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古曽部陶芸倶楽部作品展示2012

古曽部山土による作品
(作者順不同、画像をクリックすると拡大します)

佐々木信二郎
片口
松灰釉、古曽部山土(原土)
河村賢一
小皿
灰釉、古曽部山土(すいひ土)
加藤嘉平太
片口
カオリンマット釉、古曽部山土(原土)
Mayuko Ozaki
マグカップ
石灰3号釉、古曽部山土(原土)
土屋隆一郎
酒器
伊羅保釉、古曽部山土(すいひ土)
岡田哲也

松灰釉、古曽部山土(原土)
田中弘子
小皿(4客)
松灰釉、古曽部山土(すいひ土)
久保直子

藁灰釉、古曽部山土(原土)


参考資料:古曽部山土とやきもののはなし
■ 山土の話その1 
古曽部の陶磁器産業

 江戸時代、生産事業方面では服部に早くからタバコを作った事は名高く、近くは寒天製造については特に有名である。古曽部には陶窯があって広く陶磁界に名を縦いままにしていた。その起源につき、昔能因法師庇護より来たり、手製したのに始まるなどというが当てにならない。しかし、慶長、元和頃窯があったものか、小堀遠州がこの茶碗を愛したという伝説がある。寛政の頃、五十嵐新平「登り窯」を作り製陶を創め代々相継ぎて最近に至った。初め京風の茶器を作ったが、二代信平の時から唐津、絵高麗、南蛮等を写し出した。今は全然廃窯となった。故和田氏が年来逸集した古曽部焼きのコレクションは市の文化財として市教育委員会のてにより保存している。また永楽保全が藩候の依頼により来つてお庭焼きをした事があった。その窯跡は慈眼寺の裏山であった。いま残っている築窯材料から見ると、そうたびたび焼いたものではないらしい。また京都陶界の名家清水六兵衛の祖先は五百住より出て京都において斯業を創め今日に至ったものだという。 (高槻通史 天坊幸彦著 高槻市役所 昭和28年発行 より)
■ 山土の話その2
古曽部の粘土

 大阪平野の北部から東部の低い山々は2億年〜5億年前に生まれた古生代の花崗岩質が隆起してできたものといわれています。地中の岩石が熱と水の力で大量の粘土に変わり、それが地上に現れる事もありますが、古曽部周辺の粘土は花崗岩の成分である長石や雲母が長い年月を経て雨や水で分解されてできたカオリナイトやセリサイトと呼ばれる微細な粘土鉱物と珪石の集合体です。露出した花崗岩層が風化して雨水で運ばれて小さな水たまりの様にたまった粘土は比較的鉄分の少ない良質の粘土となりました。 真上町の慈願寺から北山天満宮の東側山麓の古曽部日吉神社から別所に至る一体は、このように少ないながら高温に耐えるより良質の粘土が出土し古墳時代にはこれら比較的良質の粘土を原料とした土器、須恵器が多く生産されました。一方やきものづくりにかかせない松の木は、南向きの山麓に豊かにひろがりここに陶磁器産業が誕生する要因となったと考えられます。(じろべえ工房)
■ 山土の話その3
粘土採取から杯土(陶芸用粘土)調整まで

探索・採取
(古曽部は砂防地区に指定されている場所もあり乱獲は危険です)
1.切り通しを探し、落ち葉等が堆積していても小さく崩れていることがありました
2.水によって運ばれ堆積した2次粘土ですので小石や砂などと層になっていました
3.粘土層が表面に出ている部分には竹や苔が生えていることがありました
(他の植物は育ちにくく、土砂流出防止のため人為的に植えられたものもあります)
4.乾燥していても水をつけて練ってみました
5.灰色が強いものよりも白~青っぽいほうがよい粘土のようです
6.鉄分の多い茶色のものは釉薬としても使うことがあります

調整
1.木の屑や大きい石を除きました
2.よく乾燥し粉砕後ふるいにかけました(粘土が均一な場合はふるいは不要です)
3.水に分散させ浮遊物を除きました
4.水に分散させ沈殿物を除きました(すいひ工程、多少鉄分も除けます)
5.再度乾燥・水で練って寝かせておきました
(最初は粒子が凝集しており粘り気が少ない)
(じろべえ工房)