白川郷と白山, 冠山(1990/05)

 

10月6日(金) 上野  21:55

           臨時急行 能登81号  12360円(乗車券 東京 東京)                        1700円(指定席急行券)

10月7日(土) 富山   5:44 着

              5:47 発

  曇り/霧     高山本線 普通

         角川(つのがわ) 7:32 着  海抜400M

                20キロ

         国道360号  天生峠 1390M 全舗装

                20キロ

         白川郷  合掌の里 見学 民宿「孫右エ門」泊  気温10度

          400M    500円       5200円

 

8日(日)雨 16キロ 白山ス−パ−林道 1455M 全舗装   気温5度

            18キロ

       中宮温泉 林業公社の車に護送される。

 

       一里野温泉 民宿「白山荘」 6000円  800M

 

9日(月) 晴 国道157号 手取川ダム 谷峠(トンネル)800M

 

   30キロ  越前勝山 「越前大仏」 10キロ 越前大野

 

   猫坂 今立郡美山町 河原(こうばら) 市波 「みらくる亭」で断わられる。

 

   魚屋兼民宿「宇坂屋」 4800円

                          池田町

10日(火) 7:43 京福バス 740円 30キロ 冠鉱泉 400M

 

   国道417号 冠山林道 全舗装  1100M

 

   岐阜県 吉城郡(徳山村 廃村)、藤橋村 揖斐町 養老渓谷

       祖母の訃報

   近鉄養老線 揖斐 300円 16:29発 55着 大垣

   17:06 東海道線普通 名古屋 17:46 ひかり 東京 19:40着

 

 これで今シ−ズンも終わりかなという、白山のラン。

4連休を取ることで、上司としこりを残し、後味の悪いまま8時に会社を出る。曇ってはっ

きりしない夜空。 家で一服する間もなく、着替えてしとしと降り出した雨空の下、出発 東京駅丸の内口で能登81号の指定席券を買ってあるので、気分的には楽だ。

出札で、フランス人女性旅行者が、九州に行く新幹線の指定席券を取ろうとしていたのを助けて、何かいいことをしたような気になっていた。旅には大義が重要だ。

 能登81号、オハ12はすでに入線していた。モケット地を替えて、タ−タンチェックになっていた。臨時列車なので、空いている。 これから高崎、磯部、直江津、糸魚川などを通って行くとは。乗り慣れた信越線とはいえ、この雨は気を滅入らせる。

 夕食もとっていなかったので、ニコマ−トのオニギリとビ−ルで一人の宴会を始める。だんだん寂しくなってくるなあ、8日の日曜は 大学の自転車部の先輩、宮坂さんの結婚式だ。

八芳園によばれていたけど、それを無視して出てきてしまった。浮世の義理は打ち捨てて、僕を旅に駆り立てるこの不可解な熱情。これは何なのか。芭蕉みたいだなあ。

 月日は百代のカカクニシテトドマルトコロヲシラズ。

 寒さで窓が曇る。信濃電気精錬の看板が霧の中にぼお−っと浮かんで見える。信濃町とは素晴らしいところ。誰が言ったのか。C.W.ニコルではないが、黒姫も野尻湖も軽井沢から避難してきた世捨て人たちにこよなく愛されてきた。 上水内郡 信濃町。永住したい心の故郷だ。

 直江津で、EF65からED75に交換。そして、方向転換。能生、糸魚川、泊、入善魚津、黒部、滑川、定刻5:46 富山到着。 曇りで肌寒い。 

1分の待ち合わせで高山線に乗る。同じホ−ムの端に別線ができていた。地方のタ−ミナルに多い。速星(はやほし)には日産化学のメイン工場があった。

錆びついた架構と、数えきれないほどのちいさな煙突から、立ちのぼる蒸気。化学工場の原点だ。 少し、寝てしまう。

7:32角川(つのがわ)に到着。委託駅員のいる駅だった。降りる人もない。 

国道360号との接点。天生峠の登り口である。 気温10度。日が差さないので、寒い。

 Sがここに寄るかも知れないので、メッセ−ジを伝言板に引っかけて置く。チョ−クがないのだ。 音もない駅前で自転車を組み立てる。

 8時出発。ここは河合村。小鳥(おどり)川に沿って西南西に進む。

宇津江四十八滝、平湯峠、 小鳥峠、松の木峠、新軽岡峠、牧戸、 真光の赤い玉、

走馬灯のように通り過ぎる風景。飛騨は信州より行きにくいせいか、感慨はまた深い。

荒町より、林道となる。 ずっと舗装が続く。 谷は深い。 1100M位の地点で、どこかの大学のクラブだろうか、キャンプ装備の一群とすれ違う。フロントに振り分けのバッ

グ、頼もしさを感じる。フロントバッグとDパックだけの僕はちょっと引け目を感じる。 途中、土砂崩れの復旧工事をやっていて、時間制通行制限をしていたが、僕はそれをすり抜けて行く。 1200Mで雲の中にはいる。 霧が降り、合羽を纏う。

 天生峠、1390M。高山祭りのサテライト会場と称し、広場ができており、更にダンプが土砂を運び込んでいた。 ツア−のボンネットバスが来る。濃飛バスというやつだ。 

待っていてもSは来ないだろうし、寒いので、餡パンを2つ3つ食べて、白川郷への1000の下りをはじめる。

 寒くて、手がかじかんで、ブレ−キをうまくにぎれない。 視界も悪い。

 それでも12時には、白川郷に到着。だいぶ暖かい。

中京方面からの観光客で賑わっている。 国道156号に沿って、一巡りしてみる。Sはまだ来ていない。 今日、彼は飛騨古川から小鳥峠、天生峠を越えてくるはずである。2時ころには着くだろうか。 

360号と156号の合流点にメモを残す。下ってくる道だから見落とすかもしれないな。この場合、自転車を目印に置いておくのがいいのだが、町を探索するのに、こいつは必要なのだ。 家に電話を入れてみる。Sからの連絡は入っていないとのこと。

 民家風の食堂で、朴葉焼き定食を食べる。850円。 しけた盛りのごはんを朴の葉の上で、葱味噌を焼いたのをおかずに食べる。魚肉の類いはない。 

これは、運動をしている者にとっては、辛い食事だ。 しかし、趣はある。同じ山中とはいえ、群馬の味気なさよりはましか。 ここに置いてある新聞は岐阜新聞と、中日スポ−ツだけ。 どっちも読む気がしないので、そそくさと店を後にする。観光バスのラッシュの合間だったので、運転手が二人いただけで、長く居るにはいい店だったが。

 合掌の里に行ってみる。 入場料500円。 最初から、ここに建っていた民家ではなく、周辺の山里から移築してきたものばかり。それで、庄屋、豪農などの立派な家々である。 よく手入れされている。町に一つだけのカ−ド式公衆電話がこの入り口にある。

 木工品、陶器などの実演販売をやっている。 比較的年配の観光客が多い。

沿道の甘味処の甘酒や、みたらしだんごがうまそうだった。

 国道から合掌の里までは、「せせらぎの小径」をいったが、国道トンネル工事中とあって、途中で途切れていた。 そこを強引に通る。 

坑道のような暗くて、怖い道だった。 合掌造りの原型という、「又建造り」というのが面白かった。 壁がなく、地面に屋根が置いてある。穴居式住居のようなものだ。 

その中で少し休憩しても良かったのだが、Sがくるかも知れないので、宿を予約して合流地点で待っていようと思う。

 「せせらぎの小径」沿いの「孫右エ門」というところに飛びこむ。 部屋はあるが、最後の一室だという。 

商売が上手いなあと思いながら、1泊5200円で頼む。大きな合掌造りの民家である。 

合流点にもどり、早く風呂に入りたいなあと思いながら、 通りすぎるバスや車を眺めていた。 富山と、名古屋行きの直通バスがある。白川郷も便利な所なのだ。むしろ、牧戸あたりの方が不便なのだろうか。 天気が良ければ最高なのだが、 あいにくの肌寒い曇天だ。 結構白人の観光客もいる。

 天生峠から下って来るという予想に反してSは156号を富山側から上ってきた。

すでに白川郷に着いており、うろうろしていたというのだった。 連絡不十分だったが、再会を喜び、まず宿にたどり着く。 今日は予約で満杯との言葉に偽りはなく、 スリッパがずらっと20足並んでいた。 

僕達の部屋は玄関を入ってすぐ左手のところで四畳くらい。 部屋の真ん中に柱が立っていて、布団が敷きにくそうだ。 テレビと石油スト−ブがある。 壁は合板で合掌造りらしくない。 狭いので暖房の効率はよさそうだが。

 まだ時間が早いので、他の客は来ていない。 部屋を覗いてみると、居間と同じ造りの畳敷きで、外観通り、合掌の里で見た通りだった。 

本来はこの部屋を希望すべきなのだが、外壁に隙間があり、寒そうだし、テレビもないし、隣との仕切りが襖なので、善し悪しである。 

最もいいと思われたのは、庄川に張り出した角部屋。九州椎葉の「平家の湯」を彷彿とさせる。 きっと半年くらい前から予約しないとこんな部屋はだめなんだろう。 最近は同じホテルでも、オ−シャンサイドとか、パノラマビュ−とか、マウンテンサイドとかいって、部屋により値つけを変えたりしてるもんね。 せちがらい世の中だ。

 何せまだ4時前だ。 僕達は早速布団を敷いて、昼寝する。 サイクリングしてて、この時がいちばんほっとする。 内容のないテレビを見たりして、風呂と食事を待つ。待ってればいいというのは楽だね。

 風呂は檜の浴槽と、傾斜のきつい石造りで小さなものだったが、雰囲気は十分。水がぴりっと冷たい。 温度調節機能付きのシャワ−もあった。

 夕食時には、予約客たちが、車、バイクなどで集まってきていた。 居間の囲炉裏の回りに銘々膳をおいて、宴は始まった。 僕達は一番乗りだったので、囲炉裏の正面となり、(人数が多すぎて、全員が囲炉裏端にこられない。遠巻きにしている)顔が熱かった。 

昼のしけた朴葉焼きとは段違い。茄子味噌の朴葉焼きはおかずの一つにすぎない。山菜の天ぷら、海老2匹抱き合わせの天ぷら、岩魚の塩焼き、山菜蕎麦、刺身も勿論等ついている。ごはんもたっぷり。この夕食だけで、4〜6000円取れるなあと思った。 、

 自在鉤はないが、鍋で湯を沸かし、柄杓ですくって茶を淹れている。茶の湯の原型かしら。 ぼくは、コ−ヒ−をホ−ロ−のカップに入れてきて、沸騰している湯を注いだ。

 オ−ストラリア人の男女と、奈良からベンツ300SLでやってきた夫妻と、松戸の夫妻、等が囲炉裏端で寛いでいる。 

ベンツ氏は盛んに細君に気を遣っている様子。彼女は奔放で、我々が自転車で来ていることを明かすと驚き、素姓を知りたがった。

なにわナンバ−のコルサに乗ってきた夫妻も話しに加わった。でてこないのは、三重、名古屋のVT,CBR,SR500等のバイクツ−リストたちだった。オ−ジ−女が国際電話を掛けようとするが、ここにはピンク電話しかないので、切り替えに手間どる。そんなことも楽しい。みんなで一緒のことをやっているのが楽しいんだね、こういうところでは。

 公民館で来週の村祭りの獅子舞いの練習があるというので、8時頃行ってみるが早すぎてやってない。浴衣がけで寒いので早々にかえってくる。夜の街道もなかなか情緒がある。 土産物屋の提灯が夜風に揺れているのも興趣がある。

しかし、寒い。雲の流れが早い 星は見えている。 部屋に戻り、濡れたシャツを乾かしながら、「トップガン」を見る長すぎて途中で眠ってしまう。一酸化炭素中毒に注意。

 

8日(日) 時雨 といっても、目覚めたときから雨である。御簾を通して、静かな雨の音が聞こえる。 7時に昨日と同じ席順で朝食。

おにぎりを貰って、勘定を済ませるが、また布団に潜り込んでしまう。 今日は白山ス−パ−林道を越える日だ。 この天気では、1500Mの峠は雪かもしれない。 つかの間のまどろみが、嬉しい。

 いくら待っても雨は止まない。 バイク青年たちも諦めて合羽を着出した。 風貌からして我々と同年代か。 10時。しかたなく出発。納屋の下で記念撮影する。

 ところで白山ス−パ−林道は2輪(バイク、自転車とも)通行禁止である。熊が出没するためか。 ぼくたちはそれを承知で、裏道から突破しようというのである。この天候と、パトロ−ルに見つかるのを恐れながら、不安な気持ちで。アプロ−チに挑む。

 雨だというのに、観光バスやら車が多い。上に登っても何にも見えないよ。

 馬狩というところで、料金所を避けて、林道の途中に合流する間道に入る。ダ−トで、下っている。4つ角には茶屋があったが、無人であった。500Mほども下ると、分岐。完全に廃道になっている左の道がル−トである。いかにも熊が出そうだなあ。

草深くて蛇なんかもいそう。 諦めて自転車を押しはじめる。5万図では、1.5キロほどの道程だ。

 途中、地肌が見え、勾配も緩く、乗れる箇所が500Mほどある。葛籠折りの道である眺望は利く。合掌集落が、はるか眼下に、雨に煙って見下ろせる。

 11時。白山ス−パ−林道と合流。バスが轟音を残して、急勾配を登っている。Sは間道側で待っていた。雨に濡れながら、地べたにうづくまり、まるでコロポックルのようだと笑いあった。

 さて、白山ス−パ−林道はすばらしい舗装で、2車線のスカイラインである。 小型自動車で2500円も通行料を取るのだからよほどの設備なのだろう。まったくの観光道路である。 たしかに白山を横断する道路はこれ以外にない。道路保守にも手間がかかるだろう。 自然破壊の最たるものではないか。 といいつつ僕等もこの道を走っている。

ゴルフ場が自然破壊だとか、芝生育成のための農薬が水質汚染に繋がるなどと言いながら 寒くて、Tシャツがはだにまとわりつく。 1200M地点に展望駐車場がある。雲の中で何も見えないが、売店が出ており、暖かいものは買える。しかし、ぼくたちは見咎められるのを恐れて、そこを素通りする。

 1時 1455Mの最高地点、三方岩に到着。気温5度。 峠はトンネルになっている。500Mほどか。Sは20分も待ったそうだ。 間道との合流点の標高が850Mくらいだから、僅か500Mの登りだが、消耗した。 紅葉は真っ盛りである。

 おにぎりを一つ口に押しこんで下りはじめる。林道パトロ−ルが駐車場付近にいたが、そそくさと立ち去る。 寒さに震えながら、姥ケ滝まで下ると、終にパトロ−ルに捕まってしまった。 30代の石井さんと、若い林さんである。

 「あんたら、この道二輪は通行禁止なんだよ。知らんかったのかね?」

「ええ、ああそうなんですか」 と、そらっとぼける。

「そうさね、料金所通って来なかったの?」

こういうとき、口から出任せをいうのが僕の特技。ひたすら、善意の人を装う。

「ええ、砂利道を走ってたら、急にいい道に出たんで、この道を行って見ようということになりまして。2輪は通ったらいけないんですか?」

「そうだよ。ここは自動車専用有料道路なんだ。白山ス−パ−林道って、知らないの?」「ああ、それは知ってますけど,」

「あんたら、どっち側から来たの?岐阜県側からかね」

「ええ、昨夜は白川郷に泊まってましたから。それにしても寒いですね。」

「寒いのはわかるけど、そこでちょっと待っとって。 事務所に連絡せにゃならんから」「はあ、ご迷惑をおかけします。」

僕らは、取り調べを受けるのだろうか。口裏も合わせて居ないし、きつ〜いお咎めに遭うかもしれない。北日本新聞に「無謀なサイクリスト、熊がウヨウヨの白山ス−パ−林道に迷い込む」とか載らなければいいが。

不安と寒さに震えるぼくらに石井氏の無情な声。

「とにかく、事務所まで来て貰うさかい、わしらの後を付いて来て。」

「え〜と、手がかじかんでそんなに速くは走れませんよ」

「いいよ、ゆっくり護送しますから」

 まったく、ややこしいことになってしまった。僕達は顔を見合わせて、今日の予定を消化できなくなったことを小声で嘆きあった。しかし、同時にほっとした気分であった

もし、パトロ−ルに発見されなくても、石川県側の料金所、中宮温泉で何か申し開きをしなければならなかったところだ。 手間が省けたとも言える。

 発見場所の姥ケ滝から、林業公社事務所のある中宮温泉までは、約7キロ。石川県側の半分くらいである。 まあ、岐阜県側に追い返されなかっただけでもよしとするか。

 10ものトンネルを、点滅灯を点したパトカ−の後を時速10キロくらいでのろのろ下る。手がかじかんで、ブレ−キレバ−をうまくにぎれない。ときどき、後ろに繋がった車の列をやり過ごすためにパトカ−は停まるが、その途端僕たちは大袈裟に震え出す。

すると、林氏が車を下りてきて言った。

「自転車をこの路肩に放って、車に乗って下さい。だいぶ衰弱しとるようやし」

「でも、シ−トが濡れますよ。」

「そんなこと構わんよ。」

随分、大事になっちまったなあ。まるで遭難者扱いじゃありませんか。

 ひっかかる筈だった料金所を素通り。中宮温泉は、谷間に2〜3軒の宿が張りついているこじんまりとしたところだった。高そうだが、なかなか雰囲気はいい。

 と、僕等は取り調べを待つ囚人だ。そんな呑気なことは言っていられない。車を下りると外気は冷たい。合羽を玄関に脱ぎ捨て、ぐしょぐしょの靴下も脱ぎ、石油スト−ブを前に置いて、事情聴取という形で始まった。

 「本当に知らずに迷いこんだんだって言うんだね。 林道内に車を置いてあるんじゃないだろうね」

「もちろんです。自転車だけですよ。 まあ、計画もなく山に入ってしまったのは、反省してますけど。」

「まあ、疑ってかかるわけじゃないけど、どの道を通ってきたか、説明して貰えるかね」さすがに副所長ともなると、手強い。事務所内には6人。暇そうに我々の取り調べをにやにやしながら、ながめている。 雰囲気は険悪ではない。 

副所長は実直そうな人で怒らすと怖そうだった。 ぼくたちはひたすら、下手に「ここはどこ、私は誰」現象を装った。

 1万分の一の精細な青写真の地図が運ばれてきた。 さすがプロだ。ぼくたちの取ってきたル−トもきっちり載っている。しかし、あえてそれは指摘しなかった。岐阜県側の料金所を回避していることが明らか過ぎるからだ。

「さあて、ずいぶん細かい地図ですね。」どう言い逃れるか、われわれは、テ−ブルの下で合図しあったが、妙案は浮かばない。プランナ−のSに任せ、僕は口を噤む。

「この地図は地名が入ってないから見にくいかな?」と人の心を見透かすように副所長。 ロジックが頭の中でできあがったのか、Sがおもむろに口を開く。

「え〜、白川郷を出て、富山へくだろうとしていたんですが、砂利道に入ってしまいまして、…」

「どうも、よくわからないな。岐阜の人かね。」

「いえ、東京からです。」

「東京から、自転車でずっと?」

「いえ、夜行列車で運んできたんです。」

「ふ〜む。それじゃ、旅行の日程を詳しく説明して下さい。いやなに、所長に報告せんならんもんで」

「はい、まず5日木曜の晩の夜行列車で、富山まで来まして、富山地鉄立山線で、有峰口ということろで降り、6日は、富山県の神岡町を経て、岐阜の飛騨古川で泊まりました。。

そして、7日土曜は、山を越えて、白川郷に入ったんです。今日は天気がこれですし、国道を富山方面へ進もうとしていたんですが、細い道に迷い込んで、気がついたらいい道に出会ったので、そこをずっと登ってたんです。」

「すると、その細い道というのは、どこになるのかね? この地図でいうと…、馬狩の料金所を通ってないっていうんだから、う〜む、確かにここに白山ス−パ−林道の途中に出てくる道があるなあ。 この事かね。 どうだい、この道かい?」

副所長は、我々の通った道を言い当てた。 冷汗ものである。

「しかし、こういう旅行をする人はしっかりと、計画を立てて、地図を持って歩くもんだと思うけど、お宅らは地図は持ってないの?」

「ええ、ありますけど、ドライブマップをコピ−したやつだったんで、詳しくはわからなかったんです。」

「白山ス−パ−林道が載ってたでしょう。」「ええ」「二輪通行禁止って書いてなかった?」「さあ……」

「まあ、いいや。とにかく白山ス−パ−林道は二輪通行禁止ですから、ここいらは手負いの熊がよく出るんだよ。さっきの細道なんか、最も危ないんだから。」

 

 インタビュ−は、30分も続いただろうか。

ぼくたちは住所、氏名を書かされて、無罪放免となった。寒いから中宮温泉に泊まっていけと言われたが、彼らの管轄下なので、敬遠する。

今日の予定では、あと40キロ、手取湖を越えて、白峰村まで行く筈だったが、既に3時を回って無理である。 一里野温泉あたりで投宿することになるか。

 

**************

 

無事是好馬と言いたい一日だった。 岩間温泉へ続く道の分岐までは登り。その途中で、昨夜民宿「孫右エ門」で一緒だったコルサの夫妻に追いつかれる。 白山ス−パ−林道を越えてきたことを不思議がっていた。

  下りが始まって50Mも行っただろうか、坂の途中に「白山荘」という民宿が一軒だけ立っていた。

この先、鶴来までいかないと、泊まるところはない、と林業公社の事務所で言われてきたので、一も二もなく、交渉にはいる。

6500円のところを6000円に負けさせ、ここに決める。岩魚の養殖をやっており、その塩焼きを食わせるのだ。

食事には、期待できそうである。ここを切り回しているのは、女将とその息子夫婦と女将の妹くらいの年配の女性であった。労働力過剰である。一方泊まり客は、ぼくたちと、白山ス−パ−林道の作業員3名。

ここはスキ−宿になるそうで、60人くらいは収容できそうだ。寂しいことこの上ない。 部屋は急な階段を上った2階。8畳。例により、石油スト−ブを点け、衣服を乾かす。よく考えないと着るものがなくなってしまう。今日は靴ももってきて、乾かす。この非常識な行動が女将の怒りを買い、我々に対する言動は刺のあるものに変わっていった。

 とにかく、宿に入ってしまえば、勝ちである。濡れた物を部屋中に広げ、毛布にくるまり、風呂と飯を待つ。この充実した時よ、 ゲレンデスキ−なんてやってられないね。

大体アフタ−スキ−に何かやらなくちゃ、スタミナが余ってしまうなんて、何て無駄で不純なんだろう。

今年はゲレンデスキ−には行かないことにしよう。 小遣いも続きそうもないし。 また、風呂は檜だった。良材が豊富なのだろう。お湯もふんだんに出る。

 食事は1階の食堂で。土間に降りて、長い火鉢というか、囲炉裏をSと二人占め。

メニュ−は壁に掛かっている3500円の定食のようだった。

生きた岩魚を鉄串にさして、炭火で炙る。(「あぶる」という文字は象形文字だね)閉じていた口が開ききると、岩魚は昇天する。あと、にじますの刺身。山菜の天ぷら、山椒の天ぷらは茎が固くて食べにくかった。そばとごはん。昨夜とよく似ているが、食べ切れないほどの量で満足。

 愛想の悪い女将が解説してくれる。銚子2本でいい気分。今日はおもしろいテレビもないし、廊下に積んであったヤンジャンを読んでいるうちに寝てしまう。

 

9日(月) 晴れ 今日は会社では、来年の定期入社の学生を役員面接しているはずだ。このために、僕は休めなくなりそうだったのだ。

 8時、出発。日差しが暖かい。3日目にしてやっと晴れた。 1キロも行くと、スキ−場を伴った一里野の温泉街に出た。

しゃれた喫茶店、ペンションなどもある。白山荘だけの山の出で湯ではなかったのだ。きょうび、日本のどこの田舎だって開発の手の入っていないところなんてないのだ。 

そこは素通りして、瀬戸野の三叉路で157号に入る。いきなり、登り。すばらしいいい道だが、車は通らない。この道は金沢から、野々市を経て、越前勝山、揖斐川、岐阜へ至る。高山街道に並行している。

 手取湖はロックフィル式のダム。トンネルを避けて、対岸を走る。昨日の目的地だった白峰温泉は一里野と同様のちいさなリゾ−トだった。地図にもない、桑島温泉というのもあった。

谷峠はトンネルで越える。背後に白山がよくみえる。いただきに雪をかぶっている。帰宅してから知ったが、8日日曜には、立山で中年の登山者が8名死亡しているのだっ

た。実質的な初雪だったのだ。また、次週、18日前後に寒波が押し寄せ、山は大荒れになる。今回は非常にタイムリ−な企画だったのだ。

谷と暮見のトンネルをくぐると、勝山の市内である。昼だが、もう少し歩を進める。 大野までは12キロほど。その中程に越前大仏なる奇っ怪なオブジェが建立されている。

長岡に近い岩塚の神宮にも匹敵する。 国道沿いなので、ちょっと覗いて行く。大仏本体は伽藍に隠されてみえないが、建物が新しく異様である。観光バスが何台か、停まっている。

ホテルも二軒。駐車場が1時間1300円と高い。沿道の店は客が少ないせいか、半分くらい閉まっている。 

食堂でかつ丼を食べる。量が多い。2時半となる。寛ぎすぎた。 大野といえば、武生工場の妙願哲司の故郷である。 のどかで住んでみたい町である。ここが、冬には、雪の白魔に悩まされるとは想像もつかない。  

郷土館横の道を河原目指して、登り始める。県道大野武生線である。150Mほどのアップだが、災害復旧工事で全面通行止めになっている。 路傍の人に聞いてみると、バイクが登っていったがかえっ

てこないので、通り抜けられるのではないかと言っていた。 上丁地区が最後の集落。

 鬱蒼と茂る杉並木を七十七折りで登る。推奨したい道。峠からは、大野市の全貌を見渡せる。 野津又トンネルの中で、壁面の補強工事をやっており、2トン車が道をふさいでいるのだった。

 …… 只今、チュ−リップの「銀の指環」、「ブル−スカイ」を聞いている。あと三輪車というGSもあったなあ。 僕が小学生の頃のやつらですよ。まったく泣けてくるねえ。

 さて、野津又、中手(なかんて)、小当見(おとみ)、西市布を経て河原(こうばら)に至る。宇野さんに聞いたら詳しく教えてくれるだろうか。 

足羽川を渡ると美山から池田へ続く県道である。既に4時。まあ、込んでいることはあるまいが、宿を予約しておこう。雨曝しの電話帳で池田町役場にかける。きょうは月曜日である。

  すると、役場の人のいうことにゃ池田町に宿屋は2軒ある。(なんか嫌な予感がしてきた) 池田町ったって東西10キロ、南北15キロの広さだよ。僕は自分の耳を疑った。

 とにかく、まずその一軒「紅屋旅館」にかけてみよう。 料理屋兼営

「もしもし、あの〜、今晩お願いできますか?」

「お泊まりですか?」

「ええ、急ですいませんが、2名なんですけど」

「それは残念だったねえ、今日はもういっぱいなんだよ。」

「は?」

「今晩は池田の秋祭りでね、予約でいっぱいなんだよ。ましてそう大きな宿屋じゃ

ないからね。冠鉱泉に電話してみたらどうだね?」

「はあ、そうですか…」

 ここは、池田の中心、稲荷からほど近く、明日のアプロ−チとして最適だったのっだが、満員とあっては仕方ない。

紹介された町営・冠鉱泉に してみる。だめである。

福井から近すぎて、施設の容量が小さくてふりの客なんか寄せ付けないのだ。 

越前、加賀は豊かなせいか、商売っけがない。 現在地、河原から福井市まで30キロ、大野に戻っても同じ。

158号にぶつかったところが美山町というところで、この町内にも、2軒、宿がある。明日のコ−スからはかなり後退することになるが、野宿の装備はないので、寝床を捜さねばならない。 

大野に近い計石(はかりいし)の宿は休業中。福井側の市波というところにある「宇坂屋」は、留守のようである。 まったく困り果てる。

よろずやのおばさんに聞いても、ジャスティに乗ってきた、暇そうな巡査に聞いても紅屋と冠鉱泉しか教えてくれない。

 そうしてるうちにだいぶ涼しくなってきた。 とにかく、福井方面目指して、美山の駅まで北上してみることにした。約6キロの後退だった。でっかい農家ばかりだが、民宿の看板はまったくない。商売をするのは、恥なのか。専業農家で儲かるんだろうな。

 羨ましい土地である。福井出身者がUタ−ン就職に拘る理由がよく分かる。

 美山に着くが、町役場、農協などばかりで宿泊施設はない。越美線の線路に汽車の一両も通らない。一方、国道158号は往来が激しい。

福井に向かって進む。電柱に比較的新しい広告「鉱泉 みらくる亭」がかかっている。新種のラブホテルだろうか。この際何でもいい。 それ有るという市波まで行ってみる。

 市波のバス停から逸れて、丘の上にけったいな建物があった。壁は白、屋根はソフトクリ−ムというか、クレムリンというか赤い二つの尖塔が乗っかっている。

これを作った人のセンスを疑うよ、なんて言ってる場合じゃなかった。近づいてみるとそれは、小学校であった。 思わせぶりだ。しかし、国道の看板にはこの建屋のまんまの絵が描いてあったぞ。 隣は特別養護老人ホ−ム、これから先に何にもなさそうだ。山を下っ

てくる軽トラのおじさんに聞くと、予約がなくちゃ泊まれそうもない、とのこと。

 どこでもそうなんだから。強引に押しこむしかない。さらに暗い山道を300Mほど登る。すると、いかにもできたばかりという風情の3階建てくらいの白い洋館が暗闇の中に現れた。

 20台ほど車が泊まっており、汗まみれの僕たちが上がるには、勇気が要ったが、表から入って行った。 玄関は吹き抜けになっており、闇に慣れた目に照明が眩しい早速、番頭らしき人飛んできて胡散臭そうな顔つきで尋ねる。

「ご予約のお客さまですか?」

「いえ、国道の看板を見つけてやってきました。今日は込んでいるんでしょうね」

「ええ、83名、従業員の部屋まで満杯ですわ。おたくら、バイクですか?、合羽なんか着て」「いえ、自転車なんですよ」

「へえ〜、どこから来なすった?」

「昨日は白山の麓からです。池田町で泊まろうとしたんですが、宿がいっぱいで、下ってきたら、ここの看板を見つけたんです。」

「あ〜、そりゃ遠くから来なさってご苦労だけども、今日はご覧の通りでねえ」

「その〜、宴会場の大広間でもいいんですが、もう福井へ下りるったって、真っ暗ですし、」「それじゃ、宇坂屋さんに聞いてみたらどうかね?」

「はあ、さっき電話したらそちらはお留守のようでしたよ。」

「あそこが留守にするのは、珍しいな。もう一度問い合わせてみて、だめなら考えよう。」

「はあ、それじゃあ、かけてみましょう」

  

 みらくる亭の本館は宴会場だけで、客室は斜面にバンガロ−風に高床式で建っている。

木立ちの中から明かりが漏れてきて風情がある。風呂も別棟で、ガラス張りの湯屋に、

廊下伝いで歩いて行ける。

 

「あの〜、宇坂屋さんですか。今晩お願いしたいんですが、」

「えっ今晩?で何人だね?二人? もうちょっと早く言ってくれなくちゃ、御飯の用意もできないし、」

「ええ、今みらくる亭にきたんですが、どうもいっぱいのようで、」

「うちは温泉じゃないし、みらくる亭みたいなのを期待して来られてもだめだよ。」

「ええ、勿論結構です」

「まったく、ここらは、泊まるときは予約してこなくちゃ、都会とはちがうんだから。」

「はあ、いやまったく何とも」

「それじゃあ、30分くらいしてから来てください。部屋を用意しなくちゃならんもんで。」

 ひたすら下手に出て、こっちも必死であった。郷に入っては郷に従えということか。

一泊4800円である。ここは、元来仕出しや兼魚屋であり、その2階を川釣りする人々のための宿として、開放しているのだった。

 古いが2階は8畳が4へやもある広さ。2階の手洗いが落とし式なのには驚いた。

みらくる亭とは、また違った趣である。

 夕食は魚屋のわりにはしけているというか、よく急にこれだけこしらえられたというべきか、刺身とえびフライ、焼きさんま等だった。テレビがないので、ピン食を買いに国道まで出て、雑誌を買ってくる。

 

10日(火) 晴れ 7:43発のバスで冠鉱泉まで行く。

 冠鉱泉の町営宿舎に8時40分に到着。 志津という集落である。 国道417号池田徳山線、冠山林道を越えて行くと宿の人に告げ、水を汲ませてもらう。

 冠山林道は全舗装。最後の集落 河合を過ぎたあたりから、

池田町登山愛好会の標識がある。

峠までを10ポイントに分けてあり、各々のポイントは1キロ間隔である。

沢を渡る橋にペンキで描いてあったり、トンネルの出口に立っていたり、ペ−ス配分の助けとなった。 道自体も非常に走りやすく、勾配も無理なかった。福井ナンバ−の乗用車が10数台追い越していった。 

 

膝に無理がきているようだった。 峠には11時30分着。寒い岐阜と福井の車が50台ほども停まっている。尾根伝いに冠山でハイキングに行っているのだろうか。 冠鉱泉150M、峠1200M。11キロの道程であった。

おにぎりを食ってそそくさと下りはじめる。60キロの気の遠くなるような長い下り。信濃武蔵国境、三国峠の中津川渓谷に似た長くて緩い下りである。揖斐川の源流に沿って下る。 

徳山村はダムに沈むことが決まり、住民が退去しているところであった。立派な農家が廃墟になっている。 窓ガラスは割れ、軒先に洗濯物が干されたまま雑草が家の中まで侵入していた。 

その傍らで、かつての住民だろうか、家族連れがバ−ベキュ−をやっている。 狭い道を建機がわがもの顔で往来していた。 徳山村は下流の藤橋村に合併されてしまった。

 藤橋村はダム建設の補償金で潤っているのか、藤橋城と称する、奇怪な城と、萱葺きの民家を観光用に建てていた。変に新しい造りで異様であった。

これからが、また長かった殆ど下っていない。長いトンネルを旧道でやりすごすうち、土砂崩れ通行止めのところでタイムロス、近鉄養老線、揖斐駅に着いたのは3時半だった。

乗れる電車は4時29分発大垣までバスで行けないか、などど思案するが無理だった。

 家に電話すると、母方の祖母が、亡くなっていた。 やはり、無理に出てきたのが祟ったのか、と後悔する。 鈍行で品川0:10着で帰る積もりだったが、急遽名古屋からひかりに乗ることにする。 

一気に夢から覚めたといったところ。 上りの新幹線はこんでいた。仕事帰りらしい女性とともに、デッキで2時間膝を抱えて行く。

 

11日(水) 雨 横浜の郊外の、伯父の家に線香を上げに行く。 

東海道線、相鉄とも込み、気持ち悪くなってしまった。 峠の登りは何ともないが、雑踏と迷路のような駅には閉口である。 駅から二山越えて、伯父の家に着く。 希望ケ丘あたりも開発され尽くし、一戸建てと、2階建てくらいの集合住宅が混在している。

 オチがない。 東京は息が詰まる、 とでも言っておこうか。 わがままで贅沢なのかもしれないが。 僕が望むとしたら、住環境の改善だね。

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