What is "Monkey Mia" ?

--奇妙な名前の由来にせまる--


● はじめに

モンキー・マイアの名前を初めて知ったのは1993年頃だったと思う。当時、西オーストラリアに関する情報は非常に限られていた。少ない情報の中に見つけた野生のイルカに餌付けができる場所、そこに至る道路は舗装されているのか?宿泊や補給の施設はあるのか?ガイドブックは何も語っていなかった。今みたいにインターネットが普及しているわけでもない。求めても手に入らぬ 情報...。興味が増すに従って、?は増えていった。その中でも最大の謎、"モンキー・マイア"、イルカの来る場所なのに、どうして"Monkey" = 「猿」なのか?誰もが抱くであろうこの素朴な疑問の答さえどこにも見つけることができなかったのである。

月日は流れ、今やモンキー・マイアは西オーストラリアを代表する人気スポットとなった。しかしながら、英語のガイドブックの中にも、"unusual" = 「普通ではない」、「珍しい」と記述されている奇妙な地名の由来は未だに明確に説明されていない。今回は、このオーストラリア最大(?)の謎とも言うべきテーマに、無謀を知りつつも挑んでみたい。
Dolphins at Monkey Mia
Rush Hour

● 幾つかの説

インターネットの検索エンジンというのは、とっても便利である。いくつかのキーワードを入れて検索を実行すれば、そのものどんぴしゃでなくても、目指す情報の尻尾はつかめる。英語サイトを中心に幾つかの説が引っかかって来た。真偽は別 としてモンキー・マイアの由来を論じた文章を目にするのは初めてなので、とてもワクワクする。併せて、以前の旅で買ってきたままお蔵入りしていた英語のガイドブックにも目を通 す。その結果、大きく分けると以下のような説が浮かび上がって来た。

1. オランダ人が猿を飼っていたので
2. 
Monkey号という船が錨泊したため
3. 真珠採り用ボートのマスコットが猿だったので


ほとんど全ての説が共通して、"Mia"とは現地のアボリジニの言葉で、「家」、「小屋」、「場所」等を表すものという立場をとっている。念のため、モンキー・マイア関連のサイトから離れ、"Mia"というアボリジニの言葉として検索を実行しても、やはり同じ意味が出てくる。英語辞書には"Mia"という言葉を見つけることはできなかった。英単語として存在しないのだろう。従って、モンキー・マイアの"Mia"とはアボリジニ*の「家」(house, home)、「場所」を意味する言葉であるという可能性が非常に高い。

*一言でアボリジニと言っても、共通語が存在するわけではない。地域、部族によって多様な言語がある。

それでは"Monkey"は何に由来するのか?上記3つの説を個別に検証しながら解明を進めたい。
Denham
Tourist Information

● オランダ人が猿を飼っていたので

その由来が何にせよ、地名として定着するにはある程度の時間が必要であろう。その昔シャーク湾のような僻地で猿を飼っていたとは随分酔狂な話である。果 たしてこの地で昔、猿を飼っていた物好きがいたのか?今となっては知るすべもない。では、どこから謎解きをはじめるか...。視点を変えて、なぜオランダ人なのか考えてみよう。通 常であれば入植を始めたイギリス人のはずである。

記録に残るヨーロッパ人最初の来航は1616年、オランダ人ダーク・ハートッグ Dirk Hartogとその船員がシャーク湾近くの島(現在のダーク・ハートッグ島 Dirk Hartog Island)にたどり着き、上陸を記したプレートを残している。当時はオランダ東インド会社華やかりし頃で、ヨーロッパとバタビア Batavia(現在のジャカルタ、ジャワ島)を結ぶ新しい航路が開かれたばかりだった。この航路は1611年、同じくオランダ人ヘンリック・ブロウワー Henrik Brouwerが発見したもので、従来、アフリカ南部の喜望峰を回った後、アフリカ東海岸に沿って進路を北に転じ、陸に沿って航海していたのに対し、喜望峰から更に南下して南緯40度の線に至るのである(喜望峰は南緯34度50分)。そこは"吠える40度 roaring forties"と呼ばれ、海に慣れた船乗りでも難儀する風浪の激しい海域だ。この強風を利用してインド洋を東進、バタビアの南方へ一気に至り、そこから北上しようというかなり乱暴な航路である。何せ現在の南極観測船でも往生する荒海である、バタビアへ向けての北上のタイミングを誤ったり、吠える40度に抗しきれず船のコントロールを失い、意図せず西オーストラリア沿岸にたどり着いたオランダ船が多く見られる。ハートッグ一行もその中の一隻である。目立ちたがりだったのか、プレートを残すという行為が歴史に、そして島の名前に彼の名を刻むことになった。ちなみにそのプレートは現在母国アムステルダムの博物館で展示されている。

オランダ人の漂着はハートッグ以降、約100年に渡って続いている。従って、その中に猿を連れていた物好きが絶対いなかったとは言えないのだが...。しかし、いろいろな記録を見ても、当時の西オーストラリアは猿を飼って定住できるような恵まれた環境にはなかった。1629年、西オーストラリアのジェラルトン沖で難破した有名なバタビア号 Bataviaの生存者は水を求めて大陸に上陸するも成果はなく、結局、33日をかけバタビア(ジャワ島)へ救援を求めている。また、オランダ東インド会社は交易品を求め、数次に渡り、この地に探検隊を送っているが、調査にあたった隊員のほとんどは、「土地は不毛で、水に乏しく、原住民は未開で野蛮」と報告している。これでは猿どころか、人間も生きてはいけない。

もうそろそろいいだろう。オランダ人は早すぎたのだ。実際シャーク湾一帯は19世紀中頃まではヨーロッパ人による入植は果 たされなかった。百歩譲って、猿とともに漂着したオランダ人がこの地で細々と露命を繋いでいたとしても、その事実を語り継ぎ、地名として使う人が現れるまでおよそ一世紀を待たねばならなかったのである。この説はシャーク湾とオランダ人の歴史的結びつきから、後世になって考案されたものとするのが妥当であろう。

● Monkey号という船が錨泊したため

この説を唱えるHPが一番多い。果たして最有力の説なのか?曰く、1834年、縦帆式帆船(schooner)Monkey号がシャーク湾に錨泊したといわれる。従ってMonkey号の「家」もしくは「場所」 = "Mia"だからMonkey Miaであると。残念ながらMonkey号がどこの船で何を目的にやって来たのか詳しい資料を見つけることができない。(植民地の調査船であるという記述が一部のサイトにある。)

この説は、「オランダ人が猿を飼っていたから」に比べると真実味に勝るが、ここに一つの反証がある。地図をご覧いただきたい。モンキー・マイアは南北に細長いペーロン半島 Peron Peninsulaの東海岸に位置し、湾を挟んで大陸と対面している。記録によればMonkey号はペーロン半島 の東側沿岸には近づいていないのである。すなわち現在のモンキー・マイアの面 する海域にまでは来ていないと言うのだ。これが正しければ"Monkey"と"Mia"のつじつまは合っても、位 置のつじつまが合わなくなる。しかし、今のところMonkey号の正体もわからず、錨泊した位 置を確認できる航海記録を見たわけでもない。この説を葬るには上記の反証は弱すぎはしないか?

では、もう少し別の角度から検証してみよう。そもそも地名とはどのようにして付けられるのだろう。例えばキャプテン・クックとその一行は多くの地名の名付け親である。シドニーのボタニー湾を初め、グレート・バリア・リーフの島々(マグネティック島、ウイットサンデー諸島など)、いずれもクックの航海途上に命名されている。これはストレンジャー(来訪者)が初めて訪れた場所を記録に残し、後の人々に伝えるために命名を行なった(勿論、処女地を征した功名心の発露という側面 も多分に持っている。)代表例である。このような場合、目印となりやすい目立つ地形が命名の対象になるのは、過去の様々な例を見れば明らかである。○○山、XX川、○○島など地形を表す言葉がほとんどの場合添えられる。

もう一つは、住民達により自然発生的に地名が付けられる場合である。誰が付けたかわからないが、いつの間にかみんながその名前を呼ぶようになったケースだ。例えば、「大きな木の下を集会場にしよう」と決めて、時間の経過とともにその場所が"木下"と呼ばれるようになったという場合を考えていただきたい。

Monkey号説をとる場合、後者の命名パターンはあり得ない。何故ならMonkey号がこの海域を訪れた1834年には周辺に植民は始まっておらず、住民による自然発生的な命名など不可能である。シャーク湾一帯の海図が作成されたのが1858年、この地域の中心地デンハム Denhamの建設が始まるのが1895年のことだ。"Monkey号の場所"という発想をして、それを共通 の符号として使う住民自体がまだ存在していないのである。

とすると、Monkey号に乗ってやって来た乗組員達が航海や観測の記録のために命名したと考えるべきであろう。であるならば、どうして"Mia"などという分かりにくい言葉を用いるのか?Monkey「湾」やMonkey「岬」など、もっと普遍的な名前にして記録としての分かりやすさを優先する方が自然である。"Mia"という普遍性を持たない言葉を用いては、後にこの地を訪れる人々はどういう地形をその言葉が表しているのか理解できず、地名が示している場所を特定することが難しい。

多くの人が支持しているMonkey号説ではあるが、このように見ていくと、ワシとしては素直に受け入れることができない。Monkey号がペーロン半島の東側に現れたかどうかに関係なく、その乗組員達による命名であれば、"Mia"という不明瞭な言葉が使われた可能性は極めて低いはずだ。
Sign Board near Nanga
Eagle Bluff near Denham

● 真珠採り用ボートのマスコットが猿だったので

シャーク湾で真珠貝が見つかったのは1854年。オーストラリアにおける真珠業はブルームや木曜島が有名であるが、真珠貝の発見に関してはシャーク湾の方が早い。その後、1930年代まで70年あまりの間、真珠業はシャーク湾における主要産業の地位 を占めた。1895年真珠業に関する査察官の要求によりデンハムの建設が始まる。デンハムはシャーク湾における中心地となり、真珠業に携わる中国人、マレー人、そしてヨーロッパ人が住みついた。ブルームや木曜島とは異なり、日本人の真珠ダイバー*がこの地域に進出したという記録は見つからない。

*当時の日本人ダイバーはずば抜けた潜水技術を持ち、多くの日本人が北部オーストラリアで活躍した。特にブルームの日本人ダイバーは有名。

この時代に、マスコット(縁起の良い動物、開運のお守り)として猿を乗せた真珠採り用のボートがあったという。おそらく動物に縁起を託すのは中国人であろう。しかも、現在のモンキー・マイアのすぐ北側に真珠養殖場が設けられていたという資料も見つかった。その養殖場に猿を乗せた船が従事していたとしたら、話の筋道はきれいに通 る。残念ながら、猿を乗せた船が本当にあったのか、そしてモンキー・マイア近辺で操業していたのかを確認する手掛かりはない。

ここまで書いて、別な推論がワシの頭に浮かんだ。前述の通り、真珠業盛んな頃、デンハムとその近隣は多くの人種、多くの文化で満ちていた。ゴールド・ラッシュの時に起きた中国人排斥に顕著なように、19世紀後半から20世紀初頭においてヨーロッパ人と中国人(アジア人)の関係が良好であったとは考え難い。居住地もそれぞれの人種によって分かれていたことは論を待たないだろう。我々を含むモンゴロイドの俗語は"Monkey"である。その俗語を使い、"中国人の場所"を訳すと"Monkey Mia"になるではないか!"Monkey Mia"とは中国人居留地区を表すヨーロッパ人の隠語だったのではないのか...。もしそれが本当ならば、"Monkey Mia"は民族間の感情的貴賤の込められたありがたくない言葉ということになる。

Monkey Mia's famous dolphin
Dolphin Resort

● まとめ

真偽は全て歴史の闇の中である。恐らくこれからも、真相が明らかになることはあるまい。オーストラリア最大(?)の謎は今後も旅人に疑問を与え続けるだろう。けれども、おかげでワシは17世紀オランダ東インド会社から20世紀の真珠業までの歴史を旅し、オーストラリアを離れてジャワや喜望峰にまで視野を広げ、新たな知識を得ることができた。モンキー・マイアの由来は、今も、そしてこれからも、400年以上の歴史と、地球規模の地理が横たわる壮大な謎である。

シャーク湾を、そしてモンキー・マイアを訪れたときには、この地がかつて大航海の舞台であったこと、世界からパール・ダイバーの集まった国際色豊かな時代があったことを思い出して欲しい。イルカの餌付けだけではない新たな彩 りがあなたの思い出に添えられるはずである。


2001.07.03 掲載
2001.07.06 写真を追加