南九州・日南・大隅(1990/05)

5月 30日(月)快晴 7時起床。今日は移動日 宮崎のNさんの奥さんのお姉さんの家、S歯科医院へ行く。T氏は倉敷に寄り、福山に泊まり、磯部に帰り、家族旅行に出かけるという。

08時10分過ぎ、出発。三原駅までが長かった。城跡の石垣、今は公園で記念撮影09時9分発のこだまは6両編成。空いていた。小倉で40分ほど待ち合わせ。Nさんはとんこつ明太らーめん、僕とIはマクドナルドのシュリンプバーガー。海老の姿が残っていて異様なものだった。フィレオフィッシュのほうが自然だ。

西鹿児島行き特急「にちりん21号」では、Nさんはタバコの煙を嫌って禁煙車に行ってしまった。移動時間中は三洋のポケットワープロで特許の英訳をしているのだ。今回はCZ式半導体シリコン単結晶の製造装置に関するもののようである。よく頭の切り替えがすぐいくものだと思う。この三洋のポケットワープロ「ELectric Stationery 」が注目すべき製品だ。

ワープロと電子手帳の中間のような感じだが、現時点ではワープロ機能が充実しているように見える。これが、富士通やキャノンでなく、三洋から出ているのが不思議である。

明日(5月6日)秋葉原に試しに行ってみよう。しかし、僕には不要のものだろう。僕には優秀なデスクトップ日本語ワープロが必要だ。

このパナワードも愛機というほど使いこなし、フロッピーも7枚いっぱいにした。単純計算でA4160ページx7=1120ページである。

富士通オアシス30シリーズに乗り換えたいのだが、いくらMSーDOSファイル交換できるといってもあまりデータが多量になると煩わしい。

小倉から宮崎まで単線の日豊本線で5時間。16:54到着。

南国は日が長い。S家は自転車で10分くらいのところだというので、組み立てる。すると、せっかくもってきたキャリアのボルトが一本足りない。タクシー乗り場に溜まっていた運転手たちに荒物屋の場所を教えてもらおうとするが、今日は休みとのこと。

代わりに細めのボルトナットを持ってきてくれた。これでひとまず安心。チェーンをチェーンリングから外してしまい、FDの羽根から外して、掛け直す。この行為が原因でFDが右向きになり、チェーンが当たるようになる。これには気づいていたが、翌日直す。

メカトラは少ないツアーで良かった。最近、トラブルを起こすような自転車に負荷のかかる走りをしていないせいか?

駅前を右方向に向かう道を10分ほど走ると3階建てのタイル張りのS歯科医院に着いた。1階は駐車場。ブルーバード(SさN用)ともう一台の国産車が置いてあった。階段を登る。2階が診療室となっている。汚い格好で入るのが憚られるような家である。和室にすでに布団が敷いてあった。

S婦人は派手な薔薇の花の柄の服を着ていた。僕達は荷物を下ろすと挨拶もそこそこに、日が暮れるまでに宮崎市内をポタリングすることにした。僕はTシャツで出てしまったので、夕食のころは寒かった。

Nさんの大学時代の思い出の場所を巡る。宮崎大学工学部跡、今は南方の青島の方の学園都市に統合移転してしまっている。市内のこの場所でも十分に広いと思ったが、ここの人の感覚はそうはできていないのだろう。あまりにも長閑で、「日向ぼけ」という言葉があるくらいだそうだ。下宿した家は表札が変わっていた。20年近く前の話である。

Nさんは一人で感慨に耽っていたかったのではなかろうか?

 

続いて、平和台に向かう。3KMほどある。50M くらいの登りである。ここはかつて宮崎が新婚旅行のメッカだったころの観光ポイントだそうだ。市内が一望できる。現在は市民の憩いの場(?)になっている。たしかにアベックが多い。

八紘一宇の像は異様。戦争中に大東亜共栄圏を夢見た日本政府が建立したもので、演説台がしつらえられ、四隅には記紀上の人物が見下ろしている。くすんで風化した像が時の流れを感じされる。夕風に吹かれていると、背筋がぞくぞくしてくる。夕食をどこか暖かいところで取りたい。ここにもレストランがあり、営業している様子だが、観光地のため高そうなので、下山する。いかやとうもろこしを売るワゴンくらいはいたが。

宮大農学部跡、Nさんが洗礼を受けた教会、ブラスバンドの練習をした建物等を横目に路地を縫うように市内中心部に戻る。

特に名物料理もないというので、スカイラークに入る。ここより「ジョイフル」というファミリーレストランがうまい、とS婦人に勧められたが、馴染みの方に入ってしまったのだ。和風焼肉定食を頼むが、その牛肉はあまり良いものではなかった。付け合せはこの地方特産のかぼちゃとなす。これはいい。(1620)

もうツアーは始まっているので、蛋白質より、炭水化物を多くしたほうがいいのだが。7時半くらいまで明るい。車が多い。帰りがけに今晩飲む酒を仕入れようと、駅近くまで行く。一軒閉まりかけた酒屋を見つける。老婆が一人で店番をしていた。置いてあるのは殆ど焼酎ばかり、ビールとウイスキーが少々。日本酒が見当たらない。「霧島」の2合徳利と、割るための「飛梅」を買う。

帰ると、S夫人がビールで歓待してくれた。いける口である。

日本酒、ウイスキー等出てきて、相当にできあがってしまった。そろそろ寝るとしよう11時半くらいに就寝。この晩、僕は夢を見た。昨晩のT氏の「う〜〜っ」という唸り声が発端になっているのだ。

 

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夜である。僕達は高校生くらいのグループで、男女取り混ぜて10数人。何かの課外活動が決着したところ。廃墟になったアハ゜ートに集まってこれから打ち上げハ゜ーティをやろうとしていた。この建物はいつも僕の夢に登場するものだ。グレーのモルタルの古い造りで、一部屋は2Kくらいで、どの部の扉も開けはなってあり、配管が水漏れを起こしている老朽アハ゜ートだ。

どうも幼児体験が潜在意識に残っているんじゃないかと思うが、僕の住んでいた三田の豊岡アハ゜ートはこれほどひどくはないし、2才以前に住んでいた四谷のアハ゜ートであろうか。

そこに先日行ってみたが、あまり似ていない。テレヒ゛で見た香港の九龍城が似ている。

さて、階段の下に隠しておいた菓子とシ゛ュースなどで、いざ始めようとすると、一人足りない。八千代である。「あいつは、一人で背負いこんじゃう方だから、まだ仕事してんじゃないのか。呼んでこいよ。」と、僕達は笑いあっていた。後輩の体のでかいやつ(姓名不詳)が懐中電灯を片手に呼びにいき、みんなは先にがやがやとハ゜ーティを始めていた。

彼が帰ってきたが、仕事場にはいないという。とりあえず中断してみなで捜すことになった。廃墟の回りは真っ暗な草むらだ。みんなで名前を呼びながら捜す。一向に見つからない。しかたがなく、諦めて廃墟に戻る道すがら、くだんの後輩が、道端の生い茂った草の中に膝を抱えてうづくまっている八千代を見つけたのだ。

「おい、そんなところで何してるんだよ。みんなさんざん捜してたんだぞ」草むらに踏み入って八千代の肩を揺り動かすと、ごろっと横に転がってしまった。「眠っちまったのか。しょうかないやつだ」と言ってみるが、様子がおかしい。息をしていない。はれぼったい瞼は閉じたままだ。「し、死んでる」僕たちも徐々にその場所に集まりつつあった。八千代の死が確認されるや、僕は叫んだ「う〜〜っ」

ここで目が覚めた。寝汗をかいていた。冷蔵庫の飛梅を飲み干す。最後の叫びは覚醒状態においても、確認できた。果たしてこの夢は何を暗示しているのか外傷はなく自殺らしいが、遺書は見当たらない。尻切れとんぼである。

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午前3時50分だった。南国の朝は遅い。廊下の窓から眺めるとまだ月が高い。外気は冷たい。この夢の意味を考えてみるが、さっぱりわからない。夢とは脈絡のないものなのか。

*海部八千代(かいべやちよ):NHK朝の連続テレヒ゛ト゛ラマ「わっこの金メタ゛ル」

89年10月〜90年3月放映に出演していた、20歳前後の脇役。

主人公 わっこより先輩の産興紡績の人事課員、新入社員の世話役。

そしてハ゛レー部のマネシ゛ャー。自分も選手になりたかったが、実力がないのでマネシ゛ャーに甘んじている。面倒見がいい。いつでも明るい。

 

主人公が筋にこだわる余り、演技が固く不自然なのに対し、海部八千代、劇中では淳子の方が毎朝見るには好適だった。惜しむらくは、風貌が目立たないので、民放のト゛ラマに起用されることは希有だろうということだ。NHKの青春ものくらいか?大抵、このト゛ラマの出演者は半年の番組終了後、民放ト゛ラマやCMに抜擢されるものなのだが。

 

最近では鈴木保奈美が好例である。このときの主人公藤田朋子は泣かずとばずである。今回の主人公もストーリーについていくのが精一杯で、個性を発揮するには至らなかった。ハ゛イフ゜レーヤーに得にできているのだ。

僕は主人公の女優の名前を最後まで覚えられなかった。一本だけ明治乳業のCMの仕事が入っているようだが。劇中と同じハ゛レー選手の格好をしていて飛躍がない。

 

5月1日(火) 快晴 夜半より小雨

 

今日は日南海岸を快走する日である。7時起床。昨晩の夢を記録しようと銘じる。鮮明な記憶がある。

朝食はS夫人がトースト、サラタ゛等を用意してくれていた。8時に先導役の坂本氏がスス゛キのレシ゛ャーハ゛イクで現れる。この人はNさんの友人で、心身障害者、特に知恵遅れの人々の指導員をしている。

昨晩、焼酎を買った店で勧められたごとく、竣工した宮崎港を見て、青島方面へ向かうハ゛イクの先導は速い。宮崎港は国道220号の棕櫚の街路樹の向こうにあった。まだ航路が大阪行きくらいしかないので人影も車もいない。建屋も品川の長距離ハ゛スターミナルくらいのささやかなものである。 一ツ葉有料道路を行こうとするが、自転車通行禁止。国道ハ゛イハ゜ス経由に切り替える。風のためかWOの僕はスヒ゜ート゛が上がらない。

県立運動公園で一休み。喉が乾く。ルックサ゛ックが荷台のうえで安定しないので、ローフ゜を張り直す。荷の幅に対して、台が狭すぎるのだ。

青島は近隣、関西方面からの観光客で混雑していた。橋で島に渡るところは江ノ島にいそっくり。島は1周徒歩10分くらいの小ささで。真ん中に神社がある。一面砂地である違うのは植生で、棕櫚、フェニックス等が生い茂っている。人込みがなければ、ここでキャンフ゜するのも一興と思えた。

自転車に乗ってて、休憩場所で歩き回るのは疲れる。サイクリングと名所観光は相容れないのか。坂本氏は仕事があるので、ここで引き返す。

我々はひたすら、国道220号フェニックスラインを南下する。すぐに堀切峠となるがだらだら登りの100 くらいのもので、切通しを抜けると断崖だった。

「鬼の洗濯板」が眼下にあった。ここでもヘ゛ンチに横になってしまう。下って内海、小内海。僕の地図(日地出版・ロート゛アトラス ハイハ゜ワーワイト゛25万分の一)には伊比井(いびい)の北側にサホ゛テン公園が載っているが、実際は南側だった。国道際のサホ゛テン公園には観光ハ゛スがたくさん横付けされていた。

斜面のサホ゛テンの茶色っぽく冴えない。入ると階段を30 くらい登らせられそうなので、入り口で写真を撮るに留める。駐車場の誘導員がアロハシャツを着ている。Iの顔、腕が日焼けで真っ赤になっている。

トンネルを出ると鵜戸神宮だった。下り坂になっており、標識はでていたが、Iは見落として、先へ行ってしまった。僕達も左の路地に入る角でまっていなかったのだが。そのうち戻ってくるだろうと思い、自転車を角の橋の欄干にたてかけて、神宮参拝に行く途中、磯料理を食わせる民宿等もあり、食指が動く。

鵜戸神宮は海岸から一つ尾根を越えた岩場にある。参道が上り下りのため、足が重い。車は岬を回って間際まで行けるようだが、僕達はIのために目印の自転車を食堂の前に置き、階段を上る。峠のトンネルを越えて神宮にたどり着く。本殿は海が浸食したほら穴の中いっぱいにつくられており、大層賑わっている。欄干の外の岩に直径50 くらいの窪みができておりそこに「福」と刻印した梅干し大の茶色い土くれを投げこむ占いを5個 \100でやっていた。

また岩の間から淡水がわきだしており、それを1合くらいの瓶に詰め、800で売っていた。どうやら都落ちしてきた貴人が子どもを育てるために、両乳房を岩にくっつけて置いていったというエヒ゜ソート゛から商業主義に走ったものらしいが、岩の形を乳房に見立てたもの

である。土産ものとして「おちちあめ」がある。どこかのメーカーから「牛のおちちあめ」というのが出ているが、この「おちちあめ」に乳成分はないようである。甘いだけのハート゛キャンテ゛ィだ。

参道を戻る途中、「ニッキ水」100を売っている。毒々しい着色料の色で硝子の瓢箪型の容器に100mlほどはいっている。それを試してみる。ひどくいがらっぽい飲み物だ。こんなものをの子どもは好んでいたのか? 炭酸を含まないにも拘らず、喉から食道にかけて異物感がある。7割方飲んだところで放り出す。これは牛乳で中和しなければならない。

頭痛がしてくる。ごろごろする腹を抱えながら、目印の自転車のところに戻るがIはいない。気づいてか、気づかずかIは先行したもの判断する。我々も昼食も取らずに追いつこうと出発する。このおかげで今日は100キロも走ってしまい、2日かけて行くはずだった志布志に着いてしまうのである。緊急時三原港売店のNさんの母堂に をいれることになっているが、そこにもIからの連絡は入っていない。

少しいったところで、Nさんがルックサ゛ックを神宮に置いてきたことに気づく。僕はゆるゆると先行、日南病院のハ゛ス停で蜜豆の缶など開けながら昼寝する。14:20油津市内に入ると道が入り組んでおり、Iが迷わないかと心配する。南郷から内陸に入る。

南郷川を詰めていき、南那珂郡南郷村と串間市の境、榎原(よはら)付近が峠である。

福島川に沿って串間に下りる。

 

タ゛グリ岬はNさんの記憶では、何もない絶景の地のはずだったが、今やシ゛ェットコースター付き遊園地と、突端に国民宿舎がたっており、時の流れに唖然とするのだった。

「タ゛ク゛リ岬」を今日の寝蔵と決めてあったので、Iがそこにいるだろうと予想して、遊園地の間の急坂を上る。50mくらいのアッフ゜か。国民宿舎に着いてみるが、それらしき人影も自転車も見当たらない。Nさんと二人でキャンフ゜になるかと思い、キャンフ゜場を捜す。

草が生い茂った急斜面で海に落ちこんでいる。こんなところでキャンフ゜なんてできるのか? 虫も多そうだ。Nさんが念のため、国民宿舎のフロントから三原の自宅に してみると、IはJR志布志駅に既に着いて待っているという。

方針を変更し、志布志駅で合流することにする。国民宿舎は大阪方面からの車でかなり賑わっているようだった。志布志湾を一望する眺めは素晴らしく、夕食はここの海鮮料理を賞味できると期待していたが、目論みが外れてしまった。

 

今来たばかりの坂を下る。この道を歩いて下っている青年がいる。キャンフ゜場はちゃんとしたのが下にあった。炊事場もしっかりしており、サイト地は森の中。砂浜には雨避けのコンクリの頑丈な覆いがあった。

 

市内までは3キロほどあった。予想外のアルハ゛イトでかなり応えた。

18:33 JR志布志駅 到着。Iが鼻の頭を真っ赤にして待っていた。今日はメーテ゛ーである。駅前広場で労組の集会が行われていた。その中で記念写真を撮るのもはばかられた。駅舎は大隅線(志布志−国分)、志布志線(志布志−都城)が廃止された代わりに新築されたもののようで、下図のようになっていた。

やはり、Iは鵜戸神宮の存在も知らずに先行していたのだった。17:50くらいに志布志駅に着いたそうだ。お互いに気がせくあまり、昼食をろくにとっていない。これから我々がやるべきことは、サイトを決めること、入浴、夕食である。この順にやりたかったが、風呂が先になってしまう。

国道の角で巡査に尋ねると、1.5Kmほど西に銭湯「安楽温泉」があるという。そこを目指して走る。まだ明るい。

安楽温泉は鉄泉だった。¥250 浴槽は二つあったが、小さい方だけに湯を満たしてあった赤い湯で、塩味であるが、石鹸の泡はたつ。

次ぎにサイトを捜す。タ゛グリ岬は好適だが、今から戻るのも億劫だ。志布志港近くの砂浜にする。すでに暗くなっている。僕はライトをもっていないので、心もとない。

 

松の防砂林を抜け、堤防の向こう側の砂地にテントを張る。NさんとIのニッヒ゜ン製「アルヘ゜ンライト」は砂地にヘ゜グを4本打てば、しっかり張れるが、僕のツェルトは自立しないので、彼らの間にローフ゜を渡して何とか張る。微風が吹いているが、それに流されて片寄ってしまう。暗いのでわからなかったが、翌朝捜すと、松林の中に静かなところがあった。一晩中、風に悩まされることもなく済んだはずだったのに。

暗い中、設営に手間どり、完成したのは20:30過ぎだった。これから漸く夕食である。外食とする。国道に出れば、いろいろあるだろうと思っていたら、意外にない。かなり志布志側まで戻ったが、諦め安楽に引き返し、回転すしやに入る。暖かいものを欲していた我々には不本意だったがしかたない。

ねたはそこそこ。特産の鰹なんてのは来ない。脱水症状のIはフ゜リンを2個食べる。1000〜1200円で納まる。隣のCVSで夜食を購入。水も補給。

サイトに戻り、落ちていた竹竿でツェルトの壁面を補強しようとするが、折ってしまい失敗。

割り箸をヘ゜グにして、底面積だけ確保する。

22:×× 就寝

 

2日(水) 雨

 

5時半ころ、ツェルトにぽつぽつくる雨音で目覚める。この生地は防水じゃないから本格的に降り始めるとお手上げなのだ。何をおいても軒のあるところに逃げこまねばならない。

しかし、なかなか本降りにはならず、ヘ゛ンチレータからちょっと外を覗き、雲の速い流れを見ただけでまたシュラフにもぐり込んでしまう。結構涼しく肩口まで被っている 8時。Nさんに起こされる。好天は望めず、気が重いがしかたなく起き出す。

雨が本格的にならないうちに荷物をまとめよう。風が強く、ハ゜ッキングに手間どる。今日は最終目的地の枇榔島に渡る日である。志布志港に戻る。湾を隔てて穀物資料倉庫が林立している。大阪行きフェリーの「さんふらわあ」も見える。

港を横切るうち本降りとなる。合羽を羽織る。枇榔島行きの船着き場はない。漁港の方だとNさんが言う。島に渡る前に、朝食と食購をしよう。国道沿いのラーメン屋でとんこつラーメンを食べる。9:30から開いているショッヒ゜ングセンター「タイヨー」で食ハ゜ン、苺などを買う。Iはアイスキャンテ゛ィを買っていた。

九州一周しているという腹の出たレーサーの青年/中年?と会話する。彼は自転車には金をかけているようだが、他の装備には構わないという、真の(?)サイクリストだった。フレームはフ゛ラント゛品ではない。目に付いたのはハント゛ルハ゛ーがDAVE SCOTT(アメリカのトライアスリート)が提唱した牛角型(8000)で、肘置き(5000)も付いていた。これは前傾がきつくなるから腰と肩によくないと思うのだが、ツーリストである僕にはレーサーの心理はわからない。

それより、僕の興味を魅いたのは後変則機である。いまでは骨董品となってしまった島野テ゛ュラエースである。無骨で直線的で古きよき時代を感じさせる。当時の技術からして、性能は日本一であったはずだ。これをもっていることから、彼の車歴は10年以上と見られる。またヘ゜タ゛ルはLOOKのクリッフ゜レスのもので、靴もフ゜レート付きで走りに徹している。

走行に関する装備は充実しているが、荷掛けはステムに垂らすタイフ゜で不安定なものに使い古しのキャンハ゛ス地のフロントハ゛ッグをくくり付けている。合羽はヒ゛ニールの安物だった。夜はこの雨具のまま野宿しているそうである。

さて、ひとしきり会話した後、我々は雨の中、枇榔島への定期船が出る志布志漁港に向かった。鉄道の線路を越え、広い港湾道路をトレーラに追い立てられながら走る。海が荒れているのではあるまいか? 島は志布志湾内なので心配は要らないと思うが。

漁港に着いてみるが、雨のためか活気がない。市場の方でケースを引きずっている人々が数人いるくらいだ。桟橋にいた人に尋ねてみる。

「あの〜、沖の枇榔島に渡りたいんですが、船はどこから出てるんでしょう?」

「枇榔な? あそこには定期船は行っちょらんよ」

Nさんの記憶では、学生時代には定期船があ通っていたのである。

 

「あと2か月もすれば、海水浴シース゛ンになって、渡しが通うようになるばってん」

「そうですか。そりゃ予想外だった。昔来たことがあるんで、今でも船が行き来してる もんだとばかり思ってたんですよ。」

「まあ、それは残念だったね。でも、船が行っていたとしても、この雨じゃあ、欠航だっただろうね。」

「大した雨風でもないと思いますけど……」

「いや、陸ではそうでも、海に出てみりゃ波はうねってるよ。港は防波堤に囲まれているから静かなだけだ。」

「そうですか。船はないんですか。それじゃあ、しようがないなあ。」

とNさんが言って、僕達は顔を見合わせた。

 

「ところで、おまんさがたどっから来たんだい?」

「はあ、東京からです。」

「へえ、東京から自転車でかね?」

「ええ、でも走ってきたのは宮崎からですが。」

「そりゃあ、遠い所をご苦労さん。そうだ、ちょっと待っとって。あそこの巡視船の

 船長に相談してみるから。それまで、濡れるから船の下で休んでなさい。」

 

僕達は、桟橋に引き上げられた漁船の下に頭を縮めて待っていた。すると、くだんの人が戻ってきて言った。

「特別に島を一周してくれるそうだよ。波が高いから上陸はできないけれども」

「はい、それで十分です。よろしくお願いします。」

この人は、運輸省から委託されて湾の防波堤工事の巡視をしているのだった(名前忘れたまた船長は実直そうな感じの人だった。巡視船オリオン号17屯に乗りこ

み、雨の海に走り出す。まわりには僚船はない。片道20分くらいである。

 

言われた通り、湾内は凪いでおり、志布志の漁業の話を聞いたりしていたが、ひとたび外に出ると、小船はうねりに揉まれ出した。Nさん同様、僕は船の揺れには弱いのだ。

船長は構わず、波を蹴立てて船を進ませる。僕達は船室に入るよう促される。

喫水線の下の船室は応接セット6人分が作り付けられ、白い綿布で覆われていた。

そこから窓越しに外を覗くが、ヒ゜ッチングが激しく、顔がひきつる。波に乗り上げた途端、次に水底に落ちていくことは予測がつくのだけれど、浮力を失って舳先から落ちていき、海中でハ゛ウント゛するまでが気持ち悪い。我々は口を半開きにしながら、虚ろな笑いを浮かべ、海に出たことを後悔していた。

船が枇榔島に近づくと、島が波を打ち消してくれて海面は静かになった。しかし、船長のいうことには

「あそこに、小さな桟橋が見えるけれど、この船は大きすぎて付けられない。下手をすると、船体を疵つけてしまう。だからここで引き返すことにするよ。」

ということだった。島の南側にはいけないが、波のようすで、無理だろうという事は、この5分ほどの間に、いやというほど思い知った。敢えて希望する気力もない。もう一度あの海域を通過すると思うと戦慄を覚える。

枇榔島は東西500M、南北1キロくらいの無人島である。30Mほど沖合いから眺めただけだが、西北岸は棕櫚等の亜熱帯植物が茂り、東北岸はわずかに砂浜海岸となり、夏の間は定期船が通い、海水浴・キャンフ゜ができる。島を一周する遊歩道もついている。

 

桟橋は岩場に畳5、6枚分の板を渡しただけで、今日の天候で波間に上下しており、非常に不安定に見えた。帰りは全速でなく、上下動も小さかった。これは船長がわざとやっていたのだろうか? わけもわからない東京人が時化の海に出たがるので、怖がらせてやろうとしたのだろうか?

 

志布志はかつて沖合い漁業で栄えていた。南九州は台風銀座で、志布志を母港とする漁船たちは時化の時、波が高くて志布志港に近寄れず、油津や内之浦に逃げこんでいた。

そこに港湾整備の話が持ち上がった。志布志港を防波堤で囲み、時化のときでも、帰港できるようにしようというのだ。漁民は漁場を荒らすといって反対した。しかし、工事は強行され、漁民は一人当たり1500万の補償金を得た。その金で豪邸を建て結局財産を失った者もあれば、大きな船を購入し、遠洋に出て更に富んだ者もあった。

この話をする船長は感慨深げだった。今も防波堤の延長工事は続いている。2300mの幅をもつ。

今、港は広げられ、13000屯の「さんふらわあ」も停泊している。以前は鹿児島の谷山に行っていたが、物資は志布志で陸揚げされ、国道220号で陸送したほうが早いというのだ。

鹿児島から志布志まで回航するのに、大隅半島南端の佐多岬を回って半日たっぷりかかるのである。

全農を始め、各商社、アメリカのカーキ゛ル社等の穀物飼料サイロがたちならんでいる。フィリヒ゜ンのコンテナ船がいる。

 

船長とハ゜イロットに礼をいい、僕達は下船した。12時である。計画では枇榔島に着いた時点でツアーを解くということだった。Iは今夜鹿児島市内に投宿し、明日帰京するという。

Nさんは予定通り大隅半島南部の吾平に知人を訪ねていくという。僕は枇榔島で無人島生活を楽しむつもりだったのが果たせなくなったので、Nさんに従いていくことにした。とりあえず、雨を避け鹿児島交通のハ゛スターミナルに行ってみる。1時過に吾平行きや、西鹿児島行きがあるが、雨も大したことないので、走ることにする。IはJRで行けば周遊券が有効だというので、駅に戻る。

 

さて、1時近くなって出発した僕達だったが、国道220号の交通の激しさと雨に悩まされる。船長の話にもあったが、この道は鹿児島と阪神を結ぶ、物資の流通経路なのである。

途中、フ゜シ゛ョーのレーサーに乗った髭の青年に会う。道端で話すと、彼は鹿児島までいきたいが、この雨なので今日は鹿屋あたりで泊まることになるだろうという。あと20Kmくらいの距離である。そして、垂水から鹿児島・鴨池港に渡りたいと言っていた。僕はそれではおもしろくないと思っていたので、もう一本南側の根占−山川のフェリーに乗るつもりだと言った。

このとき、志布志以南の地図を持っていなかった僕は彼の意見に従うべきだったのだ。彼のとった道の方が現実的だった。

Nさんはホ゜ンチョを被っていたが、ニッカーホースがぐしょぐしょになってしまい、街道沿いのスーハ゜ーで靴を脱ぎ、裸足にコ゛ム草履になった。

靴の中が海のようになっていても、足を保護するのに変わりないから靴をはいていたほうがよいと思った。寧ろ雨のときのほうが、足先を傷つける機会は多い。

ここで昼食となってしまう。ハ゜ハ゜イヤメロン¥500を一つ買い、二つに割ってもらいNさんと分ける。甘いものだった。メロンの種類が多くていろいろ食べてみたかったが果たせなかった。Nさんによると、これらは従来の「まくわ瓜」の名前を変えただけのものだということだった。ホームランメロン、シーボルトメロン等々……

国道220号と高山(こうやま)、吾平に向かう県道の分岐に来た。フ゜シ゛ョー君は鹿屋に向かって行った。僕達は西南に向かう県道を行く。雨は降ったり止んだり。道は旧国鉄・大隅線に沿って進む。串良駅跡にキハが静態保存してあった。戦後昭和30年代後半まで薪炭の積み出しで賑わったそうだが、その片鱗さえない。「串良駅跡」というハ゛ス停があって哀れである。

 

下小原(しもおばる)駅跡は立派な木製のハ゛ス停になっていた。雨も小降りになってきたので、雨具のハ゜ンツを脱ごうと雨宿りする。どうもやる気がなく、椅子に横になり、焼酎の瓶を開ける。Nさんは先行し、吾平で人捜しをするという。僕はその必要がないからぼちぼち行けばいい。寝てしまう。

3時少し前、雨の合間に走り出す。高山の町に入る。かなり大きくスーハ゜ーもある。吾平へ行く道を見失い、内之浦方面の県道を進む。ハ゛スに従いていくと、志布志湾肝属川河口の波見に来てしまう。大根占まで佐多経由68キロという標識を見つける。

 

ミスコースには気づいていたが、既に4時である。この距離は1日の走行距離に等しい。8Kmほどの道程を高山まで引き返すことにする。コスモ石油のスタント゛で道を聞く。高山の市街で道なりに走ってきたのが仇となったらしい。高山川の橋を渡り返し、農協の建物を右に見て吾平の町内で県道「鹿屋−吾平−佐多線」に合流したのが16:50。これからが長かった。

しかし、この時点では平地26Kmと踏んでいたのだ。実際にはアッフ゜7〜800m・33Kmくらいであった。

平坦地のはずが、上っている。雨足も強まってきた。山深くなってきたところで「大隅半島唯一の温泉 養老の滝」という看板が目に入る。地名は金山付近。ミスコースしたとはいえ、僕の方が先行しているはずだから、一風呂浴びて雨の収まるの待とう。今日はもう汗をかくようなところは無いはず。寝蔵はフェリーターミナルと決めてあるので、風呂はないだろうし。あわよくば、ここに泊まれるかも知れない。

明朝早起きしてフェリーに間に合わせるという方法もある。Nさんに追い越されるのを避けるため空荷の自転車を街道のカ゛ート゛レールに立てかける。だが、実際は通過した後だったのである。

 

 

17:40

「あの〜、お風呂にいれていただきたいんですが……」

「は、いいですよ。まあ、びしょ濡れで、ハ゛イクで来なさったんか?」

「いえ、自転車なんですけど。いくらですか?」

「250ですよ。」

「はい、それじゃあこれ。ところで、ここは泊まれるですか?」

 

僕は¥6000くらい出してここに泊まってもいい、と思い始めていた。

 

「いえ、ここは宴会場なんですよ。お風呂と食事だけ」

「そうですか。残念だなあ。いえね、今日は根占まで走ろうと思ってるんですが、だいぶ雨もひどいようですし、宿を取りたいと思ってたんです。」

「ああ、そうですか。根占まではここから山越えになるんじゃないかしらん。」

気になることを言う人だ。丘のようなものと理解しておけば良いのだろうか?

 

「今日の宴会料理は何ですか?」

「ここは鯉料理が売り物だからね。洗いとコクと甘煮です。」

「それじゃあ、それをお願いしようかな。¥1500の定食がいいですね。」

「じゃ、お風呂を上がるときまでに作っときますから、1時間くらいですか?」

「いえ、そんなに長風呂じゃありません。30分くらいかな。」

 

風呂は快適だった。小さな湯船だったが、他に客は親子連れ一組だけだった。Tシャツとハ゜ンツの洗濯をする。しかし、これは袋に入れられたまま干す機会がないまま東京に持って帰ってきた。泉質は塩化物泉である。

 

18:00から鯉濃く定食を食べ始める。近隣の人々が軽トラなどでやってきて、風呂上がりに濃くでビールを飲んでいる。最高に贅沢な娯楽だ、と羨ましく思った。僕はこの先自転車に乗らねばならないのでビールは頼まず、番茶をすすっていた。かなり汗をかいており茶がいくらでも入る。回りで賑やかにやっているのに、手酌で茶をすするのは孤独である。

 

一応、三原に電話しておくと、Nさんは既に根占のフェリーターミナルに着いているという。

いつ追い越されたのか? 僕は何としても合流しなければと思い、荷作りもそこそこに養老の滝温泉を後にした。

18:40 雨空は既に暗くなりはじめている。灯りひとつない山道である。時折、車が通り人里近いことがわかるが、心細いことこの上ない一本、丘のような峠を越え、真戸原(まとんばる)に出る。

大根占町に入り、コ゛ールは近いと意識する。更に中野、川北、池田と進むが一向に海は見えない。(内陸7 くらいの地点) 道は本格的に登り出す。笹原峠(260M)である。日はとっぷり暮れて暗い雲が流れるのが分かる。道を判別するのに、目を凝らして路肩の白線だけを見ていた。17:30ころ。

時折現れる対抗車のライトがハイヒ゛ームになっていて眩しい。一瞬視界を失う。汗が目に入り沁みる。リアキャリアに積んでいるルックサ゛ックが左に傾しぎ、落ちそうなので背負う。途端に背中に汗を感じる。この汗が冷えないうちにたどり着いて着替えたい。

 

高原状の真っ暗な道を行く。田代町に入っている。タ゛ートが200Mくらいの区間続き新たな山に入っていることを予感させる。この頃僕はヒ゛ハ゛−ク場所を捜し始めていた。大中尾に通ずる三叉路に出るが根占方面を目指す。

 

田代町の中心、中村地区に出る。カ゛ソリンスタント゛、雑貨やなどまだ開いている店などもあり、大きなところだ。根占はもう近いのか?(あと10Km)

標識に沿って進むと、またまた登り始めている。何本隠し峠があったら気が済むのか。

すると、いままでおだやかだった雨足が急に激しくなり始めた。寒冷前線の中にはいったらしい。合羽を着ようと、民家の軒先に避難する。犬用食器らしいでこぼこのアルマイト器が転がっており、犬にいつ吠えかかられるかびくびくしていたが、静かだった。

 

雨の収まる気配はない。どうすべきか? 中村の開いている店で電話して、根占に行けないことを告げ、この田代町内に泊まろうと思った。20:30

 

電話を借りたのは鍋酒店である。ずぶ濡れで入ってきた僕を留守番の奥さんが不審に思った。僕は細心の注意を払い、電話を貸してくれるよう申し出た。

「御免ください。あの〜、ずぶ濡れで大変申し訳ないんですが電話を貸していただきたいんです。よろしいでしょうか?」

彼女は夜中に、赤い合羽を着て、東京言葉を喋る男が押しかけてきて明らかに迷惑そうだった。編み物の手を休めず言った。

「電話ならそこにあるが……」

「ここは田代町ですね?」

「そうよ。」

 

当たり前の事を聞く男に彼女は不審感を強めた。

 

「根占までいきたいんですが、ここからだいぶありますか?」

「根占までいくって、おまんさ、車じゃなかろうが」

「ええ、自転車なんです。吾平を5時くらいに出まして……」

「それじゃあ、山坂だったろう。」

「ええ、養老の滝温泉で休憩してきました。」

「根占までは、自転車なら30分くらいだよ。いつも高校生が通ってる道だ。」

「そうですか、それを聞いて安心しました。何せ今まで何度も坂に裏切られてきましたから。」

彼女が僕を疎ましく思い、追い出そうとして高をくくったことを言っているのかも知れないが、ここで逆らってもしようがない。

 

「軒先を貸してください。テントを張りたいんです」

 

という言葉がのど元まででかかったが、諦めて電話に取りついた。

 

「すいません。代金は払います。長距離かけますんで。広島にかけます。100番で料金 を知らせてくれますから。」

 

僕は交換を通して、三原港売店にかけてみたが、20:35である。N宅に掛け直す。

「もしもし今晩は。今、まだ山の中にいます。今日の目的地の根占まで自転車で30分ほどの地点だそうです。」

 

母堂は呆れている様子だった。電話代は\247と半端だった。\1000を床に置いて立ち去ろうとすると、彼女が土間に下りてきてお釣りをくれ、さらに売れ残りの寿司をくれた。

この雨の中をまたこぎ出すのは憂鬱だが、主人も戻ってきて胡散くさそうにみるので立ち去る。合羽の下は履いていないので、みるみるうちに濡れていく。

 

狩倉からまた大根占町に入り、花之本では小学校や、郵便局があっていよいよ、終着かた思ったが、また裏切られた。

 

162mのヒ゜ークまで3Kmの登りが残っていた。ほぼ一直線に西に向かう道である。今回、地図を外れて走り始めてから非常に役立ったのはコンハ゜スであった。西に海があることだけが心の頼りだった。道は細くなり、中央線がない。路肩の白線を朧にみながら徐行する。平衡感覚がなくなる。

意識が薄くなってくるので、歌を歌う。レハ゜ートリーは「若き血」と「紺碧の空」、そして、テ゛ヒ゛ー・キ゛フ゛ソンの「IN YOUR EYES」である。

 

ヒ゜ークを越えると、遥か下に根占漁港(実は町)の灯りが扇状に広がっていた。逸る心を抑えつつ、急坂を半フ゛レーキで下る。ここで転倒したら、ロスタイムは大きい昼間だったら、また絶景だろう。もう少し余裕があれば、夜景を写真を撮りたかったところだ。21:15

 

まだまだ先がある。

下ったところは県道レヘ゛ルの道で、繁華なところではない。ハ゛ス停があるが、車はまばら。三叉路を左に4、500 いくとまた山に向かっている。もう山はたくさんだ。さらに戻って右に行くと酒屋があり、車が何台が停まっていた。そこで道を聞く。

 

全身からぽたぽた雫をたらしながら、入っていくと女性客がぎょっとしていた。

21:30

 

「あの〜、ちょっと道をお尋ねしますが……、ここは根占ですよね?」

「そうですけど……」

「根占のフェリーターミナルはこの近くですか?」

「はあ、川を渡ってひとつ目の信号を左に行けばすぐですよ。」

「ありがとうございます。どうも、ずっと山の中を走ってたんで、眩しくて……」

 

川越酒店を出て、言われたとおり、川を渡るとすぐに信号があった。「信号を左に折れる」というと、車一台がやっと通れるくらいの路地しかない。田舎の船着場はこんなもんか、と思いながら先に進むが、目の前に広がるのは田んぼだけである。おかしいと思い、引き返す。海の気配がない。(「下町」付近の川原に来ているのである)

 

国道に戻り、2、3度 煌々と明るい川越酒店の回りをいったり来たりする。橋の上流側にハ゜チンコ屋があり、ここも明るいが、そちらには港はなさそうだ。橋が低すぎて水面まで3、4mしかないからだ。フェリーがこんなところを通れるわけがない。西に向かって、信号を3つくらい走る。鹿児島銀行(かぎん)などもあり、中心地であることがわかる。

 

すると標識に左・フェリーターミナルとある。終に見つけた。しかし今から行っても、Nさんはいないだろう。よくて、張り紙がしてあって、民宿の電話番号でも書いてあるくらいだろう、と思いながら走る。道が川から離れようとするので、川沿いの堤防に近い側道を走る。

 

人気のない埋立地にテトラホ゜ット゛が山積みされ、橋のナトリウム灯に照らされる光景は不気味である。

だだっ広い駐車場に着くと、照明の当たらない看板が「南海郵船 山川−根占 フェリーターミナル」と読める。

 

近づいていくと、外のヘ゛ンチにNさんのレーサーが空荷で立てかけてあった。建物のカ゛ラス戸に何か貼ってないかと目を凝らすが、「連休中は増便します 云々」というような告知ばかり。

と思ったら、真っ暗な建物の中に人影が…… 最初は自分の影が自販機の灯りに反射しているのかと思った。しかし、それは黒いホ゜ンチョを被ったNさんだった。

 

 

**************

 

なぜ、Nさんが建物の中にいるのか一瞬わからなかった。

彼はぼくに外で待つように手振りした。

しばらくしてNさんは建物の裏から出てきた。21:45

 

「いやあ、すっかり遅くなって、大変ご心配をかけました」

「ご苦労さん、でもこんな時間になってやって来るとは思わなかったよ。」

「ええ、僕も途中からヒ゛ハ゛−クの場所を捜しながら走ってましたが、どうも雨露をしのげるところが見つからなかったもんですから、到頭走ってしまいました。」

「僕は18:40くらいに着いて、仕事してたよ。(ホ゜ケットワーフ゜ロで)」

「Nさんは、吾平からどの道で来たんですか?」

「あの山道だよ。いくら行っても山が途切れなかったな。吾平から根占に来るには一度、古江の海岸に出て国道269号を来た方がよかったね……。とにかく、濡れて寒いだろうから中に入ろう。」

「正面の扉からはいれるんですか?」

「いや、ここは鍵がかかっててね。内側からはあけられるんだけれど、実は別に入口があるんだよ。荷物を持って従いてきて」

 

Nさんは、建物の裏に回って、コンクリートの堤防に登っていった。一段40cmくらいの急な階段。踏み代が10cmくらいしかなくて、雨と疲労で滑りそうだった。ここは船員がフェリーに乗り移るための通路らしい。

頼りない赤い手摺が作りつけてある。それに伝いながら、回廊を一巡りすると、建物の西北端に外階段の踊り場があり、そこの引き戸が開けはなってある。雫をぽたぽた落としながら2階の乗船待合室に入る。

ヘ゛ンチが壁際に寄せてあり、床は清潔で乾いていた。Nさんのヘット゛ライトの明かりで僕は雨具を脱ぎ捨てた。意識ははっきりしている。コ゛ールに無事着いた安堵から精気が戻ってきた。話すことは山ほどある。

 

「18:00に着いたってことは、吾平をすぐ出たんですね。」

「うん、捜してた人はすぐみつかってね。あっちを出たのは4時ころだったかな。」

「僕は吾平の県道角を曲がったのが16:50でした。てっきり僕が先行してると思って、

 途中の養老の滝温泉で休憩したんですよ。そこで三原に したら、もう着いてるってんで、これは何としてもここまでこなきゃと思って、走ったんです。20:35にも田代 町の山の中から したんですよ。」

「ああ、あの山を暗い中走ってきたんか。それがわかってりゃ、とめたんだけどな。」

「ええまあ、風呂上がりの散歩の積もりでいたんですよ。アッフ゜タ゛ウンもないとばかり思ってたんですが」

 

僕達はカンテラの明かりを囲み、ハ゛ス停で別れてからの長い半日の出来事を語り合ったラシ゛オをつけると感度はよく、リノリウムの床に音が反響する。明日からこの雨はさらに強まるようだ。気温が下がっている。しめっぽいシュラフを広げ、焼酎2合を空けると暗い海に囲まれながら、僕達は眠りに就いた。 23:00

 

今日のような雨のナイトラン、しかも初めての土地で山の中なんて、無茶は絶対やるべきではない。サハ゛イハ゛ルを気取って危険を冒すのは愚の骨頂である。

 

**************

3日(木) 風雨 強し

 

5時30分、寒さでめざめる。しかし、昨晩雨の中で汗をかいており、脱水症状である冷たいシ゛ュースで覚醒する。人が来る前に建物の外、軒下に移動しなければ。

 

駐車場にハ゛ンが二台とまっているが、中の人間はまだ起き出してこない。この間に表の扉を開けて荷物を運び出す。

 

7時ころ、ヒ゜ークワンで湯を沸かし、ラーメンを作る。こんな用途でヒ゜ークワンを使うのはもったいない気がする。売店のおばちゃん、港の陸上整備にあたるじいさんたちがやってきてフェリーターミナルは賑やかになってきた。

 

僕たちは素知らぬ顔で開けられた扉を通って2階の待合室に上がる。一番の船は9:20である。だいぶ時間がある。Nさんはワーフ゜ロで仕事をする。僕はラシ゛オを聞いたり、居眠りしたり。

 

船は少し遅れてやってきた。そのころ、駐車場は夜中の静けさとは打って変わって観光ハ゛ス、乗用車でいっぱいになっていていた。1300屯の船だが、錦江湾の入口で外海に近いため少し揺れた。

 

山川港に着くが、雨で走りたくない。指宿温泉に行くことにする。市営の偕楽園を教えてもらうが、指宿観光ホテル付属のヘルスセンターに入ってしまう。¥620 砂蒸し付きで¥1550。

僕はハ゛テているので、普通の風呂だけにした。11:00 風呂に入る前にカツ丼を腹に入れる。風呂はシ゛ャングル風呂。ハ゜イナッフ゜ル風呂、金柑風呂、ハ゛ナナ風呂等があるが、そのものが湯に浮かんでいるわけではなくて、湯船がその形にくりぬいてあるだけなのだった。

砂蒸しは屋内によしずばりのサウナみたいな物ができていて、雨でも入れるようだった。

 

疲労のため、長湯できない。40分くらいで出る。ロッカールームにNさんがいないと思ったら、衝立の向こうのマッサーシ゛台(白いシーツを敷いた清潔なヘ゛ット゛)で寝こけていた。

 

13:30 むっくりおきだし、場所を休憩の大広間に移動。まだ早い。16:30まで畳の上で眠る。ホテル側にも行ってみる。ホ゜リネシアンショーを見る。完全に子ども相手の催しになってしまっている。

 

「停滞」には、体力温存の大きな意味がある。いたずらに退屈していないで停滞の時間を楽しもう。雨がやみそうにないので、今晩の夜行で鹿児島を発ち、明朝一番の新幹線で帰京する。

 

 

17:24 指宿発のJRに乗るべく、台風のような風雨の中に走り出す。駅は観光客で賑わっていた。駅に横付けしようとする自家用車とタクシーが責めぎあってクラクションがうるさい今日は輪行がうまくいった。

 

鹿児島までは1時間20分 Nさんは焼酎を飲み始めるが、市内で歩き回ることを考え僕はコーヒーを飲んでいた。

 

西鹿児島駅は2年ぶりである。雨がひどく、視界が妨げられるほど。市電で天文館通りに行く。アーケート゛のあるところは人通りが多い。山形屋テ゛ハ゜ートが大きい。郷土料理は酢豚のようなものらしく、それは遠慮してちゃんぽんを食べる。タウン誌を買う。

 

22:26 夜行急行「かいもん」に乗る。9両編成 オハフ12にグリーン客車の古いシートを作り付けたものだ。空いており、床にマットを延べ、シュラフに入って寝たこれがいちばん楽な寝方だ。

 

4日(金)

 

5:26 博多定刻着。6:30発なので構内をうろつく。ミスタート゛ーナツしかやっていない。甘いので敬遠しているが、値つけが高い。コーヒーとト゛ーナツ1個で¥330。自転車用ヘルメットを担いだ白人青年が安いト゛ーナツをのきなみ買っていた

上りの新幹線は最初すいていた。寒い列車だった。大阪あたりから込む。

 

12:32 東京着。この車両が折り返し博多行きになる。一日に2400Kmも走るなんて、

驚異的な稼働率だ。僕は輪行袋を下ろし遅れて駅務員室に撤去されてしまい、一瞬あせる。下り線に乗る客も多い。

 

Nさんと、挨拶もそこそこに別れる。山の手線はすいていた。

 

 

終 章

 

自転車のタ゛メーシ゛がひどい。まず、チェーンに油をくれ、サト゛ルにキーウィの赤カンをたっぷり擦り込み、後タイヤがハ゛ーストしかけているのに気づき、渋谷に買いに行く。今は650×38Bなんてない。スヒ゜カで売れ残っていたユッチンソン(仏)35Bを買う。多少、走りが軽くなるか?

 

久しぶりに道玄坂百軒店横丁の道頓堀劇場に行ってみる。7、8年ぶりくらいになるか。最近はソフト路線が主流である。11人が出演。最初はすいていたが、連休、都内に残っていた男達が集まってきてすごい熱気になってきた。20畳くらいの空間に130人くらいの客が入っている。息苦しい。僕は後ろの方にいて、視界が悪くなってきたので1時間ほどで出る。しかし、なぜあんなものをみせて¥2500も取るのか?

タフ゛ーを破るところに意味があるのか?

 

6日(日) 秋葉原にNさんのホ゜ケットワーフ゜ロを見に行く。

すると、「OASYS AF3」(定価 ¥198000)が¥90000で売っていて、思わず衝動買いしてしまう。殆ど機能的に差のないAXが138000だから、差額で通信セットが買える。そのお蔭で手元不如意になった。

 

何とも長いコ゛ールテ゛ンウィークだった。

 

5月8日 了

 

 

思わず 長い駄文を送ってしまいました こういう使いかたが適切なのかわかりませんが、みなさんの体験談もきかせて下さい。

ちょっと冒険っぽいのが好きです

MHH02276

 

今、ハント゛ル名を考えています

 

1.温泉サイクリスト

2.お座敷サイクリスト

3.へたりイテ゛アル

4.担ぎ屋ヒロ

5.立ちごけのヒロ

6.26×26T

7.

 

なんかいいのはないでしょうか

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