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1 …… 山で美を考える 趣味でよく山に登る。さらなる高みをめざしたり、登山道脇に咲く花を愛でたり、滝音が聞こえれば寄り道したり、道のないバリエーションルートを辿ったり、その時の気分でいろいろな登り方をする。 わたしの職業はグラフィックデザイナー。広告などの印刷物の企画制作をしている。常はデザインの仕事で「人工的な美」を追い求めている。この人工的な美と対照的なものが「自然美」。自然の造形美。これに勝る美は人工的には創れない。 美しい絵画や創造的な建築物、各種優れたデザインの美、いずれも人間が創り出すもので、創作者のクセや主観、理屈が入る。人の脳で想像するものには限界がある。 これに対して自然美は人間の理屈や思考が入り込む余地はない。ありのままの美しさ。これは人類誰もが共通して持っている本能として感じる美しさ。 デザインの仕事で、そのような誰もが共通して感じる美を追求するも、自然のなせる技にはかなわない。真似はできないがそこにはヒントはある。 デザインの仕事に限ったことでなく、山など自然から教わることは多い。難所や分岐での判断力、天候や体力など先を読む目、地球環境のこと、そして社会生活でのストレスの解消や頭の整理方法などなど。山は良きアドバイザーであり、無言の会話ができる友人でもある。 そんな山歩きや滝巡りなどで、思ったこと、感じたことを今後このコラムで書き記していきたいと思っている。
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2 …… 滝で感じること 山に登るとき、滝のあるルートを選ぶことが多い。山頂をめざすわけではなく滝に会うことを目的に山を歩くこともある。 山から湧き出した清らかな水が、岩の上から重力の法則に従い落下する。簡単に言えば滝とはそういうものだが、ほとばしる水しぶき、それによって引き起こされる風、岩に反響する落ちる水の音、周囲とは違った植生、そういったたくさんの要素がひとかたまりになった、独特の空間がそこにはある。 静かなる山中にあっては、滝は「動」的存在。その躍動感は地球が生きていることを知らされる。 そんな滝に、はるか昔より人々は畏怖の念を抱き、神が宿るとし、信仰の対象としてきた。今でも雨乞行事や、心身を鍛錬するための滝行も行われている。 谷を遡り、徐々に滝音が近づいてくるときの期待感と高揚感、そして滝と対峙したときの開放感と幸福感。滝風に乗った何か(マイナスイオンと呼ばれることもある)が皮膚を通過して体内に滲みわたる。単に「癒される」という言葉だけでは物足りなさを感じるほどの滝との一体感。日々の追われた生活で鈍くなった感覚や感情といったものが、リセットされ正常に作動していく。 こんな滝はまた自然美の凝縮形でもあり、季節により、天候により、時間により、水量により常に違った表情を見せてくれる。カメラの被写体としても非常に優れており、何度訪れても飽きることはない。
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3 …… 空を見上げて 仕事の休憩時間、窓から外を眺め空の声を聴く。「空の声を聴く」と言っても、雷や風のような実際の音を耳で拾うことではなく、雲などが発信するシグナルをキャッチすると言う意味のこと。雲の種類や動きを見て上空の大気の状態を知る。いわゆる観天望気。安全に登山するためには観天望気は必須である。 雲の表情は実に豊かだ。一瞬にしてその形を変える。予測できない動きは面白く見飽きることない。その自由さは羨ましい。特に天高くに見られる巻雲と呼ばれるハケで描いたような筋状の雲は、時として芸術的美しさをしていて感動させられることもしばしば。 空には雲があるだけではない。時々色鮮やかな映像ショーが繰り広げられる。虹や日暈(ひがさ)などの「大気光象」と呼ばれるものだ。 彩雲や幻日(げんじつ)といった現象は、ニュースにもなるくらいだが、気づく人が少ないだけで結構頻繁に現れている。稀にしか現れない環天頂アーク、環水平アーク、幻日環などを見つけると幸せな気分になれる。 わたしにとって最も簡単にリフレッシュできる世界が、僅かに目線を数度上げたそこにある。 空を見上げていると、あっと言う間に時が経つ。慌てて仕事に戻ることも多い。
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4 …… ネコから学ぶこと 地域で世話しているネコ(地域猫)が徐々に懐いて、家に居付くようになって1年以上になる。今では外には出ず、家の中での生活に安心し満足している様子。 ネコの奇想天外で読めない反応と行動は、時として人から見ると滑稽に見える。遊んでいても突然興味をなくしあらぬ方向を凝視したり、何もない隙間に手を突っ込んで一生懸命何かを掻き出そうとしたり…… イヌの行動は読めるけれど、ネコのそれは読めないとよく言われる。イヌは人に飼い慣らされ、人間社会で役割を果たすことで地位を得た。それに対しネコは独自の人との付き合い方をしてきた。イヌのような主従関係は希薄で、マイペースである。野生の感性が残っている。つまり利己主義で無心である。余計なことで悩まない、思ったままストレートな反応をする。 これがなかなか無心になれない人にとっては滑稽に見える。これは人には縛りが多いということか。もちろん社会生活で人間関係を円滑に行うために必要不可欠な生き方ではあるが、このようなネコの自然の反応が羨ましい。 ネコのおかげで人は世界を外から眺めることができる。自分自身も客観的に振り返ることができる。ネコから学ぶことは多い。 もちろん理屈っぽくネコのことを考えずしても、その愛らしい容姿や仕草、凛としたクールな佇まい、ネコの魅力は数知れない。 単に癒やされるというだけでは片付けられないネコとの心豊かになれる生活をこれからも楽しんでいきたい。
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5 …… 花に魅せられて 春の山歩きは実に楽しい。四季それぞれに山の良さはあるが、木々が芽吹き、色とりどりの花が咲き、鳥がさえずり、昆虫たちも活動をはじめる春の山は、生命力に満ち溢れており、この季節に山を歩くことに幸せを感じる。 中でも陽の光を存分に浴び、華やかに咲く花々には心躍らされる。黄色い大きな花でいち早く春の訪れを告げる「フクジュソウ」、見栄えする紅紫の花びらを下向きに大きく広げる「カタクリ」、淡いピンクの大きな花を一輪だけ付ける「イワウチワ」、地面から直接咲くかのように小さな青い花を咲かせる「ハルリンドウ」などが、春の野山を彩る代表的な草花である。エビネやシュンランなどの蘭の花や、その地域でしか見ることのできない貴重な花に出会うと、思わず小躍りしてしまう。 しかし、これらの美しい花たちの数は近年減少傾向にある。気候変動、増えすぎた鹿による食害、採取や盗掘によるものが主な原因とされている。これら野生の草花は気候、生態系、土壌などの微妙なバランスの元でしか育つことができない。この先いつまでも、その可憐な姿を見ることができることを願うばかりである。
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6 …… きのこの世界は摩訶不思議 きのこは植物でも動物でもない。カビと同じ仲間の「菌類」。生物の死骸を分解して土に返すという地球循環システムにおいて大切な役割を担っている。 夏から秋にかけて山を歩いていると数々のきのこたちに出会う。形や大きさ色は自由で様々。食べられるものから毒のあるもの、夜に光るもの、虫から生えるものまで日本には数千種のきのこがあると言われている。 どこに生えているかわからず気まぐれで神出鬼没なところ、フォルム豊かで奇想天外なところがなんとも魅力的なきのこ。見つけると嬉しくなる。楽しくなる。足を止め観察し写真に撮る。 花やきのこはどうしてこんなに美しく魅了されるデザインなのだろうか。単なる幾何学模様なら人間にもコンピュータにも創れるがしなやかさや優しさがない。 多くの種類の生物が誕生しては滅んでいくこの地球上で、今を生き抜いているものたちにはその理由がある。機能的なこと順応性のことの他にもそのデザインが生き抜いている鍵となっているものも多いと思う。即ちデザインには意味がある。 私の職業はグラフィックデザイナー。色や形そのレイアウト全てにおいて人を説得させるための意味づけをしている。大変難しく、一つのパーツが変わることで全体の整合性を見直さなければならない。この整合性を地球全体において見事にやってのけている地球力というものには尊敬の念を抱かずにはいられない。これらを司る神がいるとしたらそれは素晴らしいデザイナーである。
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7 …… 巨樹は語る 名所にもなっている有名な巨樹は全国に存在し、その姿には圧倒され生命力を感じる。これらの巨樹に会いに行くこともあるが、山のバリエーションルート(一般ルート以外)を歩いていて、思いがけず巨樹に出会うことがある。 樹齢や大きさは有名巨樹には及ばないものの、山中で偶然出会えただけに感動は格段に大きい。その巨樹は、まるでわたしを待っていたかのように語りかけてくる。「よく来たなぁ」「このわしの姿を見ていっておくれ」。わたしもまずは挨拶を返す。そして抱きついて幹に耳を当て樹の声を聞く。 長年、たくさんの事象を見つめ、過酷な自然環境を経験して生き抜いてきたその姿は神々しい。いかなる事にも動じずに、環境の変化にも臨機応変に対応することが、この世を生き抜く術であることを教えてくれる。 その形も特異なものが多い。中が朽ちて空洞になっているもの、大きく傾いたり中には雷に打たれた巨樹も。それでも生きていくしかないのだよと、根を広く張って自らの巨体を支え、毎年若葉をつけてより多くの太陽光を取り込もうとする。 巨樹は生きることの大切さ、美しさを気づかせてくれる師のような存在である。
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8 …… あなたには見えますか 人面魚というものが一時期話題になった。錦鯉の模様が人間の顔に見えるというものだった。また火星表面に人面のような岩があり、人工建造物ではないかと囁かれたこともあった。 人間は目・鼻・口などを連想させるようなものが並ぶと顔として認識するようにプログラムされているといい、これは「シミュラクラ現象」と呼ばれている。多くの心霊写真はこのシミュラクラ現象で説明がつくという。 また岩や木、雲などの形が、動物など特定の別のものに見えることを「パレイドリア現象」といい、月表面の模様が「餅つきをするウサギ」に見えるというのもこれにあたる。 子どもが入道雲を見て「ソフトクリームみたい」と言う。大人には見えないのか。連想力が失われてしまったのか。いや、そうではない。日々の生活に追われ余裕なく、そのような感覚を遮断してしまっているので見えないのだ。 ところが山を歩いているときは、リフレッシュできて余裕が生まれ感覚が蘇る。そうすると見えなかったものが見えてくる。童心に帰ると言うのは、無邪気になれということではなく、リラックスしろということなのではないかと思う。 街を歩いているときに街路樹が、また窓から見上げた空に浮かぶ雲がいろいろなものに見えてくる。そんなストレスの少ない生活を送っていきたいものだ。
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9 …… ネコとの会話から世界平和を願う 我が家の茶トラネコ「ちゃあ」も8歳になる。隣家との隙間で生まれて5年ほど野良生活をしたのち我が家にやってきた。 ネコを飼ったことがなく、どうなる事かと心配したが、案外スムーズにネコとの生活が始まった。ネコは「何を考えているのかわからない」「行動が読めない」などと言われるが、ちゃあの考えていることや行動はかなり理解できていると思う。 ちゃあの考えていそうなことを口に出して、一人二役で一人芝居をすることで理解に結びついていそうな気がする。例えば、「ボクなぁ、毛いっぱい生えてるけど寒がりやろ。そろそろストーブ出して欲しいな思てんねん」「ちゃあさん、10月でストーブはまだまだ早いんちゃう?代わりに毛布出しとくしね」。または、「ボクなぁ、ちょっとこのカリカリご飯の匂い苦手かもしれへん。他のご飯がいいなぁ」「ハイハイちゃあさん、しらすが苦手やったもんな。このささみのふりかけで誤魔化しとくしね」「えっ何それ!誤魔化すって。ん?でも美味しいやん」と言った具合に。 ちゃあも人の言うことや考えていることを感じているようで、必要以上に甘えたり困らせることなく、仕事の邪魔もしない。お互い理解して信頼している不思議な共同生活は、心地よく友好的、平和的である。 いざこざを起こす人間同士、戦争してしまう国家同士、もっとお互いを思い信頼し理解していけないものだろうか。ネコとの生活で、世界平和のことにまで思いが及ぶこの頃である。
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10 …… 自然の芸術、ランの花 山歩きの楽しみのひとつに、可憐な山の花たちに会えることがある。山頂をめざすだけではなく、花を愛でることを目的に山を歩くことも多い。 いろいろな花があるなかで、ランの花というのは独特の芸術美と気品を兼ね備えていて特別感がある。ランの花と言えば「胡蝶蘭」「シンビジウム」「デンドロビウム」などの豪華絢爛な大きな花をイメージされる人も多いと思うが、日本の山に咲くランは一部を除いてはそれほどまでの派手さはない。しかし、近年では地球温暖化の直接的な影響、増えすぎた野生鹿による食害、それに盗掘などが原因で見かけることも少なくなったこともあって、思わず出会うとその喜びは大きく、小躍りしてしまうほどだ。 ラン科の植物で驚かされるのは、他の科の植物よりも多様性に富んでいること。過酷な自然環境の中で生き抜くために、その姿を理にかなった形に変化させ、環境に順応して多種多様に分化しているのだ。例えば「サギソウ」の独特なギザギザの花の形状は、花粉の運び手であるスズメガが採蜜する際に中脚を掛けやすくするためのもの。それがまさに空を舞う白鷺にそっくりで美しいという芸術性も持っている。 とぼけたかわいいお化け「ミヤマウズラ」、親しみを込めてなっちゃんと呼ばれるティアラを被った紫の王女「ナツエビネ」なども、芸術面ではサギソウに引けを取らないし、「ツチアケビ」のギョッとする異様さ、見事に螺旋状に花を並べる「ネジバナ」、猿の顔を連想させる「サルメンエビネ」などいずれも個性豊かで見飽きることがない。 これら多様性をもって生き延びてきたランだが、この先も急激な地球温暖化による環境変化に対応できるのだろうか。いつまでもこの美しい花を山で見られることを願ってやまない。
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11 …… 個性豊かな滝々 滝といってもひとつひとつ規模も形も異なる。真っ直ぐ落ちる直瀑、段々に落ちる段瀑、途中で流れが分かれる分岐瀑、緩やな傾斜を流れ下る渓流瀑、落差より幅のほうが大きい横瀑などという分類もあるが、それぞれの滝の特徴を言うには、これらの分類だけで表現しきれるものではない。 どうも日本人はカテゴリーを作って、それに全てのものを当てはめようとする傾向が強いように思う。また3大〇〇とか〇〇ベスト10とか〇〇100選とかいうふうに優劣をつけようともする。そうすると選ばれたものだけに焦点が当たり、それ以外のものとの差が生じる。日本の差別や格差の問題などはこういったことにも由来するようにも思える。 ちょっと横道の逸れてしまったが、個性豊かでその造形美に惚れ惚れしてしまう、私好みの滝をいくつか近畿圏に絞って紹介してみようと思う。 まず外せないのが兵庫県新温泉町の「シワガラの滝」。半洞窟状の空洞内に落ちる滝で、空洞の奥に入って振り返らないと滝は見られない。苔や草に覆われた緑色の岩の中を逆光に照らされて落ちる姿は神秘的だ。 滋賀県大津市の神爾の滝群中の「雄滝」は途中岩棚にぶつかり大きく水を跳ね飛ばす滝で、その豪快さに圧倒される。同じ大津市の「夫婦滝」は計算されたかのように、見事に平行に2本の滝を落としているし、三重県名張市の赤目四十八滝中の「千手滝」は流れが幾筋にも枝分かれさせながら巨大な滝壺に落ちる滝で、周囲の景観と共に日本の風情を感じさせる滝。 滝の魅力を語れば枚挙にいとまがないが、いずれも神のイタズラかお遊びかと思わせるような滝が日本には無数に存在している。これだから滝巡りはやめられない。
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12 …… 山頂で思うこと やっぱり山の頂は気持ちが良い。周囲に自分が今立っている地点より高いところがない。あるのは限りなく広がる天の空間。そこには青く澄み渡った空と自由な雲のみ(天気が良ければだが)。天と一体になれる。 地上を見下ろすと遠くに灰色の街。街の上空のみ空気が澱んでいるのが見える。わたしたちが住む街は、地べたに張りついたなんて薄っぺらいものなのだろうか。 そうした環境の山頂では広い視野で客観的に物事を考えることができる。普段の悩みなど、なんてちっぽけなことなのだろうか。悩んでいたことが馬鹿げて思えることもある。 「どうして山に登るのか?」という問いに「そこに山があるから」との答はあまりにも有名だが、若い頃は、なんて馬鹿なことを言っているのだ、答になっていないではないか、と思っていた。しかし「そこにある山」、それは単なる地球の出っぱりではなく、自分を解き放つ場所としての山、客観的に物事を見せてくれる山、健康管理をしてくれる山……。いろいろな意味のある「山」であることが近年は感じられるようになってきた。そんな山がそこにあるから登るのである。 また、山の頂では地球の存在を感じられる。宇宙からでなくともそれは感じられる。広大な天空のもとでは街も山も海もが一体化して見える。一つの地球の上に。この何もかもが繋がっている地球は唯一で偉大な存在だ。本当に地球はかけがえのないものだということが一眼で理解できる。同じ地球上の全ての人間、全ての生きものたち、みんながいてのみんなの地球なのだと。 昔から、人々は山には神が宿るとして信仰の対象にしてきた。この訳と意味を長年山に登ることによって、多少なりとも理解できた気がする。
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13 …… 一期一会、奇跡の光景 山を歩いていたり、何気なく空を見上げていると、時に奇跡とも思えるような瞬間の光景に出会うことがある。 街の中をセカセカと周囲に目を配ることなく歩いている時などにも、目の前や上空で奇跡の瞬間が起きているかもしれないが、気づかないことが多いのではないだろうか。リラックスしていると見つけやすくなる。 私の経験した奇跡とも思える印象的な瞬間として、ひとつに幻の滝が見えたということがあった。薄暗い谷間で滝を見ている時、にわかに太陽光が差し込み、滝の水飛沫を照らし出した。そこには実在しない幻の滝が浮かび上がり、本物の滝と幻の滝とが並んで落ちる壮観な風景が現れた。これには鳥肌が立ち、写真を撮ることも忘れ、しばらく心奪われ見惚れてしまった。 また、ふと空を見上げた時、積雲の断片雲がまるで翼を広げた鳥のように形を変え、さらに七色に輝き出したことがあった。まさに「火の鳥」そのものに見えた。一瞬の出来事であった。 これらはまさに一期一会。元は茶会での心得を説いた「一期一会」という言葉は、人との出会いや、その一瞬一瞬は一生に一度きりのもので、大切にしなければいけないという意味であるが、広く物事や場面との遭遇にも使われることも多い。 こういった一期一会の光景を目にすることで、気持ちが前向きになれる。希望を持つことができる。 またこのような光景を見ることで、新しい人との出会いや、家族や友人と共にするひと時は、かけがえのないものであることを改めて教えさせられる。
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14 …… 山で出会う動物たち 登山中、野生の動物たちに出会うこともある。シカ、サル、リス、タヌキ……ほとんどの場合、彼らは人間の気配を感じて先に逃げるため、顔を合わせる機会は少ない。 そんな中でも最もよく会うのはシカ。毎回と言っていいほどよく見かける。地球温暖化の影響で越冬しやすくなったことなどの理由で増えているためだ。シカは、草花、木の皮や新芽を食べる。生息地では山から笹が消えたり、貴重な植物が絶滅の危機にさらされたりしている。彼らに会うことにはあまり喜べない。 サルにもよく会う。公園にいるサルと違って時には騒いで威嚇することがあるが、襲ってくることはない。 イノシシは少し緊張する。ツキノワグマは至近距離で会ったことはないが気配を感じることはある。彼らは出会い頭が危険なので、熊鈴などでこちらの存在を知らせることが大切。よほどのことがない限り向こうから逃げていく。 会えて嬉しいのはリス。日本の野生リスは、海外の公園にいるリスほどフレンドリーではないが、静かにしていると近寄ってくることもある。愛らしい顔や仕草がなんとも可愛い。 タヌキ、キツネ、カモシカ……それぞれにその習性を知っておくことが大切。いずれの動物の場合も、彼らの生活圏内にこちらがお邪魔しているのだから脅かしてはいけない。 人間は野生動物の住処に土足で立ち入って、資源を我が物にし、宅地や農地開発するなど彼らの生活を脅かしてきた。動物たちは物理的な生息域の減少に加えて、地球温暖化による環境の変化という二重苦にさらされている。 これからも山に入る時は、彼ら動物に限らず、そこに生きるものすべてに敬意を払い「ちょっとお邪魔させてもらいます」という気持ちを持ち続けたいと思っている。
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15 …… 猫ブームは続くよ、いつまでも… 猫ブームと言われて久しい。いまだ猫人気は衰え知らずで、ますます高まっているのではないかとさえ思う。10年ほど前にペットの飼育数が、それまで優っていた犬にとってかわり猫の数が逆転し、その後もその差は広がりつつあるという。犬の人気が落ちているわけではなく、それ以上に猫の人気が上昇しているようだ。 どうして今、猫ブームなのだろうか。「その姿や仕草、鳴き声が愛らしい」ということが最大の理由に違いないとは思うが、現在の私たちのライフスタイルの変化によるところも大きく関係しているのではないだろうか。 以前は「ペットも家族の一員」だと言うと抵抗を感じる人も多かったが、今では違和感を覚えない人が多数派だと思う。少子化が進み、愛情を注ぐ血の繋がった家族の人数が減ることにより、ペットにその対象が移っているのではないだろうか。 こうした中で、猫は犬のように散歩をさせる手間がかからないなど、飼いやすいということが、忙しい共働き世帯や子育て世帯、またシニア世帯などで受け入れられやすい。休日も室内で長い時間を過ごすインドア派の若年層も増えたと言われ、彼ら彼女らにとって猫は友人であり、癒しの対象でもある。 近所付き合いの仕方の変化も、猫派が増えた一つの理由になるかもしれない。昔からの親密な付き合いから、近年はよそよそしさが目立ち、近所トラブルも多くなってきていると言われる。犬の鳴き声がうるさいと言った苦情も多いのではないだろうか。その点、猫はその対象になりにくいという面もある。 これらのことを考えると、猫ブームは一時的なものではなく、まだまだ続くだろう。 この文章中では、わかりやすく「ペット」という言葉を使っているが、この呼び名は玩具という意味にも受け取られかねない、人間の一方的な動物の呼び方のような感じがして、私はあまり好きではない。犬猫などは命あるもの。一緒に生活する大切な存在。こう考えるとやはり家族の一員である。 我が家のチャトラ猫「ちゃあ」も今年10歳になり、中年から初老の域に入ってきた。ほとんどの歯が抜けてしまったものの、まだまだ元気ではあるが、大切な命、責任持って天寿を全うするまで家族として付き合っていきたいと思っている。
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16 …… ブナの森を歩いて思うこと 森の中を歩くのは楽しい。中でもブナの森は格別だ。杉や檜などの植林された森と違って、表情豊かで、そこに身を置くと安らぎを感じる。やや寒冷地に分布するブナの森は四季折々、千変万化、その美しさと豊かさは他の森に類を見ない。高い環境保全機能があり、多くの野生動物を育む豊かな森である。 ブナは建材としては不向きで利用価値が低い木とされ、人の手により伐採され杉や桧に置き換えられてきた。杉や桧は常緑樹で、さらに密集して植えられることから地上に光が届かないため、植生は豊かではなく、そこに生きる生物も限られてくる。また、根が浅く、降った雨をたくさん貯め込むことができず、すぐに谷や川に雨水が流れ込むことで、河川の急激な水位上昇や土砂災害が起こりやすい。これに対して、ブナなどは広く深く根が張り巡らされるとともに、落葉による腐葉土が層になっているため、スポンジのように降った雨を貯め込むことができ、豪雨などの災害にも強いとされている。 また、ブナの森は極相林と言われている。自然のまま人の手が入らなければ、長い年月の末、草地や疎林などはブナの森へと行き着くというもの。すなわちブナの森は本来の自然の姿であるということ。それを美しいと思うのは当然のことで、そこに身を置くと心地よく安らぎを感じるの当たり前のことと言える。そんなブナの生息域は地球温暖化や人間都合の伐採等の影響でどんどん狭められている。安らぎを与えてくれる存在が当たり前でなくなってきている。 そんな当たり前だと思っていたことが、昨今そうでなくなってきているということは、何もブナの森の話だけではなく、地球温暖化による異常気象など地球環境然り、戦争や紛争、分断や格差が常態化している世界情勢然り、コミニュケーションの取り方や人間関係などもそうだ。 山に登ったり森を歩いたりすることは、二次的にはストレスを発散して健康維持という意味合いもあるものだが、このようにいろいろと考えさせられることが多く、かえってストレスにならないかと心配してしまう昨今である。
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17 …… 光合成をやめた植物に学ぶ 山を歩いていると、緑色ではない、不思議な姿の植物に出会うことがある。透き通るような白色をしたギンリョウソウや全体がオレンジ色をしたツチアケビなどに代表される、葉緑素を持たない植物だ。植物といえば光合成を行い、太陽の光を利用して自ら栄養をつくり出す存在だと、私たちは疑いなく思っている。しかし、これらの植物はその仕組みを手放し、まったく別の方法で生きている。 葉緑素を持たない植物は、光合成をしない代わりに、土の中の菌類とつながり、その菌を介して他の植物がつくった栄養を分けてもらっている。競争の激しい場所で他の植物と同じやり方を続けるのではなく、環境に合わせて仕組みそのものを変えてしまう。そこには、自然のしたたかさと柔軟さがある。 私たちはつい、「植物とはこういうものだ」といった常識で物事を見てしまう。しかし、自然界にはその常識から外れた存在が、ごく当たり前のように息づいている。正解は一つではなく、状況に応じて選び取られた多様な生き方があるということを、この光合成することを捨てた植物たちは静かに語っている。 この姿勢は、私の仕事であるグラフィックデザインにも通じるものがあるのではないだろうか。決まったルールや流行、過去の成功例にとらわれすぎると、表現は次第に硬直していく。そんなとき、葉緑素を捨てた植物のように、「別のやり方はないか」と視点を変えることで、思いがけない面白さや新しい表現が生まれることがある。 常識を疑うことは、否定することではない。自然がそうであるように、環境をよく見つめ、その中で最も自分らしい形を選び取ることなのだろう。森の中の小さな植物は、今日も私たちにそんなことを教えてくれている。
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