OTAPHYSICA(オタフィジカ)

さらなる燃えと萌えのために。もっとイタく、もっときもちわるく。

私家版オタク事典

 オタクにかかわる事象について、メモ程度のコメントをつけて並べています。つまりはコラム以前の雑記、ネタ帳のようなものです。基本的に緩いノリで書いているので、概念の精確な定義、作品あるいは人物の詳細情報等にかんしては、別に検索してください。

事典項目

 更新記録:「母親役の色香」を追加。(2010.02.08.)

(あ行)

秋葉原

 言い方は悪いが所詮は商店街、すなわちお買い物する場所であって、ここをオタク文化の象徴として捉えるということには違和感がある。それではオタクの本質を消費に置くということにも繋がりかねない。それは間違いであろう。
 ただし、このように消費の要素をオタクの本質から切り落とせるのは、ネット通販が発達して、レアなオタクアイテムを手に入れることに労力、知識、技術が必要とされなくなったからなのかもしれない。レアなアイテムを安価で入手するためには秋葉原などで探さないといけない、そして、目当てのブツを掘り当てるためには一定のスキルが要求される、ということになると、この営みをたんなる消費と片づけることはできなくなる。そう考えると、現在はともかく、「かつての秋葉原」はオタク文化の象徴たりえていたのだろうか。よくわからない。

麻生太郎

 オタクイメージの政治的利用という点では先駆者ということになろうか。注意すべきは、この人物にかんして論じるべきは、「オタク」の政治的利用ではなく、「オタクイメージ」の政治的利用であるということだ。彼(の陣営)は別にオタクに支持してもらおうとして、オタクに呼びかけているのではない。「オタク=若い人々に支持されている」というイメージをもつことでオタク以外の人々に支持してもらおうとして、そうしているのである。ちょっと考えてみればわかることであるが、オタクたちそのものに支持してもらおうとすることは、あまり選挙活動として有効ではない。怪しげな泡沫候補にたまにそういう人がいたりするが。

アート

 「芸術」とすると狭すぎるので「アート」としておこう。オタクとしてのレベル上げに、アートそのものの知識をもつ直接的な必要性はないと思う。ただし、アートの領域には、「目の前の作品についてどのように語るべきか」の倫理やら方法やら技術やらにかんする考察と反省が、美学とか批評理論とかいったかたちで、とんでもない重厚さで蓄積されているわけで、批評や評論をやろうという場合にはこれを利用しない手はない。まあ、メンドクサイし難しいし、一歩間違えるとインテリ気取りのサブカルちゃんになってしまうので、自分の感覚を信じて誠実に語ることが基本なのだが。

アルコール中毒

 私はかなり酒が好きなのであるが、もちろんリアルでは勘弁である。仲間うちに酒との付き合い方間違えて身体壊した人が結構いるしな。だが、虚構においてはアル中には「愛に傷つき友情に裏切られ堕ちるところまで堕ちても己の信念だけは裏切れない固ゆで卵な真の漢」イメージもあるわけで、これがたまらなくかっこいいのも間違いないのだ。この反社会的な燃えイメージを私に強く植えつけた困ったさんの一人がジェイムズ・クラムリーであったのだが、2008年9月、亡くなってしまった…。
 ついでに。スティーヴン・キング『シャイニング』はアル中小説でもあるわけだが、あのマティーニはホントに美味そうだ。ああ、なんだか飲みたくなってきた。

怒り

 ある昔の偉い学者は、立派な人間は、怒るべきときに怒ることができるものだ、とかなんとか主張した。私はこれは正しいと考えている。そういったわけで、最近の漫画やらラノベやらの、いわゆる「優しい少年」には強い違和感がある。彼らは自分に武器を向けた相手、自分を騙した相手、自分を侮辱した相手を、碌な落とし前もつけずに至極簡単に許す。どうやらそれで「心の優しさ」を描写したことになっているようだ。しかし、これは間違いだ。これはたんなる「意気地なし」でしかない。怒るべき相手には怒るのが筋であり、優しさという名目を隠れ蓑に、その筋を曲げることは卑劣な振る舞いである。薄っぺらで惰弱な優しさにはもう飽きた。正しき怒りを描くことなくして燃えはない、ということを強調したい。

痛さ自慢

 昔は濃いオタクほど痛かった。痛さと濃さが比例していたのだ。そして、そこでの痛さ自慢には、自虐混じりの屈折が含まれていたように思う。しかし現在、痛さ自慢はオタクの芸の一つとして確立してしまった感がある。一部の若い世代にかんしていえば、もはや痛さ自慢に屈折はない。痛さ自慢は、無邪気な、どこまでも肯定的な自己表現になっている。悪いことではないよな。平和だということなのだから。

糸目っ娘属性

 糸目は基本的には細い目の漫画的表現の一つである。しかし、それだけではない。細い目の漫画的表現が、笑顔の漫画的表現と似ているために、糸目っ娘には「細い目の娘」というだけでなく「いつもニコニコしている娘」という含みがしばしば付帯するのである。
 そういった含みも込みで、私は糸目少女が好きである。メディアとか佐々木樹々とか古囃独楽とか香坂麻衣子とか轟八千代とか速水先輩とか相沢千鶴とか。クリクリした目玉のキャラクターが多くなる漫画やアニメにおいて、他のキャラと並べて違和感がないように糸目っ娘を可愛くデザインする、というのはそれなりにコストがかかるのか、そんなに登場しないし、登場してもせいぜい一作品に一人。わりとレアなので、出てくると嬉しいねえ。ついでに言えば、糸目くんもそれなりに好きだ。糸目っ娘も糸目くんもほとんど主役を張らせてはもらえないが、一部の好事家にはこよなく愛されているのである。糸目主人公というと藤井八雲くらいだろうか。登場作品はあまりにも…で、途中で挫折したが。

妹属性

 妹萌えがわかるようになった。この年齢になって、また一つよりダメな方向へ進化してしまった。よくある話だが、リアルで実妹もちであった私は、長らく妹萌えを頭で理解はできても体で実感できない状態でいた。ところが、最近ふと気づくと、我ら兄妹も年をとって、ウチの妹もオネエチャンからオバチャンになってきているわけよ。そのため、リアル妹とヴァーチャル妹がメリハリっと区別できるようになったようだ。これで条件が揃ったところで、西尾維新の『偽物語』が最後のトリガーになって、完全に覚醒しました。素直な妹も悪くはないが、ちょっと「可愛くねえ」感のある妹が私の好みである。ただし、一般的なツンデレの枠内に納まってしまうような妹キャラはよくない。妹のツンは「妹ならではのツン」であるべきで、一般的な「ツン」の一例であってはならない。近親ならではの甘えに寄りかかった未熟なツンこそ、妹には相応しいのではないか。

ウェブログ

 ウェブログだって使いようでしょとよく言われるのだが、やはり表現の形式は盛り込む内容を規制するよなあ。「ウェブ」は蜘蛛の巣なのだから、情報が同時的に相互に複層的に関係しあうというのが眼目のはずだ。でも、ウェブログはどうしても時間による順序づけが前に出てしまう。こうなると、情報の価値が「新しさ」中心に量られがちになる。この新しさ重視という価値観に着目すると、ニュースサイトの盛り上がりとウェブログの盛り上がりが底流で連関していると思えてくるのだが、どうだろうか。
 ただ、妄想を垂れ流す媒体としてはテキストサイトよりも優れているとも思う。

鬱展開

 「鬱展開」という言葉は異なった二つの局面で使われている。
 (1)作品そのものが悲劇を描こうとして失敗している場合。カタルシスのない悲劇は、我々をただただ鬱にさせる。文学性やら思想性やらを求めた制作者の背伸びのしすぎが原因であることが多い。「客観的鬱展開」とでも言おうか。
 (2)作品が我々の期待したような展開ではなかった場合。作品そのものの出来がよくても、それが我々の期待を裏切っていた場合には、我々は鬱になる。わかりやすいところでは「物語の都合で殺してしまうなんてヒドい」とか「処女じゃないなんて騙された」とかいった感じか。こちらは「主観的鬱展開」と呼べるだろう。
 このふたつは異なるものである。それは押さえておくべきだ。ただし、娯楽作品が受け手を楽しませることを究極目的とすべきものだとすれば、主観的鬱展開を引き起こした作品もまた、客観的に失敗作であるとされても仕方がないのかもしれない。

オイル臭

 兵器にはオイル臭がしなければならない。そして、太平洋戦争を知っている世代がつくったアニメのメカやロボットには、ときにオイル臭がして、それが素晴らしい。私ではなく、軍事オタを兼ねる第一世代の友人の説である。やっぱりファースト原理主義で、Ζガンダムやキュベレイの美しさを語っても聞きやしねえ。完全に納得はしていないが、「オイル臭」という切り口の見事さにはちょっと痺れた。
 オイル臭のする女の子も可愛いよね。工学系少女萌え。

オタク

 オタクの本質を問うことは難しい。それは、「オタク」という概念が政治的だからである。「オタク」という言葉は、それが誰によって、誰にむかって、誰にかんして発せられたのかという文脈に応じて、さまざまな含みをもつ。たとえば、オタクが、仲間のオタクにむかって、自分自身を「オタクだ」と宣言する場合と、ワイドショーのコメンテイターが、一般視聴者にむかって、犯罪容疑者を「オタクだ」と決めつける場合とでは、含みがまったく異なるのである。この多義性に一定の整理を加えることなしには、オタクの本質について論じる出発点に立つことすらができないだろう。

オタク論

 オタクを論じる前に明確にしておくべき点がいくつかある。(1)問題意識。なぜオタクについて語ろうとするのか。(2)立ち位置。オタクとしてオタクを語るのか。非オタクとしてオタクを語るのか。(3)事実と規範。「オタクとはなにか」について語るのか。「オタクとはなんであるべきか」について語るのか。

おっぱい

 最近はっきりと自覚した。私は大きいおっぱいがすごく好きだ。こんな単純な嗜好をなぜこれまで自覚できなかったのか。それは以下の理由による。
 貧乳属性をもつキャラクターにはしばしば貧乳ゆえの劣等感が付属している。問題は、劣等感属性もまた私の好みだということだ。それゆえ、貧乳キャラについても劣等感属性を媒介にして私は魅力を感じてしまうことが多かったのだ。これが正しい自己認識を妨げていた。
 宣言しよう。純粋におっぱいだけを考慮すれば、私は巨乳派である。『らき☆すた』はみゆきさん、『ストライクウィッチーズ』はシャーリー、こういった嗜好の傾向性はおっぱい属性に基づいていたのだ。不人気好きというわけではないのだ。

俺の嫁

 「俺の嫁」という概念を、できうるかぎり文字通りの意味で厳格に使ってみたらどうなるのだろうか。「俺の嫁」であるからして、ポイントは以下の二点となる。
 第一に、誰の嫁か、ということを問われれば、この現実世界に生きる一介のオタクとしての他ならぬ「この俺」の嫁なのだ、ということを明確にする、ということである。
 オタクの妄想において、妄想者自身が妄想に登場しない場合も多い。カップリング妄想などを考えられたい。このようなタイプの妄想に支えられたキャラクター愛は、厳密には「俺の嫁」という表現がそぐわないものと言えるのではないか。また、妄想において妄想者自身が登場するとしても、その妄想者のスペックにかんしてまで妄想が過度になされる場合にもまた、「俺の嫁」という表現は厳密には適切と言えないだろう。自分自身について妄想しすぎると、「この俺」というニュアンスが薄くなってしまうからだ。
 第二に、まさに嫁であるからして、彼女でも愛人でも女王様でも肉奴隷でもない、ということである。嫁にしたい、つまり、結婚したい、という妄想をはっきりと打ち出すわけだ。結婚妄想を強く押し出すことで、独特のイタさキモさを醸し出していきたいものである。
 この二点が明確に示された妄想に基づいたキャラクター愛の表現、これが、厳格な意味での「俺の嫁」ということになるだろう。こういった厳格な意味で「俺の嫁」ないしは「私の婿」にしたいキャラは誰か、と考えてみると、なんだか自分の心の深層にある欲望が垣間見える感じがしてわりと面白い。
 ちなみに私の「俺の嫁」リストには、「生活力があって優しくておっぱいの大きい娘」がズラリと並んだ。自分の欲望が凡庸きわまりないことに苦笑するほかなかった。

(か行)

階級

 軍隊の階級とか会社組織の階級とか王侯貴族の階級とか天使の階級とか、さまざまな階級のそれぞれに一定のイメージがまとわりついている。オタクの場合、本来の意味からではなく、オタク系の虚構作品からイメージを仕入れることが多いので、そのあたりでときに微妙なズレが生じる。とくに軍隊の階級は軍オタのツッコミがあるので、そのズレが目立ちやすいのではないか。『大鉄人17』ブレイン党のキャプテン・ゴメスとチーフ・キッドの「キャプテン」「チーフ」は、それぞれ佐官あたりと尉官あたりを指しているのだろうか。よくわからん。
 『超人機メタルダー』のように完全オリジナルの階級体系は燃えるよね。

カップリング

 単体キャラクターにかんする萌えが「私の嫁」あるいは「私の婿」妄想に繋がるとしよう。燃えが「私が代わりにヒーローになる」妄想に繋がるとしよう。では、カップリング萌えに導かれた妄想においては、妄想の主体はどこに位置しているのだろうか。妄想の主体は妄想内には登場しない、とするのが、一つの考え方である。そうでないとすれば、守護霊的位置にいる、と考えることもできる。自分の萌えるカップルを、一歩後ろの斜め上から生暖かい眼差しで見守って導いているというわけだ。自分が演じるごっこ遊びではなく、お人形を両手にもって役割演技させるままごとなどが、カップリング妄想の原型と考えられるような気がする。

かわいいは、正義

 真とか善とか美とか、さまざまな価値があるなかで、あえて「正義」を選んだセンスが素晴らしい。ここは正義でなければならない。たとえば「かわいいは、善」では台無しだ。
 我々が正義に言及するのは、おもに力の行使を正当化する文脈においてである。つまり、正義には「本当は力の行使などなしに済めばいいのだが、状況が状況だから仕方ないのだ、だから、わたしたちの力の行使を許してあげなさい」という含みがある。
 他方、かわいさを肯定するということは、かわいい存在がうるさかったりちぐはぐだったり失敗もあたりまえだったりすることを、ぜんぶひっくるめて「許してあげる」ということである。「わたしたちを許してあげなさい」(くまのきよみ作詞「いちごコンプリート」)というわけだ。
 かわいさと正義とのこの構造的対応関係が、「かわいいは、正義」というテーゼに示されているのである。

可愛さ

  一言で「萌える」といっても、その基盤にはさまざまな欲望が存しうる。たとえば、「俺の嫁にしたい」とか「俺の愛人にしたい」とか「俺の肉奴隷にしたい」とか「俺の妹にしたい」とか「私の母になってくれるかもしれなかった」とかいった欲望は、それぞれ別種のものであり、そのどれに駆動されるかによって、萌えのありようも変わってくる。
 ここで注目したいのは、上記のものに並んで、とにかく純粋に可愛い、愛でたい、という欲望があるということだ。
 私はこの欲望に弱い。置く場所がないから買わないけど、シルバニアファミリーとか揃えたいよ。『ぽてまよ』は芸術、『瓶詰妖精』は人生、というような私の価値意識はここに基づいている。ちなみに、芸術、人生ときて、「文学」の位置には『あにゃまる探偵キルミンずぅ』が入ってきそうだ。
 ところで、私のこの性向を「ロリ属性嗜好である」と言う人がいるのだが、これは誤りであると思われる。先に確認したように、幼女を嫁にしたいという欲望と可愛いものを愛でたいという欲望は種類がまったく違うので、混同してはならない。ここでさらに「そのような反論は、ロリ属性もちと言われたくないがゆえの屁理屈ではないか」という反応が予想されるが、これまた馬鹿を言ってはいけない。こちとらすでに最底辺の糞野郎である。いまさら一つ二つ背負った十字架が増えることを恐れるものか。舐めてはいけない。

基礎教養

  「最近オタク領域に興味をもったんだけれども、初心者になにがお奨めですか」と訊かれることがある。でも、難しいんだよね。これとこれ、という仕方で挙げにくいのだ。結局のところ、こう言うほかないようだ。(1)狂ったように量をこなせ。(2)そのさい古典への目配りを忘れるな。理系分野なんかだと定評のある教科書を一冊読めば用が足りる場合もあるのかもしれないが、人文、芸術、趣味の領域では、出発点から量の詰め込みが必須である。それはオタクも同様なのだ。

キモさ自慢

 「痛さ」の自慢は、オタクの立ち居振る舞いにかかわる。それにたいして、「キモさ」の自慢は妄想の内容にかかわる。大雑把にではあるが。
 浅薄なテンプレ妄想はいくら過激を気取っても、イタいだけで、どこかきもちわるさに欠けるものだ。魂のこもった妄想にたいする「きもちわるい」という評価は、オタク練度にたいする褒め言葉なのである。
 このような認識のうえに、自らの妄想のキモさを競い合うオタクのコミュニケーションが成立する。たとえば、南家三姉妹の誰を嫁にしたいかの話をしているときに、「ああ、私はもう嫁とかいうのはいいんだ、私はみんなのお父さんになって、三人におこづかいをあげたいんだ」って言ってみるとかいった事例が挙げられるだろうか。いや自分ではよくわからないのだが、「なるほどきもちわるいですね」と感心されたんだよ。

教養

 知らないことを恥ずかしいと思うところから始まる。そのうち知ることが楽しくなる。知っていることをひけらかすことの下品さに気がつくと、まあ一人前だろうか。道は遠い。

隅っ娘属性

 くまっこ。目にくまがある女の子が可愛い。目のくまは、陰気、不健康、邪悪とかいったネガティヴさの象徴なのだが、上手くすると、それが目に強い魅力を与えてくれるから不思議だ。押切蓮介『でろでろ』の須藤みちことか、玉置勉強『ねくろまねすく』のノラとか。上手く描く人少ないなあ。あとは『おじゃる丸』のうすいさちよも好きだ。

栗本薫

 2009年5月、栗本薫が亡くなった。ライトノベルがジャンルとして確立される前にこの趣味に入った世代にとっては非常に重要な作家であるはずだ。私は『魔界水滸伝』でクトゥルー神話に初めて触れた。恩義は大きい。まあ、そのわりに『魔界水滸伝』も『グイン・サーガ』も途中で挫折していたりするのだが。
 なんとなく思い出したことを書いておく。高校時代、朝の通学の電車で一時期いつも一緒になる会社員のお兄さんがいてさ。小柄でハンサムな青年だったのだが、この人があるときから『グイン・サーガ』を第一巻から読み出したんだよ。通勤電車のなかで毎日ちょっとずつ読み進めていた。あの人は『グイン』をどこまで読み続け、栗本薫の訃報になにを思ったのだろうなあ。

喧嘩

  古典的西部劇の喧嘩の作法には、拳闘至上主義の印象がある。漢と漢の勝負はあくまで拳のみの勝負であって、殴りかかってきた相手を蹴ることなどをはしたないとするわけだ。ジョン・ウェインにもチャールズ・ブロンソンにもなんとなくハイキックは似合わない。しかし、文化が変わると作法も変わる。チャック・ノリスやスティーヴン・セガールならば、躊躇なく相手の膝とか金的とかを蹴り砕きそうだ。爽やか喧嘩と殺伐喧嘩、どちらもよいものだ。
 いわゆるオタク向け作品の場合は喧嘩がすぐに大仰なバトルになってしまうので、こういう微妙な味わいどころがないんだよね。

現実逃避

 人がオタクになり、オタクでありつづける動機のすべてがこれである、とは言わない。しかし、オタク的な生を営むことの眼目のひとつに、たしかにこの契機はある。これを必要以上に非難する人は、人生の真実に鈍感であるか、たんに幼くて世間知らずであるか、どちらかである場合が多い。ただし、ここで「現実」と呼ばれていることがらの内実は人により多様なので、注意が必要である。

考古学

 理系分野をのぞくと、オタク系の作品にもっとも多く登場する学問ではないか。インディアナ・ジョーンズ由来の浪漫のかほりに加えて、物語に非日常を導入しやすいとか、親の不在を辛気臭くないかたちで設定できるとかいった効果があるのだろう。『同級生2』『カードキャプターさくら』『ラブひな』等々を想起されたい。『ぽてまよ』の民俗学も似たようなものだろう。「絵にならない」学問、たとえば18世紀フランス文学研究とか民事訴訟法研究とかは、なかなか娯楽作品において重要な役割を担わせてもらえない。

古典の位置づけ

 趣味のコミュニケーションが成立するためにどのような知識が必要とされるのか、という点にかんして、ハイカルチャーとサブカルチャーを対比することができる。ハイカルチャーは、そのジャンルでなにが古典とされているのか、の知識を要求するだろう。モーツァルトを聴いたことがなければ、クラシックにかんするつっこんだ会話はほぼ不可能である。
 しかるに、サブカルチャーは、そのジャンルで今まさになにが流行しているのか、の知識をまず要求する。オタクがサブカルチャーに分類されるとすれば、オタクがオタクであるために第一に必要とされることは、古典に触れることではなく、流行を追うこととなるわけだ。これはオタクの実情とも合致する。1stガンダムやエヴァを観たことがなくとも、現在放映中のアニメを観まくっていれば、それなりのオタク的対話能力は身につくのだ。
 こういったわけで、オタクには知識が必要である、という主張は、必ずしも古典至上主義を帰結しない。古典への誘いは、別の論理をもってすべきである。私としては、古典への眼差しをオタクライフをより豊かにしてくれるものと位置づけたい。

コミュニケーション

(1) 趣味一般、とりわけ文化系の趣味の特徴として、その趣味を共有する人間たちの共同体においてのみ成立するコミュニケーションがある、という点が挙げられる。「その趣味をもつ人」同士では通じるが「興味がない人」とでは通じない話があるのが、趣味なのだ。
 さて、オタク趣味にかんして特徴的なのは、コミュニケーションの場が大きく二極に分かれていることである。ひとつが、顔の見える状況でのオタクな友人との対話であり、もうひとつが、ネットにおける不特定多数のオタクとの対話である。この二つのコミュニケーションのありかたは、やはりどこか異なるだろう。
 ここで問うべきは、人がオタクになるときに、この両者がそれぞれどのように機能するのか、である。リアルなオタ友があまりいないオタクと、ネットをあまり見ないオタクでは、なんらかのオタクとしての活動様態の違いがあるのだろうか。このあたり、きちんとフィールドワークをやって調べたら面白そうなのだが。

(2) オタクが抱く欲望は多種多様であるわけだが、ここにある誤解が生まれがちのように思う。それは、抱く欲望が異なるオタクどうしにはコミュニケーションが成立しえないのではないか、というものだ。これは間違いだ。そうではない。我々は、他者の欲望に共感できなくとも、それを理解することはできるのである。この「共感できないが理解できる」というところが、オタコミュニケーションの面白さの重要なポイントの一つなのだ。
 たとえば、私は「ビッチキャラ萌え」という欲望をもったことがない。つまり、他のオタクの「あのキャラは本編には描かれていないけれども絶対に男がいるんすよ!ビッチなんすよ!でもそこがいいんすよ!」という妄想まみれのキモイ語りにたいして共感することはできない。しかし、私は、彼がなにを主張したいのかを少なくとも頭で理解することはできる。これが重要だ。この理解によって、これまであまり考えたことのなかった「脳内認定ビッチキャラ萌え」という切り口がこの世に存在する、ということを私は知ったわけだ。これでもって、私のオタクライフはちょっとだけ豊かになったのだ。
 共感できるのは、自分がすでにもっている欲望にたいしてだけだ。そこに変化はない、つまりは成長もない。他者の「共感できないが理解できる欲望」に触れることで、オタクは今とは異なる自分に変わる可能性を手に入れるのである。

(さ行)

(1) いわゆるオタク系の作品はたいていティーン向けに設定されるので、酒の描写がどことなく現実離れすることが多い。とくに大酒飲みの描写がファンタジックになりがちだ。昔話の絵本の「なんとか村のおおざけのみ」チックだったり、大学入学したての若者が抱く「酒が強いのカッコいいぜ」イメージに寄っていたり。それはそれでいいのだが、ライトノベルとか読んでいると、たまに「この世界で「酒」と呼ばれている飲料は、もしかしたら現実世界とはまったく異なるものなのかもしれない」という、奇妙な感覚に襲われるときがある。

(2) 酒というのは嗜好品であり文化である。すなわち、酒は、それ単独ではなく、それにまつわる歴史や物語とともに賞味されるべきなのだ。まあ、普通の正しい酒好きは歴史のほうを大事にするわけだが、オタ酒飲みである私にとっては物語のほうもかなり重い。「あの物語であのキャラがあの酒を飲んでいた」ということに思いを馳せると三倍は美味く飲めるのである。発泡酒とか第三のビールとか、伝統文化への冒涜であり、あんな工場製合成液を飲むくらいなら素面でいるほうがマシだと思っているが、小道具につかったクールな小説とか映画とかがあったら飲んじゃうかもしれない。

殺人

 ライトノベルの主人公はほとんど人を殺さない。殺してもいいところでも殺さないので、話の流れや締りが悪くなることすらしばしばあるほどだ。人を殺しまくるような話は新書版のノベルズなどでやりなさい、ということなのだろう。ページをめくるごと、シーンが変わるごとに人を殺しまくる話が好きな私にとっては、このへんのヌルさが少々物足りなかったりする。ハリウッド映画でも時代劇でもヒーローは悪人を殺しまくっているわけで、もうちょっと気軽に殺してもいいのになあ、と思ってしまう。やはり、学園などが舞台のキャッキャウフフのラブコメを織り成すキャラクターには、性行為にかんしてだけでなく殺人にかんしても童貞処女が相応しい、ということだろうか。ヤったり殺ったりすると、キャラがどこかオトナになってしまうというわけだ。このへんの味加減からすると、ライトノベルというジャンルの対象年齢はかなり低めなのかもしれない。

仕事

 暇がなくて困る。それなりに仕事も大事なので愚痴らないように心がけてはいるのだが。

事実誤認

 オタク系のウェブログに「なになにという事実があるのだが、それはなぜか分析してみた」という形式のテキストをよく目にする。この手のテキストは、「なになにという事実があるのだが」というところで事実誤認をしていると、当然、その時点で全体として無価値なものになる。自分の事実にかんする信念をきちんと検証する作業が不可欠なのである。「オタクはすべて〜」とか「最近のアニメはすべて〜」とか「ライトノベルはすべて〜」とかいった議論をするときは要注意だ。

蛇文字さん

 駄目人間として共感してしまうのはカズフサではなくジャモジさんだなあ。どうしてもお好み焼きにカブトムシ入れたくなってやっちゃう、というのは馬鹿馬鹿しく見えるが、よく考えるといつも私が仕事でやってしまっていることではないか。そうか、だからオレはダメなんだ。(田丸浩史『ラブやん』第9巻、講談社、2008年、第65話「アメリカ」)。

シャワールームの仕切り

 全年齢対象の作品においては仕切りは小さくなり、十八禁の作品においては仕切りは大きくなる、という傾向があるのではないか。前者においては「仕切り越しの会話」というシチュエーションが、後者においては「と、隣に人がいるのにっ」というシチュエーションがあるからだろうか。同じ「仕切り」という小道具が、いろいろな機能を果たしうるのであり、また、期待される機能に応じて現実との異なり方の方向性が変わってくるのである。同様の事態は他の小道具大道具についても指摘できるだろう。一般的に道具は我々をある型にはまった行為へと促すものなのであるが、虚構においてもキャラをあるベタなシチュエーションに導いたりするのである。

銃器

 オタク系にかぎらず一般に、日本の作品での銃器の扱いは拳銃に偏りすぎではないか。自分から殴り込みをするんなら拳銃ではなくサブマシンガンを準備すればいいのに、とか思ってしまうことがあるのだ。まあ、このへんは素晴らしいことに日本の日常に銃がほぼ存在しない、ということの反映だから、文句を言うべきことではないのかもしれない。
 チャールズ・ブロンソンがショットガンを使うさまが興味深い。まったく「武器を使っている」という感じがしない。女子高生が携帯電話を使いオタクがマウスを使うのと同じノリ、つまり、日常の延長でごく自然にひょいと掴みあげて使う。銃が「いつもそこらへんに転がっているありふれた道具」なのだ。ブロンソンはカッコいいけれども、同時に、アメリカって怖い国だなあ、とも思ってしまう。

十四歳

 いわゆるオタク系の作品には中学校高校あたりを舞台にしたものが多い。そのさい、先輩も後輩もいるので人間関係のネットワークをつくりやすいから、三年生だと受験があるし一年生だと場に馴染んでいないから、などの理由で、二年生が主人公の属する学年として選ばれることが多い。ともあれ、 十四歳(中二)と十七歳(高二)が鍵となる年齢となっているのである。そういうわけで私もほんのり加齢臭を漂わせつつも心は、心だけは「永遠の十四歳」に留め置き、そこにキモチワルイ姉萌えやらなにやらを根付かせていたりする。姉弟姉妹のカップリングで妄想が行われる場合には「心の十四歳」である必要はないが、やはりそれでは物足りないのだ。僕のお姉ちゃんが欲しいのだ。
 ちょいと昔、当時は堅気だった後輩(年喰ってから目覚めて現在はタチの悪い萌えオタ)に「涼宮ハルヒとかって高校生でしょう、ずっと年下じゃないですか、ロリコンということですか」と言われて、お前はなにを言っているんだ、私の魂は永遠に十四歳なのだからハルヒくらいの娘は私にとっては素ではお姉さんなんだ、と懇々と真理を説いたことがあった。すっかり忘れていたのだが、最近言われて思い出した。

主観的感想

 ネット上のオタク系言説には「これは主観的感想です」との断り書きをしてあるものが多い。しかし、たんなる主観的感想を公共空間に発表する意味などあるはずもない。そんなもの、部屋でチラシの裏に書けばいいだけのものだ。この台詞は、基本的には、粗探しをして騒ぎ立てる愚かな閲覧者から身を守るための方便である。「このゲームには十八歳未満の女の子はいないよ」と同じなのだ。とくに若い子には、この文言を本気にとって「主観的でいいんだ」と思ってはいけないよ、と言いたい。

熟成期間

 仕事で書く文章には上司のチェックが入る。出版される文章には編集のチェックが入る。学問的な文章には同業研究者のチェックが入る。文章というものは、本番前に他者のチェックが入るのが普通である。ネットのテキストにトラブルが多いのは、他者のチェックなしに公共に発信されてしまうからであろう。日記など、リアルタイムな反応の熱気を残したい文章以外は、一晩くらい寝かせて読み直したほうがいいような気もする。恋文と同じように。

修羅場

 二股からの修羅場という展開そのものが好きなわけではない。とりわけ、刺したり刺されたり、というのは勘弁だ。ただ、「仲の良かった女の子たちがギクシャクする」というシチュエーションにはなんだかキュンとくるものがある。このへんの嗜好を私に植えつけたのは、懐かしの名作『下級生』の南里愛と飯島美雪であろうか。
 で、この感覚を若い人たちにもわかるようにしようと考えたのが以下の例である。『けいおん!』で澪と律の同時攻略ルートをある程度進めるわけだ。するとそのうち双方が二股かけられていることに気づいて、バンドの雰囲気が微妙になるわけだ。まずはここでの「リズム隊がギクシャクしている」という構図を味わいたい。かてて加えて、空気が読めない唯が天然に「なんで音合わないんだろうね、なんでだろうね」というようなことを言ってしまい、なんとなく事情を察していた紬がどうフォローしていいかわからなくてオロオロするとか。そういう感じの良さ、わかってもらえるだろうか。

純文学

 この言葉がアカデミックな文学研究で使われることは基本的にない。「純文学」は、胡散臭いにもかかわらず流通してしまっている概念の代表格である。
 なにかを特徴づけるときに、対比の項として「純文学」なるものを立てる論者がいるために、実体があるかのように錯覚されてしまうのだろう。たとえば「SFVS純文学」とか「大衆文学VS純文学」とか「売れる文学VS純文学」とか。文脈によって対比軸が変われば「純文学」の内実も変わる。そして、このような場当たり的な対比を離れて「純文学」概念が機能するところはない。「純文学」の意味はいつまで経っても曖昧なままだ。
 いんちき批評に多いこの手の駄目議論を見習うべきではない。オタク論における「ライトノベルVS純文学」も同じ穴の狢になりがちなので、注意すべきだろう。
 ここまで実は前置き。こういった事情ゆえに、COCO『今日の早川さん』において言動にいちばん隙が大きいのは、実は岩波さんだったりする。可愛いなあ。

スパッツ

 ブルマより好きです。本来エロとは無縁のものをエロい目で見るからよりエロいのだ。ブルマはそのものとしてエロすぎて逆にエロくないんだよ。現実世界で廃絶されてから、ブルマはたんなるエロ衣装に成り下がっちゃった感があるので、なおさらだ。

聖地巡礼

 この行為の面白さが私にはよくわからない。苦手だ。私の個人的な感覚として、作品どうしのあいだの引用関係には興味をもてるのだが、作品と現実との対応関係にはなぜか興味が向かないのである。また、理論としても、私の妄想中心主義ではこの快楽をあまり上手く位置づけることができない。そういったわけで、少し世代の下の連中がこのシーンはあそこのこれで、あのシーンはあそこのあれで、といった話で盛り上がっていると、取り残された感じがして少し寂しくなってしまったりするのである。

制服

 いわゆるオタク向け作品に登場する学校、学園、軍隊等々の制度的集団を眺めてみると、女子向け男子向けを問わず、珍妙怪奇な制服が無数に見つかる。可愛くしよう個性的にしようとフリルをつけリボンをつけ配色を派手にし、とやっていった結果なのだろう。しかし、その一方で、近年では、デザイン配色ともに地味め大人しめの制服も増えてきたように思う。私にとっては望ましい傾向である。二次キャラの場合、基本的に可愛いのだから、どちらかというと野暮ったい制服を着せたほうがずっとそそるものがあるのではないか。個々人が頑張って着崩したりする描写もしやすくて面白いし、エロさの点でも、制服が野暮ったいほど半脱ぎの味わいが増すであろう。ちなみに、地味なブレザーにスカート長めの半脱ぎが私の最近の好物である。モノにもよるが、セーラー服は記号としての力が強すぎて、ちょっと苦手なんだよね。
 リアルで野暮ったい子が野暮ったい制服を野暮ったく着ているのを見ると、これは可哀相だなあ、と思うが。

セクシャル・ハラスメント

 一部の会社ものの漫画とかで、ときにひどく軽々しくネタにされているのにちょっと違和感を覚える。当事者になったことこそないが、相談に乗ったり愚痴を聞いたりした経験はあるので。ただ、なかなか難しいところもある。「それがギャグで済むと思っている」漫画家が間違っているとも言えるが、「別業種の性差別の現実はもっと酷くてそれくらいはギャグの範疇なのだ」ということをわかっていない私のほうが世間知らずなのだとも言えるだろうからな。

世代

 オタクを分類する切り口としての世代は、現在ほとんど有効性を失ったように思われる。私の理解では、世代の違いに実感を与えていたのは、萌えにかんする態度の違いであった。驚くべきことに、第一世代にはまったく萌えがわからないオタクがいた。これは、明らかな断絶であった。しかし、現在の現役のオタクたちには、このような世代に対応した本質のレベルでの決定的な差異はないと思われる。
 ただし、個々のオタクの自己理解や自己規定は、その時代の仲間うちの雰囲気や世間でのオタク報道、流行っていたオタク論などによって、かなりの影響を受けるので、現象的なレベルでは世代をそれなりに有意味に語る余地があるような感じもする。しかし、このあたりの事情を整理するのは、「オタク」論ではなく、「オタク論」論の課題となろう。
 どうでもいいが、今の若いオタクにとっては、第一世代は年上の友人というよりも親の世代になるのだろうか。泉家みたいに。

想起

 流行にあわせて与えられた新作をテンプレの反応で消費するばかりの状態からどうやって脱出できるのか。自分なりのセンスをいかにして磨くことができるのか。一つの鍵は、想起にあると考える。過去に好きだった作品を、好きだったキャラを、今、思い出して再び語ること。この行為が、流行の絶え間ない流れに亀裂を生じさせる。その亀裂からオタクの個性も芽生えてくる。なにを思い出すかは、きわめて個人的なことがらだから。ただし、流行つまり公共性への目配りをまったく欠いた自分語りもまた、非生産的である。難しいなあ。

属性愛

 これまでいくつかのテキストで述べておいた私の立場を簡潔にまとめておく。属性愛の発現の仕方には一見相反する二つの方向がある。
 (1)その属性を備えているキャラクターを好きになるハードルが下がる。自分の好みであるための条件をクリアしているのだから、当然そのキャラを好きになりやすい、というわけだ。
 (2)その属性を備えているキャラクターを好きになるハードルが上がる。その属性にかんして目が肥えているので、造形の凡庸さや設定の粗に目が行きやすい、ということである。
 一般に、属性愛は(1)の方向性で語られることが多い。しかし、たとえば私の眼鏡っ娘属性にたいする態度は(2)への傾きが色濃い。(1)を突き詰めていけば自然に(2)に至るはずで、(2)の感覚なしで属性愛を語っているヤツラはまだまだヌルいのではないか、と、私としては思わないでもない。

(た行)

中学生属性

 中学生には独特の可愛いさがあるのではないか。椎名高志『絶対可憐チルドレン』が中学生編に入ったあたりから、これを考えてきた。で、『Darker Than Black』二期の蘇芳パブリチェンコと『ガメラ3 邪神<イリス>覚醒』の比良坂綾奈あたりを眺めていて、ピン、となにかがキた。
 中学生には、それほど親しくない段階で、お腹が酷く空いているところにご飯やら甘味やらを食べさせてあげるのがいいのではないか。そして、それをテーブルの向かいからコーヒーでも飲みながらチラチラと観察するのである。これがもっともよく中学生を愛でることができるように思う。小学生では駄目だ。普通にご飯に夢中になってしまうから。高校生でも駄目だ。いくらお腹が空いていても、こちらの目を忘れることはないだろうから。中学生だけが、最初は警戒しているんだけれども、食べ始めたら夢中になってしまってガツガツとなり、そして、お腹がくちくなったところでハッと我に返ってこちらの視線に気づいて、「しまった」という感じで警戒モードにまた入る、というような一連の仕草を実現できるのである。
 これは可愛い。いわゆるボーイッシュとは違う、まだ大人になりきっていないという意味での少年っぽさ、小動物っぽさの残り具合、これがミソである。こういった可愛さは中学生のみが実現できるものである。たしかに中学生だけでなく、路上生活が長い疲れきったオッサンに飯を奢っても同様の振る舞いをすると思うが、あまり可愛くはないからな。設定上中学生であるかどうかではなく、以上のような可愛さを実現できる含みがあるかどうか、私にとっての中学生属性のミソはそこにある。
 たまにはキモチワルイ方向にアクセルを思い切り踏み込んでみるのも面白いかもしれないと思って踏み込んでみたら、大惨事になってしまった感があるな。

定義

 「ある事象について論じること」と「ある言葉を定義すること」との区別がついていない人がたまにいる。たとえば、「オタクという言葉は多義的だから、オタク論はすべて主観的だ」とかいった間違った主張を見たことがある。馬鹿なことを言ってはいけない。
 言葉が多義的だからこそ、まず定義をするのだ。定義することで、扱う事象の範囲をきちんと確定できる。そのうえで、我々は事象そのものについて論じる。その考察や分析については、当然、妥当性や有益性を評価することができる。そして、その妥当性や有益性に照らして、最初の定義もまた評価されることになる。
 ここになにも問題はない。

どこでもない街

 ヒーローの愛や正義は普遍性をもたねばならない。管轄外のトラブルには関知しません、という官僚的態度はヒーローらしくないだろう。しかし、普遍性をもたそうとして、世界の平和、地球の未来を守る、としてしまうと、話が大仰になりすぎる。そこで採用される手段のひとつが、「どこでもない街を守る」という設定である。この場合、街が舞台なので、物語は畳めない大風呂敷にまで弛緩する危険性から逃れることができる。さらに、ここで注目すべきは、そういった街が、あくまで架空のもので、どこでもない、ということだ。もちろんモデルはあっていい。しかし、街そのものは、現実には存在しないものであるべきだ。なぜか。現実に存在しないからこそ、物語中のその街は、受け手の各々にとって自らの住む「この街」と容易に重ねられることを許すからである。このことによって、街を守るヒーローは、狭い地域に活動を限定されつつも、普遍性を手に入れることができるようになる。ちなみに、現実の街に縛られた、いわゆる「ご当地ヒーロー」は、どこまでいってもパロディの枠を出ることはない。それは、普遍性を欠いてしまっているからである。

ドリル

 現実世界で使用される「工具としてのドリル」と虚構作品に見られる「武器としてのドリル」との関係を再考してみたい。「武器としてのドリル」は基本的に円錐の形状をしている。しかし、「工具としてのドリル」は基本的に円柱である。リアルドリルには、先っぽと根元の直径が変わらないものが多いのだ。回転して穴を掘る、という機能発揮の様式こそ共通であるが、両者はモノとしてかなり異なるのである。「武器としてのドリル」を「工具としてのドリル」の転用と理解することはもちろん間違いではないのだが、その一方で、敵をグッサリ突き刺す武器という観点からして、槍の変型、進化系として捉える視点も忘れてはならないだろう。「武器としてのドリル」の切っ先は、槍の切っ先なのである。

(な行)

中川翔子

 オタク系のネタを使うタレントは少なくないと思うのだが、そのほとんどが「オタクというネガティヴなものにコミットしちゃう私って面白いでしょ」というスタイルから抜け出すことができていない。「オタクである楽しさのそのままの肯定」というスタイルを有効に使えているのは、中川翔子くらいではないか。
 一般のオタクイメージへの影響、それも正の方向への影響という観点からすれば、彼女はもうすでにオタク史の教科書に載せるべき存在になっていると私は思う。「犯人の少年のバッグからは漫画と携帯ゲーム機が発見され…」といった紋切り型の報道がもう少しましな方向になりうるとするならば、それは中川翔子、または続く中川翔子的な存在の活躍にかかっている。

日本刀

 日本刀最強幻想は根強い。特殊な場面を除けば、遠くから矢を射掛けたり槍でチクチクやったりするほうが明らかに有効なのだが。まあ、戦争もないのに刀差していたお侍さんたちが江戸時代の二百数十年をかけて練り上げていった妄想が、武士道やら時代劇やらといった媒介を経て現在のオタクにも受け継がれている、と考えれば、その根強さも理解できるだろうか。

野田昌宏

 野田昌宏の思想はオタクの源流として位置づけられるべきだと私は考えている。自らの妄想をもって切り込むという物語にたいする根本的な態度(拙稿「妄想の系譜」を参照)もそうだし、よりわかりやすいところで、少女やメカやヒーローへの愛着をとってみてもそうだ。その思想は素朴であるが強靭きわまりない。1933年生まれの野田昌宏のうちに、いまなお我々が学ぶべきことがたくさん含まれているのである。オタク論の歴史という観点からすれば、たとえば岡田斗司夫などのほうが目立つのは確かだ。しかし、その生き様と思想がオタクの本質に届いているのは、世代が上の野田昌宏のほうなのである。ここに思い至ると、オタクが変化しただとか死んだだとかと騒ぎ立てる浅薄な世代論にいちいち反応するのも馬鹿らしくなってくる。本物は世代を超えるのだ。
 ともあれ、私がたいへんに影響を受けた存在のうちの一人であった。
 2008年6月、鬼籍に入られました。ご冥福をお祈りいたします。

(は行)

パチンコ

 パチンコやらないので的外れな感想なのかもしれないが、仮面ライダーの権利が売られたことにどうもいまだに納得がいかない。まあ、権利をもっていた連中のなかでは昭和ライダーは「終わっていた」ってことかね。

八極拳

 究極最強の中国武術…ということに日本のオタク業界ではなっている。作中の描写と実態との対応度合いは作品によってまちまち。私見では、描写にいちばん「わかっている感」がするのは、SABE『世界の孫』のロイヤルバレエ成龍門である。

母親役の色香 追加

 ママン属性もちというわけではない。声の話である。少女役をやっていた人が母親役をやるようになったあたりの声がわりと好きなのだ。最初から母親っぽい声が出る人が母親役をやる場合はちょっと違う。少女役をやっていたのだが、声が落ち着いてきて、自然に母親役になる場合がいい。少女声のアニメ用につくったガチャガチャした感じが抜けて、本来の声質の魅力が素直に出てくる気がするのだ。典型はもちろん皆口裕子、最近だと久川綾、根谷美智子といったあたりがいい感じだ。古いような新しいような話だと、2010年になってやっとDVD-BOXが出た『メダロット』で鈴木真仁が主人公の母親役を含めた数キャラを兼ねていて、おお、やるな、いいな、と思った記憶があるな。

蛮人最強説

 創元が原典に忠実な新訂版コナン全集を出している。2009年11月現在、あと一冊で完結だ。私も昔はファンタジーというと、痩身の美青年が大剣を背負って、というパターンを好んでいたのだが、いつしか「蛮人こそが最強」という価値観に傾いてきた。コナンというヒーローは実にいい。文明人ヒーローというのは、結局のところ、現代を生きる我々の日常的な価値観の延長線上に位置しているにすぎない。文明人ヒーローのもつ正義やら愛やら勇気やらは、その量こそ偉大ではあるが、質や方向性については俗衆の正義や愛や勇気と変わらないのだ。つまり、価値観を引っくり返すような燃えはここにはない。しかし、蛮人ヒーローは違う。我々とは隔絶した、もっと野蛮で高貴な価値観のもとで奴らは行動する。デスオアグローリー、キルウィズパワーだ。剣と魔法モノの燃えの最大の醍醐味は、世界の捉え方を根底からひっくりかえす、蛮人の燃えにあるのだ。

反美少女宣言

 英語で最上級に定冠詞がつくのは、最上級なものは一つだからだ。これと同じことで、「絶世の美少女」のような最上級的な描写をされるキャラクターは、どれもこれも同じようになり、個性を失いがちだ。アニメや漫画だと絵で描かれるのでそれでも個性が出るのであるが、ラノベは酷い。作者の筆力が足りないと、美少女属性が言葉だけで空回りしてしまう。 そんなわけで、私が今注目しているのは、「美少女ではないけど愛嬌はあるよね」属性である。この属性こそが、立体感のあるキャラクター、奥行きのある萌えの鍵となるのではないか。具体的には、くせっ毛、太眉、糸目、八重歯、丸顔、そばかす、高身長、ぽっちゃり、等々の属性に注目したい。貧乳属性や眼鏡属性も入るかもしれないが、これらは固有の領域を形成しているので扱いが難しい。また、濃い目のハンディ属性およびホントの不細工属性は少々別の考察を必要とするので、ここには含めていない。
 美少女キャラに飽きて脇キャラ萌えに走ったおっさんが開き直った、と解釈していただいてもいっこうにかまわないですよ。

美少年

 最近、二次でも三次でも、美少年の可愛さを素直に愛でられるようになってきた。とくに三次が面白い。ただ、ショタエロ好きや同性愛的な観点がわかったわけでもない。説明すると以下のようになる。
 昔は三次のかっこいい男の子にたいして「このモテ野郎め」という妬みのキモチがあった。ところが、それなりにオッサンになるとそれが薄れる。もうまったく別の生き物になってしまったので、彼らと価値を巡って競合しているという意識がなくなるようなのだ。そうすると、純粋に男の子の可愛さかっこよさを観賞することができるようになる。
 この「純粋に可愛さを観賞する」ってのが面白い。女の子の可愛さの観賞には、どこかにエロ心が入ってしまう。ハァハァしちゃうのだ。ところが、私は男の子にエロ心をまったく感じないので、その可愛さに心静かに集中することができる。鼻息を荒くせずに、ブランデーグラスを揺らしながらゆったりと可愛さを愛でることができるのだ。この感覚が、なかなかに興味深いのである。

表紙買い

 表紙買い、ジャケ買い、パケ買いの能力というものは本当に存在するのだろうか。背後の多数の地雷を踏んだ経験を忘却し、たまの成功体験に目を奪われてしまう人間心理が生み出した錯覚ではないのか。合理的に考えればそうなるのかもしれない。でも、なんかそれだけじゃない気もするんだよな。私がもっているとすれば、漫画の表紙買い能力だけだ。

病弱属性

 病弱属性の中核は時代によって変遷していると思われる。
 儚げな美少女とか線の細い美青年とかが高原とか海辺とかのサナトリウムで療養していたとすると、原因は「肺病」というのがひと昔前までのお約束であった。この肺病のイメージこそが、古典的病弱属性を中核で支えていたと思われる。これより軽いと喜劇になるし、これより重いと悲劇になる。心置きなく萌えられるのがちょうどこれくらい、というわけだ。
 現代的病弱属性の中核をなすのは、「心臓病」である。こちらの場合は、「療養」ではなく「手術」がドラマの鍵になってくる。身体的な儚さよりも、手術に向かう精神的な不安感のほうが、病弱属性の萌えどころになるわけだ。その他にもいろいろなイメージに伴われている病気はあるが、妙な偏見を呼んでしまうような場合もあるので、挙げないでおく。
 人間が人間であるかぎり病弱属性そのものがなくなることはないだろうが、これから先、医学の進歩とともに、その内実がさらに変化していくことは予想できる。

品格

 「オタクにも品格があろうによ!」(久米田康治『さよなら絶望先生』第六集、講談社、2006年、29頁)。品格の他者への押しつけはそれ自体品格に欠けるとか、市場原理の前では個人的な倫理を強調しても無意味だとか、各人がなにを面白いと思うかのセンスは尊重すべきだ、とか、わかるのだ、わかっているのだ、でも、どうしても言いたくなってしまうときがあるのだ、「オタクにも品格があろうによ!」と。

不殺

 殺しがアリの世界観において不殺を信条とするキャラクターは、造形や描写に失敗すると「ケッ、しゃらくせえ」という反感を招きがちだ。内藤泰弘『TRIGUN』『TRIGUN MAXIMUM』のヴァッシュ・ザ・スタンピードが成功したのは、彼の不殺の信条が自分のためのものではなく、徹頭徹尾他者のためであること、つまり、「自分の手を汚したくない」ではなく「目の前のこの人間に生きていてほしい」であることがそれなりにきちんと描けていたからであろう。
 それにしても長かった。ウルフウッド死んでからの盛り上がりはいまひとつだったかも。

方言属性

 関東圏で生まれ育ったこともあり、私は方言にきわめて弱い。方言で愛を囁かれたりすると、もうイチコロである。誰とは言わないが関西弁で眼鏡の魔女っ娘ヒロインが人気なかったりすると、あんまり思い入れなくても自分が否定されたようで哀しかったりする。
 ところで、アニメなどで方言が語られると、ネイティヴの声優が声を当てているにもかかわらず、「それは違う、正確ではない」という人が必ずでてくる。これはたぶん、自分の慣れ親しんだ方言こそが典型的なのだ、という錯覚によるものなのだろう。たまに、もう少し方言(たとえば関西弁とか)の細かい差異に繊細であればもっと萌えられたのでは、と思ったりもするが、こういうのを見かけると、逆に、ある程度判別能力が粗雑だからこそ萌えられているのかもしれない、とも思う。

棒読み

 アニメにかんする短絡的批評ゴッコに頻出する概念の代表が「作画崩壊」とこの「棒読み」であろう。どちらについても自分の素朴な印象がそのまま批評として通用するだろう、という甘い思い込みが背後に透けて見える。「私の側に主観的な違和感があるからには、作品の側に客観的な欠陥が対応しているはずだ」と思ってしまっているわけだ。実際のところは、その人の狭い経験からこしらえた「典型的アニメ演出」「典型的アニメ声」から外れているだけで、批判は筋違い、という場合が少なくない。「典型的アニメ声」の演技の拙さがスルーされがちなことがこのことを示している。
 …ということを踏まえたうえでのことなのだが、若い男の子のオタクが新人女性声優を「棒読みだ」と攻撃するさまには、どこか微笑ましいところがある。「気になるあの子に振り向いてもらいたいがどうしたらいいかわからないのでついつい攻撃的な態度をとってしまう」という小学生ちっくなメンタリティが丸見えだったりするのだ。自戒を込めて書いておく。ある程度年取ると見苦しくなるから気をつけたほうがいいぞ。

ポストモダン

 現代思想ブームからかなり時間が経って、「ポストモダン」として括られてきた諸言説の評価もそれなりに定まってきた。玉に石が大量に混ざるからのブームなのだが、そういった玉石混交のなかから玉と石がより分けられてきたわけだ。
 さて、現在でも、ポストモダンっぽいオタク論をやる人をちらほら見かける。あんまり勢力もないみたいなので悪口を言うのも可哀想な気もするのだが、私としては、連中についてちょっと気になる点がある。連中が依存するポストモダン的言説が、すでに大方の共通了解では「石」に分類された、ダメ議論クズ議論である場合が非常に多いのだ。
 バブルの雰囲気に浮かれた薄っぺらい消費至上主義(今思い返せばどうしてこんなものを多くの人間が信じられたのか不思議なくらいだ)を、オタクの虚構愛にきわめて安易な仕方で重ねたりするようなオタク論とかね。学問的にダメな議論を、学問的にダメな仕方で流用しているわけだ。ダメの二乗の恥ずかしい「サブカル知識人ごっこ」である。
 そういえば、永野護『ファイブスター物語』の一巻だかの帯の煽り文句が「モーターヘッドはポストモダン」だったような記憶がある。ああ、恥ずかしい恥ずかしい。

ポニーテール属性

 キャラクターの絵は正面から描かれることが多い。これはポニーテールという髪型にとっては困ったことである。正面からはテール部分が見えないのだから。ツインテールが隆盛を見た理由のひとつには、二次元で描かれることに親和的な髪型だったから、ということもあるのだろう。そういったわけで、ポニーテール表現は、巨大なリボンを伴ったり、微妙にサイドに位置をずらしたり、といった具合の独特の変化を余儀なくされた。とくに興味深いのは「正面から見える位置へのテールのズレ」という現象である。アレはたとえばサイドテールと名のつくような別種の髪型なのだろうか。それとも、本当は後頭部にあるはずのテールが表現の都合上で正面から見えるように描かれているだけ、つまり、普通のポニーテールがキュビズム的に描かれている、と解すべきものなのだろうか。このあたり、興味深い。『ラブプラス』みたいに3Dだとこういった問題は出ないか、というとそうでもないようで、やはり高嶺愛花のポニテはリボン大きめ、結い位置高めなのである。
 私自身はこの髪型にあまり執着はないのだが、仲間うちに一人狂信的なポニテ者がいて、ちょっと前にそいつと酒飲んでいるときに思いついた話である。そういえば奴も『ラブプラス』買ったようだから、今度話を聞いてみなければ。

ポルノグラフィ

 規制がらみでなんやかやと発言する人が増えたけれども、規制したい派はともかく、規制されたくない派にも勉強不足の人が多くて、どちらにどうツッこんだらいいのかわからん。アカデミズム系のオタク論者たちにはこういうときにこそ政治的に有効な指針を示していただきたいものなのだが、あんまり役に立たねえんだアイツら。
 一般的に言えば、ポルノ表現をどれくらい容認するかが、その社会の成熟の度合いを測るいちばん明快な基準である。つまるところ、我々のこの社会の程度は所詮「こんなもん」ということなのかもしれない。

(ま行)

宮ア勤にかんする報道

 オタク論の文脈では、これがオタクバッシングの出発点として語られることが多い。しかし、象徴として語られすぎて実像が見失われてしまった感もある。事件からもう二十年がたとうとしている。オタク論の観点からの、当時の事情および現在への影響の総括的な捉え返しが必要な時期がきている。私にはその能力も意欲もないが…。

村上隆

 多くのオタクがこの人のやっていることにたいして反射的に不快感を抱くわけだが、私はそういった反応には一理あると考えている。現代美術は他の文化領域の要素をしばしばそのうちに融通無碍に取り込む。これはすなわち、他の文化領域の文脈を暴力的に蹂躙する、ということ以外のなにものでもない。それにたいして、元の文化領域に属する人々が不快感を覚えるのは、至極正当なことである。その意味で、オタクたちの不快感を「現代美術の文脈をわかっていないがゆえの脊髄反射」と否定しきれないのである。
 さらに、現代美術とオタク文化のあいだには、ハイカルチャーとサブカルチャーという露骨な社会的位置づけの違いがある。そのため、現代美術がオタク文化を取り入れる、ということは、不可避にさらなる暴力性を孕むことになる。「文化的価値を与えてやった」的な上から目線がもつ暴力性などを考えていただきたい。これについてもまた、オタクたちが不快感を抱くのは当然であろう。
 さて、上のような事情であるのだがしかし、村上隆という人は、自らの営みがもつこのような暴力性にわりと無自覚、無神経なんだよね。これがまたさらにオタクたちを苛立たせる。その苛立ちには、オタクたちの被害妄想ももちろん混じってはいるのだが。

メイド属性

 「ご主人さま」は駄目だ。「旦那さま」じゃなきゃ。「ご主人さま」と「メイド」は、それで関係が完結してしまい、すぐにメイドプレイに堕落する。ところが、「旦那さま」には、「旦那さま」とは別に「奥さま」と「お嬢さま」と「お坊ちゃま」がいるという含みがある。メイドを「人」が雇っているんじゃなくて「家」が雇っている、これがいいのだ。身分の壁がグンと高くなった感じがするでしょ。それでもって、上流階級のお屋敷の暗闇で夜毎行われるネットリした背徳的で淫靡なアレがナニするなかに巻き込まれてこそのメイドである…というのは趣味に走りすぎか。最後は館が猛火に包まれて崩壊するの。脳が昭和官能小説だ。

メガミマガジン的なるもの

 私のオタク論では、妄想は基本的にオタクが自ら行うものであった。他者の妄想を楽しむことは、オタク相互のコミュニケーションの一環として位置づけられていた。私にとっては、妄想は、「誰が妄想しているのか」という観点、つまりは妄想主体たるオタクの人格と切り離せないものだったのだ。しかし、現実は一歩先に行ってしまったようだ。業者が妄想を大量生産して売り出し、オタクがそれを購入して消費するような制度も可能であったのだ。そのような制度の一例が、言うまでもなく、メガミマガジンのピンナップである。
 このサイトでグダグダ語りはじめてからそれなりの時間が経ったが、当初から掲げてきた妄想中心主義に基づくオタク論の構想については、基本的にあまり修正の必要を感じていない。手前味噌であるが、それなりに上手いことオタクの核心を捉えているのではないか、と思っている。しかし、時代につれて「これまでになかったオタクのありよう」が登場してきていることもまた確かだ。妄想がここまであっけらかんと売買の対象になるとは、私は想定していなかったのである。この事態をどのように価値評価すべきかは、まだ私の中で考えが定まっていない。
 ちなみにメガミマガジン、自分で買ったことはないのだが、友人にどうしようもない萌えオタがいて、彼が愛読者なので、飲んでいるときに借りてパラパラ眺めたりしている。こういったわけで、他にも類する雑誌はあるのだが、これに代表させておく。

(や行)

 虚構において槍という武器を魅力的に描くのは難しい。それは、槍にとってもっとも基本的であるところの「突き」「扎」という動作が絵的に映えないからであろう。刀剣の突きはまだそれなりに動きが見えやすいのだが、槍はそのものが長いので、突いてもいまひとつ絵が変化しないのだ。それゆえ、虚構の槍は、多くの場合に、走って身体ごと突っ込んでいく、という馬上槍的な仕方で描かれてしまうことになるのである。

弓矢

 なんとなくフェミニンな武器というイメージがするのは私だけではあるまい。もちろん現実は筋肉野郎が引いたほうが殺傷力があるわけだが、華奢なキャラクターにもたせてもなぜか絵的に説得力ができるのが不思議だ。洋弓はエルフのお嬢さん。和弓は袴姿の女学生。ベタベタだな。古参の腐女子は『サムライトルーパー』とか思い出すのかね。好きなゲームとかでまた感覚は変わるかな。

(ら行)

リアリティ

 オタク界隈で「リアリティがない」という非難はよく見かけるが、「リアリティがある」という賛辞はあまり見かけない。私が思うに、このことは、本当にリアリティのなさが問題になっている場合が実はあまりない、ということを意味している。「リアリティがない」という言葉は、ある作品を気に入らなかったのだが、その気に入らない理由を上手く分析し表現できないときに使われる、あまり内容のない罵倒語なのだ。オタク系の作品であれば、だいたいどこかに「リアリティがない」ところがあるので、たんなる感想を根拠と論理をもった批評に見せかけることが容易にできるというわけだ。これに釣られて「リアリティ」とか「リアル」とかいった言葉を振り回し始めても、あまり面白い話は出てこないと思われるので、注意すべきだろう。

録画技術

 家庭用ビデオデッキの出現は、ある映像作品を視聴者個人が好むように、反復して、コマ送りで、一時停止して視聴することを可能にした。このことは、オタクのアニメの視聴様式を大きく変えた。さらには、反復して、コマ送りで、一時停止して視聴されることを前提にしたネタも、アニメ作品に組み込まれるようになっている。これは実は革命的な変化ではないか。

ロリータ・コンプレックス

 性表現規制反対云々の話は面白くならないので脇に置く。
 属性に二種類を区別できる。現実と虚構が近いものと、そうでないものだ。エロ属性には、後者、すなわち虚構限定で受容されるものが目立つ。近親相姦やら汚物愛好やらがわかりやすい。どちらもさまざまなジャンルの虚構のエロ作品において定番になっているが、それを実際に試みる人はほとんどいない。妄想ならいいが現実では勘弁、という人が多いのだ。
 さて、幼女性愛も虚構限定で受容されることが多いように思われる。オタクには二次ロリを理解し愛好できる者がかなり多くいる。しかし、そのほとんどが、三次ロリ嗜好はもっていないと思われる。二次ロリ表現はオタク的作品の歴史のなかで独自に練り上げられてきた性表現であって、現実の子どもの実態とはかなり懸け離れている。三次ロリ嗜好をもつ者が二次ロリ表現を代償として好むことはあるだろう。しかし、二次ロリを理解するものが三次ロリをも簡単に理解できるかというと、そうでもないのである。また、普通人が二次ロリに違和感を覚えるのは、ロリ要素そのものにではなく、オタク的表現を理解する教養の不足に主たる原因がある、ということも指摘しておこう。
 ところで、ネットでたまに、たかが二次ロリ漫画やら二次ロリエロゲーやらを好きなくらいで自分はマイノリティだとか業を抱えているだとか大仰に主張する人を見かける。私には、普通じゃないのがかっこいい、という中二病にしか思えない。あなたは普通のオタクにすぎない。性的マイノリティの問題はそんなに軽いものではない。

(わ行)

(その他)

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