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 2002年6月資料
4中国 〔丹東→秦皇島〕 遼寧省ホーム 
観光地
通化→省境 吉林省写真館3へ
省境→丹東 虎山長城・一歩国境(一歩跨)
丹東 鴨緑江公園・鴨緑江大橋
丹東→大連 大孤山古建築群
大連 老虎灘・星海公園・旧日本統治時代の建物・旅順(東鶏冠山・水師営会見所・二百三高地)
大連→瀋陽 写真館2へ
●省境→丹東 250km 5.5H 遼寧省ルートホーム

丹東へ '02.7

峠越え '02.7

虎山長城1 '02.7

虎山長城2 '02.7

虎山長城3 '02.7

虎山長城4 '02.7

虎山長城5 '02.7

虎山長城6 '02.7
省境を通り、恒仁を抜けるとすぐに山越えの道に入る。峠と言っても800mほどの高さだが、山々に木が生えているのを見ると、中国の西部の荒涼とした景色に慣れているものにとっては、嬉しい気持ちになってくる。ここから更に4つの峠を越えて行った。丹東の手前10kmほどの所を左に折れ、約20km走ると虎山長城に着く。万里の長城の最東端の関所は山海関で、更に東の老龍頭で海に出るというのが、一般的な万里の長城の認識である。しかし実際には、明代の万歴帝の時代に、山海関から更に北方に長城は延ばされ、ここが終点(起点)となった。その後、長い年月の中で崩壊してしまったが、1992年から史実に基づいて再建が勧められ、現在では700mほどが完成した。

一歩国境1 '02.7

一歩国境2 '02.7

一歩国境3 '02.7

一歩国境4 '02.7
*上の写真は拡大できません
一歩国境(一歩跨)は、虎山長城の真下にある。パンフレットにも、旅行案内にも記載がないので、こんな所にも北朝鮮との国境線が通っていたとは知らなかった。その国境線の一部を一歩国境(一歩跨)と称し、観光地として売り出そうとしている。虎山長城との相乗効果をねらっているのだろう、さすが中国である。
上の写真を見ていただければ分かるとおり、手前が中国で、対岸が北朝鮮である。小川が国境線になっているが、水のないところもあり、距離は10mも離れていない。声をかければ間違いなく届く距離である。3番の写真→対岸に人がいるものの警備兵には見えない。ただのおっさんが煙草をふかしているだけのようだ。後に、何人か集まってきていたが、いずれも農民のようだった。中国側も警備兵が見張っているわけでもなく、緊張感はまったくない。しばらくすると中国側の1人が、飛び石を歩いて行くと、北朝鮮側からも1人歩いてきて、真ん中で何か話しているようだった。脱北の苦労話が新聞・テレビを賑わせているが、ここなら何の苦労もいらずに越境ができる。もちろん、ここまで簡単にたどり着けるとは思わないが。
このように吉林省からずっと北朝鮮との国境線を走ってくると、様々な話が聞こえてくる。
「あちらこちらで物々交換がおこなわれている」「中国からは主に食糧・日用雑貨が、北朝鮮からは銅・動物・高句麗時代の骨董が取引されている」「骨董品は、よく韓国人が買っていく」「95年の夏には鴨緑江が氾濫し、かなりの餓死者がでたようだ」「俺の隣村にも北朝鮮から売られてきた女子学生がいる」「脱北者は15万人ぐらいいるのでは」などなど。報道とは違った生の声が、街に溢れていた。
●丹東 130m 遼寧省ルートホーム

大橋と断橋 '02.7

旧王子製紙 '02.7

断橋 '02.7

丹東 '02.7
丹東は、北朝鮮と鴨緑江を挟んで接している。国境にある辺境都市としては中国最大で、人口は240万人、市内人口は80万人を数える。総人口の32%を満州族が占め、また市内人口の1%程度しか朝鮮族がいないのが特筆される。歴史的にも、古くから中国と朝鮮を結ぶ重要なルート上の国境の街として繁栄してきた。旧満州時代を含め、1965年までは安東と呼ばれてきた。尚、当時は3万人もの日本人がここに住んでいたと言われる。現在の民政局の建物は、かつての市役所であり、金山通りは、かつての掘り割り通りであった。また敗戦後、北から逃げ延びてきた多くの避難民達が、ここに押し寄せたという。しかし橋は、ソ連軍に占領され、渡ることが許可されなかった。すべて捕虜となり、一部はソ連に抑留され、一部は瀋陽の捕虜収容所に集められ、葫芦島経由で帰国したという。その数は7万人にも及んだ。そんな近代史もここにはある。
今でも交通の要衝になっていて、北京とモスクワから平壌への国際列車は、この街を通過している。鴨緑江の港からは、韓国の仁川までの国際貨物船も出ている。その他、国内を列車・船・飛行機(空港がある)が結んでいる。
鴨緑江を挟んで、対岸が北朝鮮の新義州だ。2002年、北朝鮮が新義州特別行政府に指定し、中国との貿易での発展が期待されている。ちなみに丹東市と北朝鮮との貿易総額は約2億ドル(01年)とここ数年10%前後の伸びを示しており、中国から同市を通って北朝鮮を訪れる旅行客も2002年は7万人に達している。
もともと、丹東と新義州の間には二本の橋が架けられていたが、一本は朝鮮戦争(1950年)の際に、アメリカの爆撃で半分が壊されてしまった。そのため壊された橋は、
鴨緑江断橋、もう一本は鴨緑江大橋と呼ばれている。鴨緑江大橋は、かつて日本が建設(1943年に完成)したもので、全長946m、鉄道・道路兼用で、現在は中朝共同管理になっている。北朝鮮に国際列車で行く場合は、この橋を渡っていく。鴨緑江断橋も、かつて日本が建設(1911年頃)したもので、現在は北朝鮮側が破壊され、中国側は保存され観光地になっている。橋には、当時の写真が展示されたり、アメリカ軍による破壊の跡がそのまま残されている。橋からは対岸の北朝鮮がよく見渡せる。中でもよく目立つのが煙突で、ガイドの話によると、旧王子製紙の煙突だそうだ。こんな所にも過去の遺物が残っていることに驚かされるが、こんな遺物を使っている北朝鮮にもっと驚かされた。
鴨緑江は、丹東より40km下流で海に注ぐ。また100kmほど上流には、かつて日本が作った水豊ダム(当時世界一)がある。丹東は、すべての面で発展の要素を持っている。
●丹東→大連 330km 6H 遼寧省ルートホーム

水田地帯 '02.7

大孤山古建築群1 '02.7

大孤山古建築群2 '02.7

大孤山古建築群3 '02.7
丹東から国道201号線を走り、大連に向かう。舗装程度がよく、平らな道が続き、水田地帯も多い。途中100kmほどの所で、大孤山古建築群に立ち寄った。清代中・後期に作られた寺廟だ。下廟と上廟に分かれ、下廟には天后宮・地蔵寺・釈迦殿・関帝殿などが、上廟には薬王殿・王皇殿・聖水殿などが立ち並んでいる。もとの201号線に戻り、更に160kmほど走ると、最近開通した高速道路に出、一気に大連に向かった。
●大連  遼寧省ルートホーム

大連遠望 '02.7

洋風の館 '02.7

老虎灘1 '02.7

老虎灘2 '02.7

老虎灘対岸の別荘地 '02.7

星海広場別荘地1 '02.7

星海広場別荘地1 '02.7

星海広場別荘地遠望 '02.7
丹東方面から大連に入っていくと、最初に見せつけられるのが、大連経済技術開発区だ。広大な敷地にビルや工場が林立し、まさに大連の新しい顔、輝ける中国の象徴のような地区である。1984年に14の沿海開放都市のひとつに指定されたのをきっかけとして、開発区を作り、積極的に外国企業の誘致をおこない、目覚ましい発展を遂げている。特に90年代に入ってからは急激に外資系企業の業が増え、現在では1300社あまり、総投資額は契約ベースで68億ドル、実行ベースで30億ドルに達している。日本企業は、最初にマブチ・モーターが進出し、現在では340社、総投資額は32億ドルに達し、外国企業の中で1番大きいウェートを占めている。まだ製品の70%以上が輸出向けだが、今後は13億人を対象とした中国国内向けの生産にも期待が持たれる。更に、日本・韓国・ロシア・北朝鮮に近い大連は、環日本海地域経済圏の構想の下、積極的に経済発展を目論んでいる。
経済技術開発区を通り、25kmほどで大連市内に入っていく。遼東半島の先端に位置し、東は黄海、西は渤海湾を望み、北方の香港として発展を続け、総人口は540万人を数える大都市になった。
街の歴史は新しく、唐代は寒村に過ぎなかった。当時は良質な青泥があると伝えられ、人々はそれを掘り起こして家を建てたことから、「青泥」という地名が付けられた。ついにはそれが窪地となり、明清以降は、「青泥窪」と呼ばれるようになった。街の本格的な発展は、ロシアの進出が始まった19世紀後半からだ。
東進政策を進めるロシアは、第二次アヘン戦争(1856〜60年)の戦後処理で、英国と清の仲介役となって、清に恩を売り、1860年、その見返りに沿海州(ハバロフスク・ウラジオストックのある州)を割譲し、まずウラジオストックに極東の基地を設けた。1891年、ウラジオストックとロシア本国を結ぶ、シベリヤ鉄道の建設着手、1894年にはウスリー鉄道と呼ばれるウラジオストック・ハバロフスクが開通した。更に、日清戦争(1894年から95年)後の下関条約に干渉して、日本への遼東半島の割譲を阻止。その恩を使って、1986年には東清鉄道(現行のアムール川沿いのルートは難工事のために避けられ、チタより中国経由のウラジオストックのルートがとられた。その中国の部分を東清鉄道と呼ぶ)の敷設権を確保した。1898年には、それまで清の北洋艦隊の基地であった旅順を含む遼東半島南部とハルピンから分岐した旅順に至る鉄道の敷設権も確保した。この時から、大連の建設が始まり、翌年ロシアは「青泥窪」の地名を「遠方」を意味するダーリーニーと命名した。そして、日露戦争(1904〜1905年)後のポーツマス条約で、日本が遼東半島の南部(関東州と呼ぶ)を租借、東清鉄道の一部(長春〜旅順)と安奉線(安東〜奉天)を取得した。その際に新しく付けられた名前が大連である。1906年には、租借地となった関東州を管理する関東都督府を旅順に置き、南満州鉄道の株式会社(満鉄)の本社を大連に移転、本格的な大連の経営が始まり、あわせて都市建設が進み、それは1945年まで続いた。1940年の人口統計によると大連の人口は、59万人(日本人の人口17万5千人→当時日本人が最も多い街)に達した。このような歴史の中、大連は洋風の建物が建ち並ぶ、近代的な都市に変貌していった。
現在でもその遺構は、多く街中で見ることができる。特に、市内の中山広場付近には旧大和ホテル(大連賓館)、旧大連警察署(遼寧省対外貿易経済合作庁)、旧朝鮮銀行(中国人民銀行)、旧大連市役所(中国工商銀行)などが集まっている。その他、至る所に旧日本時代の建物が見られ、旧日本時代の車両を使った路面電車も走っていて、昔の日本を知ることができる。最近では少なくなったが、それでも5月下旬には、「アカシアの街大連」で有名なアカシアの花が街路樹に咲き、年配の方々には、郷愁を駆り立ててくれるようだ。それとは別に、3000人とも言われる現地日本駐在員相手の店の日本語の看板が、街の至る所で目に入る。古い建物をうまく残しながら、新しいビル群が建つ。それが本当の大連だ。また、鉄道網・道路網が発展し、併せて空路・航路も充実している。更なる発展が期待される。
市内は、歴史が浅いためこれといった観光地がない。しかし周囲が海に囲まれているため、海鮮料理店が多く、日本人の口にあった中華料理を食することができる。大連の観光地は、老虎灘と星海公園などの海浜公園と日本統治時代の古い建物ぐらいだ。最近は、それに日露戦争の激戦地旅順が加わったが、全面開放はされていない。一般的な観光コースは、老虎灘→星海公園→旅順になる。
老虎灘は、市内の南東部(10kmほど)にあり、海に面する市民の憩いの場所だ。最近では、鳥(ホロホロ鳥・孔雀)が放し飼いにされていたり、隣接する「海洋動物表演館」ではアシカのショーが見られたりと、一大レクリエーションセンターになっている。
星海公園は、市内の南西部(7km)にあり、老虎灘から海沿いの道を走って行くこともできる。1909年、日本の統治時代に作られた星が浦公園が前身だが、今はそんな古い歴史があったことを思い出せないほど、近代的な公園になっている。回りにはおしゃれなマンションが立ち並び、アメリカの海沿いのリーゾート地のような雰囲気だ。

日露戦争陳列館 '02.7

堡塁 '02.7

日本軍爆破口 '02.7

記念碑 '02.7

水師営会見所 '02.7

会見所内部1 '02.7

会見所内部2 '02.7

旅順港 '02.7

爾霊山記念碑'02.7

203高地 '02.7

露軍塹壕後 '02.7

乃木保典戦死の碑 '02.7
旅順は、清の北洋艦隊が基地としたことから軍港としての役割を担うようになり、1898年には、不凍港を求めていたロシアが旅順を租借。すぐに極東(太平洋)艦隊の母港にするため、旅順を難攻不落の要塞とする工事に着手した。そのため、1904年2月から1905年9月におこなわれた日露戦争では、旅順が激戦地となり、多数の死者を出した。その後、奉天開戦・日本海海戦を経て、戦争は終結。戦後のポーツマス条約では、日本が旅順を租借、その占領は1945年まで続いた。現在も中国の重要な軍港になっているため、長い間未開放であったが、1996年から一部が開放されている。しかし個人での観光は禁止され、必ず旅行社のツアーに参加しなければならない。それでも、軍港に近い海沿いの旅順博物館(ここには大谷探検隊が発掘したシルクロードの貴重な資料がある)などは未開放だ。
旅順は大連市に属し、500平方キロ、21万人が住んでいる。
1898年ロシアは、旅順を租借した後、旅順港を防御するため、半径20kmの範囲、5個所にコンクリート製の堅固な堡塁(要塞)を建設した。
東鶏冠山は、そのうちのひとつで、海抜119m、北堡塁と呼ばれ、ロシア軍の堡塁の中でも最も強固なであった。日露戦争当時、日露軍が4ヶ月にも及ぶ死闘をくり広げた場所である。現在一帯はきれいに整備され、戦史公園のようになっていて、敷地内には日露戦争陳列館も併設されている。周囲約500mの堡塁を見て回るにはたっぷり1時間はかかる。堡塁を結ぶ地下道、日本軍による爆破口・露軍の司令官コンドラチェンコ少将爆死地点など、随所に見学ポイントも作られている。記念碑は、満州戦迹保存会が1906年に建設したもので、高さ6m。脇には説明書きがあり「帝国列強が中国を犯した歴史的な証拠である」、と書かれていたのが印象的だった。日露の戦争であっても、戦場になったのは中国であり、多くの中国の民間人が犠牲を強いられたということを訴えていた。
水師営会見所は、東鶏冠山から10kmほど離れた場所にある。露軍は1905年1月1日に降伏して、激闘を繰り返した旅順攻略(日本軍の死傷者約6万人)は終結した。翌1月2日には旅順開城規約に調印させ、5日に水師営の崩れかかった農家で、乃木大将とステッセル中将の会見がおこなわれた。これが有名な水師営の会見で、この情景が歌にされ、文部省唱歌に収められている。戦前の教育を受けた日本人なら誰でも口ずさむことができるほど知られている。しかしよく誤解されているのだが、これは旅順攻略の終結であって、日露戦争が終結した訳ではなく、この後、更に奉天会戦・日本海海戦と続いていく。
いつ再建されたものか分からないが、藁葺き屋根の粗末な家が、水師営会見所だ。内部には日露両軍の控え室も再現されており、壁には当時の様子を伝える写真が展示してある。ここにも、中国語で記述があり、「1916年に日本植民地当局が、敷地内に軍国主義者を賛美するために水師営会見所の碑を建立した。今日ここは、20世紀初頭、日露の侵略者達が争奪をくり広げた旅順口の物証である」と書かれている。私たちが、日露の間でしか考えない水師営会見所でも、もうひとつの中国からの見方があるのを忘れてはならない。といっても、日本人の水師営にに対する思い入れをうまく利用して、観光地を作りだし、隣には観光客用の立派なレストランを作り、金儲けをしているのは、中国人のしたたかさではあるが。
203高地は、水師営から更に西へ7kmほど走ったところにある。駐車場から頂上までは急坂が続いていて、年輩の方々向けには、籠屋が待機している。「頂上までは2km。30分かかるよ。」と声をかけてくるのだが、近道を通っていったら、頂上まではわずか10分だった。
1904年8月、陸軍による旅順攻略は、旅順を母港とする露軍の極東(太平洋)艦隊とロシア本国から来るバルチック艦隊との合流を怖れた海軍の要請で始まった。準備不足と予想外の堅固な要塞であったため、8月の第1回、10月の第2回総攻撃でも攻略できず、死者の山を築くだけであった。そこで11月27日、戦略目標を変更。主要要塞から外れているが、旅順港に砲撃を加えやすい要地である203高地に総攻撃をかけ、12月6日には陥落させた。橋頭堡を築いた日本軍は、18日に東鶏冠山堡塁、28日には二竜山堡塁と次々に主要な要塞を撃破し、1905年の1月1日に露軍を降伏させた。
203高地は旅順攻略の激戦地で、「203高地」の名前で映画が作られたことから、日本人には忘れられない名前になっている。名前の由来は、諸説あるが、高さが203mあることから名付けられたというのが通説だ。頂上には、璽霊山と記された弾丸形の記念碑が立っている。璽霊山は、203を中国語読みすると爾霊山となるために、乃木希典将軍が名付けた。碑は、戦後付近に散らばっていた薬莢や大砲の残骸を集め、日本製のライフル弾の形に鋳直したものだ。付近は公園になっており、ここから見下ろす旅順の港は美しい。ここを占領後、旅順港の極東艦隊に砲撃を打ち込み、全滅させたという歴史がよく理解出来る。帰路は、別の道を通り、ロシア軍の塹壕の跡、乃木将軍の次男乃木保典氏の戦死の碑などを眺めて下っていった。

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