八丈島サイクリング (1992/05) 

 

今回のゴールデン連休は、4月30日と5月2日に有給休暇をとったので十日間の連休となり八丈島に初めて行くこととした。

その前に4月27日に高崎カントリークラブで催された副社長杯争奪ゴルフコンペに参加したが、最後まで調子に乗れずゴルフの難しさを味わう辛い一日だった。もう二度と気の進まないことはやるまいと肝に命じた。

 

しかしそのコンペの賞としてもらった万歩計が大きな収穫となった。

これのクリップが自転車のハンドル部のブレーキワイヤにうまくかけることができ、しかも時計モードに切り替えられるので、煩わしい腕時計をはずしてサイクリング旅行ができることとなった。

ちなみに歩数カウントモードにしてサイクリングした時は自転車の受ける震動数が計数されるので、その計数値を走行距離で割ると道の粗さを測定できることになる。

「それがどうしたね」と言われれば、ぼくはすぐにまた時計モードに切り替えて「ただ言ってみただけだよ」と渋い顔をするしかない。

 

八丈島への同行者はまだ初心者の域を脱し切れないでいるI君ひとりだ。

彼とツーリングする時はできるだけ島を選ぶことにしている。

一般的に島は車が少ないし、連休でも交通量が増えない。

そこでまず大島を考えた。しかし最初に電話を入れた民宿予約サービスで、もうどこもふさがっていると言われたので大勢の行楽客が島に押し寄せるものと思われ、行く先を変更することにした。

結局、飛行機の予約も簡単にとれた八丈島に行くことにした。

4月30日から5月3日まで滞在することにした。ぼくはテントで野営することのほうを好むが、I君の希望をいれて3泊とも民宿に宿泊することにした。

従って携行する荷物は半減した。

 

海の好きなぼくにとって島の休暇はうれしい。

打ち寄せる波の音はいつもぼくを水際に呼び寄せる。

そして海水に足を濡らすときぼくはわけのわからない感動を経験する。

電池が充電されるときこんな感じを受けているのではなかろうか。

太古に生命はすべてこの海より発し、冒険を求めた勇敢な種族だけが乾いた地に這い上がった。

波打ち際での彼らの決断は相当な勇気のいる困難なものであったろう。

あの獰猛な鮫でさえこの決断をたじろいで海中に引き返した。

しかしぼくの先祖はこのバリアーを果敢に越えて大地を這った。

ならばその末裔のぼくにも一抹の勇猛さと冒険への素質があるはずだ。

波打ち際で足を濡らすとき覚える感動は自分の野性を再発見させてくれる。

 

しかし八丈島の波打ち際は近寄りがたい。

もともと火山が爆発して流れ出した溶岩でできた島だから波打ち際は切り立つような崖であることが多い。

そうでない所も遠浅の砂浜などはなく岩場ばかりで海水浴には適さない。

しかしこれはかえって釣り人やアクアラングを付けてのダイバーたちには好都合の島らしい。

島の訪問者のおおかたは釣りかダイビングを楽しむためにやってきた人たちだった。

 

ではサイクリストたちにとってこの島はどうであろうか。

全島にわたって整備された舗装道路は八丈島を一つのサイクリングコースに仕立て上げている。スピードねらいのレーサーサイクリストなら一気に島を一周してタイムを競い合うことを勧める。

山道をイタチがかけ抜けアップヒルもダウンヒルもたっぷりありカーブを切るたびに千変万化の景色が目を楽しませてくれるので観光サイクリストをも飽きさせない。

おまけに露天風呂もコースわきにあるので温泉サイクリストは手ぬぐいを携行されたい。

ヒルクライムの好きな峠サイクリストにとって登竜峠は避けて通れない登竜門だ。

漁港がいたる所にあるので鮮魚は当然豊富でお刺身サイクリストにとってはまさに天国といえる。

しかしこの島もすべてのサイクリストを喜ばせるというわけにはいかない。

ただひとり風俗サイクリストにとっては八丈島町はまったくのゴーストタウンといわざるをえまい。

 

さてぼくのような登山サイクリストにとって八丈富士は854メートルと標高はさほどでもないが傾斜が急な分だけ満足させてくれる。

ATBで登る人は頂上まで自転車を担ぎ上げて、火口の周りを自転車に乗って「お鉢巡り」することを勧める。

ただ、風が強いので崖の内側に吹き寄せられて火口に落ちないよう気をつけたい。あるいは急斜面を滑り落ちて海にはまらないよう気をつけたい。

 

今回の島巡りでぼくの一番印象に残ったのは何といってもこの休火山八丈富士の火口だ。

ぼくはいろんな地形を今までに見てきたが、噴火口ほど引きつけられる地形はない。外輪山を越え、内輪山を登り、淵までたどりつきひょいと中をのぞいてみる、すると身の毛もよだつような光景が自分を待ち受けている。

目を反らすとしかしすばらしいのどかな風景が麓から広がっている。もう一度中をのぞく。目の下をほぼ垂直に噴火口はえぐられている。

 

中学生の時の修学旅行で行って感動した阿蘇山、霧島、そして自転車で登った北海道の摩周湖、その他名は忘れたが諸々の火山、それらはどれ一つとしてぼくを失望させることはなかった。

しかしぼくを火山ファンとさせたのはこれらの実際に訪れることのできた火山ばかりではない。少年期に読んだ冒険小説にでてくる火山がぼくの空想のベールの隙間から壮大な姿を見せて、秘境への憧れをいやおうなしに脹らませた。

ヒュー・ロフティングの「ドリトル先生航海記」の中に出てくる、ひょっこりひょうたん島のモデルになった漂流する島の火山。

映画を見、魅せられて本でも読んだ、ジュールベルヌの「地底旅行」に出てくる地底火山とコナンドイルの「失われた世界」に出てくる火山台地。

これらの火山がぼくの脳裏に焼き付き、自分もあのような所に実際に行って冒険をしてみたいという願望を強めた。

「赤い火を吹くあの山へ登ろう、登ろう そこは地獄の釜の中 のぞこう、のぞこう・・・」という超冒険的な歌詞のフニクリフニクラはもちろんぼくの大好きな曲だ。

 

さて、三日目に登った八丈富士の登山コースは7.6キロで、途中ガクアジサイ、アシタバそれにアロエの群生が見られる。アロエは切り取って葉実を少しなめてみるのもいい。

少し登るとピーナッツ状の八丈島のくぼみ部分にあたる町の中心地が見渡せる。

 

5合目あたりで休んでいるとYS11機が爆音をたてて八丈島空港に着陸した。

さらに登ると8合目くらいまで舗装された道が続き、その高さで山を一周する。

あいにくぼくらが行ったときには一ヵ所工事中で通行止めだった。

この8合目から先は急傾斜を歩いて登る。登り切ると八丈富士の火口の淵に出る。

風が強い。雲に包まれていなければ火口を見ることができる。

煙は出ていないし、硫黄も匂わない。草木が茂り火口内はジャングルのようだ。

雨のせいで小さな池がぽつりぽつりとできている。

強い風がしきりにぼくの帽子をさらおうとする。

前日は一日中小さな雲でおおわれていたこの火口部もぼくらが登頂した日にはずっと青空の下にあった。

ぼくはこの火口でテントを張って一夜を過ごせればなんとスリルがあり幸せなことだろうと思った。

自分の立っている所はしかし頂上ではない。ここで引き返すのはもったいない。

火口に入って行く道もある。とにかく頂上に早く行きたいのであれば、ここから時計周りに淵に沿って溶岩の亀裂に落ち込まないよう注意して歩くと5・6分で頂上の立て札にたどり着ける。

しかしそこで写真を取って引き返すのももったいない。自分たちが目にしている火口は主穴である。

もっとお鉢の淵(輪山)に沿って進むと、火山爆発の後期にできた小穴がありこの方がすばらしい景観を有している。それを見るためには、主穴に設けられた浅間神社に行ってのぞくか、お鉢を巡って反対側に行かなければならない。

とにかく風が強いので体のバランスを崩さないよう注意せねばならない。ツバメどもがこの強風を楽しむかのようにしきりにビュッ・ビュッと音をたてて火口の淵を直角に切って飛んでいる。

 

道から逸れて淵に登って中をのぞくと小穴があった。小穴といっても神宮球場より大きい。そしてアルプス席の最上段からグランドを覗くよりもはるかに迫力がある。深さは100メートルくらいはあるのではなかろうか。

底は潅木の群で覆われている。まさに映画「失われた世界」の情景の一つを彷彿とさせる壮大なパノラマが目の前に展開されているのだ。

 

不思議なことにぼくらが登って立っているところは小さな岩陰になっているだけだのにほとんど微風だけの状態であることに気づいた。そこでぼくらはこの岩陰で昼食をすることにした。

ビニールシートを敷き、そこに腰掛け、プリムスコンロに火をつけインスタントラーメンを料理して食べた。

I君はインスタントライスを湯でほぐした。

右手のすぐ足元には雄大な火口が古代の円形スタジアムの廃墟のごとく緑に覆われて横たわっている。

そして左手の足元には急な斜面の山肌が草原の衣を羽織ってその溶岩の正体を隠したまま海岸まで落ちていっている。

今までに好展望を自慢とするいろんなレストランで食事をしたが、こんなすばらしい展望を披露してくれる食席はいまだかって知らない。

食後の昼寝をしようとしたが、地肌がごつごつしていたのでやめた。

 

お鉢を一周して、主穴火口におりて行き、浅間神社に行って再び小穴を覗いた。

次に20分くらい歩いて火口丘に達し、乾いた小池の中でビニールシートを敷いて1時間近く昼寝をした。

八丈島は東京都の町である。もしこの休火山が同じ東京でも八王子あたりにあったのなら、ゴールデンウイークにはお鉢を巡るにも人の行列ができ、火口でのんびり昼寝などしていると踏みつけれられていたであろう。

しかしこんど八丈島に来るときは是非テントを持参しこの火口で一泊してみよう、そのようなことを思っていると横でI君がいびきをかき始めた。

 

八丈島を訪れたらぜひ行ってみたいのが、旧町役場を改造してできた八丈島歴史民族資料館だ。ぼくらは最終日の4日目の朝、飛行場に行く前にここを訪れた。

八丈島のいたるところで見かけた日本人ばなれをした鼻筋のすっきりした八丈島美人がここの受け付けにもいた。

ぼくはカメラにフィルムを入れていないのに気づきそこでフィルムは売っているかと彼女にたずねると、近くの店を教えてくれた。

しかしそれと同時に彼女は

「D室では写真は撮ってはいけませんよ」

とおどしともとれそうな妙に甘ったるいアクセントのついた言い回しで注意した。

ぼくは写真撮影禁止場所でもだれも見ていなければたいてい盗みどりをするのだが、ここではやめておこうと思った。

それほど彼女の言い回しには人をひるませるものがあった。

 

パンフレットに載っているそのD室の説明をここにコピーしよう。

 

 

『「絵で見る八丈島流刑史展」D室

 

流人といえば八丈島を連想するほど、八丈島は流人と縁が深い。

 

八丈島へ最初に流人が送られたのは慶長11年(1606)で、その第1号が宇喜多秀家主従13名であった。

その後、明治4年(1871)に至る265年の間に、約1900名の流罪人が八丈島に送られた。

島の土となった人、許されて内地にもどった人、脱出に失敗して死罪となった人、そして飢えで命を落とした人など、多彩な絵模様がくりひろげられたのでした。

ここにそれらの中からいくつかを絵にして『絵で見る八丈流刑史』を展示いたしました。』

 

これだけ読んだ読者は、なぜこれらの絵は写真撮影が禁止されているのだろうと首を傾げるであろう。

これらの絵には著作権があるので、それを写真などに撮って他の公の場所で公開されること、すなわち著作権の侵害を受けることを嫌って写真撮影を禁止したのだろうと考える人もあろう。

しかし写真撮影禁止の真の理由は、そしてこの資料館の受付の八丈島美人がなぜあのような顔に似合わない人をひるませる甘ったるいアクセントを身につけたのか、それはこのD室に実際に入った人でないと理解できないであろう。

ぼくは今でもあの陰欝なD室の中でもさらに人目につかないよう隅の目立たない所に貼られた幾枚かの絵を克明に思い描くことができる。

そしてそうするときなぜかあの受付け嬢の妙に甘ったるい

「D室では写真は撮っては・・・」

が聞こえてきて、ぼくはあわてて首を振って他のことを考えようとする。

 

八丈島の酒では「島の華」が一番おいしいよと民宿のお婆が言って、夕食時に出してくれた。(あとでこれはすべてサービスとわかる。)これは正真正銘の本格焼酎だ。

ぼくは宮崎大学時代に本格焼酎乙類をこよなく愛したが、こんな島で本格焼酎が造られているとは思わなかったのでうれしい驚きであった。

実はこれは南九州出身の流人が島民に造り方を教えたのでここでも造られるようになったのだ。

ぼくらが泊まった岡本荘は客は少なかった。主人を数年前に亡くしたお婆が、ひとりで客の世話をするのはとても大変だからと客数を制限しているからだ。

おかげでぼくらは襖を開けたまま隣の広い部屋も使うことができた。他の民宿はみな満杯だということだった。

高校生らしい孫娘が横浜から手伝いにきていた。女性二人というコンビが3組ほどぼくらと同宿した。

10時間船に乗って八丈島に来て一泊だけしてまた10時間の船旅で帰っていくというコンビもいた。

 

I君は旅に出るたびにいろんなことを覚えている。

2年前瀬戸内海の小島を走った時、走りながらギア比を変える練習をさせたが、どうもうまくできないと言う。

やがて彼は自分でその理由に気づいた。彼は変段レバーを操作すればペダルを回転させないでもギアチェンジができるものと思い込んでいたのだった。

車から自転車に転向した場合このようなまちがいが起きる。

が、今回八丈島で彼が発見したまちがいは彼がギア比の理論を正しく理解してなかったことによる。

急な登りでも彼が重いギア比でペダルをこぐので、軽いほうにしたらと何度か注意したが、フロントギアはいつも最大径のものを使っていた。

実は彼は前も後も最大径のギアを使うとき一番ペダルが軽くなると今まで思い込んでいたのだった。

灯台下暗し、というが、さすがの東工大の秀才も足元の物理学には暗かった。

 

八丈島では溶岩を材料とした石畳や、石碑、ガードをたくさん見た。

また玉石垣もこの島の特長で、かつて流人たちがおにぎりをもらうために重い石を海辺から持って上がったのだ。

石一個におにぎり一つが相場だった。そういえば八条富士の火口内の浅間神社でもいくつかの玉石を見た。

海からここまで運んできたのだ。これは難病を治してもらうための苦行であった。

この島では美しい玉石垣は富の象徴で、富者たちはその石数を競い合ったであろう。

 

防衛道路をのんびり走っていると見過ごしてしまいそうな小さな標識に「人捨て穴」と書かれてある。

そこから歩いて7・8分くらいの所に人捨て穴はあった。

文字通り人捨ての穴だった。五十才を過ぎたとりえのない老人は食い口を減らすためにゴミのようにこの穴に捨てられた。

今そこには供え物が置かれ霊を慰めている。

ぼくもあと九年で五十になる。もうのんびりしてはいられまい。

見渡すと現代の人捨て穴はここかしこに散在しているようだ。

東京駅の地下街は特に目につく。

そして現代人の特徴は自分で自分を人捨て穴に捨てに行くことだ。

象が死期を悟ると自ら墓場に赴くように、人間にとっても自発的人捨ての習癖は本能の中に組み込まれているらしい。

だれでもその傾向を持っているのだ。だから恐ろしいのは、地下道を歩いていてふと自分もあそこで少し腰を下ろして休んでゆこうかと感じる心のゆるみだ。

たまにネクタイをしたまま横たわっている人を見つけると身につまされる。

 

さて去年のゴールデン連休の瀬戸内・南九州サイクリングは4人参加だったが、今回の連休のサイクリング部の旅は参加者2人という淋しいものであった。

しかしお座敷君は大学時代の友達と四国の石鎚山などを走り、

T君は4月下旬にひとりでニュージーランドを走ったし、

H君は中国大陸を回遊して来た。

その他の部員もそれなりのサイクリングを楽しんでいるようなので、みな体力は衰えていない。したがってまた一緒に走れることもあろう。

ぼくはひたすら江戸川ランを繰り返していますから、いつでも若い人とツアーに出れる自信はあります。

ただ、最近、歳のせいか旅行記を書くのがとても億劫になってきていて、今回はもう書かないつもりでいましたが、C先輩に何度もせかされて、八丈島旅行よりひと月以上もたってやっと回覧することができるようになりました。

ではまた一緒に走る日まで          K.N.

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