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江戸は水の町、「かわせみ」にも数々の橋が登場します。出会いの橋、別れの橋、いくつもの物語が橋の上で生まれました。 そしてこでまりさんの「はいくりんぐ」の「今月のお話」、先月は「三つ橋渡った」今月は「橋づくし」とまさに橋づくし。 そこで勝手にコラボして「かわせみ」に一体どのくらいの橋が登場しているか調べてみました。名付けて「かわせみ」橋づくし! 今までのところ80橋。まだまだあるかも知れませんが、これを見ても江戸は水路の町ということがよくわかりますね。 |
(あいうえお順) | |
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赤羽橋 | 六阿弥陀道しるべ |
ずっと戻って来て千駄谷八幡、青山を抜けて行きまして渋谷八幡、渋谷川を行きまして大木戸の先の田町が稗田八幡、それから赤羽橋を渡って来て西の窪八幡、つまり八軒の八幡詣でをするってえと御利益があるんだそうですが | |
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吾妻橋 | 吾妻橋は、安永3年(1774)に浅草の町人の請願により民間で架けられた。大川橋と名付けられたが、町人達は東橋(あずまばし)と読んでいたところから吾妻橋となった。 |
宵節句 | |
源三郎は気の毒そうにいったが、その二日後、源三郎が町廻りから戻りがけ、吾妻橋の上から何気なくみていると、大川端は「かわせみ」へ続く道を、東吾が切れた凧のように、とんで行くのがみえた。 | |
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江戸の怪猫 | |
浅草花川戸から本所中の郷へ架っている大川橋、別に吾妻橋とも呼ばれる長さ八十四間の橋の上に、若い女が立っていた。 | |
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和泉橋 | 神田川に架かる万世橋の下流の橋。 橋の北詰に藤堂和泉守の屋敷があったことから名付けられた。 |
秋色佃島 | |
筋違橋から和泉橋にかけては、以前は武家屋敷だったのが、取り払われて、その後に出来た多くは床店で、夕方になると店を閉めて帰ってしまうから、夜はひどく寂しくなる。 | |
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一の橋 | 三つ橋渡った |
「それにしたって、本所、深川、お江戸は川だらけ、橋だらけっていってもいいんじゃありませんか。早い話が、うちのすぐ近くだって、亀島川に一の橋、二の橋、三の橋ってかかっていますよ」 | |
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一石橋 | 幕府が通用禁止の永楽銭一貫と米一石とを交換したことが名前の由来らしい。この橋から呉服橋,鍛冶橋,銭亀橋,常盤橋,日本橋,江戸橋,道三橋に一石橋を加え八橋が見渡せるので,この橋を八つ橋あるいは八見橋という。 |
猫屋敷の怪 | |
日本橋川を遡って、一石橋のところからお堀端に出ると、むこうに常磐橋御門がみえてくる。 | |
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稲荷橋 | 寛永年間(1624〜43)の創架。橋名の由来は、現中央区湊1丁目にある鉄砲洲稲荷神社は湊稲荷ともいい、元はこの湊の近くに位置したために名付けられた。 |
秋色佃島 | |
何気なく川からの景色を眺めていたるいがはっとしたのは、浅草へ向うならば大川を上へ上らねばならない舟が、流れにのって下りはじめたせいである。右に稲荷橋がみえ、鉄砲洲稲荷の森が続いている。 | |
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海辺橋 | 六阿弥陀道しるべ |
昨日の町廻りの帰りしなに取り決めておいたと源三郎がいったが、海辺橋の袂には長助が待っていて、一緒に冬木町へ向った。 | |
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永久橋 | 宝永元年(1704)正月に朽木邸前から浜町へ渡る永久橋が架けられた。 |
筆屋の女房 | |
鎌倉河岸は、三河町一丁目と竜閑橋の間をいい、大川の三ツ股から永久橋の下を通り、箱崎橋を抜けて日本橋川に合流する水路が、千代田城の外堀に流れ込んで神田橋御門へ向う途中に当り、徳川家が築城の際、鎌倉から取り寄せた石をこの河岸から上げたところから鎌倉河岸の名が生じたといわれている。 | |
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永代橋 | ![]() |
江戸の怪猫 | |
その「かわせみ」が、永代橋の近くで、これは元禄九年に、はじめて架ったもので、今の橋の長さは百二十間余、永久島の北新堀町から深川へ渡す橋である。 | |
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夕涼み殺人事件 | |
あでやかに笑っているるいと並んで、東吾は「かわせみ」の庭から永代橋を眺めていた。 | |
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春色大川端 | |
俗に八丁堀といわれている組屋敷を出て、亀島川にかかっている橋を渡って永代橋へ向って行くと大川にぶつかったあたりに大川端町がある。 | |
永代橋はその他沢山登場 | |
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江戸橋 | 寛永9年(1632年)頃に創架。名前の由来は定かではないが、もともとこの付近の地名が江戸と言われていたことからと思われる。 |
梅若塚に雨が降る | |
それも江戸橋を渡り、更に伊勢町堀に架っている荒布橋を通って堀江町へ入ると一変した。 | |
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扇橋 | 橋づくし |
「舟は右にまがりません、まっすぐです」 目を閉じたまま、おとよがいった。 小名木川へは入らなかったことになる。扇橋をくぐり、暫く行くと福永橋。 |
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大川橋 | 千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋につづき、安永3年に架けられた。当時、隅田川は大川と呼ばれていたため大川橋と名付けられたが、江戸城の東側に位置することから、あずま(東)橋とも呼ばれていた。 |
江戸の怪猫 | |
更に、その川上にあるのが大川橋で、出来上ったのは安永三年だから、四つの橋の中では一番新しい。橋の幅は三間半で、馬も駕籠も通す。 | |
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乙女橋 | 秋の蛍 |
川へ落ちたのではないかと、女中達が総出で探していると、たまたま、いつも来る魚屋が乙女橋を渡って船番所のほうへ歩いて行くお三代をみたという。 | |
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親父橋 | 嘉永5年、当時遊女屋を営んでいた庄司甚右衛門が江戸市中から吉原までの交通の便を考え、吉原の西側を流れる川に橋を架けたいと願い出て、親父橋、思案橋が造られた。親父橋は甚右衛門の仇名が由来。 |
息子 | |
思橋の袂の欄干に、橋の名前が書いてあった。 「親父橋か」 (中略) 親父橋の下を流れる水は、この先の思案橋を通って日本橋川から大川へ注いでいる。 |
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海賊橋 | 当時水軍を海賊衆と呼んだことから楓川に架かる橋を海賊橋と呼んだ。 |
源三郎子守歌 | |
海賊橋のところから坂本町へ入ってくる角で、見馴れない勤番侍に声をかけられたという。 | |
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鍛冶橋 | 名前の由来は町名にちなんだもので、幕府鍛冶方棟梁高井伊織の拝領地だったことから名付けられた。丸の内から鍛冶町(今の八重洲2丁目付近)へ出る橋として架けられた。 |
三つ橋渡った | |
「千代田のお城のまわりだけだって、神田橋、常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋……」 お吉が数え出して、東吾に笑われた。 |
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数馬橋 | 三つ橋渡った |
築地の本願寺の近くにある、数馬橋、軽子橋、備前橋の三つだという。 「伊東先生のお宅を出たところに備前橋がございます。渡ると本願寺様で……」 眼の手術の間中、夫婦はじっとしていられなくて、備前橋を渡って本願寺におまいりをし、少し歩いて軽子橋を渡り、川のむこうを逆に戻って数馬橋を渡ると、伊東良庵の家の前へ帰って来た。 |
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金杉橋 | 江戸は雪 |
「そこの金杉橋の上で、あいつにこんな話を致しました」 罪を犯して遠島になる者は、金杉橋の際と、永代橋際から島送りの舟に乗せられる。永代橋際から出る遠島舟に乗る者は、一生、島から帰って来られない者で、金杉橋のところから乗船するのは、月日がたてば、いつか江戸へ帰って来られるあてのある者であった。 |
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要橋 | 橋づくし |
崎川橋から仙台堀に入る。 次が、要橋。 |
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上の橋 | 梅一輪 |
番屋を出ると、女は佐賀町を抜け、下の橋、中の橋、上の橋とまっすぐ突き抜ける。 | |
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亀島橋 | 元禄12年(1699)の町触に亀島橋の普請についての記載があるので、元禄15年(1702)より以前の創架と思われる。名前の由来についてはこの橋が亀島川に架かるので亀島橋と名付けられた。 |
源三郎子守歌 | |
玄関へ廻って、豆腐屋に訊いた。 「あの侍たちは・・・・・・」 「ざまあみやがれ。亀島橋のほうへ逃げて行きましたよ」 「ありがとう。御礼はあとで・・・・・・」 足袋はだしのまま、お千絵はとび出した。 |
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亀久橋 | 六阿弥陀道しるべ |
男ばかり四人が冬木町を出て仙台堀に沿って東へ下り、亀久橋を渡って仙台堀の対岸の道を崎川橋へ出る。 | |
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軽子橋 | 三つ橋渡った |
築地の本願寺の近くにある、数馬橋、軽子橋、備前橋の三つだという。 「伊東先生のお宅を出たところに備前橋がございます。渡ると本願寺様で……」 眼の手術の間中、夫婦はじっとしていられなくて、備前橋を渡って本願寺におまいりをし、少し歩いて軽子橋を渡り、川のむこうを逆に戻って数馬橋を渡ると、伊東良庵の家の前へ帰って来た。 |
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神田橋 | 橋の創架はかなり古く徳川幕府の開府以前からあったと思われる。 名前の由来は、橋の北側一帯の 「神田」の地名 から付けられているが、江戸の頃には 「神田口橋」 とも呼ばれていた。 「神田橋御門」 は将軍が寛永寺に参拝するための御成道であったので警備はかなり厳重であった。 大正12年(1923年)の関東大震災で焼失したが、江戸時代からずっと木橋であった。 |
三つ橋渡った | |
「千代田のお城のまわりだけだって、神田橋、常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋……」 お吉が数え出して、東吾に笑われた。 |
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筆屋の女房 | |
鎌倉河岸は、三河町一丁目と竜閑橋の間をいい、大川の三ツ股から永久橋の下を通り、箱崎橋を抜けて日本橋川に合流する水路が、千代田城の外堀に流れ込んで神田橋御門へ向う途中に当り、徳川家が築城の際、鎌倉から取り寄せた石をこの河岸から上げたところから鎌倉河岸の名が生じたといわれている。 | |
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北辻橋 | 大横川と竪川の合流する地点に北辻橋、南辻橋、新辻橋と三つの橋があったが、江戸時代は三つまとめて撞木橋(しゅもくばし)と呼ばれていた。その橋がなくなり、外側に新しい橋が架けられ南辻橋、新辻橋はそのままの名前だが、撞本橋は北辻橋、単独の名前となった。 |
狐の嫁入り | |
四度目が三日前の夜、竪川と横川が交差する南本所の北辻橋のむこう側を狐火が燃え、花嫁行列が行くのを入江町の岡場所へ遊びに来た連中がみて、登楼した見世で喋りまくったので大さわぎになった。 | |
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北中之橋 | 本所深川は水路の町で、小名木川はここで横川と交差している。舟はむきを変えて、横川へ入った。その横川は、又、小名木川と平行に流れている竪川と交差するが、そこを突っ切って、北中之橋、法恩寺橋と橋の下を抜け、業平橋の下を越えると突き当りが小梅瓦町、横川はそこが行き止りで鈎型に源森川が大川から流れて来ている。 |
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黒江橋 | 幽霊殺し |
黒江橋を渡ると、そこはもう永代寺門前仲町で、橋ぎわの自身番にいたらしい長助のところの若いのが思いがけない三人連れにびっくりしてとび出してくる。 | |
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黒船橋 | 幽霊殺し |
貸席「やなぎ」は馬場通りを越えた側の蛤町にあった。店の前はやはり堀割で、左手に黒船橋、向い側は堀をへだてて黒船稲荷の土塀と松平伊豆守の屋敷の裏塀がみえる。 | |
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香具橋 | 川のほとり |
香具橋の袂まで来て、神林東吾は 「今日も、又、居る」と思った。 |
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呉服橋 | 名前の由来は橋の袂に幕府呉服御用の屋敷があったことから名付けられた。 江戸城外濠の 「呉服橋御門」 の見附橋で、江戸時代には重要な見附 (見附とは城壁の出入り口に造られた砦の意味)であった。 |
三つ橋渡った | |
「千代田のお城のまわりだけだって、神田橋、常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋……」 お吉が数え出して、東吾に笑われた。 |
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崎川橋 | 橋づくし |
「ここで右にまがったように思います。すぐにもう一つ、橋をくぐりました」 橋は直角にまがった仙台堀にしか、かかっていない。直行しても、左折しても橋はなかった。おとよの記憶は正しいことになる。 崎川橋から仙台堀に入る。 |
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猿江橋 | 橋づくし |
東吾はおとよの向い側に腰を下して、川の流れをみていた。 猿江橋をくぐる。 「舟は右にまがりません、まっすぐです」 目を閉じたまま、おとよがいった。 |
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三の橋 | 秋色佃島 |
「多平さんの娘さんの嫁いだ家は、二の橋の近くでございます。ちょうど、川のむこうの三の橋の方角を、おるいさまが歩いておいでになって、舟に乗ってどこかへ行かれるのをみたのでございます」 | |
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思案橋 | 嘉永5年、当時遊女屋を営んでいた庄司甚右衛門が江戸市中から吉原までの交通の便を考え、吉原の西側を流れる川に橋を架けたいと願い出て、親父橋、思案橋が造られた。元吉原の遊郭と堺町の芝居小屋がこの辺にあったので、往来する人々が「行こか戻ろか」と思案したのが名前の由来といわれいる。東堀留川には思案橋、親父橋、万橋が架かっていたが、昭和24年8月末の埋立てによって全て撤去された。 |
恋娘 | |
千代田のお城を廻るお堀の水が一石橋、日本橋、江戸橋の下を通って、やがて大川へ注ぎ込む。 思案橋というのは、その流れへ途中から合流する川にかかっているもので、すぐ先には鎧の渡しがあり、長雨のあとなどは、けっこう流れも急になるところであった。 |
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汐留橋 | 犬の話 |
夕方に狸穴を発って、神林東吾は通い馴れた道を、飯倉から芝口へ抜け、汐留橋を渡って木挽町から弾正橋へ、そこからまっすぐに行けば八丁堀の組屋敷だが、桜川沿いを迂回して長崎町を通り、最後にもう一つ、橋を渡って「かわせみ」へたどりついた時は、夜が少々、更けていた。 | |
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清水橋 | 狐の嫁入り |
竪川に沿って戻ってくると、間もなく清水橋を渡って南に御材木蔵がみえてくる。その界隈は火除地で、暫くは空地ばかりであった。 | |
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下の橋 | 虫の音 |
綱坂を登り切って、有馬中務大輔の上屋敷について行くと、中の橋に出る。 狸穴の方月館へ行くには、中の橋を渡って麻布十番を抜けるのが早道だが、娘は六本木へ行くという。で、東吾は川沿いに一の橋ぎわへ出て飯倉新町から宮下町へ出た。 |
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正覚寺橋 | 橋づくし |
子供の頃から自然におぼえた竿さばきで小名木川を出て、仙台堀に抜け、なんとか追っ手から逃げ切ろうとしたが、相手も舟をみつけて、とうとう仙台堀の正覚寺橋の手前でつかまった。 | |
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昌平橋 | 神田川に架かる橋。元禄4年に聖堂・昌平坂学問所が建てられた際に命名された。 |
女主人殺人事件 | |
ちらと源三郎が東吾をみたが、そのまま、なにもいわずに、文七にあとの手配を命じて猪牙に乗った。 柳橋から昌平橋、舟は神田川を上って行く。 |
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白魚橋 | 楓川には弾正橋、京橋川には白魚橋が、三十間堀には真福寺橋が架かっており、この3つの橋を総称して 「三つ橋」と呼んでいた。この三つ橋は寛永9年(1632年)にはすでに架けられていたという。白魚橋は昭和34年、河川埋め立てのため消滅した。 |
三つ橋渡った | |
「実は今朝方、ふいと思いついたんですが、京橋川に三つ橋ってのがあるんです」 南八丁堀と水谷町のところで、三方に架っている橋で、水谷町のところのが真福寺橋、白魚屋敷の方のが白魚橋、真福寺橋とま向いにあるのが弾正橋の三つで、あたりの者は古くから俗に三つ橋と呼んでいる。 |
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新大橋 | 「明暦の大火」(1657年)から3年後に両国橋が創架されたが、武蔵と下総の両国をつなぐ橋として両国橋(通称「大橋」)と名付けられた。その33年後の元禄6年(1693年)に、隅田川に架かる2番目の橋として新大橋が架けられ、両国橋の「大橋」に対して「新大橋」と名付けられた。 |
江戸の怪猫 | |
その「かわせみ」が、永代橋の近くで、これは元禄九年に、はじめて架ったもので、今の橋の長さは百二十間余、永久島の北新堀町から深川へ渡す橋である。 そこから大川をさかのぼって行くと、次が新大橋で、両国よりやや川下、浜町から深川六間堀へ渡して、長さが百八間、これは元禄六年に架けられたものである。 それから更に川上へ行くと両国橋で、架けられたのは万治三年、世にいう明暦の大火の折に、このあたりも追いつめられて焼死した人が多かったために、往来の不便を考えて新設されたというものである。 広小路から本所へ渡し、武蔵と下総の両国をつなぐ橋というので両国橋と名づけられた。長さはこれが九十六間。 更に、その川上にあるのが大川橋で、出来上ったのは安永三年だから、四つの橋の中では一番新しい。橋の幅は三間半で、馬も駕籠も通す。 |
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新高橋 | 幽霊殺し |
麻生邸は小名木川が新高橋をすぎて舟堀川と名を変えるあたりにあった | |
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能役者、清大夫 | |
清住町を出はずれたところにある万年橋の袂には深川の長助が待っていた。小舟の用意がある。竿をさしているのは長助の倅で、心得たように、小名木川を新高橋の下まで行く。 本所深川は水路の町で、小名木川はここで横川と交差している。舟はむきを変えて、横川へ入った。 |
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新辻橋 | 大横川と竪川の合流する地点に北辻橋、南辻橋、新辻橋と三つの橋があったが、江戸時代は三つまとめて撞木橋(しゅもくばし)と呼ばれていた。その橋がなくなり、外側に新しい橋が架けられ南辻橋、新辻橋はそのままの名前で残った。 |
狐の嫁入り | |
川っぷちの火除地はやがて茅場町になり柳原三丁目のところで竪川と横川がぶつかっている。 架っている橋が三つで、竪川にあるのが新辻橋、横川にかかっているのが、南側が南辻橋、北が北辻橋であった。 |
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真福寺橋 | 楓川には弾正橋、京橋川には白魚橋が、三十間堀には真福寺橋が架かっており、この3つの橋を総称して 「三つ橋」と呼んでいた。この三つ橋は寛永9年(1632年)にはすでに架けられていたという。真福寺橋は明治末年に河川埋め立てのため消滅。 |
三つ橋渡った | |
「実は今朝方、ふいと思いついたんですが、京橋川に三つ橋ってのがあるんです」 南八丁堀と水谷町のところで、三方に架っている橋で、水谷町のところのが真福寺橋、白魚屋敷の方のが白魚橋、真福寺橋とま向いにあるのが弾正橋の三つで、あたりの者は古くから俗に三つ橋と呼んでいる。 |
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数寄屋橋 | 数寄屋橋は江戸城外濠に架けられた橋で、寛永6年(1629)正月、伊達政宗の外郭修繕の記事の中に数奇屋橋の記載があることから、江戸の早い時期に創架されたと思われる。殿中で茶礼や茶器の管理、茶事一切等を取り仕切る御数寄屋衆の拝領屋敷があったことから名付けられた。 |
三つ橋渡った | |
「千代田のお城のまわりだけだって、神田橋、常磐橋、呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋……」 お吉が数え出して、東吾に笑われた。 |
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筋違橋 | 秋色佃島 |
筋違橋から和泉橋にかけては、以前は武家屋敷だったのが、取り払われて、その後に出来た多くは床店で、夕方になると店を閉めて帰ってしまうから、夜はひどく寂しくなる。 | |
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関口橋 | 忠三郎転生 |
御承知でもございましょうが、江戸川の関口橋の近くに今大路先生の御薬園がございまして、内弟子の方がよくお出でになります。関口橋から手前共の別宅のある鬼子母神の近くまでは、比較的、近うございますので… | |
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千住大橋 | 徳川家康入府から4年後の文禄3年(1594年)11月の創架。隅田川に架かる最も古い橋。 |
白萩屋敷の月 | |
千住大橋に近い舟着場から上って、大川沿いの道を行くと、上野山の北かげにぽつんぽつんと人家が点在し、山茶花の垣根や梅の林が如何にも風雅に続いている。 | |
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酉の市の殺人 | |
江戸から日帰りで行けるといっても、千住大橋を渡ってから、およそ二里、女の足での往復は駕籠でも使わないと、到底無理な道のりである。 | |
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高橋 | 名前の由来は亀島川の河口付近に架けられたため船舶の出入りが多く、橋脚の高い橋を架けたことから名付けられた。 |
狐の嫁入り | |
行列は二の橋の袂で左折した。まっすぐ行けば小名木川の高橋を渡って深川である。 | |
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弾正橋 | 京橋の楓川に架けられた橋で大正2年に新しい弾正橋が架けられたので元弾正橋と改称したが、関東大震災後の帝都復興計画により廃橋となった。昭和4年5月に現在地に移され、富岡八幡の東隣にあるところから八幡橋と呼ばれるようになった。 |
犬の話 | |
夕方に狸穴を発って、神林東吾は通い馴れた道を、飯倉から芝口へ抜け、汐留橋を渡って木挽町から弾正橋へ、そこからまっすぐに行けば八丁堀の組屋敷だが、桜川沿いを迂回して長崎町を通り、最後にもう一つ、橋を渡って「かわせみ」へたどりついた時は、夜が少々、更けていた。 | |
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千鳥橋 | 千鳥橋は深川油堀と大島川の交差するあたり(現在は江東区佐賀町2丁目付近)に南北に架かっていた。 |
お役者松 | |
永代から黒江町の裏を抜けて、千鳥橋の袂を、やがて松平織部正の下屋敷の裏塀になる。 | |
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築地明石橋 | 夕涼み殺人事件 |
最初は、築地明石橋の近くで、 | |
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常磐橋 | 江戸城の正面玄関ともいわれる城郭門 「常磐橋御門」 の 見附橋 として架けられた。江戸城から浅草や上野、日光などの日光街道へ向う主要ルートであり、将軍家もよくこの橋を利用したようである。 江戸時代は木橋だったが、明治10年に廃止された常磐橋門の石垣の石を使い石橋に改築された。 |
天下祭の夜 | |
六月十五日、未明に神輿の行列は山下門を入った。御城内を抜け、一周して竹橋門を経て大手前から常磐橋へ出る。 | |
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豊海橋 | ![]() |
初春の客 | |
屋敷を出る時から、心のどこかで、今夜は大川端町(単行本で「今夜は柳橋」)の、るいの許へ行くつもりがある。 神林東吾は仲間と別れると、自然、酔った足をそっちへむけていた。 豊海橋の袂(単行本では「柳橋の紅燈」)から少しはずれて「御宿、かわせみ」と小さな行燈が夜霧の中に浮んで見える。 |
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中の橋 | 虫の音 |
綱坂を登り切って、有馬中務大輔の上屋敷について行くと、中の橋に出る。 狸穴の方月館へ行くには、中の橋を渡って麻布十番を抜けるのが早道だが、娘は六本木へ行くという。で、東吾は川沿いに一の橋ぎわへ出て飯倉新町から宮下町へ出た。 |
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業平橋 | 能役者、清大夫 |
本所深川は水路の町で、小名木川はここで横川と交差している。舟はむきを変えて、横川へ入った。 その横川は、又、小名木川と平行に流れている竪川と交差するが、そこを突っ切って、北中之橋、法恩寺橋と橋の下を抜け、業平橋の下を越えると突き当りが小梅瓦町、横川はそこが行き止りで鈎型に源森川が大川から流れて来ている。 |
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二の橋 | 麻布の秋 |
麻布十番を抜け、新堀川沿いに一の橋、二の橋ぎわを行くと川風が涼しかった。 |
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日本橋 | 創架は徳川幕府が開かれた慶長 8年(1603年)。当時は木橋であったが、その後何度か架け替えられ、寛永年間の初期 (1624〜30年代) には、擬宝珠のついた立派な橋が架けられていた。現在の橋は明治44年に造られた石造りの重厚な橋。「日本国道路元標」 が設置されており名実ともに日本の中心となる橋である。 |
迎春忍川 | |
大川端から上野まで、八丁堀の名物といわれるほどの無類の早足で、日本橋から神田を駈け抜けるようにして、やがて下谷広小路、その手前の自身番屋で、このあたりの岡っ引で伊之吉というのが、畝源三郎の到着を待っていた。 | |
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箱崎橋 | 夏の夜ばなし |
三度とも、深川から舟に乗り、大川を石川島のほうに下ったり、三ツ股へ出て永久嶋のふちを通り、 行徳河岸の前の箱崎橋をくぐって鎌倉河岸の先まで行ってみたり |
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比丘尼橋 | 迷子石 |
比丘尼橋を渡って、紺屋町の通りに出たあたりだったという。 | |
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備前橋 | 三つ橋渡った |
![]() 「伊東先生のお宅を出たところに備前橋がございます。渡ると本願寺様で……」 眼の手術の間中、夫婦はじっとしていられなくて、備前橋を渡って本願寺におまいりをし、少し歩いて軽子橋を渡り、川のむこうを逆に戻って数馬橋を渡ると、伊東良庵の家の前へ帰って来た。 |
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一ツ目橋 | 雪の夜ばなし |
最初に東吾が足を止めたのは、昨夜、身投げを助けた場所であった。 竪川に架かっている一ツ目橋の袂である。 |
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福永橋 | 橋づくし |
猿江橋をくぐる。 「舟は右にまがりません、まっすぐです」 目を閉じたまま、おとよがいった。 小名木川へは入らなかったことになる。扇橋をくぐり、暫く行くと福永橋。 |
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法恩寺橋 | 名前の由来は近くにある法恩寺にちなんでつけられた。 |
狐の嫁入り | |
二度目が、それから四日ほど後で、同じく本所だが横川に架った法恩寺橋のところで、夜更けて女のところへ出かけていく法恩寺の納所坊主が川のむこう岸を業平橋の方角へ向って行列が歩いて行くのをみた。 | |
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万年橋 | 梅一輪 |
番屋を出ると、女は佐賀町を抜け、下の橋、中の橋、上の橋とまっすぐ突き抜ける ようにして霊雲寺の塀外を通り、小名木川にかかっている万年橋の袂のところまでくると |
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三ツ目橋 | 雪の夜ばなし |
この辺りは岡場所だが、昨夜は雪のこともあり、夜も更けすぎていて、大方の家が戸を閉めていた。 三ツ目之橋の先で竪川は横川と交差する。 |
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緑橋 | 星の降る夜 |
息を切らして、源六が立ち止ったのは緑橋を渡って、通塩町から横山町へ入って間もなくで、そのあたり 老舗の並ぶ一角に人が集っている。 |
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湊橋 | 延宝7年(1679年)に霊厳島(現在の新川地区)と対岸の箱崎地区の埋立地(もともとは隅田川の中洲)とを結ぶために創架された。名前の由来は江戸湊の出入り口にあったことから湊橋と名付けられた。 |
三つ橋渡った | |
日本橋川と亀島川の交わるところに霊岸橋と湊橋、それに北新堀町にある箱崎橋がちょうど(この字型)の形にかかっているが、さて、三つの橋を渡って、元へ戻れるかといえば、日本橋川の上流には江戸橋まで橋がない。 | |
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南辻橋 | 大横川と竪川の合流する地点に北辻橋、南辻橋、新辻橋と三つの橋があったが、江戸時代は三つまとめて撞木橋(しゅもくばし)と呼ばれていた。その橋がなくなり、外側に新しい橋が架けられ南辻橋、新辻橋はそのままの名前だが、撞本橋は北辻橋、単独の名前となった。 |
狐の嫁入り | |
川っぷちの火除地はやがて茅場町になり柳原三丁目のところで竪川と横川がぶつかっている。 架っている橋が三つで、竪川にあるのが新辻橋、横川にかかっているのが、南側が南辻橋、北が北辻橋であった。 |
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弥勒橋 | 狐の嫁入り |
堀のかかっているのが弥勒橋で、そこを越えて行くと前方に人影がみえた。 | |
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柳橋 | 神田川に架かった最下流の橋で、創架は定かではないが元禄11年(1698年) に架けられた木橋が最初ではないかと思われる。名前の由来は諸説あるが、神田川の南側に柳の堤防(柳原土手)があったからといわれている。 |
師走の月 | |
場所は柳橋を渡って、両国広小路へ出てくるあたりで | |
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四の橋 | 源三郎の恋 |
定廻りで鍛えた足だから、八丁堀から麻布までをたいして苦にもせず歩き通して、やがて四の橋を渡り、新堀川に沿って行くと広尾原に出る。 | |
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竜閑橋 | 筆屋の女房 |
鎌倉河岸は、三河町一丁目と竜閑橋の間をいい、大川の三ツ股から永久橋の下を通り、箱崎橋を抜けて日本橋川に合流する水路が、千代田城の外堀に流れ込んで神田橋御門へ向う途中に当り、徳川家が築城の際、鎌倉から取り寄せた石をこの河岸から上げたところから鎌倉河岸の名が生じたといわれている。 | |
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竜慶橋 | 千鳥が啼いた |
いい具合に、かなりむこうの竜慶橋の袂の辻番所が気がついて、提灯をかかげて人がとび出してくる。 | |
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両国橋 | 江戸時代の前期、寛文元年(1661年)の創架で、隅田川では千住大橋に次ぐ2番目の橋であった。名前の由来は、江戸と対岸の深川・本所方面の下総国の両国を結ぶ橋ということから付けられた。長さは九十六間。 |
大川の河童 | |
友達とは不思議なところが似ているものだと七重は感心しながら駕籠に揺られていた。 一行はやがて両国橋を渡った。 |
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霊岸橋 | 三つ橋渡った |
日本橋川と亀島川の交わるところに霊岸橋と湊橋、それに北新堀町にある箱崎橋がちょうど (この字型)の形にかかっているが、さて、三つの橋を渡って、元へ戻れるかといえば、 日本橋川の上流には江戸橋まで橋がない。 |
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霊厳橋 | 七夕の客 |
八丁堀から亀島川岸通りへ出て、霊厳橋を渡る。 東吾にとっては通い馴れた道であった。大川端の「かわせみ」は、このまま、まっすぐに行って豊海橋ぎわを折れればよい。 |
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俎板橋 | 江戸三大道場のひとつ九段下の練兵館近く(現在の神田神保町付近)の橋。 |
三つ橋渡った | |
神田駿河台、小川町といえば武家屋敷ばかりの一角に、ちょうど田安御門外の北から、 東の俎板橋まで細長く町屋になっているのが元飯田町であった。 |
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寛橋 | 迎春忍川 |
「みつかったのは、この先の寛橋の下あたりで川ん中でございます」 | |
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わかれ橋 | わかれ橋 |
二組の分かるところに小川がある。 昔は不忍池から小石川へ続く小さな川だったが、今は更に川幅がせまくなって、形ばかりの橋が架っている。 橋の名が「わかれ橋」であった。 近くに見かえり坂、見おくり坂という地名もある。 「ずっと以前は、ここらが江戸の境界だったんだ。江戸を追放になる者は、この橋を渡って行った。だから、この名前が残っているんだとさ」 |
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