内の島々、明日訪れる高根島、大三島、生口島、大久野島などが望め、フェリーの須波港、本土側は左下に小学校、国道185号を手に取るように眺められる。

黒い小型犬の「クロ」が出迎えてくれる。不特定多数の客が訪れる環境ではないため我々にはなつかない。ちょっと寂しい気もする。

家の中は、玄関に大きな衝立が立っていて、その後ろに応接セットがあり、木目地のフローリングがしてあり、2階への階段が続いている。我々(T、I、お座敷)が今日、明日泊まるのがこの部屋である。

到着が11時過ぎだったのに、ビールの歓待を受けた。明日は瀬戸内の島々を巡って予定が盛り沢山なので、夜のうちに自転車を組んで置く。庭では涼風が心地好い。夜景がいまさらながら素晴らしい。Nさんが自宅に人を招きたがる気も理解できる。

風呂に順ぐりに入って、1時就寝。しかし、父が入院中で、嫁が乳飲み子を抱えているところへ夜中に押しかけてきた我々は相当に迷惑な存在であっただろう。

1時就寝。夜中、T氏が「う〜〜っ」という唸り声を上げていて驚いた。しかし、次の晩、悪夢にうなされた僕は自分の声で目覚めることになる。

 

29日(日) 快晴

早朝、雷の音を聞いたが、夜来の雨も上がり、庭木は朝露に濡れていた。軽く朝食をいただき、荷をかるくして出発。国道までの下りに注意。起きぬけの下りは非常に危険だ。体も固いし。

09:10 忠海(ただのうみ)港発大久野島行きのフェリーに乗るべく国道185号を急ぐ。平地は転がり抵抗が小さいTUBULARに離される。

今回は船を多用する旅である。あまり何度も乗るので、どこからどこへ行ったのか判然としなくなってしまう。ここらの人にとって船は道路の延長なのだろう。

朝の連続テレビドラマ「わっこの金メダル」の父も長門市青海島の渡し船の船長だった。

09:30 大久野島着。ここは太平洋戦争中、日本陸軍が秘密裡に毒ガスを製造・貯蔵していたところである。まず周囲4〜5Kmの島を一周する。野性化した家兎が雑草をはんでいる。島の頂きには四国に繋がる高圧電線の鉄塔が立っている。近隣から訪れた行楽客に混じり、自転車を下ろす。島が小さいため自家用車は上陸できない。船に乗ってきた車は大三島へ直行。

時計回りに走り出す。車道を外れ、灯台まで上る。階段を含む遊歩道である。西桟橋に下ると国民宿舎、プール、テニスコート等が用意されている。本土の小学生らが団体で来ており賑わっている。コートはクレー、ローン、全天候と揃っており、10くらいあったが、人影はなかった。こういうところなら気負わずにできるのだが、東京では、テニスは気の重い遊びだと思う。

更に進むと、毒ガス貯蔵庫跡に着いた。山をくり抜いた洞窟にコンクリートの枠を組で、天井の高さは5mくらい、ボンベは残っていないが、その形を思わせるコンクリ製の台座が6脚残り、錆びた配管が壁にへばり着いていた。地面は瓦礫の山と化していたまた、戦後の火炎放射器による焼却処理のため、壁面には黒い焦げ跡が着いている。

そして、ベルリンの壁様の反戦落書き、また何の関係もない落書き等。入り口付近の小さなほら穴には千羽鶴やら、水子地蔵のようなものが積まれていた。

島の北端から道は上り、林道っぽくなっていた。側道がついており、煉瓦造りの北部砲台跡が草に覆われていた。半地下方式である。こちらの保存状態はよく、改装すれば洒落た倉庫風のビアレストランにでもなりそうだった。

送電線の大鉄塔が真上に見える。眺めがよさそうなので、そこまでの道をちょっとのぼってみるが、途中で諦める。また発電所跡は、コンクリート製の天井の高い建屋が露出していた。中の設備は何もなく、地元の人が薪作りに精を出していた。焚き火をしていた。古いFRP製のボートやら、水泳用の監視台等、夏の海水浴シーズンのための物置になっている。

島の南岸にはしっかりしたテントが並んだキャンプ場が用意されている。真新しい煉瓦の竈がテーブル毎にある。理想的なサイトである。

一周の後、毒ガス資料館に寄る。小さな建物で、昭和63年に建ったばかりである。入場無料。事務所には管理人がソニーのワープロを打っていた。左の展示室に入るといきなりくすんだ灰緑の防毒装面が立っていて、ぎょっとする。素材はビニルか何かだろうか。目の開き方と帽子の形が異様である。(蛸のはっちゃん風)。反応器、釜等はうちの工場でも見なれたものだが、素材が焼き物である。腐食性の液体を扱うためのものだ。

現在でもセラミック、やガラスライニングの釜がある すべて京都特殊陶器製作所で作られたもの複雑な管や、接続部分は加工のいびつなところもあった。素焼き、ホーローなど。皮膚をびらんさせる「イペリット」というものを主に製造していたとのこと。荒っぽいことをやっていたものだ。

10:45 大久野島発 大三島 盛港

快適な島である。隠岐の島前にも似た雰囲気。反時計回りに走り始める。海岸沿いに走る。車は殆ど来ない。その割りに素晴らしく整備されたサイクリングロードが並行している。

車道が1車線しかなくなっても、フェンス付きで続いていた。みかん畑の斜面を上り名もない峠(海抜50mくらい?)を越え、宮浦へ。途中、大久野島を一望できる展望台などもあった。

宮浦には観光バスなども入っており、賑やかだ。小さな島だがフェリーが乗せてきてしまうのである。土産物やの駐車場に停っている車のNo、愛媛が多い。愛媛県に入ったのだ。

大山祇(おおやまずみ)神社がある。直径3〜4mの楠が神木として祭られている。

隠岐神社と比べ、人は多い。よく手入れされている。アイスを舐めたり、僕はNさんの家で貰ったどら焼きと、バナナのピン食。まだツアーの初めだから、節約しなくてはいけない。

犬がいるが、食べ物をやらないのでなつかない僕の手は皮グラブと、油とゴムの臭いいがするからだ。

神社参拝を終え、今日唯一の峠、三村峠(76m)に挑む。丘のようなものである。下ると井口港。

12:30到着。次ぎなる島、生口島に渡ろうとするが、12:15に船は出たばかりである。

プランでいくと、14:15に乗ることになっている。ゆっくり食事を取ることにする。Nさんの提案で、広島名物「お好み焼き」を港から程近い「オレンジ」で食べる。\510、値つけが東京よりダイナミックに安い。その程度の材料で作っているのだが、金銭感覚が異常になっているのだ、東京人は。

余った時間は雑誌を読んだり、昼寝をしたり。昼寝付きのサイクリングというのはいいそのおかげで、後の日程がきつくなるが。僕は休憩ごとに横になっていた。というのも足が鬱血しているので、血行をよくするために、上にもってきたいからなのだ。

風が強い。桟橋のテントの無人販売で、伊予柑4個、\150で買い、分ける。果物が安いと思う。しかし、水分の少ないみかんだった。

14:30 生口島 瀬戸田港 着

フィルムが切れる。今回はフィルムの本数をまちがえた。一本36枚撮りを買う。\720。東京の3倍だ。耕三寺(別名 西日光)への参道は江ノ島のようだ。蛸の干物が名物の様である。ひとだかりがすごい。とても離島とは思えない。

耕三寺はその名の通り、けばけばしい建物だった。動物園もあり、入場料\800を取る。我々は入らなかった。島の西北端に出て、Nさんの叔父の住む、高根(こうね)島に向かう。高根大橋を渡る。ここでフィルム交換するが、新たに装填したフィルムの端を疵つけてしまい、不安が残る。

セルフタイマーが付いていないことといい、フィルム装填がうまくいかないことといい、問題の多いカメラである。カメラはマニュアルがいい。自分の責任だと思えばピンぼけも楽しい。「マニュアル = 自分で判断する」というのが僕の生活信条である。

* 今、四月第3週に会津に行ったとき買ってきた「会津」という酒を飲んでいるが、米がまずいはずの会津の酒にしてはうまい。水がいいのは周知のところだが。家でいつも飲んでいる焼酎は何のことはない「霧島]であった。その他「肥後っ子」「薩摩富士(35度)」も飲んでいる。僕は匂いのある酒が好きである。但し生のアルコールの匂いは嫌いだ。

黄色くペイントされた高根大橋の鉄橋を渡ると南北3Km、東西2Kmの小さな高根島に入った。ここがNさんの故郷になる。

この島には「N姓」が多いという。みかん畑を少し上ると叔父のN正勝氏宅に着いた。縁側で近所の人が集まって、伊予柑を剥きながら、話していた。正勝氏は在宅だった。庭は須波の家に比べれば狭いが、池もつくってあり鶴の置物なども置いてあった。二階屋の離れもあるが、ここに老夫婦二人で住んでいるのである。

サイダーと、ザボンを出された。自宅の農園で作っているそうである。身内に無人島に大規模なみかん農園をもっている者がある、という話だった。実直そうな老人であるが、名刺をもらうと、(片田舎の老人が名刺をもっているという処からして普通ではない)「XX観光汽船株式会社 代表取締役社長」とある。フェリーを3隻、高速船(浮上航行するもの)を2隻保有しているそうで、この辺ではかなりの規模の船会社だ。実際、帰りに乗ってみると、今日乗った他の路線に比べ、港湾設備、船齢共に抜群のレベルであった。すばらしい

環境。東南の斜面にみかん畑に囲まれてたっている。

 

「N以外は独身なのか。この島の娘を連れていかんか。いい娘が揃ってるぞ」と云われ、思わず想像が働く。瀬戸の花嫁……

実際、一年中こんな穏やかな気候と思わせる。そう聞いたら、「東京と同じで、ストーブを焚くこともある」と云われ、信じられなかった。そういえば、老人福祉施設が多いのは気候のせいか? 伊予柑を2個ずつ貰う。

「夏に海水浴に来たらいい。離れに泊めてやるけえ」と誘われ、N家を後にした。また、Nさんの母の実家にも寄るが不在である。平屋根の角毎に飛行機の模型がくっつけてあるのがおもしろい。

再び、大橋を渡り生口島へ。北海岸を東進する。この辺からどの島も同じ風景に思えてきて記憶がない。坂田港から因島・鬼岩港へ渡る。\40+30で、道の延長である。こちらの人はNさんを含め、「いんとう」と発音している。道路標識は「INNNOSHIMA」になっている。このワープロの辞書には「いんのしま」で入っている。

因島は市である。本土の尾道との間には尾道大橋が架かっており、生口島との間に因島大橋を架橋中である。車と道路標識が多い。信号も角々に立っている。車に追い立てられながら、狭い道を南下する。今日の最終目的地は「尾道大橋」である。横浜のベイブリッジのようなもので橋上からの眺望が良いというのだ。この橋、僕は83年に本土側から見ているはずだ。

途中、土生港(はぶ)に 16:40 ころ到着。大きな絵地図を見るとこれから因島を半周しなければならない。26Kmもある。これでは大橋到着が日没時、生口島・瀬戸田から本土・須波に戻るのが8時過ぎになってしまう。そこで16:45、大橋見物は諦め、一路本土への道を辿ることにした。直接は帰れない。あと2回船に乗らねばならない。

 

金山港に丁度来ていたフェリーに走り込む。道路の延長である。また\40+30。

生口島南岸、国道317号を瀬戸田まで走る。この道は本土・尾道と四国・今治を6つの(主なもの)島を経て結んでいる。そのせいかこの道は真新しく整備されていた。特に「サンセット・ビーチ」のあたりが新しい。この名前だが、西隣に大三島があるので太陽が海に沈むということはない。それに、水族館やら、飲食店、野外ステージをごたごたと並べてプライベートビーチとしているが、グロテスクなだけである。

手を加えるにしても、砂を運んできてごみのない渚をつくり、よしで間仕切って、金を取るくらいにしてほしい。ごみのない砂浜というのはそれだけで価値があると思われる。出店は極力控え目にしてほしい。放送は一切なし。潮騒と人の歓声だけ。管理者の良識を問いたい。

さて、消化コースのため、馬力をかけて快走する。ピン食のライ麦パンを食べ切る。15Kmほどの道程だが、向かい風のためばてる。18:10 瀬戸田港着。

18:30発のフェリーに乗る。25分と長目の船旅。船は新しい。寝てしまう。須波港も新しい建物。三原からちょっと外れた国道沿いだが、それがバイパス機能を果たしており、渋滞知らずを売り物にしている。

N氏宅への上り口まで帰宅の車で込んでいた。登りは、気合を入れていく。

ここで押すと時間がかかってしようがない。

晩御飯はご馳走だった。はまちと蛸の刺身、中華風焼肉、等々。

11時頃、就寝。夜中、T氏の唸り声で目を覚ます。

(九州・日南・大隅(1990/05)へ続く)

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