2002.6.28

まず、私の描いてる絵は美人画です。
人物画と違う点は、水彩画ですが写実的(特定の人物を描くものではない)でない点です。どっちかと言えばイラスト的です。今野由恵先生の流れをくんでますので背景は、簡素に又は日本画風にべた塗りになってます(美人画はあまり背景を描くと主役と相殺するので写実的に描きません、例外もあります)美人画は、観音菩薩又はマリア(あるいはマドンナ)のような普遍的な美人を対象に描きます。なお、美人画の大家上村松園先生の絵は戦前の控えめな日本女性という時の流れがありますので目は柔らかく細目美人になってますが、私のものは戦後の時勢の流れで目はぱっちりとした清らかな美人を踏襲してます(私の好みによる)その違いはご理解下さい。私の描法は、今野由恵先生の師でもあった志村立美先生的美人画です。
私の勉強してる美人画の描法はどこがベースか紹介しましょう。基本的には今野由恵先生の美人画の描き方がベースです。描くときは、必ず先生の本を座右に置いてます(相変わらずの甘えん坊です)これに中国仕女画(美人画)の大家であられる王美芳先生の目の描き方、加藤晨明先生の舞妓の素描法を参考にしてます。最近 舞妓のおしろいと頬紅の化粧法の描き方で多いに役立ってるのは、小松崎邦雄先生の舞妓絵です。運のいいことに、みなネット通販で入手出来ました(絶版、限定ものが多い、皆私の宝物です)私の美人画は、まだまだひよっこです。上記先生の画法抜きにしてはとても描けない未熟さがありますので・・・なお、時々勘違いする方がありますが私は、伊東深水先生は格別参考にはしてません、あくまで上村松園、今野由恵両先生の流れを重視してます

上のものは、私の持ち物で絵を描くときの大事な小道具(参考資料)です。いつのまにか舞扇は5つ集まりました(開いてるのは芳柳流のもの)篠笛(八本調子)は、持ってるだけで高音部が吹けずにいます。紫の文字入り手ぬぐいは、知り合いの大きいお姉さん(熟年の元女将さん)からもらった紫流(花柳流の分派)のご祝儀のてぬぐいです。紫流日舞の先生(師範)の踊りは一度見ましたが見事でした。希望としては独り稽古ながら舞扇の要返しをマスターしたいです。



2001年ミス桃娘
今年春、桃祭り撮影会にて著者撮影
久しぶりに巧く撮れた撮影会だった
EOS-KISS(TAMURON 28-200mm)
蜜柑色の画廊にようこそ!
現在、美人画というと、いろいろな意味に使われていますが、我が蜜柑色の画廊家頁上にては、江戸時代後期の髷をした着物美女と京都の芸妓・舞妓メインテーマです。これは、日本画(美人画)の大家であられた上村松園・今野由恵両先生の流れをくむものです。これは、私自身の好みで美女画とはこれだと心に感じたからです。私は今野由恵先生を勝手に心の師と仰ぎ、素人ながら絵を描き続けていきたいです。何故現代美人では魅力を感じないのか?現代は科学万能の世の中とは裏腹に21世紀になっても人心、世相の乱れは見ての通りで失望を否めません。その反動としてかつて存在した美しい日本髪(例えば鴛鴦髷)と着物姿の美人に郷愁と心の癒しを感じる様になりました。また、それから派生して今でもその髷姿を継承している京舞妓の愛らしい姿にも改めて良さを感じます(京人形の舞妓はまん丸の顔で変な感じだと思いましたが、京都の方に聞けば昔は12.3才頃から舞妓になったので子供っぽいあどけなさを表現してるのだと言われなるほど納得しました。それならば、祇園小唄にみる悲哀が伝わってきます。やはり昔は、いいですね。この他、地元で毎春開かれる古河総合公園桃まつりにて登場するミス桃娘の着物姿も格好の資料になります。会場にては、着物姿になると動作も心も穏やかで優しさを感じます(例えその女性がその時だけであっても)やはり着物美女は、癒しを与える気がします。ここに描いてる美人達は、現実の人ではなく理想郷の住人として描いてます。美人画では特定のモデルを対象とはしません。私の絵は、透明水彩画が主体ですが、系統は美人画ですので日本画や油絵、水彩画にいう人物技法とは異なります。私は、美人画を描くときは心を清らかに邪念を廃し、瞑想をする如く思念を統一して出来るだけ美しく聡明な美女を描くよう努力してます。まだまだ未熟ですが作品を見て美しいと感じて頂けたならば幸いです


私の精神的バックボーン

私はたいてい女性の絵ばかり描いている
しかし、女性は美しければよいという気持ちで描いたことはない
一点の卑俗なところもなく、清楚な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである
その絵を見ていると邪念のおこらない、またよこしまな心を持っている人でも
その絵に感化されて邪念が清められる・・・といった絵こそ私の願うところのものである
芸術を持って人を済度する、これくらいの自負を画家は持つべきである

良い人間でなければ芸術は生まれない
これは絵でも文学でも その他の芸術家全体に言える言葉である
良い芸術を生んでいる芸術家に、悪い人は古来一人もいない
皆それぞれ人格の高い人ばかりである
真・善・美の極致に達した本格的な美人画を描きたい
私の美人画は、単にきれいな女の人を写実的に描くのではなく 写実は写実で重んじながらも、
女性の美に対する理想や憧れを描き出したいという気持ちから、それを描いてきたのである

私も現在の境に没入することが出来るようになるまでは
死ぬるほどの苦しみを幾度も幾度も突き抜けてきたのである
いたずらに高い理想を抱いて、自分の才能に疑問を持ったとき、平々凡々な人間にしかなれないのなら
別に生きている必要はないと考え、絶望の淵に立って死を決意した事も幾度もあったことか
少し名を知れてから、芸術の真実に生きていく道に思い悩んで
いったい地位や名誉が何になるのかと、厭世の念にとらわれ
自分の進んでいる道が正しいのか正しくないのかさえ分からず、思い悩んだことが幾度
そのようなことを突き詰めていけば自殺するほか途ない
そこを、気の弱いことでどうなると自らを励まして、芸術に対する熱情と強い意志の力で踏み越えて
ともかくにも、私は現在の境地を開き、そこに落ち着くことが出来たのである
あのときの苦しみや楽しみは、今になって考えると、それが苦楽相半ばして一つの塊となって
芸術という溶鉱炉の中で解け合い、意図しなかった高い不抜の境地をつくってくれている
私はその中で花のうてなに座るもいで、今安らかに絵三昧の生活に耽っている
上村松園 青眉抄より

青 眉 抄

上村松園 著
三彩新社出版、昭和58年新装版、2000円
この本は、現在絶版であるが古書店にて入手可能
私の美人画を描く上での精神的バックボーンとして常に座右において熟読してる本である。技術的には、今野由恵先生の美人画がテキストだが行き詰まったときはこの青眉抄を読んで気持ちを新たにしています。青眉抄の本は上村先生の随筆で、私が感銘を受けた文は旧作というタイトルで、「画家−大家となってる人でもその昔は拙い絵を描いていたのに違いありません。素晴らしい、大成の域に達した絵を描くにはそれ相当の苦労は必要であり幾春秋の限りない精進がいるわけです。生まれながらにして完成された芸術を生むと言うことはありません・・・下手な時代は下手な時代なりに一所懸命努力をしているはずでそれはそれでいいはずです。ことによると大家となった現在よりも火花を散らして描いたかも知れないです」という一文でした
青眉抄その後

上村松園 著
求龍堂、昭和62年、2987円
この本は、現在絶版である。古書店にて2002年1月に入手
青眉抄その後。この本は、上村松園没後同画伯の手記などを集めて再編集したものでまさに続編と言うべき本です。多少、先の本と重複してるところはあるものの、美人画を目指すものにとってはまたとない精神的指導書だと感じてます。絵のみならず芸術、技術などを学ぶに必要なのは、哲学(精神的バックボーン)が重要な要素を占めることに気づく方は今の世では少ないと思います。かつて、教外別伝・心法奥義などと呼ばれ物事を学ぶ上で非常に重要なことでした。つまり絵を見ただけ、あるいは技術をみただけでは、うわべだけのまねごとに過ぎず、先人の芸の深さを身につけることは絶対不可能だと思います。先人が、どのように描いたかその人の手記などを読んで感じてその人になりきってこそ、その人の魂を我が心の内に写しとることが出来るのではと思います。それでこそ、絵を描く上でどのようにして描いていくのかと言うことが自然に分かっていくのではと思います。その時代に帰り、その人になりきり、その世界に浸ることで、まさにタイムスリップしたごとく今では分からない何かのプラスアルファが理屈抜きで分かってくるのが哲学の重要さではないでしょうか?まさにこの本は、そういう上で役立つ本でした。


蜜柑色の画廊のテーマとなる美人画の分類と説明
蜜柑の部屋(日本美人)主テーマ
ここは上村松園・今野由恵両先達の精神に従って描いてるセクションです、清く・聡明で美しくがモットー
(きょうまいこ げいこ)
現代舞妓・芸妓をテーマに美しく清らかにかつ愛らしく最大努力して描いていきたいと思ってます。目標は美人画の巨匠今野由恵画伯の絵。可憐さ・美しさでは上村荘園画伯の絵。描写は今野先生の画風を基礎に中国の王先生の手法を加味して描いていきます
げんじえ きょうこまち)
 古典美人画がテーマです。十二単衣、白拍子、大和時代から奈良・平安・室町・江戸後期(明治含む)までの、まげをつけた和服美人を描いていきます。昔のの美人画を今様に描けたらなと思ってます。
備考;現在、資料と時間等の都合で日本美人を中心に描いていってます。いずれ中国系美人も時には描きたいです・・・。源氏絵京小町を描くわけは、舞妓絵だけですとどうしても実在する本物の舞妓の美しさには負けてしまいます。また、そればかり描いてるとまるで追っかけみたいで情けなくなるのでほかの古典的美人画を描いてほかにも美しい人たちがいるし描けるのだよと補正する意味があります。
 


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