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どろんこでのびやかに
笑いと涙と感動の第一歩

 TOECフリースクールの小学部「自由な学校」にショウマ、アカネ、トモヤが入学した。いずれも同じ敷地内にあるTOEC幼児フリースクールを卒園したばかり。まさに、ピカピカの1年生だ。
 4月9日は3人の入学式だった。入学式といっても、一般的な入学式とは趣がずいぶん違う。子どもたちが中心となって式次第もその内容も決めているので、おのずと毎年型破りなものとなる。
 今回、新入生はリヤカーに乗せられ登場した。引っ張るのはユウスケ(小5)だ。田植えが終わったばかりの水田をバックに畑を進むリヤカー。手の込んだ演出に、新入生の親たちはもちろん、お祝いに駆けつけている在校生の親たちも爆笑するやら、感激するやらで、早くも泣き笑いだ。そのうちに、リヤカーを引っぱりたくなった新入生が思わず引っぱっているのもご愛嬌だ。
 そんな中、在校生全員による合奏「キラキラ星」の演奏がはじまった。入学式は予定通りにスタートだ。まず、新入生とその親一人ひとりが在校生らに紹介される。その都度、わき起こる拍手が会場を温かく包み込む。
 続いて、学校の代表である僕があいさつした。まず、この学校を選んでくれたことへの感謝を述べ、これから一緒に学校をつくっていこうという思いを親たちと共有した。そのあと、新入生に対して祝福の気持ちをありったけの言葉で伝えたのだが、しゃべっているぼくまで感極まってしまった。それだけ、新入生を迎えるのはうれしいことなのだ。
 次なるプログラムは、新入生歓迎の在校生出し物大会だ。一瞬で終わるミト(小4)の皿回しがあったと思えば、ソウタ(小5)は練りに練った新作小話を披露する。ハルト(小2)は、一つのコードだけをかきならすというウクレレの演奏!?で、「ホタル」と「げんこつ山のタヌキさん」をメドレーで披露。どれも大爆笑なのに、なぜか胸が思わず熱くなる。あたりを見回すとスタッフや新入生の親たちも涙目だ。
 「はじめの一歩。明日に一歩。今日から何もかもが新しい♪」。自由な学校の愛唱歌歌われ始めると、いよいよ涙がとまらなくなった。お祝いの言葉が在校生の親からかたられ、新入生の親も素直な今の気持ちを語る。「あったかい雰囲気の入学式に感激した。うれしくて涙をこんなに流すなんて」。ピッピ(アカネの母)は言葉を詰まらせるほどだった。その後、「うれしすぎて怖いくらい。何かいやなこと起きないかな」とも漏らしたので、またまた大爆笑の展開となった。
 あったかい雰囲気の入学式は僕が知っているどんな式典よりもおごそかで、厳粛でもあった。親やスタッフの泣きはらしたかおから」こぼれでる笑顔が美しかった。
美しい遊びの宝庫 なぜ(2008年4月1日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 まもなく田植えがはじまる。下準備のため、午前中いっぱいかけて田んぼの畦の草刈をした。
 実は、僕はこの草刈りがあまり好きではない。なぜかといえば、雑草と言われる草々が大好きなのだ。スズナ、ホトケノザ、ノビル、ヨモギ、スズメノテッポウ、オオイヌノフグリなど、どれも見ていて飽きることがない。作られた花畑よりもずっと美しいと思う。
 さらにもう一つの理由は、草々が子どもたちにとって格好の遊び相手だと思うからだ。今日もすぐ近くでホウサク(5歳)がホトケノザを摘んではぺロリとなめて、かすかな甘みを感じては喜びの表情を浮かべている。ホダカ(小3)はスズメノテッポウの草笛を「ピーッ」と器用に鳴らしている。自然の草々は素朴な遊びの宝庫だと思う。そのすてきな草々をあそこまで根こそぎ刈り取ってしまう意味が僕には理解できないのだ。
 TOECフリースクールの農園は、僕の両親と長兄が持っている。農業者には「畑で必要な草は一本もない」という言葉がある。母に言わせれば、家の片付けが出来ていないことより、畑の草が生えっぱなしになっていることの方がよっぽど恥ずかしいという。
 TOECでは、稲作も野菜づくりも極力無農薬で育てているが、僕は「冬水田んぼ」(冬の間ずっと田んぼに水を張り多様な生き物を循環させるやり方)や「有機不耕起農法」(草も抜かず、土も肥やさない究極の共生型農法)など徹底した自然農法の実現を目標にしている。なぜなら、自然農の理念は子どものありのままを認め、ともに育っていくフリースクールの理念に重なり合うからだ。
 だが、すでに書いた通り、長年続けてきた農業についての考え方があり,今さら変えるのは難しいだろう。確かに自分の信念を主張するのは大事だ。でも、僕には、とことん持論を押し通すつもりはない。かたくなに貫くことで母を精神的に追いつめたくないからだ。草刈は不満足ながら、妥協点であるのだ。
 午後からはカボチャとキャベツの苗をたてた。1aにも満たない苗は「くん炭」(モミガラを炭化させたもの)と土を混ぜ合わせた苗床に植えていく。今年76歳になる母を前に、僕は作業のスピードもていねいさも遠く及ばない。ある程度育った苗を畑に植えなおすまでの間、過不足なく水をやるのはけっこう気を使う作業だ。ここでもまた、苗に対する母のこまやかな気づかいや臨機応変な対応に驚かされる。「農業者は教師の100倍の教育力を持つ」という宮沢賢治のことばは言い得て妙だ。
 「まずは農業者としてしっかり働き、学ぼう」。早々と痛くなった腰を伸ばしながら、ぼくは心の中で小さく叫んでいた。
子の意見 聞いてますか(2007年11月17日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 カウンセラーの六浦基さんはよく、「問題のある子どもはいない。問題のある親と不幸な子どもがいるだけだ」と若い親を叱責していた。何とも手厳しい言葉だが、子どもを悪者にしないで、親がどうあるのかを見つめ直すという点においては僕も同感だ。では、
 ただし、六浦さんのいう問題のある親も、そうならざるを得ない事情や気持ちがあるはずだし、そもそも問題のない親などいないのだから、自分の問題に気付き、互いに受け止め合えるような「育ちあう場」こそが大切だと僕は考えている。TOECフリースクールは、そういった意味で親やスタッフが育ち合える場「ペアレンツグループ」を月2回開いている。
 2回のうち1回はフィーリンググループといって、子育てに限らず困っていることや悩んでいることなど「今の気持ち」に焦点をあて、互いに丁寧に聴き合う場だ。その場は悩みや問題の答え、j解決を目的にしてはいない。自分や他者の気持ちに丁寧に触れることで、見失いがちな自分を取り戻し、追いつめられがちな気持ちに風を入れることが目的だ。
 もうひとつの場は親子や夫婦関係が楽で意味深くなるためのレッスン、コミュニケーションだ。先日は、あらかじめ子どもが投げかけてくる言葉へ応答を書いておき、それをもとに、2人組で親役と子ども役を交代で演じた。普段自分が言っている応答を相手(子ども)の立場で聞くとどう感じるかということを理解する演習だ。
 子どもの「僕ワカメ食べられない」という言葉に対して、親からは様々な応答があった。@「なんで食べられないの」(理由を探し、親が頭で納得したがっている。)A「好き嫌いはダメよ、ちゃんと食べなさい」(頭ごなしの禁止、命令)B「おいしいよ。栄養あるのよ。大きくなれないよ」(説得やアドバイス)C「はい、がんばって!えらいね。すこしずつ。すごいすごい」(激励、ほめてコントロール)。
 他にも様々な応答があったが、@〜Cどれも子ども役で聞いてみると、自分の気持ち「僕ワカメ食べたくない」という気持ちが親に届かなかった。
 親の意図は意図として、大切なのだが、「ワカメ嫌いなのね」「食べたくないのね」と共感的理解を示すメッセージがあって初めて、心のキャッチボールが成立する。皆さんはどんな聴き方をしていますか。まず子どもの意見を聞いていますか。そして自分の気持ちを誰に聞いてもらってますか。
大人も自分を取り戻す日(2007年11月3日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 今日は親子でフリースクールの日。モーニングミーティングの口火を切ったのは、スタッフのシーサーだ。「早起きしてメチャクチャ感動しました。ちょうど朝日が昇ってきて、しかも満月はまだ沈む前で・・・。えーと西だっけ東だっけ?とにかく両方あったの!」
 「おいおい、太陽も月も昇るのは東、沈むのは西よ」と、すかさず何人もから、つっこみを入れられるシーサーは「あ、そっかー」と屈託のなく高笑いしている。
 フリースクールは親も子もスッタフも、誠に垣根のない付き合いをしている。親子でフリースクールとは、参観日のようなものと言えるが、決定的にちがうのは、親が子どもの様子を見る会ではなく、親もフリースクールの一日をそれこそ子どもになって体験してもらうところなのだ。この日を楽しみにしている親も少なくなく、アカネ(5)の母ピッピは、思いっきりどろんこ遊びをやるために、シャツの下に水着を着込んでくる熱の入りよう。頭からつま先まで全身どろんこにしておおはしゃぎ。まったくもって、「お見事」である。
 モモコ(6)の母、サンキュは、懸命にのこぎりをひいている。真剣な表情から集中ぶりがうかがえる。その隣ではトモヤ(6)が、片足で竹をふみしめ、手早くのこぎりをひいている。公平に見てもトモヤの方が数段、様になっているのは日々の活動のたまものだろうか。
 マナミ(6)の母ポコちゃんのやりたいことは焼きイモと昼寝。その横ではトモヤの母、ナカちゃんがウクレレを練習中。たどたどしい音が心地良い。こんなゆったりモードも、得難い空間だ。
 マナミの父、谷パパとユウタ(6)の父マークが、ペンキの落ちたフリースクールの看板を塗り直してくれた。気になりつつ、手がつけられずにいたので、なんともありがたい。しかも、楽しくやってくれているから、素晴らしい。
 フウナ(6)の母リョウちゃんが持参した阿波踊りの笛を吹き始めると、太鼓をたたく子が出てくる。青空に抜けていく音が爽快だ。合わせてサオリ(7)とフウナが小気味良く踊りだす。これがまたうまい。しだいにのってくる2人。手拍子もわいて、良い雰囲気。
 誰からも強制されることなく嫌なことは嫌、やりたいことはやりたいと言える場で、自分の内なる声に沿って活動した一日。何かと忙しく日々を過ごし、自分の気持ちを後回しにしがちな大人にとって、自分を取り戻す絶好の機会になったようだ。晴れ晴れとした表情で、すっかり優しいまなざしのお父さん、お母さんになった。フリースクールを必要としているのは、本当は大人の方なのだろう。満開のコスモスまで一斉に笑っている。
場の流れを感じる柔軟さ(2007年10月6日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 野鳥のミサゴがTOECフリースクールの前を流れる岡川の上を何度も旋回している。時折、水面ギリギリまで舞い降りては、また空高く浮上する。「狙ってるな」と思いながら、周りに居合わせたお母さん方にミサゴを指さし、そのことを教えた。まさにその時だ。「バッチャン!」と水音を立てて、ミサゴは一直線に川へと突っ込んだ。「ほらね!」と予想的中で、得意満面の僕。そんな僕をほったらかしにして、お母さんは「ウワァー」と驚嘆しきり。あんまり驚き過ぎて、ミサゴの飛び立つところを見逃してしまったが、きっと大きな魚をわしづかみにしていたことだろう。あぜ道はヒガンバナの赤。そしてコスモスがゆれている。秋の光景だ。
 アカネ(5)がまだ少々青い柿を食べながらやってきた。「カラスが実を食べに来るけん。タツロウはよう『オドシ』を取り付けんと」とハルヒサ(6)がせかす。オドシとはカカシやポリ袋を取り付けて、鳥を追い払うもののこと。ハルヒサは、柿の木にしょっちゅうカラスが来ていることが心配でたまらないようだ。
 僕にしたら「オドシを取り付けるよう」なんて言ってくる6歳がいること自体が愉快で笑えてくる。
 夕方、トラクターでフリースクール前の田んぼを耕す。トラクターのすぐ後をシラサギが並んで歩いている。耕された土から飛び出してくる虫をついばむためだ。見慣れた光景だが、この奇妙な共存風景も笑える。
 翌朝フリースクールに到着すると、ふかふかに耕された田んぼでは、すでのたくさんの子どもがそれこそ転げ回りながら、走りに走っていた。ペーターやシーサーらスタッフも含めて皆裸足だ。これがまた気持ち良い。
 全員集合して行われるモーニングミーティングの時間はもう過ぎている。スタッフのスガはそんなのおかまいなしに、登校してきた子どもたちを次々と「ほら行っといで」と気前よく田んぼに送り出す。「こんなに気持ち良さそうなふかふかの田んぼが広がっているんだものね。特別よ」。見守るスガも自然とニコニコ顔だ。場の状況や流れに沿ったこんなフレキシブル(柔軟)なところも子どもが伸びやかに瞳を輝かせる秘訣だ。場の流れ(プロセス)に沿うには、居合わせるスタッフの流を読み取る力、感じる力が必要だ。加えてそれを調和的な活動として、デザインしていく役割もある。フリースクールは自然や個々の好奇心、関心を起点に遊学を進めるところだ。学びのプロセスを止めない、開いた感性が常にスタッフには問われている。
 秋の空がどこまでも高い。
ひとりと独りぼっちは違う(2007年9月8日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 依然としてダイチ(小3)はフリースクールの玄関前の日陰に座り込んでいる。せっせと泥団子を丸め続けているのだ。僕が朝その前を通りすぎる時、「たくさん作ったね」と声をかけたら、ダイチはうれしそうに笑い返してきた。やがてお昼なのであれから2〜3時間はたっているはずだ。
 「43個作ったよ」。今度はダイチのほうから話しかけてきた。整然と並べられた泥団子を前に僕はただただ感心して「おもしろいんだね」と言うとダイチは「うん」と力強くうなずき、そして満足そうににっこり笑うのだった。
 丹精こめてひとつひとつきれいに丸められた泥団子は、ダイチがこの間、いかに充実した時間を過ごしていたかを如実に物語っている。実はこの間、こうしてダイチに声をかけたり、かかわりをもったりしたのは僕だけではない。前を通るたいていの子は、一度はなんらかの声をかけたりかけられたりしている。
 まったくダイチは別な遊びを、別な場所でやっている子どもですら、ダイチのこの泥団子のことはよく承知していた。ダイチはひとりで泥団子をひたすら作り続けたが、決して独りぼっちではなかったのだ。
 以前から感じていたことだが、ここ数年、極端にひとりになることを恐れている子どもや若者が増えているような気がしてならない。キャンプ中の活動はおろか、トイレにいくことまで必ずカップリングと呼ばれる固定された2〜4人組で行動するのだ。ランチタイム症候群と呼ばれるらしいが、お昼ご飯を一緒に食べる人を見つけられないのではないかというプレッシャーで学校や職場にも行きづらくなっている人も珍しくないらしい。
 身勝手なわがままや心を閉ざして引きこもることを良しとしているわけではないが、周りと同調することだけにとらわれすぎている今の風潮はなんとかならないものかと心から心配している。
 ひとりでいることができて、はじめて人は2人でいる(協調する)ことがでいるといえる。ひとりでいることを温かく見守られる共感の中でこそ、真の協調性も育まれるのだ。
 さて、実はこの泥団子、この後大雨に打たれて無残にもすべて壊れて、溶けてしまった。ダイチの心中はいかばかりかと思ったら、「一番大事なのはここ」と靴箱の中にしまっておいた泥団子をうれしそうに見せたそうだ。そして周りの子もスタッフもそのことを自分のことのように喜んだのだった。
自分への肯定感こそ力(2007年8月25日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 「どろんこでのびやかに」と言いつつも、TOECフリースクールを卒園もしくは卒業後、公立の小学校や中学校にうまく順応できるだろうか。TOECフリースクールを選択するうえで気がかりなこととして、よく受ける質問だ。
 この点答えは簡単で、卒業した子どもは皆、小学校、中学校の枠組みにその子なりの順応をして、個性的にやっている事実がある。
 多くの方の予想や心配とは逆に、担任の先生からは、先生の話をよく聴き、何事にも意欲的、他人に対して寛容、身体能力・体力が高い・・・などなど高い評価をいただくことが多い。
 今春、幼児フリースクールから地元小学校に入学したヒカル(小1)もその一人だ。ヒカルは小学校が楽しくてしょうがないらしい。ある日の授業でヒカルが皆の前で音読している時のこと、読めない字が出てきてヒカルの音読は中断した。周囲の子から失笑が漏れたのを先生は厳しくとがめた。熱心さのあまり、先生の叱責はヒカルとは無関係に延々と続いたそうだ。この話を聴いたヒカルの母ミノちゃんは、「皆に笑われていやだっただろう?」と確かめた。ヒカルは意外にも「それは大丈夫」と明快な答え。そして、キッパリとした口調で、「僕はただ、なんと読むか知りたかっただけだった」と答えたそうだ。
 フリースクール卒業の子どもに共通していえることだが、彼らは自分の弱さや今の不十分さをサラリと受容している。このことは誠に「アッパレ」だ。なぜなら、世間の子どものみならず、我々大人も、人の目や評価、また他人との比較にほとほと振り回されているからだ。自分への自信(セルフエスティーム)の有無は、何かができる、できない、強い、弱いということに由来しない。自分の存在そのものへの肯定感なので、ありのまま、まるごと受け止められるところからしか育ちようがない。
 それはTOECフリースクールが子どもとのかかわりで、最も意図するところである。念のため付け加えるが、ヒカルは開き直ったわけでも、単に鈍感なわけでもない。比較の世界で生きていないだけなのだ。
 目崎の学力より僕はこの力を支持するし、究極の力として、信頼もしている。
 大人の自分への自信のなさは、成育歴で負った傷やコンプレックスとつながって子どもを無自覚に支配する不幸な連鎖を生む。「ただ知りたかっただけ」というヒカルのまっすぐな目線は、我々大人の目線を正してくれる。
生涯を支える無人島の日々(2007年8月4日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 毎週1週間、沖縄県の渡嘉敷島にほど近い無人島「儀志布」で行われるTOEC沖縄無人島キャンプが今年で20周年を迎える。無人島の周囲は60種類以上のさまざまなサンゴ礁に囲まれている。透明度60メートルの美しい海には色とりどりの熱帯魚はもちろん、1メートルもあるローニンアジやウミガメ、マンタも姿を見せる。島には野性のヤギが生息し、アダンの林には大人のにぎりこぶしより大きなオアカヤドガリが無数にいる。白い砂浜、コバルトブルーの海、緑の島陰……。いくら期待してもらっても決して期待を外すことはない。まさに楽園だ。
 昨年他界された海人・古波蔵茂守さんのサポートでタコ・イカ・エビ・シャコ貝・サザエなど必要な分だけ宝の海からいただく。ミーバイ・ブルクン・オジサンと釣れる魚はどれも珍しく、思いのほかおいしい。
 20年の思い出は感動的でいつまでも色あせない。夜中にすっぱだかで海に浮かびながら語った当時小6のヒロユキは波に揺られながら僕に一言、「男同士やなあ」。そのヒロユキも今や医大生だ。
 あまりの星空の美しさに、夜中浜辺で隣に寝ていた当時中2のジュンを起こす。目を覚ましたジュンの目にいきなり満天の星が飛び込んでくる。感嘆のため息の後一言、「星じゅう空だらけや」。そのジュンもこの島で、海とともに生きることを決意し、水産高校から水産大学校へと進んだ。
 スコール(通り雨)が来るといち早く、さっそうとビキニになり、シャンプーをしていた通称ワサビは、今秋4人目の赤ちゃんが生まれるたくましいお母さんに。向かいの島の滝へ水浴びに行った際、見つけたテナガエビを素手で次々と捕まえて周囲を驚かせていた当時小6のユウスケモ昨秋に結婚した。
 20年前、第1回沖縄無人島キャンプに参加した当時小3の近藤君の日誌には、最後のページにクジラのイラスト入りでこんな俳句(!?)「オキナワやクジラとびこむ水の音」が大書きされていた。ばかばかしいが、何ともおおらか。その近藤君も30歳を超えているはずだ。
 そして今年も8月24日から、1週間無人島キャンプが開催される。過剰な刺激、モノ、情報、便利さ、それらをすべてリセットしてくれる無人島での暮らし。「僕が僕であっていい」。生涯を支える美しい日々を今年も子どもたちと僕はともにつくる。申し込み、問い合わせはTOEC(088・626・3436)へ。
時には父性的な愛も必要(2007年6月16日)イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 アキヒロはまだ3歳。今春からTOECフリースクールにかよいはじめたばかり。送迎車に乗って上機嫌にやってきたと思ったら、車から降りる際、着替えのつまった自分の身体ほどあるリュックサックを抱えそこねて転倒。「ウワァーン」大泣き。見事な泣きっぷり。
 いち早くアカネ(5)がやってきてやさしく顔をのぞきこみ頭をなでる。そしてアカネにも重いであろう自分のリュックサックを片手にもちかえ、もう一方の手でアキヒロのリュックサックを抱きかかえていった。アキヒロはピタリと泣きやんでいる。そしてはにかみ笑いをうかべながら甘えるようにアカネの後にくっついていった。「今泣いたカラスがもう笑ろうた」。僕のはやし言葉などまったく耳にとどいてない。
 TOECフリースクールは現在総勢30人。幼児部(3〜5歳)18人、小学部(6〜12歳)12人。学年による組分けはなく、幼、小それぞれ1クラスで仲良く遊学している。様々な遊びから教科学習に近いことまで自然に教えあい、助けあっているのだ。それはひと昔前のガキ大将グループのようだし、寺子屋のようでもある。地域の子供社会が消え、塾や学校の同学年のかかわりに偏りがちな今の子供たちにとって、このタテ社会経験は貴重だ。「聞いたことは忘れる。見たことは思い出す。体験したことは身につく。人に教えたことは使える」は体験学習法の中心概念。体験的に身につけたことを使えるようになる仕組みがフリースクールに育っているのだ。
 もちろん好ましいことばかりでもない。フリースクールにもイジメに似たような状況は生まれる。子供は時に残酷な一面を見せるものだ。感情的な対立から1対1でぶつかることはある意味健やかなことだが、集団で1人を攻撃する構造はどんな理由があろうと不適切なことだ。エスカレートするとイジメる側、イジメられる側双方に暗い陰を落とす。
 そんな時はスタッフはちゅうちょすることなく介入する。イジメの構造の外から素直な視点を伝え、イジメの言動をガツンと止めることが大切だ。歯止めの利かなくなった言動は子供の「誰か止めてくれ」の叫びでもある。大人には、やさしく保護する母性的な愛だけでなく、時に厳しく指示や禁止をする父性的な愛が必要な時がある。人格を傷つけるおしつけであってはならないが、大人の自己責任がイジメの問題から問われているのだ。

遊んで学んで収穫作業(2007年5月12日)
イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)
                                                
 不作にないた昨年とうってかわって今年は玉ねぎ大豊作。
 4月早々から間引くように抜かれる若い玉ねぎは「葉玉ネギ」と呼ばれる。市場に出ることはないが、この葉玉ネギは絶品。肉や魚とも相性が良く、スキヤキや煮魚の具材として、また天プラや野菜いためにと、どれもこたえられないおいしさだ。緑の葉まで全部食べるというのも無駄が無く気分が良い。近隣の農家の人の中にも「ネギはキライだけど葉玉ネギは好物」という人がいたり、玉ネギよりも葉玉ネギの方が重宝がったりする人もいるくらいだ。TOECフリースクールも葉玉ネギで食べる分をみこして大量に苗を立てているのでこの間、子どもたちは葉玉ネギを十分にたんのうした。ぜいたくぜいたく。
 玉ネギの収穫のタイミングは葉っぱの部分がたおれることで教えてくれる。昨日は日暮れまでかかってスタッフ総出で丸々と太った玉ネギぬきをした。ひきつづき今日は根と余分な葉を切りおとし、それを4〜5個ずつ結わえて、軒下につりさぜる作業をした。こうしておくといつまでもくさらずに食べられるのである。
 青空の下、地べたに座り込んでの作業は楽しい。玉ネギの香りは強烈なのだが不思議と気分がなごむ。調べてみると玉ネギの香りには気持ちを落ち着かせる効能があるということがわかった。納得。
 ホウサク(4)とハルヒサ(5)がやってきてせっせと僕の前に玉ネギをつみあげてくれる。2歳の僕の息子タイヨウもハサミで葉っぱや根っこを切り落とす作業にかかりっきりだ。手つきはあぶっかしいが大助かり。フリースクールの子は皆働き者。5月というのに今日は気温が30度をこえる真夏日。暑い。汗をいっぱいかきながら水筒の水をぐいぐい飲む姿は小さいながら何と力強いことか。
 もちろん、彼らはお手伝いばかりをやっているわけではない。隣に植わっているソラ豆を生でかじってみたり、ちょうちょを追いかけたり、切りとった玉ネギの葉の上にねころがったりと遊び半分。いやこれは全部遊びだし、全部学びでもある。
 子供をとりまく現状は、遊びといってもゲームやビデオに偏りがちだし、学びといってもおけいこごとや能力開発など○○教室の形をとったものに偏りがちだ。そのせいで感情があまり動かないなど、子供たちの心に深刻な影響がではじめている。またエアコンで快適な室内にばかりいるため、まるで気温や湿度の変化に対応できないなど、これまた体への深刻な影響が出はじめている。健やかなスリースクールの子らの笑い声が生活体験の大切さを大人たちに教えてくれている。
エコや食問題・・・広がり(2007年4月7日)

 TOECフリースクールから今、手づくりの箸袋に手づくりの自分の箸を入れ、持ち歩く「マイ箸運動」が広がっている。
 発信源はスタッフの通称プーさん。某市民派県議の出している通信のコラムを読んだのがきっかけ。それによると、日本で1年間に消費される割り箸は248億膳(新築木造住宅2万軒分)。のうち、材料の97%を占める中国では、森林が激減してしまっているというのだ。そのせいで黄河が干上がり、生態系がくずれ、洪水や黄砂の発生も深刻になってしまっている。
 一方、日本は豊かな森林が手入れされず、放置された結果、森林としての機能がおとろえ、土砂が流出し、災害や、川や海の水質悪化をひきおこしている。マイ箸には中国や日本の山を守り、温暖化を食い止め、子供たちの未来を守っていきたいというメッセージがこめられているのだ。
 プーさんらはマイ箸を愛用する人なら誰でも入会できる「ちょいエコクラブ」を結成し、「おはし袋ちくちく隊」と称して不用の服やはぎれを集めて箸袋づくりにはげんでいる。この活動、大いに共感を呼び、フリースクールの親御さんはもちろん、子供たちの関心も集めている。ナイフ片手に箸を削り、自分用の箸袋をうれしそうに持ち歩いてのだ。ヒロちゃん(ミヅキ・小1の母)なんぞは公園などで割り箸を使っている人に直接声をかけ、ちょいエコクラブの趣旨を大いに語り、活動の輪を広げているというのだから驚きだ。
 こういった活動は何より当人たちがおもしろがっているところがポイント。ある日はマイ箸をもったものの、いまひとつ食堂などで使うのに抵抗があるという話を聞きつけ、お昼ごはんをうどん屋さんでいっしょに食べてマイ箸デビューをサポートしたり、高松にあるマイ箸をもっていくと安くなる店へのツアーを計画したり。何ともゆるやかで楽しそうだ。
 そして、このマイ箸がきっかけになって環境やゴミ、食の問題などに関心が高まり、マイ箸だけでなく、エコバックを持とう、つくろうとなり、省エネやスローライフに目が開かれるなど、その学びの広がりははかりきれない。そして何より、政治や社会の関心が高まり、市民として目覚めていっていることも意義深い。
 TOECフリースクールのプーさんと子供たち発信のこの小さな箸袋運動が、あらゆる生命の循環を守るムーブメントに広がっていくことも、あながち夢ではないとマイ箸を手にワクワクしている僕である。
元カウンセラー2人☆(2007年3月10日) イラストTOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 12日、TOECフリースクールのあるTOEC農園で手づくり結婚披露パーティが開かれる。幸せな2人はTOECキャンプカウンセラーOBのココイチ(矢田圭吾さん)とおたま(白石真弓さん)。ココイチは医大生なので、今春の卒業を待って結婚とあいなった。
 ココイチはキャンプのたびに、医学書と着替え等のキャンプ道具をつめこんだ重いバッグとギターを肩からつり下げ、はるばる徳島市から阿南市のTOEC農園まで自転車で駆けてきた。パワフルなのは体力だけではない。キャンプ中もまさにガキ大将として子供たちと少々やりすぎ?と思われるほど手加減なしに遊ぶ。当然子供たちからも大人気で、ココイチの参加するキャンプを選んで参加を申し込む子供までいたほどだ。環境や、自然保護の住民運動にも積極的で、若者の政治参加を促すリーダー的存在でもあった。まさに文武両道を地でいく快男児だ。
 一方のおたまもココイチに負けず劣らずキャンプや住民運動にたくさんの汗と涙を流した。キャンプ中グループになじめずしずんでいる女の子の傍らでその子の気持ちに耳を傾け続けるおたま。あれあれ女の子は泣いていないのにおたまが涙々になっているではないか。一生懸命、その子の心情察するあまりおたまの方が辛くなってしまったのだ。キャンプカウンセラーの専門性からすると、感情移入しすぎでほめられたものではないが、僕はこの心優しいおたまにたいそう感激したのだった。おたまは念願の臨床心理士に先日合格し、カウンセラーの道にすすんでいる。おたまのようなスクールカウンセラーが学校に居たら孤立化する子供たちがどれほど救われるだろう。
 化粧どころかススで汚れた顔や寝ボケた顔も見せあわざるをえないキャンプカウンセラーたち。ときに2週間も寝食を共にするのだから、とりつくろってもめっきはすぐはがれ、おのずと本性、本音が見えてくる。そんなキャンプで育まれた友情は恋愛をも超越しているかのようだ。それだけに長く大切に愛を育んできた2人を僕は心から祝福する。県内外から集まる100人近い仲間も同じ気持ちだろう。
 4月から2人はココイチの医者としての最初の赴任先、沖縄で生活をスタートする。TOEC沖縄キャンプが一段とパワーアップすること間違いなし!
遊学自在 くつろぎ堪能(2007年2月10日)イラスト・TOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 TOEC自由な学校(TOECフリースクール小学部)の「親子で自由な学校」(参観日のようなもの)はユニークだ。参観日のようといっても、親は子供の様子を参観するわけではない。親も自ら自由な学校の生徒になって一日体験してもらうのだ。
 ファミリー紹介が終わったら、親子別々になってモーニングミーティング。困っていることや今日やりたいことを話しあった後は、「静かな時間」と名付けられているいわば「自習」のような時間。特に決められた内容は無く、子供たちは漢字や計算の練習、教科書やドリルをつかった学習等をレベルやペースにあわせておのおのがとりくんでいる。ルールはシンプルで「静かにいること」だ。
 この日の親たちの静かな時間はというと、ユキオ(ミト・小2の父)は早速すずりを出してすみをすりはじめる。憲法の前文を毛筆で書くらしい。ヒロちゃん(ヨコテミヅキ・小1の母)は絵てがみをかきはじめた。ヒトミ(フジイミヅキ・小4の父)はセンター試験が載っている新聞をもってきて解きはじめている。
 1時間足らずの静かな時間後、舞台は田んぼや畑へとしだいに広がっていった。読書、習字、絵てがみ、ピアノ演奏、脳トレーニングドリル、キャッチボール、サッカー、凍り鬼、コマまわし、メンコ、なわとび、語り合い等々すっかり童心にかえった親たちの遊学は多種多様で子供同様バイタリティーに富んでいて、しかもくつろぎに満ちていた。
 以下は親たちの感想の一部。「自由な学校の子供たちはこのペースで6年間過ごしているのだ。単純にうらやましい」(モトヒロ、ソウタ・小3の父)。「たのしかったー。おもしろかったー。とことんあきるまでやれる時間があった。それを横でちゃんと感じながらみていてくれるスタッフがいた」(マサヨ、フジイミヅキの母)。「今日は何しようかなと(考える)間があった。いつもは追われていてあの間がない。元気をもらった実体は自分を感じるあの間にあった」(エッチャン、ホダカ・小2の母)。「全身全霊で没頭。気持ちよかった。すごいことやってる自由な学校の子供たちを肌で感じた」(タカコ、トモキ・小1の母)。
 親の瞳も子供以上に輝いていた。子供へのまなざしは共感と尊敬にみちていた。そしてそのことは子供にとって何よりの成長の糧となっているのが見てとれた。
小さな焚き火 心も温か(2007年1月27日掲載分) イラスト・TOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 それぞれの1日のプランを話しあってきめるモーニングミーティングでスタッフのペーターから「外でごはんを炊こう」との提案。ミーティングが終わると、さっそく賛同した子らとごはん炊きにとりかかる。
 3升だきの大きなお釜にお米をはかり、てぎわよくといで水をはる。米を浸している間に薪の準備。山積みにしてある薪は近所の材木屋さんに製材するさいに出る材木の切れはしを定期的に分けてもらっているものだ。思い思いに手ごろな木ぎれを引っぱりだして、机などに斜めに立てかけ、足で踏みつけて折る。踏みそこねてケンタロウ(5)がひっくりかえる。
 小さな子供たちのこうした作業(遊び?)は懸命さが伝わってくるだけに、よけいほほえましくて笑えてしまう。折れた木が勢い余ってあちこちにとびちったり、逆に思いのほか木が折れにくくて足が痛かったりと、少々危険や悲鳴のあがる傷みもつきまとうが、けっこうけっこう。ハラハラしながらも口出しせず見守ることが肝心だ。
 ふわりと丸めた新聞紙の上に足で折った木切れをつみかさねていく。細いものから太いものへと順に空気のとおりがいいようにしないと燃えない。皆、経験からよくこころえていて、マッチで火をつけると待つこともなく、すぐ煙が上がり燃え上がる。「はじめチョロチョロ、中パッパ」の要領で随時薪をくわえること20分弱。皆たのしそうだ。フタをあけると、もうもうと湯気があがり、たきあがったごはんに歓声があがる。昼食時、「オレここが好きなんよな」とハルヒサ(5)がおこげのところを指さしてうれしそうに言ったので、僕も「そうそう!」と相づちをうっていっしょに笑った。
 今やめったにお目にかかれなくなった焚き火の風景。TOECフリースクールではそれが日常の中にあたり前にとけこんでいる。オフロを毎日薪でわかしたり、この日のように外で調理をしたりしているせいもあるだろうが、子供たちはそもそも焚き火が大好きなのだ。(大人も!)だから一年をとおして煙のたちのぼらない日は稀だ。
 火をつかいこなすことによりヒトは人間へと進化していったと言われるが、そういった「道具としての火」以外の面でも、火には心をなごませたり、癒したりする不思議な力がある。小さな火があるだけで身体はもちろん、心まで温かくなる。親も子も小さな焚き火を囲むとなぜかひとつになれるのだ。
自然たっぷり 心癒す(2007年1月13日掲載分) イラスト・TOEC幼児フリースクール高橋美絵(おかめ)

 自然スクールTOECでは、12月23〜27日の5日間、波照間島スタディーツアーをおこなった。
 波照間島は南十字星も見える日本最南端の島(有人)だ。ホテルもコンビニも信号もない。周囲14`の小さなこの島は、世界一美しいと言われるニシ浜をはじめ、手つかずの自然にあふれている。我々はクリスマスというのに海で泳いだり、サトウキビの収穫の手伝いをしたり、つりをしたり、浜辺で夕日に見入ったり、夜中に星を観に行ったりと自然や人や暮らしとたっぷり触れあった。
 しかし、何と言っても圧巻は、「宝探し」だ。宝探しとは一日まるごと使って、ひとりひとりがお金で買うことのできない人生で大切な宝物を発見してくるというプランだ。
 「高台で寝そべってずっと広い空を見上げていた。のんびりしてキレイで、こんな時間が宝物」。中2で、年が明けると受験だと早、プレッシャーの中にいたタクトのまなざしにゆとりが甦っていた。「自転車を借りてどこまでも自由に走った。こんな自由な気持ちになったことが宝物」。小6という年頃もあって、ヒデキは少々悪ぶった態度も見せているが、それとは裏腹に持ち前の素直さで今の気持ちを語った。
 ケイコは参加者で唯一の大人。中学校教諭をしている。ここへ来るまで、学校での忙しさや様々な出来事で心も身体もボロボロだったらしい。それが学校では見られない子供たちの表情や気持ちに触れ、次第に癒されていったようだ。「宝物は道草。そして迷い道。ゴール目指して走ってばかりだった。少々迷っても、道草くっても逆にそれが大切とわかった」。涙ながらに語る顔は晴れやかだった。僕や子供たちはもちろん、集まってもらった地元の方々も皆真剣にどの子の話にも聴き入った。
 島では長老のような存在のヨネヒコさんが前ふりもなく語り始める。「僕は島を3年間だけ離れ、名古屋に行ったことがある。もう何十年も前のこと。けど僕はその時のことを今も引きずっていて、悩みの中にいるんだ」。泡盛片手のとつとつとした語りは説教や訓話とはほど遠い心情の吐露だった。くわしくは語られなくとも十分皆の心に届いて涙になった。小4の子から70歳過ぎの長老までが共感に包まれ、悩みや迷いごとをその場で抱きとめられた。
 やがて三線と島唄の名人でもあるヨネヒコさんの演奏が始まる。興にのって踊りだす。調子づいた僕たちは阿波踊りも踊って一層皆が一つになった。まさしくそれは僕が島で見つけた宝物だった。
目の前の出来事感じて(2006年12月16日掲載分)
 
 スタッフオカメの保育日誌より。
・・・・・・ふかしたサツマイモでおやつづくり。丸める途中、子供たちの小さな手からイモがポロポロ机の上にこぼれてしまう。慌ててこぼれたのをつまみ食い。けれどもおやつを指をなめながら作るのはよくないということで、ひとまずガマンすることに。こぼしたイモを食べるのは最後のお楽しみにとっておいて、イモを丸めるのに皆せいを出していると、フラリとホウサク(4)がやってくる。
 「おかし作る?」と聞くと、「僕つくらない」とこたえつつも無邪気に机の上のこぼれたイモをパクパク。皆、「そりゃないだろー!」と非難の嵐。特に姉のマキノ(5)は厳しく、「もー!つくってもないのにー!」と責め立てる。実は私もおこる子供たちに同調してた。その時、モモコ(5)がひと言。「ホウサクー。ほら、こっちにいっぱいあるよ」。もちろんマキノの気持ちもわかる。けどモモコのこの広さ。私のせまさ。モモコらしくていいなあと思う・・・・・・
 開放感たっぷりの子供たちのやりとり。モモコのやさしさ(おおらかさ?)にふれ、ハッとするオカメの心情も目に浮かぶ。もちろん僕もオカメ同様、モモコがよくてマキノがわるいなんて全然思わない。ただ子供たちがときおり見せてくれるこういった底が抜けたとでもいおうか、規格外の言葉や行動には目からウロコだ。そしてその時、僕は元気になるのだ。

 TOECフリースクールの前を流れる岡川に冬の風物詩、いろんな種類のカモが群れになって泳いで(浮かんで)いる。「おーい!カモさーん!」土手からケンタロウ(5)やヒナコ(6)たちが大声で呼びかける。「逃がしてしまうぞ」。止めにかかるハルヒサ(5)の心配をよそにカモは逃げもせず悠然としている。アヤハ(5)がすまし顔で「カモは日本語わからないのよ」と言うと一同納得。のびやかで楽しい光景だ。
 親や教師はとかく子供を評価の目で見がちで、あれこれ判断して、大人の価値観で今起きていること以上の方向へとうながそうとする。その意欲をとやかく言うつもりはないが、大人の想いより先にまず、今目の前で起きている出来事や場の流れをそのまま感じてほしいものだ。そしてそれをただ認めてほしい。つい見逃しがちな今ここにある健やかさとつながる時、大人も自分の内側に在る強さややさしさとのつながりを回復させ、きっと元気になるはずだ。
 子供たちと大声で笑いあったらカモが一斉に飛び立った。
問い続けた人間の優しさ(2006年12月2日掲載分
 
 去る11月23日、作家灰谷健次郎さんが亡くなった。享年72歳。代表作の「兎の眼」や「太陽の子」は読者が読後の感動を伝え広げて生まれたミリオンセラー。児童文学というジャンルをはるかに超えた灰谷作品は、あらゆる世代、階層の支持をうけ、特に教育界では灰谷教と呼ばれるほどで、実は僕も紛れもないその一人だ。
 一貫して人間のやさしさとは何か、生きるとは何かを問い続ける作品に、僕自身はかり知れないほどの影響をうけ、そして支えられてきた。しかも僕は幸運にも、トークショーやセミナーを共にする機会に恵まれ、それが縁でずいぶん親しくおつきあいもさせていただいた。素顔の灰谷さんは時に作風とはかけはなれた硬派なところや無頼なところ、そして破滅型なところものぞかせ、それがまた格好良く、一層、傾倒したものだ。
 TOEC主催のワークッショップでは「天の瞳」の連載をはじめたばかりの多忙中にもかかわらず、上勝で3日間も熱く教育を語りあい、そして川で魚を追いかけまわし遊学を共にした。TOECの沖縄無人島キャンプにもふらりとやって来て、手モリで仕とめた魚を自慢そうにさし入れしてくれた。この時、たまたまキャンプに参加の子供たちが、灰谷さんの魚よりも大きな魚をたくさんつってかえってきたのに出くわしてしまい、バツ悪そうに苦笑いしながら自分の魚を指して、子供たちに「けど、この魚は有名な作家がとった魚やから値打ちがちがうねん!」とひらきなおって大笑いになった。
 灰谷さんはいつもボソッと「イセちゃん、あんたやないでえ。まわりの人ホンマよおやるわ。信じられへん」と少々ねじれた表現で僕をほめた。フリースクール10周年にあたり送られてきたメッセージには「ようがんばりはったなアとも、ますます貴重やなアとも思い感じ入っています。これからもちいさないのちのはなやぎをどうぞ慈しんでください」とあった。いろんな講演会などでフリースクールの存在を語ってくれたこともあり、伝え聞きでは「子供たちの目の輝く場、徳島のトエックスリースクールにみんな行ってください。作家のカンとでも言おうか、確信したの。ここのイモねえちゃんがイイねん」。
 嗚呼、書いていて涙になった。この時代にこそ灰谷さんの存在が必要なのに。「灰谷さん、十数年たった今も、そしてこれからも、そのイモねえちゃんたちと共にちいさないのちのはなやぎを僕は慈しみ続けますね」合掌。
「待つ」ことが人を育てる(2006年11月18日掲載分)
 
 チナツ(小4)、リサ(小4)らの発案でTOECフリースクール小学部(自由な学校)のみんなでパン食い競争をすることになる。ここからの展開がおもしろい。子供たちは「パン食い競争をやろう!」といった次に、パンづくりに取りかかったのだ。
 強力粉をふるいにかけるところからはじめ、生地をこね、発酵を待ってダッチオーブンに。焼き上がるのを心待ちにしてついにフカフカのパンのできあがり。「やったー!」「うれしい」。みんなでおいしい時間を共有。「あれ?」「そうそうパン食い競争をするためのパンやったね。」となってまたパンづくり。自由な学校のパン食い競争は1日がかりなのだ。そういえば以前、卒業生のハヅキ(当時小6)が毛糸のあみものをやりたいと言って、まず竹を切って、割って、削って・・・なんと、あみ棒づくりを始めたことがあった。
 自由な学校の子供たちのライフスタイル、ことに時間枠の大きさにはただただ脱帽する。それは一見無駄なようで、実は大切で豊かな時間。そしてこういった場に居合わすことで僕自身が見失いがちな自分のリズムを取り戻し、結果ばかりに向けられがちな目をプロセス(過程)にふり向かせることができるのだ。
 人間が育つということまで効率的にしようとすることは人間そのものを疎外することになる。人間はモノではないし、学校は工場ではないはずだ。しかし、実際はそのひずみがもろに子供たちをおしつぶしてしまっている。
 連日、いじめによる自殺のニュースが続く。自殺した当人の悲痛な叫びには胸をはりさける思いだ。なおかつ、僕はもう一方の、つまり加害者側に立つ生徒やその親、そして教師たちの悪行や暴き立てるような論調のマスコミや社会の風潮にも胸が痛む。先日は、そうした学校の校長先生が自殺するというショッキングなことまで起きてしまった。
 何としてもこの不幸な連鎖は絶たねばならない。解決策や原因追求に右往左往している今、一度立ち止まり、この状況が我々に伝えようとする切なるメッセージに耳を傾けよう。誰もがただ存在するだけで尊いということ。そして自分の身体も生命も自分の持ち物ではなく、つながりの中で生かされているということを一人ひとりにとどけたい。
 どうか急がないで。「待つ」ことが祈りを育てるのだ。春、枯れかけていたサツマイモの苗から、立派なイモが実った。
健やか、心も体ものびのび(2006.10月14日掲載分)

 「漁火村第一回世界バンダナアート展」のデザイン画募集案内を絵本作家の梅田俊作さんからいただいた。漁火村は梅田さんの絵本「漁火村の学校」の舞台となっている美波町伊座利の海辺沿いに定置網のように見せかけて並べられる。それは自然の恵みや伝統漁法を未来に残していこうという伊座利からのメッセージだ。
 TOECフリースクールの子供たちも、思い思いの海、魚のイメージを描いた。ミト(小2)はお母さんの故郷、沖縄にすむカラフルな熱帯魚。フミヤ(小1)はクラゲとカニ。何とも愛嬌のある仕上がり。ホダカ(小2)は大ダコ。ふんわりして平和な気分にさせてくれる。トモキ(小1)は真っ赤なイセエビ。ミズキ(小4)とソウタ(小3)はそろってサメを描く。画用紙から飛び出てきそうな迫力。加えて描いたチヌ(クロダイ)は、尾のあたりまでズンドウで不恰好。しかしその力強さに妙に引き込まれる。
 ひいき目は百も承知だが、僕はフリースクールの子らが描く絵の大ファンだ。どの絵もためらいがないのびのびしている。しかもどことなくユーモラス。美しい伊座利の海辺に、バンダナにプリントされたそれらの絵がはためくと思うと、11月のアート展が待ちどおしい。
 今、フリースクールは彼岸花が消え去り、代わって満開のコスモスが風に揺れている。柿も色づいてきた。
 季節は移り変わるが、フリースクールの子らは相変わらず元気いっぱい。昨夜の大雨で広い田んぼは、さながら巨大プール。いや巨大ドロンコスタジアム水しぶきをあげて、スタッフのオカメがハルヒサ(5)、ヒカル(6)、ハルト(6)らと駆けぬけ、水たまりにダイブ!頭からドロ水かぶって大はしゃぎ。
 「タツロウ。頭が重いよう」。頭でも打ったかと驚いて声のした方をふりむくと、ソウタが見事に全身ドロだらけ。そしてその頭の上に大量のドロ土。重いはずだ。スタッフのデコポンと互いにドロだらけの顔を見合わせ、目と歯だけ異様に光らせてニヤリと笑う。
 そして畑にある彼らの大好きなマキで焚くおフロヘ。青空の下のおフロはさぞ気持ちよいことだろう。彼らの描く絵も、のびのびして当然だ。この健やかさ、いかなる理由があっても奪ってはいけない。ドロンコの2人の背中を見送りながら心の中でつぶやいた。伊勢達郎
自然とつながり安心感(2006.9月30日掲載分)

 TOECフリースクールは今、彼岸花の赤に包まれている。畦、畑の斜面、周囲の田んぼも含め、息を呑む美しさ。ことに夏の間、子どもたちが涼みにくるヤマモモと柿の木の下は群生していて荘厳さが漂う。
 子どもたちの歓声から少し離れ、そこにひとりたたずむと、まさに「彼岸」に居るような不思議な気持ちになってくる。もちろん行ったことなどないのだが(笑)。この場の開放感が僕をちっぽけなエゴから解き放つ。自然とのつながり感が「ひとり」の僕を安心で満たしてくれる。そのまんまで豊かで美しい今にただ感動。
 TOEC小学校のある通称「おっきなおうち」の片すみにかくれるようにミト(小2)がドロダンゴを丸めつずけている。「あら、こんなところにいたの。いいところね。」。スタッフのスガの声かけはやさしい風。ミトもまた僕同様、安心の中、ひとりでいる。
 稲刈りの後の広大な田んぼでは鬼ごっこをする子どもたち。大声を出しながら走りまわっている。マナミ(5)はその様子を畑のある少し高いところから静かにただ見ている。秋風に吹かれるままの髪の毛が気持ちよさそう。器用にこさえた彼岸花の首飾りを首にかけ、ひとりたたずむ姿はまさに威風堂々だ。
 ミトやマナミのこういった時の過ごし方はフリースクールの世界そのものだ。
 社会はますます人を孤立させている。他人や周りから切りはなされた自分というせまい自己認識の中に、大人も子どもも閉じこめられがちだ。自分を守るため、カラを固め、他人と自分を比較し、せめぎあう。その上、「何かやらねば」と、もっともっと成長することや何かをなすことへのプレッシャーが常につきまとう。現代社会はただ在ること(Being)を認めず、すること(Doing)を強迫し続けるのだ。それはゆったりと「今」という瞬間を味わう豊かさの本質を奪う。
 みんなといてもひとりぼっちでさみしい自分から、ひとりでいても皆と共にいる安心感へ。走りつづけることから立ち止まり、今を感じるゆとりを。子育てこそスピリチュアル(霊性的)な視点を大切に、親も子どもも存在そのもの、生命そのものを感じ合い愛し合いたいものだ。
 彼岸花に包まれながら、僕はただ在ることが認められる場、フリースクールを全身で感じていた。              
どの子も「力」わきあがる(2006.8月26日掲載分)

 キャンプのあさは早い。まだ五時にもなっていないのにテントから次々と子どもたちが出てくる。ここは鮎喰川。その名の通りおいしい鮎がたくさん泳ぐダムのない清流だ。  僕はと言えば、釣り好きのフミヤ(小)を連れて、その早起きの子どもよりさらに早い時間から少し下流で釣り糸を垂らしている。ビクの中にはすでにオイカワやウグイが30    匹余り。僕は手助けを極力しない。糸がからまったり、魚がはずしずらかったり、難儀もするがそれもみな「釣り」なのだ。フミヤと僕はずっと無言。黙っているだけで気持  ちが通じ合っていて充実感がある。朝の静けさの中、釣り本来の瞑想的な空気が二人を包む。
 4泊5日のキャンプ中、一番人気のプログラムは岩の上から渕めがけてのとびこみ。初級は水面までわずか 1メートル余りの岩のでっぱりから。それでもいざとびこむとなると、岩の上で足がすくんでしまう子もいる。口先のはったりは一切通用しないのがまたいい。 1回とびこむと後はへっちゃら。繰り返しとびこむごとに身のこなしや岩へのよじ登り方など技術も向上する。次々と高い岩へとレベルを上げていき、最後は10メートルもあると ころから大ジャンプ。サキ(中1)を筆頭に高いところからとびこむのはなぜか女の子の方が多い。この手の遊びでの度胸はどうも男の子の方が分が悪いようだ。
 タクマ(小2)は長期キャンプ初体験。昼間は元気いっぱい、ヤンチャ坊主ぶりを発揮するが、夜になるにつれ、お母さんが恋しくなりシクシク。まだ2年生。無理もない。ノ ゾミ(小6)ほか兄貴分の子たちやスタッフのシャモジらがいろんな遊びや話でまぎらわしてるうちにタクマはスヤスヤ。皆やさしい。真希を拾い集め火をたくこ と、お米をといでご飯をたくこと、テントで寝ること、水をくみに行くこと、釣った魚のウロコとはらわたをとること、肉や魚を切ること、大半の子どもにとり、どれも未体験な ことばかりだ。TOECフリースクール卒業でこの手のことにたけているリョウイチ(中3)はエスキモーロールといってカヌーに乗ったままひっくり返った状態から起きあがる技を習 得するのに懸命だ。
 生活そのものの「体験」に基盤をおいて、おのおのの冒険、挑戦がある。そのままの自分が認められ、他人との比較や競争から解放されると、様々なことで自分を高めてた り、調和させたりする力がわきあがっくるのだ。どのこにも、内在するその力を僕は見失わないし、見逃さない。
子の異常に悩む親(6月10日掲載分)

 このところ、不登校、拒食、過食、不眠、暴力、引きこもり等々で悩む高校生、及びその親たちのカウンセリング(面談)が続く。様々な症状は本人だけでなく、家族も追いつめる。ことに母親は子育ての責任を背負い込み、自分を責めがちだ。家族や周囲の人々からの「善意ではあるけれども無神経な言葉」に傷つくことも多い。
 高1で突然、不登校になり暴力もふるい始めたA君の母親、B子さんもそうだ。A君は、小中学校時代はスポーツクラブのキャプテンもするほど素直ないわゆる「イイ子」。そんなA君が親にまで暴力をふるい始めたのだから、母親として困惑するのも当然だ。
 B子さんは、周囲からあれこれとアドバイスや忠告を受けているせいか、他人から言われたことを口にする時、知らず知らず怒気がこもる。それらを打ち消したくもあるのだろう。いろんな出来事の中から自分なりの仮説を立て、A君が豹変した理由、原因をこじつけようとする。その作業自体が、今のA君の気持ちや、B子さん自身の気持ちと向き合うことから逃げる結果になっているので、まさに悪循環。硬い表情が痛々しい。
 一方A君は、小さい頃からずっと家族が不仲でケンカが絶えず、イイ子で振る舞うしかなかったこと、そのイイ子の演技をやめた時、猛烈に反発心がわいてきて、どう自分をコントロールしていいかわからず暴力になったことなどを親のいない席で切々と語った。
 この場合、彼に「社会とは」とか「親とは」とかいった一般論は不要だ。誤解を恐れずに言うなら、彼の稚拙な行動は別にして、この反発心は実に健全なプロセスであり、コントロールしがたいほどのエネルギーは宝だ。B子さんにとってもA君にとっても、このプロセスが、今までの親子関係を見直し、真に育ち合う関係を育むきっかけとなることを祈らずにはいられない。
 TOECフリースクールのスタッフ、オカメが泣ける話をしてくれた。オオカミと7匹の子ヤギの絵本を読んでいる時のこと。子ヤギをオオカミに食べられてしまい、お母さんヤギが悲しみにくれる場面。「お母さんヤギがどれだけ泣いたか、おわかりでしょう」と読み進めると、ショウマ(4)が真顔で、「そりゃ、そうだろ!」と大声で言ったという。愛が届きあっていることは心を揺さぶる。探さなくてもいいのだ。今、目の前にある愛を受けとめることだけだ。
お気に入りの場所(11月6日掲載分)

 「自分のお気に入りの場所を教え合おう」というアクティビティ(活動)をTOEC自由な学校で行った。「ここが静かでいい」ミズキ(TOEC自由な学校3年生)はいつも毛布やダンボールで住み家をつくって遊んでいるテーブルの下にいきなり潜り込んだ。
 ちなみに、このアクティビティは環境教育などでよく行われていて、自然や空間とのつながり感を体験したり、気持ちに元気や安心を取り戻したりすることを目的としている。たいていウロウロ探しながら何とか発見したり、なかなか見つからないで困ったりしてしまうことも少なくない。
 ところが自由な学校の子らの反応はまるで違っていた。考える間もなく次々と紹介が始まる。ミト(同1年生)はカラーボックスの最下段。見事に体をギュッとはまりこませ、「ねっ、ピッタリでしょ」。ソウタ(同2年生)はヤマモモの木を少し登ったところ。枝に腰を下ろすと、太い幹が背もたれ、別の枝に足がのせられ、どれもいい具合だ。そして見晴らしの良いこと。ホダカ(同1年生)はカキの木の下。色とりどりの葉っぱが落ちているところがお気に入り。ここなら葉っぱとたくさんお話ができるそうだ。ほかにも水の流れていない用水路に横たわる。フリースクールと農具小屋のすき間。田んぼから畑への登り口などなど。
 広大なところ、高いところ、狭いところ、いったいいくつあがったろう。どの子も紹介したい大好きな場所があふれてくる。しかもどれも適当に言ってはいない。その場所が大好きな理由が明確にあり、いかにその場所がすてきな場所かを目を輝かせて伝えてくるのだ。
 心理学者A・マズローは人間の欲求を段階に分けて説明している。まず最初に「生命維持の欲求」。それが満たされると「安全の欲求」。それが確保されると「帰属、所属の欲求」が出てくる。私が私でいられる居場所を求めているのである。そしてそれが満たされて初めて自分を認め、人からも評価されたいという「成長」「自己評価」を求めることになる。
 現代人は居場所を見失いがちだ。教師をしている友人から、休み時間のたびトイレに逃げ込む生徒や、自家用車にひきこもる教師の存在を聞いたことがある。居場所を見失うと、自己を純粋に成長させたり、他者からの評価を素直に受けとめられなかったりするので、おのずとそれに振り回される。フリースクールの子どもたちが健やかな理由は、まずここが大好きで安心な居場所になっているからだろう。さてあなたにとって私が私でいられる居場所は?
ゆとりは大切(10月23日掲載分)

 「このコスモスしょんぼりしてるね」。TOEC幼児フリースクールに咲くコスモスを見て、ケンタロウ(3)がつぶやいた。10月になっても暑い日差しが続いたが、コスモスも盛期を過ぎているのだ。散りかかるコスモスがケンタロウにはしょんぼりと見えたのだろう。
 台風20号が大きく東にそれてやっと高い青空、乾いた風がやって来た。いつの間にか、か弱かった畑の白菜の葉も立派に成長し、これから次第に固く引き締まっていくことだろう。間引きした大根の若葉は徳島では「お根葉」といって珍重される。一夜漬けにしたお根葉に旬のスダチをかけると絶品。酒との相性も抜群だが、お昼ご飯の一品として意外と子どもにも好まれる。しばらく食べ続けるうちに、今やすっかり大根の葉となり、日に日に土の中の大根を太らせていっている。柿やミカンも色づき、秋たけなわだ。
 友人と話していて気付いたのだが、日常的に自然の中にいることが多い僕の会話には、そのときの話題にかかわらず、こういった自然の移り変わりのことが何気に交じっているらしい。畑のことだけでなく、風向きが変わったことや、海なら潮が変わったこと、月の満ち欠けなど、無意識に交えて口にするので、会社勤めの友人は「いいねえ。そんなの感じるだけのゆとりがあって」と心底うらやましがるのだった。
 僕にすれば,これでも最近忙しく、ことさらゆとりがあるとは思えないのだが、確かに空を見上げたり、風を感じ取ったり、野の花を見つめたりと、フリースクールの生活は日常的に季節の移り変わりと共にいる。そのことは子どもたちやスタッフも同様で、知らず知らず、自然と共にいることで、心と身体にゆとりやすき間、遊びを与えてもらっているのだろう。
 TOEC幼児フリースクールの小学部「自由な学校」には「静かな時間」といって、計算や漢字の練習など、反復して必要があることを朝の一時、集中してやっている。こういうと自由に自分でやることを決める時間と比較してお勉強の時間のようにとられるが、実際はそうではない。実にゆるやかで、遊びも学びも混然一体となっていて、かといって中身はちゃんとあって・・・。車のハンドルにあそび(ゆとり)がなければ運転はギクシャクするように、何につけてもゆとりは大切なのだ。
 さて朝の太陽は今、何時に出ますか?月の大きさは?夕焼けが一番美しい頃。夜空見上げて心にゆとりの風を与えよう。
5月29日のコラム

 サオリ(5)はここしばらく、お母さんと離れがたい。お母さんが帰ってしまうと、いつもの明るく元気なサオリに戻るのだが、別れ際は決まって泣き顔になる。つらそうなサオリの顔を見ると、お母さんから引き離して抱きとめるスタッフも切なくなる。
 サオリはTOECフリースクール入りたての3歳の頃から、あっさりと親から離れ、笑顔でTOECにやってきていた。なので今の状況は意外だし、お母さんも少々困惑気味だ。
 しかし、こんな時は問題点や原因探しにとらわれないことが大切だと僕は考える。「幼児がえり」とか「親にもっとかかわってほしくて甘えているだけ」などと、周囲はいろいろ分析し、決めつけたがる。そして大抵、原因を母親に押し付けるので、母親は一層窮屈な思いをする羽目になる。
 僕はそれをよしとしない。なぜならまずもって、子どもは泣いていいし、時に寂しくなって当たり前と考えているからだ。問題とするなら、子どもが泣くと親は不安になったり、つらくなったりもするので、その応援に何ができるかということだ。
 乳児も同様だ。一日の大半を泣き通し、やっと寝付いて布団にそっとおろすと「ギャー」。そんな日が続くと、確かに母親はどんどん孤立し、心身とも疲れてしまうだろう。
 虐待や子育て放棄に至らなくても、衝動的に追い詰められる危険性は誰にでもある。母親に言いたいことは、泣く子どもをいつも「よしよし」と優しく受けとめることができないからといって、自己嫌悪に陥ったり、自分を責めたりしないでほしいということだ。実は泣きたいのは母親の方なのだ。
 人は誰も自分の中にもっと愛してほしかったり、思い切り甘えたりしたい小さな子ども(インナーチャイルド)を抱えている。無意識に泣くのをこらえているインナーチャイルドは、当然我が子の泣き声を受けとめられない。自分を受けとめない限り、他者を受けとめられないからだ。泣いている子どもはきっと「お母さん泣いていいよ」と伝えているのだろう。
 TOECフリースクールでは少しピンチになった親が気持ちを聴きあう心のキャッチボールグループを毎月第3土曜に開いている(無料)気軽に泣きにお越しください。(問い合わせ0884−23−4807)
5月15日のコラム

 TOECフリースクールの小学生ミズキ(3年)ソウタ(2年)ミト(1年)ホダカ(1年)と竹の子ほりに行った。ワゴン車1台で行きたい時に、行きたい所へ行けるのは「小さな学校」(スモールスクール)の強みだ。
 到着するやいなや、やぶの中に頭をもたげたタケノコを次々と発見。早速、掘りにかかるが、大人でもタケノコ掘りは難しい。子どもならなおのこと。普通、タケノコ掘りには「ハシバ」と呼ばれる刃の部分の長いクワを使うが、重くて持てない子どもたちは庭仕事用の小型シャベルとクワで掘っている。なかなか忍耐のいる作業だ。
 ソウタの見つけたタケノコは地下に大きく埋まっていて、掘り進むうちにその大きさにビックリ。ミズキのは、山の斜面の太い竹の際に生えていて、実に掘りにくい。ホダカとミトは二人協力して、一本のタケノコを掘っている。それぞれ作業は難航するが、彼らはへこたれるどころか、ますます闘志?をわき上がらせ、何かある度に大きな喚声を竹林に響かせた。
 タケノコは十分に周りを掘り、生えている方向を見極めて、地下茎とつなっがている部分を断ち切って収穫する。急いでクワを入れても方向が違うと、いつまでも断ち切れないし、強引にクワをこねると、肝心の食べる部分大半が、土の中に埋まったまま割れてしまう。失敗も重ねながら、それでも何本もタケノコを収穫した子どもたちの顔は満足感でいっぱい。
 続けて工作用の竹も切って帰ろうと、気に入った竹を切ることに。これまた苦労して、一本の竹を切り倒す。「ドッサーン」。巨木が倒れるかのように、ゆっくりと切られた竹が倒れる様は豪快だ。子どもたちにとり、さぞや感動的だろうし、大きな自信にもなっていることだろう。
 タケノコを持って帰って皮をむくと、意外に小さい。米ぬかでアク抜きをしなくては。「アクって何?」「米ぬかって何?」学びは広がる。
 何でもお金で手に入る便利な時代が見直され始めた。便利な生活をあえて手作業に変えて、生活体験を子どもと共有しよう。5月10日の朝日新聞天声人語に、便利の便とは「人を鞭うって従順ならしめ、使役に便すること」と、白川静さんの「字統」にある、とあった。鞭うつことはもちろん、従順で使役に便な子に育てる時代はとっくに終わっている。