8月12日(金)
就寝 4:30
起床 6:30
フジテレビが27時間テレビの被災地中継をする会場設営に、震災ボランティアを使ってたとかいうニュースからたどっていって、
韓国はなぜ反日なのか?っていうサイトに行きついて、長文読んでて遅くなった(^^;;
自己愛(というか我儘)と同胞愛が半端なく強過ぎて、全てを捻じ曲げるのが朝鮮人の特徴であると理解。
しかし、日本国内の政治家や著名人みたいな発言力が大きい人に、在日朝鮮人が関わっているとか、本人が帰化朝鮮人だとかいう例が多過ぎるなぁと思った。
それによって社会を操作されてるとすれば、腹立たしくて忌々しい事だと思いつつ就寝。
今日は夏休み前最後の仕事日。例年通り仕事は午前中までで、午後から大掃除して帰宅。
帰宅する前に、15:30ころから今日は会社の周りを速歩してみた久しぶりに。
じんましんが出る原因が自分でかいた汗であるらしいことはわかっていたんだけれど、速歩で大量の汗をかいたときにどうなるかを知ることで、今後の対処を考えようということで。
日差しが厳しい中、500mlのPETの水を飲みながら、約5km/50分。これ以上早く歩いて運動強度を上げてしまうと、暑くて倒れてしまいそうな気配があったから。
歩きながら分かった事は、速歩で大量に汗をかいてもじんましんが出ないっていうこと。
汗が乾いて皮膚に残る物質がよくない、っていうことなんだろう多分。あるいは仕事しながらかく汗の質が悪いとか。
そして歩きながら、昨晩寝る前に感じた忌々しさを思い出していた。
そして、その忌々しさの源泉は何か?とふと思った。それは恐らく「民族自決」を外国人に邪魔される忌々しさなんだろう、と。
謝罪を要求しておきながら、謝罪を受け入れる気持ちなど毛頭持たない身勝手さ。日本人をこき下ろすことに至上の悦びと誇りを感じるような、ねじ曲がった同胞愛。そんな、私たちとは全く異質な連中が、日本国内で大きな発言力を持っているということに対する恐怖と、そんなことがまかり通っている理不尽さに対する怒り。
とはいえ、「憎まれっ子世にはばかる」とは言うけれどな。キュゥべえみたいな感じかね?隣にいて共存していかざるを得ない、異質の知的生命体。
しかし、在日朝鮮人も何十年とよく日本に外国人として居続けているものだなぁ。無料で帰国する機会もあったし、日本人への帰化も簡単なのに、あえて自分たちは日本人とは違うのだと主張し続けている。マイノリティーで不便さもあるだろうに。
・・・と考えたところで、全く別の考えが頭に浮かんだ。在日朝鮮人を私たちと別のグループであるとする事はとても正常であり普通のことだけれど、でももしそれをそういう風に捉えなかったどうだ?在日4世が生まれるような長い期間を同じく日本に住み続けている同胞(はらから)であるともし考えたなら?
そうしたら、心がふっと軽くなった。
そうだ、お隣さんというかお客さんみたいに思っていたから、その勝手な振る舞いを我慢しなくてはいけないと、そう考えてしまっていたんだな。イライラしながらね。
でも、もうこれだけ一緒に日本で共に生きているわけだから、もう同胞ということでいいよね。
そして同胞であるならば、それぞれが義務を持ち、義務を果たさない者から権利と発言力を無くしてしまうというのは、普通のことだよね。
「働かざる者食うべからず」でいいし、私たちみなの発展と向上を否定する者は社会から排除されて当然だよね。能力の有る者に役割を与えず、いつまでも子供扱いしているのは、失礼に過ぎることであろう?
たとえ韓国籍だろうが、同じ国に住む同胞であるのだから、同じくリスクを背負ってもらおう。
それから、他人をこき下ろすことが最上級の愉悦と正義となっていることの幼稚さに気が付かない様は、見ていて気の毒。
こき下ろす行為は自分の幸福の芽を摘む行為でもあるよね。経験的にそうだと思う。
そういう同胞を救う事が出来ないであろうか?
昔の日本に戻る必要は無い。古き良き日本へ戻そうとする石原慎太郎の心情は支持したいが、それは間違っている。
かつて渡来人が日本人と同化したように、これからは日本に住む者みな同胞として、みな同じ運命を背負って共に生きていくべき。すなわち、日本の発展がなければ我らの未来の発展も無いという運命。これぞ「和を以て尊しと為す」ことなのではないか?
日本人であることを誇り、それに見合った行動ができ、国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う、そんな日本人であろうとすることを、我ら日本に住む者の指針とするのが良いのではないか。
韓国籍を持つ者には、どちらの国に保護してもらおうとするのかをよく考えてもらおう。だから外国人参政権など全く与えてはならない。徴税も差別してはならず、一般的な日本人と同じく支払ってもらう。
迷惑な隣人から、迷惑な同胞へ変わるだけであるかも知れない。
それに隣の国が迷惑な隣人であることには変わりが無い。
しかし、在日を同胞として扱う事の意義は大きいと思う。少なくともお客さんという意識から脱することができるのは大きい。
お客でないのなら、相応の待遇を与えるだけである。
ああ、そうだな。少なくとも私はこれからそういう考え方で行こう。
そしてこう考えたことで、ようやく日本人としての誇りを心に産み出すことができたと思う。隣人たちや在日たちの言に今まで惑わされていた。自分が生まれから間違っているように考えていた。
しかしこれからは、私は日本人として誇りある生でありたいと思う。中国韓国だけでは無い、広い東アジア地域、そして世界全体に貢献できるような役割の一端でも担う事ができるように努力したい。
たとえ世界全てが敵となろうと、一筋の希望に向かって努力することができる心の力は、私の中に確かにあるし、日本人にも確かにあると信ずる。
困難は目の前にたくさん転がっている。しかし、希望は確かにある。私のこの目にも見えるようになった。
第6世界群の1つ、「絢爛舞踏祭」での行動日誌は、今日はお休み。