2002.08.26 更新

◎磯田多佳女に関しては幸いなことに現在市販されてますので、興味のある方は是非ご覧になって下さい
祇園の女
文芸芸妓磯田多佳
杉田博明・中央公論新書
ISBN
4−12−203831−6
¥762(文庫サイズ)

題名 
磯田多佳女のこと
(絶版書)
著 者 谷崎潤一郎
定 価 105円(当時)
発 行 昭和22年7月初版
(私のは、昭和26年再販)
サイズ A5版、約76頁
出版 全国書房(京都)
しら河の 流れのうへに 枕せし
   人もすみかも あとなかりけり

あじさいの 花に心を 残しけん
     人のゆくへも しら川の水

磯田多佳一周忌にちなんで作った
手向けの歌二首
谷崎潤一郎


生い立ち
大正ロマン期にあって、祇園の名を有名ならしめた女性に磯田多佳がいた。祇園の格式を高めた功績は大きい。だが、祇園にあって磯田多佳なる女性を知る人は今では少ない。又、都をどりや祇園を有名ならしめた吉井勇氏をもどんな人だったか知る人も少ない。現在の若い芸妓や舞妓も昔のなんか碑のある叔父さん程度の知識しかないようだ。歴史や伝統を知ることは教外別伝という意味と技術を継承する上で大切な知識である。でも、今の人はこの哲学の重要さを知らない(昔日の老師は先人の功績を教えたものだ、今中国や東南アジアではまだこの伝統がある)やはり、祇園の良さは滅び行く美学なのであろうか?私はこれを憂い磯田多佳の特集を組むことにした。
 明治12年(1879) 磯田多佳は京都市東山区祇園、御茶屋「大友」だいともの2女として生まれる。父は磯田喜間太、母はとも(元芸妓)。祇園の街では昔は男はのけ者扱いで、茶屋の下働きか養子に行くのが相場で、女は大事にされた。女はほとんど、舞妓になるか地方(鳴り物)になる定めであった。というのも、その当時女性の職場は今と違い極めて限られていたのである。
 姉は定といい美人であったが、多佳はやや背が高く色黒でごく平凡な女だったという。姉の定は舞いの名手で評判の舞妓であった。しかし多佳は、やや背が高めがだったので三味線などの地方をやる方が多かった。背がそろわんと複数で踊るときさまにならないからだと言う。しかし、多佳は姉にかわいがられ、多佳も美しい舞妓であった姉の舞い姿に憧れ慕った。
 そのぶん、和歌や俳句に興味を持ちいろいろ読むようになる。そのことが知れ渡り才女舞妓で有名になる。やがて、芸妓になり姉の定は一力茶屋に嫁ぎ、多佳も青年実業家に嫁ぐが、あいにく夫は早く病没したので実家に帰り大友を母に変わってきりもみするようになる。多佳は酒はあまり飲まず、画家や文人達とのつきあいを楽しんだので大友は文人達でにぎわうようになり、有名な作家や画家との交際も深めていく。
 しかし時の流れは無情で、戦争が激しくなり京都も空襲を受けた(このことは一般に知られてないが爆撃で多数の犠牲者が出た)祇園にも強制疎開の話が立ち始めた。しかし、多佳は激しく抵抗して周囲のものを嘆かせた。親から受け継いだお茶屋が多佳の代で取り壊される多佳の無念の気持ちを分かるものの国の政策には逆らえなかったジレンマがあるためだった。
 その頃多佳は病弱となり三味線も弾く気にならなくなった。心配した養子の磯田又一郎(戦後、美人画家として有名)は自分の家に多佳を移す。しかし多佳と親しかった橘仙氏がなくなると、多佳も後を追うように程なく没した。享年78才だった、当時としては長寿だったかもしれない。多佳にとって幸いだったのは、大友の取り壊しを見ずに済んだ事だろう。
 後になって、谷崎がその地白川沿いを訪れた時はもう大友などお茶屋の跡形もなく、ただここに多佳の庵があったのかと感じるだけだった。やがて月日がたち吉井勇存命中、祇園に貢献したのをたたえて大友の跡に かにかくにの記念碑が建てられた。そして脇には多佳が好んだ紫陽花が幾本か植えられた。今訪れる人は、かにかくに碑があるのは知るものの そこに多佳の愛したお茶屋大友があったなど知らないだろう。梅雨の時期、ひっそりと人知れず咲く紫陽花は多佳の心情を知ることが出来る数少ないしるしである。”年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし・・・・(吉井 勇)” 完
・・・・・ご静聴、ありがとうございました <(_ _)>


多佳女直筆による
月見草 図
うすくもや
河原つたひの
くさしめり

**********

散る花の それたにあるを 中々に
       ととめかねたる 人いかにせむ


多佳の三味線の得意とした
四条の橋からという古い地唄
多佳が歌うと昔の祇園の風格が漂う感じがして評判が高く、歌舞伎の板東寿三郎が新作ものの忠臣蔵にて大石内蔵助に扮しおかるに三味線を弾かしてこの歌を歌う為にしばし多佳に教えを請いに通ったそうだ(寿三郎は♪圓山の〜灯か〜、ええ〜そうじゃえ♪のええ〜の部分は内蔵助が酔っぱらったように発音する工夫をしたという)更に東京の小唄の師匠春日豊も習いに来たが、江戸風の小唄にしてしまう為”江戸風の意気”になり、もっと”野暮に野暮に”に歌いなさいと多佳に指導されたという。
四条の橋から
灯が一つ見ゆる 
灯が一つ見ゆる
あれは二軒茶屋の灯か 
あれは二軒茶屋の灯か
圓山の灯か 
そうじゃえ
ええ そうじゃえ

<左の陶器(茶碗と角皿)は磯田多佳が筆を執った作品です

磯田多佳 作 歌五首

梅咲くや わすれられて はや二年越し
だまさるる 身はおもしろし 宵の春
死ぬといふ 女のくせや ほととぎす
折人に 傘さしかけし 野菊かな
筆の先 ころりと落ちし 夜寒かな・・・・


磯田又一郎氏による
「川沿いの家」
義母、多佳の住まいを描いた日本画
この図は、後年改装後の絵だという。
小庭には、多佳の愛した花”紫陽花”が咲いている。すぐ下に白川がさらさらとながれ、吉井勇の有名な歌”かにかくに 祇園は恋し・・・枕の下に水の流るる”を実感出来る風景である
多佳女の部屋の見取り図
3畳間という今では考えられないくらい小さな部屋だった。 この見取り図は、画家で養子の磯田又一郎氏に谷崎潤一郎氏が又一郎氏の幼い頃の思い出をたどりつつ昔のままの改装前の多佳女(義母)の部屋を書いてもらった図である。
多佳女の部屋の平面図
白川の流れに沿って御茶屋が建てられていた。最初はやや傾きかけた感じの古い家だったという。しかし、谷崎潤一郎はかえってその方が多佳女の住まいにふさわしい詫びと寂があったといっている。

文解
これは多佳女居室と
川との関係を示す略図である
ここは省いてあるけれども、両岸には
祇園の茶屋や置屋等が
○○している・・・
(まわりにあったということか?)
白川付近図・磯田又一郎 筆


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