第3回・道南(1991/08)
記録者:K.N.
同行者
K部長と走るのは初めてだった。
彼はNIFTY-Serve において「ジャック・アマノ」というhandle(ニックネーム)で通信しているので、以降「ジャック」と呼ばせてもらおう。
ジャックはよく走った。
少年時代よりサッカーやラグビーで鍛えた足は今もペダルの上から大地に力強いキックの雨を降らせる。
彼にとって今回の旅行は最初の北海道サイクリングツアーであり最初のキャンピングツアーでもあった。
二つのご馳走を同時にほおばった彼は、自らが言うようにこれらにやみつきになってしまうことだろう。
これらは互いをさらにおいしくする相乗効果のあるご馳走なのだ。
なぜなら、日本で北海道ほど自転車でのキャンピングツアーの醍醐味を満喫させてくれるくれる土地はないし、冬を除くと自転車でのキャンピングツアーほど北海道旅行を豪華にしてくれる旅の方法はない。
ぼくらの走行力はほぼ互角だった。
ジャックと抜きつ抜かれつしながら走っているといつしかぼくらは一体になる。ぼくらはもう二人の別個のサイクリストではなく、まるでのっしのっしと大股で歩む目に見えない巨人の両足となったかのように互いに前後しながら確実に前進する。こうしてジャックと越えた峠はどれもひとりでなら到底考えられないような気軽さでクリアすることができた。
しかしぼくらは二人だけではない。
二人きりで走ったのは全行程の四分の一足らずだ。
第三の男はロードレーサーで参加の同僚のT君だ。
彼はさまざまの理由でぼくらと別行動をとることが多かった。
彼は春にニュージーランドをひとりで走った独身貴族ラナーで、今回の北海道旅行を強く望んだのも彼だった。
彼とは3年前の夏にも一緒に北海道を走り、それ以来彼も北海道マニアになった。あの時の彼はまったくの初心者だったが、羅臼から知床峠を一気に登り切ってぼくを驚かせた剛脚の持ち主だ。
しかしそんな彼も今回の道南の山岳中心のツアーにおいてはギア比のハンディもあってか、マウンテンバイク系のぼくらに比べ自転車を押して登る姿が目立った。
彼はほとんどの荷物を詰め込んだザックを肩に掛けて走ったので、常に重荷を背負っての苦難の旅路となった。長距離のツアーの時は荷物はできるだけ自転車に直接装着したほうが賢明だ。
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出発
8月9日、ぼくがすべての準備が整ったと思ってやっと寝床に着いたのはもう2時近かった。子供の頃からそうだが、こんな時には期待に胸を膨らませ、地図等を見ながらあれやこれや考えているうちに時間があっという間に過ぎてしまうのだ。
これから行こうとする旅を空想しながら計画や準備をする時の喜びは、その旅行を遂行している時に身体でじかに味わう喜びに勝るとも劣らないものだし、その後に続く記憶の糸をたぐりながらの黄金の回想の喜びにも匹敵しかねないほどのものだ。
しかしいつまでも空想の喜びに浸っていてはならない。
旅の準備が不完全になるのはたいていこの空想のために気もそぞろになるからだ。
チェックリストを見てはその中に書かれた用具の一つ一つからまた空想がわきたち、時計を見てはあすのこの時間には洞爺湖の畔でテントの中から星をながめているだろう自分を空想し、時間の過ぎるのも、チェックリストで用具を確認するのも忘れてしまう。
こうしてぼくはシュラフを忘れ、T君はテントを張るためのポールを忘れ、さすがのジャックも盛岡から函館までの特急券をL特急券として買うべきことを忘れてしまった。
ぼくは2時少し前にやっと眠りについた。4時半に起床の予定だからもう2時間余りしか眠れない。この2時間余りの睡眠の後は当分のあいだ布団の上で眠れないのだ。
朝には上野を7時少し前に出るひかりに乗らねばならない。(航空券がとれなかったので初めて鉄道で北海道に行くことになった。)ぼくは新三郷からだから当然大宮から東北新幹線に乗るのが賢明であるが、上野で満員になった場合に大宮から自転車を持って乗り込めない事態が危惧された。
したがって念のために始発駅の上野にまで行くことにしていた。
結局は思いのほかすいていたので大宮から乗ったとしても難なく乗れ、席に座ることもできるくらいだった。
ジャックは足立の自宅から自転車で上野駅まで直行した。それがいつもの彼のやり方だ。道がすいていたので30分くらいで到着できたそうで、予想より早く着き過ぎてしまい時間をもてあましたという。
ぼくはいつも禁煙車両に乗るので後寄りの自由席車両に入り、ジャックは中寄りの喫煙自由席車両に席をとった。
後者はがら空きだったのでしばらくしてぼくはジャックの所に移りそこで彼と雑談をして過ごした。
話題はこのひかりで上野を早朝出発することを計画した張本人のT君が姿を見せなかったことだ。
ジャック「彼、来なかったね」
ぼく「ええ」
ジャック「どうしたんだろう?」
ぼく「まだ寝てるんでしょう」
ジャック「どうするつもりだろう」
ぼく「彼は浦和ですから、大宮から乗ってくるでしょう」
ジャック「朝食は食べた?」
ぼく「いえ」
ジャック「おれもだ。腹へったね」
ぼく「ええ、弁当でも買って食べましょうか」
ジャック「その弁当いくら?」
通行人「千円です」
ぼく「高いですね、朝食としては」
ジャック「うん、幕の内か。ほかはないの」
通行人「これだけなんです、すいません」
ジャック「じゃあそれでいいや」
ぼく「二つ下さい」
ジャック「おや、大宮に着いたね」
ぼく「着きましたね」
ジャック「T君いないね」
ぼく「いませんね」
ジャック「どうしたんだろう」
ぼく「まだ寝てるんでしょう」
ジャック「どうするんだろう」
ぼく「まあ、先は長いですからどこかで追いついてくるでしょう」
ジャック「そうだね」
ぼく「少し前にお座敷君と走ったそうですね」
ジャック「走った。ダート道をたいへんだった」
ぼく「彼はダートが好きなんですよ」
ジャック「登りではずいぶん差をつけられたよ」
ぼく「そうですか、まだ彼の足は健在でしたか。確か今一人で東北を走っている最中ですよ」
ジャック「うんそうだ、NIFTY-Serve でそんなことを知らせていたな」
ぼくは弁当を食べ終わると浅い眠りに落ちていった。その浅い眠りの中で、今度の旅の漠然とした計画を練り始めていた。それはT君が結局参加しないことになった場合を想定したものだ。しかしすぐに深い眠りに落ちていった。
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レンパン島
「アナグマ先生南洋従軍記」。
ぼくは今この旅行記の作成と並行して前記の本を読んでいる。
従って、その影響を受ける状態にある。その本は北海道旅行後ジャックからプレゼントされたもので、アナグマ先生とはジャックの今は亡きご尊父のことである。
彼は高校で生物の先生をしていた頃生徒から「アナグマ先生」というあだ名で慕われた。
この従軍記の正題は、「生物教師K弘見の戦史 マレー半島の5年間」というもので、最後の部分には戦地で詠まれた数々の短歌が収録されている。
この書はだれの目にも触れることなく書き進められ秘蔵されていたものだが、著者の通夜の式のあと原稿が発見された。
四百字詰め原稿用紙で400枚近くあったという。
今回の北海道旅行の折々で、ジャックのとった個性的行為のいくつかはその原型をアナグマ先生従軍記に見つけることができる。
まず今回のぼくらの旅の計画を出発のほんの数日前に聞かされたにもかかわらず、間一髪入れずに参加の意を表明した決断の速さがある。
またジャックは植物や動物に詳しく、歩きながら通り過ぎるすべての草木と動物に興味を示した。
彼にとって自分がその名を知らない動植物に遭遇しそのまま正体を見極めることなく通り過ぎることは、ちょうど数学者が解けない問題をそのままにして次の問題に移るのと同じくらい強く後ろ髪を引かれる思いがするのであろう。
アナグマ先生は日本を遠く離れたマレーシアの熱帯雨林の中にあっても知らない動植物がほとんどないくらいの博識者だった。
今から思えば、北海道にしかいないというエゾゼミの発見とその観察、路上でひかれて多く死んでいた小動物はネズミでなくモグラの子供だとの主張
(あとで北海道にはモグラはいないということがわかった)、
珍しいものは何でも食ってみる食道楽ぶり、さらには禁断症状を伴うようになってしまった愛煙ぶり、そして余市から長万部までの輪行時にディーゼルカーの窓際で外の景色をくいいるように眺めるジャックの姿、
これらは従軍記のアナグマ先生を彷彿とさせる。
(注:輪行とは自転車を分解して袋に詰め電車等に乗ること)。
しかしぼくが少々心配なのは、おそらくアナグマ先生をも越えているのではなかろうかと思われるほどのジャックの驚くべき酒豪ぶりだ。
アナグマ先生はたしかに痛快に酒を飲んだ。
しかしそれはあすの命も知れない戦地でのことだ。
自分が今置かれている究極の境遇を夜な夜な忘れてしまいたいと欲する人のとった行為をそのまま自分の規範にするのは危険ではないか。
さて盛岡までの車中でジャックは先年行ったマレーシアのレンパン島の話をしてくれた。
この島は終戦時に日本兵捕虜が収容された所で、アナグマ先生もここで俘虜生活をした。
従軍記によると「赤道直下のサンゴ礁の島で、食うものは何もない」らしく、「雨が降ると有機質はみな洗い流されて、珊瑚砂だけが残るような土地で」、「第一次大戦の時にドイツ軍の捕虜が収容されて、みんな死んじまった」という所であった。
アナグマ先生従軍記の終章はこの島を舞台にしていた。
日本へ帰れるのはいつのことかとの希望も虚しくここで病気等で亡くなった人たちもいた。
去年、政府機関の主宰でレンパン島帰還者及び関係者によるレンパン島ツアーが組まれ、ジャックは新聞でそのツアーの募集記事を見つけるやいなや会社に休暇届けを出し、ご尊父の足跡をたどるためこのツアーに参加したのであった。
ジャックはアナグマ先生の従軍記とその他の記録を頼りにレンパン島でアナグマ先生が活動したらしい所を巡った。
するとある遺族が彼と同行した。彼とほぼ同年輩の男性とその妻と娘二人から成る家族だった。
その男性の父がアナグマ先生と同じ班に属していたらしかった。
彼らはボートに乗って川を上り、ボートがもう進めないくらいの所まで来ると、潅木を切り倒しながらジャングルの中を歩いて進んでいった。
そしてその男性は自分の父が亡くなったらしいと思われる場所を見極めると、家族に手伝わせてそこに墓碑を立てた。ジャックも手伝った。
そしてみんなで冥福を祈った。
ジャックはここで深く感激してもらい泣きした。
なぜジャック・アマノがこの時人前で涙したか、彼を知る読者に理解してもらうためにはそこまで来る間にこの男性がジャックに話したこれまでの経緯を語らねばなるまい。
この男性を仮に吉田達夫と呼んでおこう。達夫は吉田家の長男である。
母は約1年前に老衰で死去し、父はもっと以前に亡くなっていた。彼の母はいよいよ自分の最期が近づいたことを悟ったとき、達夫だけを枕元に呼び寄せ、それまでだれにも言わなかった彼の出生の秘密を打ち明けた。
「達夫よ、あんたに今まで隠しとったことがあるんじゃが。実はの、お父さんはあんたの本当のお父さんじゃあないんよ。あんたの本当のお父さんはあんたがまだこんまい頃にマレーシアのレンパン島ゆう所で病気で亡くなりんさったんじゃ。
この封筒にあのお方の死亡を通知する書類と遺品が入っとるよ。加藤義郎(仮称)というのがあの人の名前じゃった。写真はここにはないが、久留米(仮)に弟さん、あんたには伯父さんになる人がいなさるからそこに行ったら見せてくれるはずじゃ。
お母さんはあんたの本当のお父さんと出征の三日前に結婚したんじゃ。
でもその出征がお別れになった。二度と会えなんだ。手紙や葉書がたくさん届いとったが、それらもみな弟さんに預けてあるけ、訪ねていってもらいなさい。
いくつかはあんたが生まれたことを知って喜んで書いたもんで、あんたの名前を達夫と名づけたことも手紙のどれかにちゃんと書いてある。
戦争が終ると、あんたのお父さんはたくさんの人と一緒にレンパン島に移されて捕虜生活をしたゆうんじゃ。私(わし)は毎日少しずつ大きくなるあんたを見ながら、お父さんが帰ってくるのを首を長ごうして待っとった。あの頃は高かったけど写真機を買ってあんたの写真を撮って、何回かレンパン島のお父さんに送ってやっとったんじゃ。
ところがあんたが最初の誕生日を迎える数日前に、突然、お父さんが病死しましたゆう通知がきたんじゃ。あとで訪ねて来た戦友だったという人の話じゃあ、捕虜になった時に炎天下を数日間むりやり行進させられ、体が衰弱してしもうて、レンパン島じゃあほとんど横になったままの状態で、日本に帰れるという望みだけで命をつないどったそうな。
だからお母さんが送ったあんたの写真を一日中ながめよったそうじゃ。しかし栄養不足と熱帯の暑さのせいで身体は回復するよりも悪くなるいっぽうで、とうとう最期の数日間は写真を持つ力もなくなり、戦友が目元に持っていってやらにゃあならなかったそうじゃ。
写真見て笑いながら死んだんじゃそうな。
亡くなるときの私宛ての遺言は、あんたがまだ物心のつかないうちに、いい人がいたらすぐに再婚するようにということじゃった。いい人じゃったがのう。かわいそうにの。」
これを聞かされた吉田達夫氏は、この一年間、本当の父親のことをもっとよく知るために奔走した。そしてついにレンパン島に家族を連れて来て、母や自分の待つ日本に帰ることなく無念の死を遂げた実父の霊を慰めるために、ジャングルの中に自らの手で墓標を建てた。その姿に心を打たれない人があろうか。ジャックも手を合わせた。
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洞爺湖
盛岡でぼくらは東北新幹線から在来線に乗り換えた。
ここで多少時間があったので、ぼくは磯部のT家へ電話した。
あらかじめT君と打ち合せがあり、誰かがはぐれたときにはT家の電話を相互連絡のために利用することになっていた。
お母さんが出られ、その説明によると、T君から電話連絡が入っており、彼は案の定寝過ごしたということであった。
しかし彼にとって好運なことに、千歳行きの航空券を確保することができたのだ。
これにより彼は、ぼくらより一足先に北海道入りすることになり、洞爺駅でぼくらを迎えることとなる。
ぼくらは東北新幹線のターミナル盛岡までは座ってゆけたが、そこから乗った函館行きの特急列車と、さらに乗り換えて洞爺まで乗った特急列車はいずれも満員で、後者は辛うじて自転車を持ち込めるほどの込みようで、結局盛岡から洞爺まで立ちっぱなしを強いられた。
このことをあとで知ったT君は心の中では「飛行機できて良かった」と喜んだろうが、それは同時に他人の不幸をも喜ぶことにもなるので、複雑な顔を造っていた。
自転車を組み立てたのち記念撮影をし、駅のスーパーマーケットで食料品を買い、出発した。
最初の野営地洞爺湖では、キャンプ場の端っこの小さな岬のつけねとなったわずかな幅の砂地にテントを張った。
湖は水の満ち引きがないので、朝起きたら水に浸かっていたということもあるまい。
ぼくは自分の自転車を岬の薮の中に置いたので、自転車は2台しか見えない状態だった。他の二人が水くみ等に出かけていないあいだに、キャンプ場の人がキャンプ場使用代の集金に来たので、二人だと言って、800円だけ払った。
こういうこすいことをするのは良くないことだが、なにしろぼくらはキャンピングカーで来る人たちに比べ、場所はとらないし、大した料理をするわけでもなくゴミもあまり出さないし、水道の使用もわずかだ。それなのに彼らと一緒の代金とは不公平である。
近くの公営温泉に行った。入ろうとするともうあと30分しかありませんよ、と番台の男性が心配げに言った。30分あれば十分だった。このへんの人はずいぶん時間をかけないと風呂に入った気がしないのだろうか。
そうだ北海道は、とくに冬は冷凍庫の中にいるようなものなのだ。だから風呂では最初の10分で解凍し、次の10分で温まり、最後の10分でようやくうまいぐあいにゆであがるわけだ。
洞爺湖の夜は冷えた。湖の向こう側からしきりに花火が打ち上げられる。隣にテントを張った中国語を話す若い連中は、寒くないのか浅瀬に入ってゆき長らく何かをすくっていた。
ぼくらはまずビールで乾杯したあと、夕食としてインスタントラーメンを作りハムやベーコンを炒めて食べた。やがてジャックのアルコール度の高いバーボンウイスキーがふるまわれ、ぼくらはすっかりいい気持ちになった。
食事が終わると水際に席を移し、湖面を見ながらウイスキーをちびちびやる。星のよく見える夜空に花火の残煙か、昭和新山や有珠山から吐き出された煙か、薄い雲状のものが低く漂っていた。湖面には霧が広がり始めていた。
歌人ならここらで歌の一つも詠んでみたくなるところだろう。とつぜん隣でシャーという油炒めの音がしてき、すぐにいい匂いがたちこめた。振り返って見ると、くだんの中国人たちが浅瀬で捕ったばかりのものをフライパンで炒め始めたのだ。
ぼくはなぜかおかしくなってきて「ハハハ」と笑った。すると彼らも「ハハハ」と笑い、ふたことみこと何か言ったがその言葉のなかに「川エビ」というのが聞き取れた。
ではアナグマ先生にならっておくればせながらぼくも今ひとつ歌を作ってみよう。
音立ててフライパンを跳ねる川エビやうまそ ひとつこっちへも跳ねてこい
だめだ!
ぼくはここで初めてシュラフを忘れていることに気づいたが、あわてなかった。シュラフカバーがあったし、長期の旅の時に必ず持参する愛用のダウンジャケットもあった。
これらの組合せはシュラフと同様の断熱効果があった。問題はT君のほうだった。テントポールを忘れてしまっていたのでテントを張ることはできそうになかった。
それで、ジャックのテントの入り口のポールを借りることになった。それでも彼のテントはほぼペチャンコの状態で大型の寝袋といったところだった。狭所恐怖症の彼にとってはつらい旅になりそうだ。
翌朝、ぼくらは早く起き、紅茶を作り簡単な朝食を用意して食べた。
出発する前の点検でT君の自転車の前輪のスポークが2・3本はずれているのが発見された。
くっつけることが不可能とわかったのでぼくはそれらを取り除いてやった。
走るとやはりタイヤが揺れる。
こんな状態では下り坂を猛スピードで下りるのは怖い。
彼のロードレーサーもいよいよ引退の時が来たようだ。
水筒を水で充たすと、まだ寝ている人たちのテントの間を縫って進みキャンプ場をあとにした。
朝のランは静かで気持ちいい。
聞こえるのは早起き鳥や虫の声だけだ。そのまま洞爺湖を反時計回りに一周。約1時間くらいかかったろうか。途中、煙を昇らせる有珠山と昭和新山が右手に見える。ぼくは軽い朝食だけで出発したので、途中で腹が減り、スピードが落ちてきた。
T君とジャックはどんどん先に進む。
平地を走るときはたいていこの順だった。
タイヤの路面抵抗の小さい順に順位が決まる。
逆に坂道を上るときは、ギヤを最も軽くできるぼくが彼らを追い抜くことが多かった。
そしてジャックは速度計を見つつ自分で決めたペースを守りいつもゆとりを残しておくような走りをしていた。
さて空腹のために足に力の入らなくなってきていたぼくは、無人のくだもの直売所で自転車を止め、プラムが6つ入ったパックを買って全部しゃぶった。
ふつう北海道の果物屋はサイクリストと見ると激励してくれ多めに包んでくれ、おまけにほかの物までも入れてくれるが、無人の直売所は至極公平だ。
6個のプラムがあっといまに平らげられ、ぼくは元気を回復した。
次の直売所でジャックとT君がやはりプラムを食べていた。ぼくにも残しておいてくれたが、プラムはもういらないのだった。
ぼくは桃を一パック買ってまた平らげた。湖を一周して元の所に戻る頃にはまた腹が減ってきたので食堂に入ってちゃんとした朝食をとった。また、オロフレ峠越えに備えて携帯食糧も仕入れた。
登別温泉
洞爺湖を後にしオロフレ峠を越えて登別温泉に向かう。
今回の行程のうちぼくにとってはこの峠が一番きつかった。
途中ヒツジのいる所で休憩。昼寝をする。
早朝に出発した場合には昼寝は必要だ。
三人は3!通りの順列を駆使しながらついにオロフレ峠にたどり着いた。
峠からしばらくの寄り道をするなら展望のより素晴らしい所に出れるらしいが、ぼくらはもう寄り道をする体力的余裕はなかった。
特に峠の場合、地図の上でなら、ここに着いたらこの横道に入ってこの滝を見に行ってみようじゃないかなどと余裕のある計画を立てることが多いが、実際に自転車をこいでその峠に着いた時には、そこにたどり着くのがもうせいいっぱいで、あとは下り道にしかハンドルを向けたくなくなる。
オロフレ峠は標高のせいで涼しく、ここからの下りでさらに空冷されるので、ぼくはダウンのジャケットを着、長ズボンのレインウエアをはいた。
スピードにのって下っていると、レッヅの赤ヘルが風を受けて何度か飛びそうになる。
途中、カルルス温泉で一休みした。ここは湯質が、ゲーテ、ベートーヴェン、マルクスなどが療養したチェコスロバキアのカルロビバリ温泉と似ているということでこういう名が付けられた。
ちなみに次に訪れる登別温泉の名の由来は、アイヌ語の湯のいづる山「ヌプリペツ」からきている。
登別温泉に着くと、まず地獄谷見物をすることにした。
しかしぼくはもう体力を使い果していたので、景色の見渡せる適当な所に座ると、キャラメルとかをクチュクチュやりながらじっとして煙の上がる風景を眺めて、体力の回復してくるのを待った。
幸いあとでここを野営地とすることになったので、この場所の見物はその時ゆっくりできることになった。
可愛いキタキツネが現われて観光客の人気のまとになっていた。このモデルはまだ子供のようであった。ぼくも写真を一緒に撮ってもらった。
地獄谷の入り口で大きなクマの剥製を乗せた軽トラックが停まっていた。
見るとそのクマは首や手が周期的に一定の動作を繰り返しており、これらを組合せるとどうやら愛嬌よくおいでおいでをしているらしかった。
そこで近づいていってさわってみると、毛皮は本物だった。
すると車の陰からおじさんが現われ、パンフレットをくれ、今から行くとクマのショウが見られますよと誘った。
その軽トラックは近くのクマ牧場の宣伝カーだったのだ。クマのショウならおもしろいかもしれない。
しかしぼくらは腹が減っており、もうあまり動きたくなかった。
そこで、明朝見に行くことにすると言うと、彼はあすは雨になるらしいよ、と気になることを言った。
雨が降るとクマがなかなかゆうことを聞かなくなり、調教師をけがさせることがあるのでショウは中止になるかもしれないということだった。
あとでパンフレットを見ると、その中の写真にそのおじさんが写っていた。
翌朝クマ牧場に行きクマたちを見ていると、例のおじさんがホースの先をクマたちに向け水浴びをさせていた。
そして次に彼を見たのは、ひとだかりに誘われて見にいった若クマのショウでだ。
なんと彼は調教師だったのだ。クマ牧場ではたくさんのクマを見たが、一番印象に残ったのは、あのおじさんだ。
彼がショウでクマの歩き方を真似て揺れながら小走りに歩く滑稽な姿は当分忘れられまい。
クマのショウも彼のワンマンショウの一幕だったのだ。
さてぼくらはビールをおいしくするために、まず登別温泉の公衆温泉浴場に入った。古い趣のある浴場で、300円は安かった。
湯質は明礬と硫化水素の二種があった。しかし湯が熱くてのんびりつかっているわけにはいかなかった。
とくに明礬のほうはやけどしそうだった。床が木だったのでぼくはつるりと滑り、危なく頭を打つところだった。
もしこの地の呼び名を登別温泉でなく、昔ながらのヌプリペツ温泉のままにしておいてくれたなら、ぼくはもっと足元に気をつけていたろうに。
湯から出ると、有名なラーメン屋へ行き、ビールで乾杯した。ラーメンも食べた。しかし日が暮れる前に野営地を決めねばならないのでのんびりしていられない。ラーメン屋を出ると、自転車を押して歩きながら適当な所を探した。最終的にはくだんのクマおじさんからアドバイスのあった、地獄谷の中にある公園のような広場にテントを張った。ここは下が草地で心地よかった。
T君は前にも述べたように、テントは持ってきたがポールを忘れてしまっていた。彼のテントはぼくのと同じアルペンライトで組み立てるとイルカのような形になる。しかし折り畳み可能な一本のポールが必要で、これを馬蹄形に曲げて骨格とする。したがってこのポールを忘れたT君はりっぱなテントを張ることができなかった。木から落ちて地面に転がった蓑虫のように、彼は寝袋とつぶれたテントの中で眠らねばならなかった。洞爺湖では何事もなかった。しかしこのことで登別温泉の地獄谷に野営したときに不都合が生じた。ぼくらが食事をしていると、キタキツネが寄ってきたので、薩摩揚げとかイカの乾したのを細切れにして与えた。これが良くなかったものと思われる。ぼくらがテントに退いた後もこのキタキツネは去らず、もっと食物はないものかとぼくらの荷物を漁ったらしい。ぼくの靴は二足ともあらぬ所に持っていかれており(さすがに臭かったのか、たいして噛み裂かれてはいなかった)、食器セットを包む袋はひもが抜き取られ、布地はずたずたに裂かれていた。ジャックもいろんな物をいたずらされて使いものにならなくなっていた。しかしもっともかわいそうだったのは、くだんの蓑虫テントで寝たT君だ。暑いので、入り口は蚊よけのネットだけをちゃんとチャックしていたのだが、キタキツネは、食べ物でも入っていると思ったのだろうか、T君の顔に接近してきて、ネット越しになめてみようとするのだった。そこで異様な気配を感じたT君は、目を開くとキツネと目が合い、「コラッ」と叫ぶこと三・四度であった。
ところでぼくらがこの人里離れた場所で野営するにあたりひとつ恐れたことがある。それはクマだ。襲われた時、いつでも逃げられるようにぼくとジャックは自転車にチェインキーを掛けないでおいた。もしクマが出てきたとして最初に手をつけるのは最も食いつきやすいように横たわる蓑虫テントのT君であろうと思われた。そこでT君がキャー!と悲鳴を上げたらいつでもテントから飛び出し、自転車で坂を一目散に下って逃げ、その後地元の人に助けを求めT君を救いに戻ってくる、という段取りだった。それでT君が「コラッ」と叫ぶたびに、ぼくはクマかと思って飛び出そうとしたが、どうやらT君に叱られたのはくだんのキタキツネのようだったのでなあんだと思い、三度めからはもうあわてないようになり、そのうち眠ってしまった。
この災難に懲りてT君は細い竹を二本切りこれらをポール代わりにしてなんとか立体的にテントを張ることができるようになった。
翌朝、いつものように4時半くらいに目を覚ます。軽い雨がテントを打っている。外に出る気にはならない。しばらく思案したのちまた眠った。次に目が覚めたのは6時近かった。テントの中で横になったまま、クマ伯父さんにもらったパンフレットを見ていると、このあたりの地図があり、この地獄谷の奥に小沼湯という露天風呂のようなものがあるらしかった。ぼくらはそこへ朝風呂を得に行ってみることにした。途中、道脇の地肌から煙の上がっているところがあった。キュルルと啼くキタキツネもまたいた。目的地に来てみると地図の上では露天風呂のようだったものは熱過ぎる湯のあふれる浅い湯源池だった。とてもはいれそうにない。登別は温泉立地の町だから、羅臼の「熊の湯」のようなだれでも無料で入れる露天風呂は設けないのだろう。ジャックは今回の旅で、露天風呂に入ることを特に楽しみにしていたがお預けになった。
野営場所に戻り朝食の用意をしたり出発のための整理をしたが、それはくだんのキタキツネのいたずらの一つ一つを発見していくことになった。とにかく動かせるものはどれも動かしており、噛みちぎれるものはどれもちぎっているのである。可愛いものには注意せよということであろうか。気を許してはいけない。生卵が3つ余ったので温泉卵を作ることにして地獄谷へ降りて行き鍋に卵を入れ湯にしばらくつけておいた。しかし十分熱くならず、とろりとしたのができた。
幸いその朝はたまに小雨が降る程度で、クマ牧場で数時間過ごしたのちは雨も上がり、好都合だった。クマ牧場へはロープウェイのゴンドラを10分くらい乗って登って行く。クマ牧場の展望台からは神秘の湖、クッタラ湖のまん丸い姿が間近に見られるはずだったが、霧のため見えなかったのは残念だ。もし見えていたらあとで朝散歩で行った小湯沼のそばにあった大湯沼をクッタラ湖とまちがえることもなかったろう。
クマ牧場は一見の価値があった。クマの物凄さをまのあたりに見て、ぼくらは感動した。ぼくはよく山道を自転車で走るので、クマに出合ったときの方策を今までにいろいろ考えていた。まず一番いいのはクマが坂の上の方から現われたときだ。このときはすぐに向きを変え坂を下って逃げれば、いくら足の速いクマも追いついてはこれまい。次に、あいにく坂の下の方からクマが現われた場合だ。この時は道が十分広ければ、十分なスピードを上げてクマの横をすり抜けて坂を一目散に下って行くことにする。しかし道が狭ければ、ぼくは自転車を降り、静かに歩いて坂を上る。ここであわてて走ってはいけない。クマは子供の時から、親のしつけが悪いのか、すばやく動くものを見るとつい追いかけて殴ってみたがる悪い性質を持っているものだ。クマに出合ったら死んだふりをするといいというのはこのためだ。だから自転車に乗って登り坂をこいで行くとクマに追われ追いつかれる危険性が大きい。そこでぼくは静かに歩いて坂を上るわけだ。ここでクマにこちらが恐がって逃げているのだ、と思われてはいけない。「なあんだクマ公じゃないか、用はないや」というふうにつまらなさそうにして歩かねばならない。つまり、やあさんに出合った時にとるしらんふりの身のこなし方だ。ところがそれでもこちらに因縁をつけたがるクマだったら、仕方がない、どの動物にもできない人間だけが身につけた秘技を披露してやるといい。適当なサイズの石を拾って、頭を狙って勢いよく投げつけるのだ。あまり外してばかりいると、やっこさんも近づいてきて遠慮なくパンチを見舞おうとする。ここでこちらが斧を持っていればこれで対抗することも考えられる。落ち着いて眉間をねらって一発見舞ってやればしとめられよう。たくさんの荷物を搭載したマウンテンバイクでクマに体当たりするのはどうかという考えもある。スピードに乗っていれば打撃は大きいだろう。衝突のショックはクマの柔らかい体が吸収してくれるだろうからこちらは無傷ですむ。「サイクリスト マウンテンバイクで体当たり 人食いクマを倒す」という見出しが新聞に載れば一躍スターサイクリストだ。
しかし、ぼくはクマ牧場に来て、今まで考案していたクマ対策があまりにも楽天的過ぎたことを自覚した。ただ坂を下って逃げるというのだけは現実的で有効だろう。しかし石を投げるのはだめだ。クマ牧場のクマたちは小石状のクマフードをキャッチャーミットのようにでかい両手でうまく受けてしまう。あるいは口でもぱくっとうまくキャッチする。石だから歯が一二本折れるくらいのことだろう。次に、いくらこちらが斧を持って立ちむかっていってもクマが立ち上がると、到底斧は眉間に届かず、こちらはあの爪付きミットで一撃を受けるだけだ。また自転車での体当たりは小熊ならいいかもしれないが、親ならドッヂボールが飛んできた程度のものだろう。軽く受け止められて、このやろうとぶんなぐれてしまう。
クマ牧場では「ユーカラの里」というアイヌ村のレプリカがあり、アイヌの伝統を保存する古い建物が展示されており、その中には民芸品もあり、古くから伝わるクマ祭りの実演も披露された。アイヌの踊りは素朴だった。鳥の鳴声を真似て舌を震わせて「トゥルルルルル」と声を出すのが印象的だった。T君とはこのアイヌ村ではぐれてしまいまた別行動をとることになった。
ゴンドラで下りて行くと、T君が広場のベンチで何かを食べながら待っている姿が窓から見えた。ぼくはクマ牧場のゴンドラ駅で背に牙を剥く黄色の熊の絵とその上にやはり黄色で「熊出没注意」とかかれたデザインの黒いTシャツを買った。
クマ牧場をあとにして、食料を購入したのち登別温泉を出発し、クッタラ湖を目指した。クッタラ湖は神秘の湖という意味である。途中ひと登りすると眼下に壮大な凹地が現われ丸い大きな湯の池があった。地図を見てこれがクッタラ湖かと思った。しかしそれは朝散歩に行った小湯沼のそばにある大湯沼であった。神秘の湖が浮世の温泉町からそう簡単に到達できるはずがない。
曇り空の下で見た神秘の湖、クッタラ湖は哀愁を帯びていた。しかしぼくらは長らく感傷に耽っているには腹が減り過ぎていた。すぐにそうめんを作るために湯がわかされた。また、その湯でじゃがいもとネマガリ竹の子を煮た。これでは足りないと、残っていた酒のつまみを全部ピクニックシートの上にあけた。
この湖畔のキャンプ場で一泊することもおもしろかったが、まだ日没までかなり時間があり、ここには温泉はないようだったし、また食料品店がなかったので野営の場所としてはふさわしくなかった。ぼくは地図を見て、海岸沿いにある白老温泉まで行くことを提案し、二人の賛成を得た。
ぼくらはそうめんを食った。ほかほかのじゃがいもを食った。鮭を干したものも食った。その他諸々のものをたらふく食ったら満腹になって、クッタラ湖からの下りは爽快だった。キタキツネの多い道だった。
ぼくは余りにも心が浮き浮きしていたのであろう、
いつのまにかこの湖からの下りで
「クッタラホダラカホーイホイッ!」
という叫びとも歌ともつかないエールを何度も繰り返して張り上げていた。
適当に強弱をつけたのでアフリカの原住民の歌のような趣があった。
他の所で歌うならたわけた歌だが、この時、この下りの心地よさの喜びをこれほど端的に歌った歌はなかったろう。
クッタラホダラカホーイホイッ!
この歌ほどこの谷間によくこだまする歌を沿道のキタキツネやクマたちは聞いたことがなかったろう。
クッタラホダラカホーイホイッ!
こうして下り切った時にはぼくの声はしわがれていた。こんな大きな声を出して歌ったのは久しぶりだった。
歌といえば、ジャックも支笏湖畔で野営したときに歌った。
ぼくらはみな自分のテントに退き眠ろうとしていた。しかしジャックだけはいつものようにテントの中でまた酒を飲み始めていた。
彼はそのときラジオでNHKの放送をイヤフォンで聞いていたのだが、ある文部省唱歌が流れていた。上機嫌の彼はそれに合わせて歌ったのだ。しかしこれはあとでジャックから聞いてわかったことだ。テントの中で横になって寝ようとしていたぼくが聞いた歌声はどんなジャンルにも入りそうにないついぞ聞いたことのないものだった。
かろうじて歌という分類には入るだろう。なぜなら歌の定義は「節をつけて発声される言葉」であり、ジャックは確かに節をつけていたのだ。
さて、歌は一般にその言葉の発声法に基づいていろんなカテゴリーに分類される。
しかしジャックの発声法は特殊で決して文部省唱歌のそれであるとは信じられないものだった。
おそらく彼が言うように、イヤフォンを介して彼の耳に入るときにはだれもが知っている文部省唱歌の一つであったに違いない。また彼の耳が彼の脳に伝えた信号もその文部省唱歌が正しく信号変換されたものであったに違いない。
しかし、アルコール濃度の上昇しつつある血液が循環する彼の脳はアルコールの過度の dipole momentの影響を受けてノイズを発生していたので脳波が乱れ、その信号を正しく処理できなかったのかも知れない。
したがって彼の脳が彼の声帯機関に出した指令が多少歪められていた可能性が強い。
次に、彼の声帯機関自体がアルコールに漬かっていたため、麻酔を受けた状態になっており、筋肉が引きつったり弛緩して、正しく機能し得なかったのかもしれない。
いずれにしても彼の口から発声された節付きの言葉は、ぼくの耳に入るときには、文部省も一切の関与を否定するにちがいないものとなっていた。
白老温泉
登別市街に入ると海岸沿いにマリンパークというものがあり、立派なお城のような建物がいくつも連なっていた。
平成2年にできたばかりのもので外観はディズニーランドを凌ぐほどのものであった。
さらに進んで行くと沿道に毛がに屋があったのでそこに立ち寄り、の同僚K君から頼まれていた2匹の毛がにを買って航空便で送ってもらう手配をした。
明朝手頃なのをゆでて航空便で送ってくれるということだった。
生きたまま送る方式もあるが、一般の人はゆで方で失敗することが多いのでゆでたのを送るほうが良いということだった。
それに生きたまま送ると毛がにもいろんな排泄物を出すであろうから、せっかくのうまいみそが減るという意見もある。
さてぼくらは大昭和製紙の手前で、白老温泉保養センターの看板を見つけたのでここで左折した。
そこは北吉原という駅の近くで、白老駅はあと2駅ばかり先にあった。
このあたり一帯を白老臨界温泉というらしい。
保養センターに着くと5時からならもっと安くなるということで、あと30分くらいあったのでそれまで野営地を探すことにした。
しばらく走ったが適当な所がなく、ゲートボール場に入って、焚火などはしないのだがここでテントを張ってさしつかえないかとプレーをしていた初老の人たちに尋ねると、よいということで、さらにある婦人が、
「あのプレハブの休憩所でよければその中で泊まってもいいよ」と言ってくれた。
彼らは人を見たのだ。ぼくらは数日間のキャンピング及びサイクリングの荒旅で身なりがきれいというわけにはいかなかったが、話し方が礼儀正しくどことなく気品があり、特にジャックは人なつっこいのですぐに信用されたのだ。
こうして彼らは自分たちの大事な社交の場、プレハブ造りのゲートボール休憩所を快く開けてくれ、ぼくらはここで優雅な一夜を過ごすことになった。
それはぼくらにとって二重の幸運だった。なぜなら翌朝かなりの雨が降ったのだ。
さて荷物を休憩所の中に置いて身軽になると、ぼくらはくだんの温泉保養センターに行き、温泉に入った。
湯質はラジウムと珍しいクロレラだった(こうした詳細な記述ができるのはずっと前に書き上げられたジャックの旅行記のお陰である)。
ぼくは壁に書かれてあった風呂の入り方に従って、湯舟と水風呂を交互に入るのを繰り返した。
ここのセンターの主人があらかじめ二階の部屋で休んでいっていいよと言ってくれたので、湯から上がるとその部屋へ行ってくつろいだ。テレビをつけると甲子園の高校野球の試合をやっていた。
この保養センターは小さな店と一体になっており、湯客はここで買物をする。ぼくはビールやつまみを買いに階下のこの店に行った。二人からはそれぞれ希望のブランドのビールを頼まれていたが、そこに北海道限定販売の「CLASSIC 」をみつけたので迷わずこれを3缶買った。
3人とも一口飲んでうまいと言った。しかしこれは多くの場合、その日最初のビールを飲むときの口癖になっている場合が多い。ただぼくはうまいと思ったので、その後も北海道では「CLASSIC 」 を 愛飲した。
北海道限定販売のビールとしてはこの他に「白夜物語」というのもある。
同僚木山嬢から買ってくるように頼まれていたので、自転車での最後の訪問地、余市でこれらを一本ずつ買った。
しかし汽車などで揺れたので、東京に持ち帰って飲んであのうまさが残されていたかどうか不安である。
さて湯上がりのビールや焼酎ですっかりご機嫌になったぼくらは、ここで夕食も食べようということになり、T君が注文のため下りていったが残念ながら料理人がもう帰ってしまっていたので食事はできないということだった。
そこでぼくらはそこから自転車に再び乗り、海岸沿いの国道に出てしばらく走ったのち焼き肉屋に入った。
一通りのものを注文し、箸で肉をつつきながら愉快にそれまでの行程を振り返ってみた。食後、食糧等を補給するため隣のスーパーに入った。
ぼくらは楽しく買物をする。ジャックはバーボンを忘れずに買った。
サイクリングツアー中の買物はいつも楽しい。
そしてこのような愉快な気持ちになったときにぼくらは考える:
ぜいたくは言わない、社会的地位などももういらない、毎日暖かい布団で寝れなくともいい、雨露をしのげればそれでいい、日々のパンと温泉と適度の酒そして北海道の大自然があればもういい、このままいつまでもサイクリングツアーを続けることが許されるならなんと幸せだろう・・・と。
しかしそれは北海道の冬を知らないキリギリス人間の発想だ。
北海道の夏しか知らないぼくらは北海道の本当の自然を知らない。
夏の北海道は北海道が昼寝をしているときの姿だ。
本当に北海道が活動するとき、ぼくらのようなキリギリス人間はひとたまりもなく雪の中に葬られてしまうだろう。ぼくらは北海道のお客さんでしかありえないのだ。ぼくらはやはり東京のど真ん中で背広を着てネクタイをしめて活動するしかないのだ。
それでも北海道の黄金の回想はぼくらがいつも豊かな希望を持つことを許してくれるだろう。
ぼくらは意気揚々とゲートボール場に戻り、絨毯の上に並んで寝た。
未明に雨が降りだし、雨滴がトタンの屋根を打つ音で目が覚めた。
しかし何の心配もする必要がない。朝になればやんでくれるだろう。
ぼくは再び目を閉じる。そして考える。ぼくらがやがて年老いていよいよ自転車を離れゲートボール仲間となっていっしょにプレーするとき、ぼくらはいつもこのゲートボール場のことを思い出すだろう。
そして近くをツアーサイクリストが通るならボールを打つ手を少し休めて、宿の予定がないならここのプレハブの中に泊まっていかんかと声を掛けてみるだろう。
しかしカニ族がいなくなってしまったように、ツアーサイクリストもいずれはいなくなってしまうのだろうか。もしかしてぼくらはもう絶滅寸前の希有な人種になりつつあるのだろうか。
朝、雨はまだ降り続いていた。やみそうな様子はない。ぼくらはわずかの望みを持ちつつ朝食の用意をした。朝食が終わる頃には雨も上がるだろう。
ジャガイモを煮たがこれは煮えるまで時間がかかり燃料を食う。サイクリング中の料理は、穀類は米などの小粒のものを料理するほうが合理的だ。
今回2度料理したそうめん(あるいは冷麦)は成功だった。燃料はそんなに食わなかったし失敗することもまずない。これからも夏のツアーには一つのヴァリエーションとして愛食しよう。
苫小牧
その朝、今回初めて雨具で出発した。気温がそれほど低くなければ、ぼくは雨の中の走りがきらいでない。
とくに雨の中を走っているうちに雨が上がり、青空が顔を出す、この時の景色はどこを走っていても美しいものだ。
知床、宗谷岬、これらはぼくは雨の中を走っていて、やがて雨が上がるとともに到着した。雨上りの時空気は一番透明度が高くなっているに違いない。
景色が輝きを増して迫ってくる。雨に濡れながる走るのが平気かどうか、これがサイクリストとして大成するか否かの別れ道になろう。
もちろん雨にずぶ濡れになるのが好きだという人はおかしい。
ぼくが言うのは雨に濡れても自慢のくふうを凝らした雨具や防水仕掛けがしっかりしているので、へっちゃらだ、いくらでも降れ降れ、という雨をものともしない精神を持っているかどうかだ。
こうして雨の中を走り、駅などの目的地について雨具を脱ぐとき、ぼくは一種の達成感を味わう。
そして駅で、ここからは輪行しようかもっと雨の止むのをじっとして待っていようかと迷っていると、どこから来るのかこういうときでしか出会わない、まるで雨の時にこそ自転車は乗るものだと言わんばかりの完全装備のサイクリストが到着する。
一点のすきもない防水装備だ。彼らの特徴は、ぼくらならここから輪行するか雨足の弱まるのを待って出発するのだが、彼らはレインフードもそのままに一休みすると(多くの場合はたばこを一本うまそうに吸うと)、激しい雨の中に再び消えてゆく。
ぼくは折りを見計らって近づき声を掛ける。ぼくらは互いの労をねぎらう。
彼は雨具に相当の工夫を施すので、彼らの服装、それに荷物の防水の方法を見、またアドバイスを聞くのはいつも有益だ。
しかしいくら打ち解けあい仲良くなったからといって、そこから彼らといっしょに行くのはよしたほうがいい。彼らはたいていの場合、河童だ。
ぼくとジャックは苫小牧までレインランをした。T君はJRで輪行して一足先に苫小牧に着いた。そして彼は、ここで寝台特急北斗号の指定券を三枚確保したのだ。
こういったT君の才能には驚かされる。出発の朝、ひかり号に乗り遅れても、迷わず羽田に向かい飛行機の座席を確保したことや、今回の寝台特急指定券の確保といいその機転の速さには敬服する。
これらの券はぼくらはもう全部売り切れていて、キャンセル待ちでもたくさんの人が待っているということだったので、完全にあきらめ、すでにそれらのことは脳裏から消散していた。
しかしT君はこれらの指定は直前になるとキャンセルが出始め、そのころにはキャンセル待ちの人たちもあきらめて待ち状態を解除するものであることを知っており、絶妙のタイミングを見計らってこれらを確保するのだ。
T君よ、君の才能はすばらしい。お陰でぼくらは、北斗のもとで夢を見ながら北海道を去ることができた。
北海道での疲れもすべて北斗の中でとれた。疲れを残さないで東京に帰ってくることができた。
そういう意味では、サイクリングツアーの帰りは寝台列車のほうが飛行機よりもいいかもしれない。
ぼくは北海道からの帰路は車中で毛がにを丹念に食べながら旅の余韻を隅々まで味わうのを楽しみにしている。黄金の回想の始まりだ。しかし飛行機の中では毛がにをカリカリと食べるのははばかれる。
北海道からの帰路はやはり寝台列車に限る。T君のお手柄は今回のぼくらの北海道旅行の成功にとってなくてはなならいフィニシングタッチであった。
支笏湖
苫小牧駅に着いたのは昼前だった。
雨はずっと降り続けている。しかし苫小牧で雨が止むのを待つのは苦痛だった。
ぼくはひとりでもいいから支笏湖に行こうと決心した。ぼくの一匹狼の本性がそう決断させた。地図にある支笏湖の温泉マークがぼくを引き付ける。サイクリストにとっては温泉はオアシスのようなものだ。
少々険しい道もその先に温泉があればサイクリストはかまわず進んで行く。ぼくは他の旅行記で、一日中働き続けるサイクリストの肉体にとって温泉は最高のお駄賃だと書いた。
良いサイクリストはだから自分の肉体を慰労するためにそれぞれの日程の最後に温泉地を選ぶ。
悪いサイクリストは歓楽地を選びさらに肉体を酷使し疲労させる。しかしたいてい温泉地と歓楽地は一体になっているので良いサイクリストと悪いサイクリストを見極めるのは難しい。一つのヒントは翌朝出発する時間である。
その朝の白老温泉でもそうであったが、ぼくらはたいてい朝の出発時間は7時前後だった。
ぼくはふつう4時半には目が覚め、テントのチャックを開いて空模様を見る。ジャックも5時にはテントから顔をのぞかせた。T君はほおっておけば9時くらいまで寝るのであるが、朝食の匂いにつられて6時には蓑虫テントから這い出してきた。
ぼくはサイクリングなどの自力で進む旅においてはスケジュールを時計座標よりも太陽座標に合わせて組み立てるべきだと考える。
したがって太陽とともに起き、太陽とともに沈むべきである。
夏の4時半の起床は決して異常ではないのだ。一日のうちで最も美しい瞬間を目撃することができるのも早起きサイクリストだ。
こうして日照時間をくまなく利用できるサイクリストは他のサイクリストよりも長いライドを楽しむことができ、牧神の午後には多くの動物と同じように優雅なシエスタを楽しみ、やがて一日の活動の後に黄金の夕陽を浴びて眠気をもよおす。
結局ぼくらは3人とも支笏湖に行くことになった。
現役のラグビー選手であるジャックは、雨だからよす、というのはラガーとしてのプライドが許さなかったのかもしれない。
T君もマラソンラナーだ。雨の中のほうが快走できるはずだ。幸い雨は小降りになってきていた。
支笏湖までの長いサイクリング道路は樽前国道に沿って延びており、かなり緩い勾配が続くだけで、思っていたより楽な行程だった。しばらく行くと雨も上がり、湖に近づくと晴れ間も見えてきた。
案の定、T君がトップで支笏湖に着いた。早過ぎて、行き過ぎたのでまたぼくらとはぐれてしまった。ぼくらが再会するまでにT君がとったという道筋はいささか謎めいている。
T君の説明で一応のことはわかったが、ぼくらの目的地だった、モーラップキャンプ場に彼が現われた方角は彼の説明する道筋とは反対である。ことの詳細はジャックの旅行記にゆずろう。
ぼくらはモーラップキャンプ場には温泉がなかったので、そこを去り、途中支笏湖温泉で買物をし、さらにモーラップの対岸の丸駒・伊藤温泉を目指した。伊藤温泉でやっと今回初の露天風呂につかることができた。
この風呂は湖と岩の堰を隔てて接しており、低い岩の堰を越えれば湖でひと泳ぎすることができる。
しかし注意書きがあり、
「危険が伴いますので泳がないでください」
とあった。湯につかりながら湖の向う側の風不死岳、樽前山、多峰古峰山などを眺めていると次第に雲が消散してゆき青空が接近してくるようだった。
ぼくらは、湖岸の幌美内キャンプ場で野営した。
ここではT君も細い竹を使ってなんとかテントを立体化できたので快適な睡眠をとることができたろう。
そのためか彼はこの夜のジャックのセレナーデを聞くことができなかった。
そのジャックはシュラフを前日の雨で湿らせてしまっていたのでつらい夜を過ごしたということだった。
ここの売店で買って翌朝料理して食ったわさびそばは特においしかった。そのぴりりとするそば湯もおいしかった。
ぼくは残った湯を最後の一滴まで飲んだ。
支笏湖からはT君にプランの作成を任せたところ札幌よりもニセコに行くことを望んだので湖西に流れ込む美笛(びふえ)川沿いに湖を出ることになった。丸駒温泉から先は湖岸沿いに道がないので恵庭山の後肩を通って美笛に向かう。
かなりきつい登りを余儀なくされた。
札幌方面へ分岐するオコタン分岐点の近くで荷物を持たないマウンテンバイクライダーたちとすれ違った。
手を振ると少しまごついたふうだったが彼らも手を振って返礼した。
あとでわかったことだが、彼らはヒルクライムレースの最中であった。
この三叉路で休憩していると5・6人の高校生らしい男性ライダーたちに追い付かれた。
彼らはまとまって来たのではない。脚力に等差数列的差があるらしく3・4分の等間隔の差をもってひとりずつ順に坂を上がってきた。先頭で来た若者と写真に納まったが、彼は神戸から来たということだった。
そこからぼくは先頭で出発し、小さな峠を登り切ってレーズンクラッカー等を食べながら休んでいると、くだんの高校生たちがまた等差間隔で登ってきて
「お先に失礼します」とひとりずつ礼儀正しく追い越して坂を下っていった。そのうちジャックとT君が来たのでぼくらも坂を気持ちよく下った。ほどなくぼくらはオコタンペ湖の展望所に着いた。
今回の旅でさまざまの美しい湖を見たが、高貴さの点ではオコタンペ湖が一番だった。
したがって最も麗しい湖だった。
それは水がきれいだとか(たしかに湖面がエメラルド色をしていて美しいが)、中にしゃれた島が浮いているとか、周囲の地形が壮観だとか、まわりの森とのコントラストがすばらしいとか、そういったことが決め手になったのではなかった。
オコタンペ湖が他を凌ぐ高貴な美しさを有する理由は、思うに湖面全体を見渡すことができないことにあるらしかった。
ぼくらは湖面から30メートルくらい高いところにある道路沿いの展望所からこの湖を垣間見ることができるのであって、視界の多くはまわりの森や林でさえぎられ、かろうじて向う岸の一部を含む一切れの湖面を見ることが許されるのみである。
湖岸も凹凸がありオコタンペはすべてを見せてはくれない。
美しさの秘密はその一部が隠されたままであることにあるらしい。
ジャックがその旅行記に記しているように、この湖は人を拒もうとしているかのようだ。
しかし同時にその一部は我々の目にさらして我々の心を引こうともしているのだ。その妖しい意志の存在の直感は湖の精の存在を予感させる。
その精の存在を確かめてみたくなる。それはあこがれであり好奇心だ。そしてあこがれと好奇心を高めるものほど美しい印象を与える。
その展望所からしばらく下って行くと、橋があり、そのほとりに等差数列の高校生たちの自転車が停められていた。
しかし彼らの姿は見えない。橋の下をのぞいてみたがいなかった。
何かこの辺に見逃してはならない名所があるのだろうかと芋菓子を食べながらぼくらは辺りの様子をうかがってみたが、立て札のようなものもなかった。
しかしあとで地図を見て彼らの行った所がわかった。
その橋の下を流れる川はオコタンペ川でオコタンペ湖の水はこの川を伝って支笏湖へ流れ入る。
してみればかの高校生たちはオコタンペ川を沢伝いに歩いて登り秘境オコタンペ湖を目指したに違いなかった。
若きサイクリストたちよ、君らはそんなにまでしてすべてを見たいのか。
ぼくは美しさの秘密は一部が隠されていることにあると言った。
しかし美しさの秘密が隠されたところにあるとは言っていない。
君らはオコタンペ湖から溢れくる水の流れを頼りにその流れの源を確かめてみようとした。君らは最も美しいものはいつも隠されていると信じていたかもしれない。
しかし君らはオコタンペのすべてを見ることはできまい。
湖岸にたどり着いたとき、君らはまだ隠された岸辺のあることを知るだろう。オコタンペ湖岸のどこに立っても同じことだ。湖の真ん中に行くのでなければすべては展開しないだろう。え、小さな湖だから泳いでいってみようか?しかしそれはオコタンペの湖精の思う壷だ。
恵庭岳の肩を伝って流れ下りるオコタンペ川に沿って下り再び支笏湖の岸辺にたどり着いた。
この頃のぼくらの唯一の望みはどんな食堂でもいいから早くたどりついてカレーライスを食べたいということだった。
朝誰かが、しばらくカレーを食ってねーな、と言ったのが引き金となった。
したがって、オコタンキャンプ場の看板を見つけると、少々遠回りすることになるが、しばらくダート道を走ってこのキャンプ場に行ってみた。
しかしカレーライスは、いや食堂はないということだったので、ぼくらはダート道を引き返した。
ぼくらはカレーが食べたいという一心でペダルをこいだ。ダートの部分が幾箇所かありロードレーサーのT君はパンクが心配でつらい思いをしたろう。
しかし幸い今回のツアーを通してだれも一度もパンクで足止めをくうことはなかった。
やがて美笛川に着くと川沿いに登りが始まった。
しばらく登ったところにドラブイン美笛なるレストランがあったので、ここで昼食を食べた。
みんな同じものを注文した。カツ入りのやつだ。そして水を何度もお替わりして汗で失った水分を補給した。
そこから先に驚くほど長いトンネルをいくつかくぐらされた。
長いトンネルは度胸がつく。後から物凄い反響とともに近づいてくるダンプカーなどを平気なふうをしてやり過ごすのだから、度胸がつく。
肝っ玉の小さいサイクリストならつい振り向いてしまう。
しかし振り向いてはいけないのだ。その瞬間にバランスを崩す危険性がある。真っすぐ前を見て真っすぐに進まねばならない。
新しいトンネルなら自転車用に十分なスペースを左右にとってあるが、積丹半島の海岸沿いにあったいくつものトンネルはほとんどが自転車用のスペースがないにも等しいくらい狭いので、後から何台も大型車が続いてくると拷問を受けているようなものだった。
羊蹄山
北海道特有のはるか先まで真っすぐに延びる道が現われると、逃げ水現象が見られた。
これを写真におさめようとする時に限って、車の列が続き撮影の邪魔をする。結局一枚も撮れなかった。
やはり逃げ水は捕らえることができないのだ。
ある長いトンネルを出たところに公衆電話があったのでT君は会社のに電話をしてみた。
ぼくには何も急用が入っているようでなかったので安心した。急用が入っていたとしても北海道の山の中でどうすることもできるわけではないが。
特に夏の山道は地面にいろんな昆虫や小動物がいる。
多くは車にひかれた死体であるが、中にはこれからひかれるためにわざわざ道の真ん中の方に這って行っているものもいる。
ぼくはできるだけそれらをひかないようにハンドルをさばくが、ぼくがひかなくともいずれひかれるだろう。
虫をよけようとしてそのためにぼくが後から来る車にひかれたのではばからしい。
知人で子猫をよけようとして電信柱に車を衝突させたドライバーがいた。
ある人が、プラットフォームから落ちた酔っ払いを救おうとして、入線する電車にひかれて死んだという記事が新聞に載っていた。
このような事故はやるせない。人のやさしさが自らの不幸を招くのはやるせない。アスファルトの上をうごめく虫たちよ、小動物たちよ、前輪ではひかない、しかし後輪までは面倒が見れないぞ、御免。
山間地を抜けると羊蹄山が目の前に現われた。
羊蹄山は今回のツアーのシンボルといってよかった。
初めの日に洞爺湖の展望台に着いたときから羊蹄山はほとんど毎日ぼくらの視界のどこかにあった。
平地に下るとまたT君が断然トップに出る。そしてぼくはどんどん二人において行かれる。
しかもいちど道を間違えて札幌の方に向かってしばらく走ったのでかなり遅れをとってしまった。
そのうち雨が降りだし雪なだれ遮道に入って雨宿りをしているとT君とジャックが向うから引き返してきた。
この雨では、倶知安にたどり着くのはおぼつかない。
近くにK温泉というのがあるからそこまで行こうということに決まった。
しかしK温泉に近づく頃には雨はほとんど上がっていた。
これなら倶知安まで行けると、ぼくらは再び計画を変更し、倶知安を目指した。羊蹄山のふもとをかすかなカーブを描いて回る。
しかし倶知安まではかなりあった。
きれいな円錐形をした羊蹄山はどこで見ても同じ形なのでいくら進んでもその形は変らず、こちらはいつまでも同じ所にいて道だけがペダルの下をすべり去っているだけのようで、まるでレコード針にでもなったような心地がする。
ようやくふところの深い倶知安の中心地に着いたのは日没より30分くらい前だったろうか。今回で最も長い距離を走った日であった。
ぼくらは羊蹄山のふもとを流れる尻別川の河床に野営することにした。
河床といっても岩や石のごろごろしたものではない。
立派な運動公園ができておりやわらかい土の上や芝生の上にテントを張った。
何を勘違いしたか、みんな今宵が野営をする最後の夜だと思い込んでおり、それでは祝杯だと、銭湯に行った後、気も揚々にスーパーを闊歩し、ジンギスカン鍋のための羊の肉1キロなどのさまざまのご馳走を買い込んだ。
フライパンで料理したジンギスカン鍋はうまかった。
去年の夏、0君と信州サイクリング旅行をしたときの最終野営地でも羊肉をたっぷり買って祝杯を上げたことを思い出しての奮発だった。
とにかく本場のジンギスカンはうまかった。
もう1キロ買ってても良かったかもしれない。また途中の行程で一度くらい、例えば登別温泉あたりでジンギスカン鍋をやってても良かったかもしれない。
ビール等を飲みながら旅を振り返って話をしていると一日だけ日数が合わないということがわかってきた。
「あと一泊はどこでしたんだっけ。」
「おかしいな。」
「最初は洞爺湖、次に登別温泉、次にえーと・・・」
「白老だろう。」
「次がもうきのうの支笏湖か?」
「おかしいな」
「酒のせいで頭が混沌としているからだろう。あすになれば思い出すよ。」
しかし、ぼくらは時計やカレンダーを見て、やっとぼくらの頭の中の時計が1日ばかり進んでいたことに気づいた。
「とするともう一泊どこかでできるわけだ。」
「これは1日プレゼントをいただいたようなものだ。」
「しかし、じゃあこのジンギスカン鍋はどうなるんだ。最後の祝杯のつもりがそうでなかった。」
「これは前夜祭だ。」
ぼくらは1日得した気持ちになり、ますます陽気になった。
空を見ると羊蹄山の影が薄く闇の中に浮かんでいた。
翌朝、いつものように早起きをすると、今にも雨が落ちてきそうな空模様だった。
ぼくはあわててテントから出、荷物を近くの屋根付きの休憩所に移した。
地元の人が犬の散歩にやってくる。こういう公園でテントを張ってはいけないのだろうが、彼らは何も言わない。
北海道の人はサイクリストには一般に好意を持ってくれているのか同情してくれているのか冷たいことは言わない。
ある人がぼくに話し掛けてきた。
たいてい「どこから来たんですか?」が最初のきっかけになる。
ぼくは天候が心配だと言うと、その人はあっさり、きょうは雨は降らない、晴れますよと自信ありげに言った。
今にもぽつりぽつりと降ってきそうな空模様の真下でである。
その日の行程でぼくらは確かに一滴の雨も感じなかった。朝食は昨夜の宴の残り物を平らげた。
ぼくらはスキー場で名高いニセコ連峰を登っていった。
スキーのジャンプ台が山麓に見える。この辺りは冬はものすごい人が訪れるのだろう。
何度も休憩しながらやっと峠らしいところにたどり着いた。お花畑だ。
きれいで冷たい水が流れている。ここをニセコアンヌプリという。
しばらく下っていると五色温泉に着いた。古い木造の温泉宿で、かなり大きなものであった。
冬には2階までが雪に埋まってしまうらしい。ここでひと風呂浴びる。
ぼくはまず千人風呂に入った。湯につかっているとモーターサイクリストたちがやってきた。
彼ら同志のこういうときの会話は、バイクのメカに関するものが多い。
彼らは走行中は会話ができないので、こういう時に質問やアドバイスをするわけなのだろう。
やがてぼくは露天風呂に移った。T君とジャックは始めからここに来ていた。この露天風呂ははるか上方の展望台から丸見えであった。T君がカメラを持ち込んで露天風呂の記念写真を撮った。
五色温泉からしばらく行くとダートの下りが続き、T君はパンクを恐れて押して下った。そしてT字路に出た。ぼくらが行く予定のコースは、右手の岩内の方に抜けるための登りの道だ。左に行けば下って昆布川温泉に通ずる。
T君はここで自分は左に下ると決断した。ダート道を押して下った後に、もう登りはたくさんだという気持ちになっていたのだろう。
そこでぼくらは別れることにした。函館駅から乗る北斗で再会しようということで別れた。
T君は、その後、昆布川温泉を経て蘭越駅まで行きそこから長万部駅へと輪行した。
大沼・小沼公園が彼の目当てでもあった。途中大学生グループと一緒になり同行したということだ。
ぼくとジャックはT君と別れてからさらに数百メートルの標高差を登って一つ峠を越え、神仙沼で休憩がてら沼を散策したりする。
しかしぼくはもう書き過ぎた。T君がここであっさり下っていったように、ぼくもここで失礼しようと思う。
神仙沼(散策)→岩内(フェリーポートのレストランで昼食)→カブトライン→神恵内村(野営)→当丸峠→古平町→セタカムイライン→余市(ニッカウイスキー工場見学)→(JR輪行)→長万部(乗り替え待ちの間に銭湯に行く)→(JR輪行)→函館(T君再会)、とまだまだ書き残した場所、それに関わる思い出はいろいろあるが、もう疲れた。
ペースの配分をまちがってしまったようだ。ここでリタイヤだ。
実際のサイクリングよりもその旅行記により長い時間を費やすのは本末転倒だし、サイクリングでの疲れよりもその旅行記作成での疲れのほうが大きくなればお笑い草になってしまう。もうおしまいだ。
ではみなさんまた一緒に走りましょう。
終わり
P.S.
本稿を作成中に「アナグマ先生南洋従軍記」を読み終え、その次に読んだのが、同行者ジャックの今回の旅の紀行文だった。
親子の作品を続けて読ませていただいたわけだ。
ジャックはヨーロッパ出張旅行の出発前に完成しようと急いで作成したので、ワープロ原稿特有の荒さが目立つが、コースを間違えず最後までコンスタントなペースでこぎつけているのでゴールできたのだ。
これから読むたびに、特にぼくが書けなかった部分を読むたびに、連想による新たな思い出を汲み上げることを可能にしてくれよう。
ジャックは北海道旅行から帰宅してからすぐ、自分と自転車の雄姿を奥さんに見せるとともに写真に撮らせたというのはほほえましい。
間もなく、山屋やサイクルショップに出掛けていったというのはぼくと同じだ。
しかしエネルギーが余って400ccの献血をしたというのには驚かされた。もう「ジャック」と呼ぶよりは「アナグマ部長」とでも言ったほうがピッタリする。
T君は毎日忙しく仕事に追われている。あまり忙しいのか今年は夏のテニス部の合宿に参加しなかった。
彼はしかし秋の副社長杯ゴルフコンペに向け練習を開始したようだ。ゴルフ、マラソン、テニス、サイクリングと、彼のスポーツライフはいつもめまぐるしい。