第一章 人間、そのチャネリングする存在  

 星に願いを

 一年に一度、必ず「七夕の日」が訪れる。
 彦星と織り姫星の逢瀬(おうせ)―ぼくたちはそう教えられてきた。
 牡牛座のアルタイルと琴座のヴェガの恋物語。日本には、日立の逢瀬の海をはじめ、七夕伝説のある場所は多い。浦島伝説と同じくらいあるだろうか。どちらも星にまつわる話である。
 福岡県の小郡市には織女(しょくじょ)星(織り姫)と牽牛(けんぎゅう)星(彦星)を祀る神社があり、それぞれが天の川に見立てた川を挟んで建てられている。その昔、織り姫様の神社には、女性の長い黒髪が奉納された。若者たちは、七夕の日には一晩中陽気に楽しんだという。
 七夕は星祭りである。笹の葉に短冊を飾るのは、竹が霊的な植物で、中が空洞であり、素直に神さまとつながることを意味している。竹の節は、節目節目という魂の成長の過程を表している。祭りは、人間が自らの出自である神さまを思い出すことだという。だから、人が神さまの所まで上がる行為、真に釣り合うと書いて「真釣り=祭り」というのである。
 ずいぶんと昔に、七夕の夜に、海辺から星を見た。瀬戸内海の小島の海岸だった。瀬戸の海の静かな波が砂浜にささやくように海水をかけては引いていく。細かい砂が風に舞う。風にはほのかにオリーブの樹の香がした。
 ぼくは、砂の上に寝ころんだ。目に無数の光が飛び込んできた。海から生まれたばかりのような銀河が真上に広がっていた。幾層にも重なる、宝石を散りばめた絹のような夜、星の降るような、という表現がこれほどふさわしい天空は初めてのことだった。あのような星空は、数年前にエジプトのシナイの山に登ったときまで見ることはできなかった。
 黒い絹を縦に裂くように、白い竜が走っていた。天の川である。じつは、人の魂が渡る三途の川だという。地球がカルマ(前世から自分に課してきた宿題)の解消の星であることは一部の人たちは昔から気づいてきた。宮沢賢治は「銀河鉄道」の中で、「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか」と問いかける。
 見ている間にも幾つも星が銀河を渡っていった。赤い星も黄色い星も走り去っていく。古代には星が流れると誰かが天に還ったのだと考えた。立派な人が亡くなると、「巨星墜つ」と言う。砂漠で星を見ていたメソポタミアの民は、宇宙と人間のさらなる深遠な秘密に気づいていたのだろうか。現代に残されている占星術はほんの一部にすぎないという。
 近年、エネルギーで物事を見る人たちが増えてきた。ある人に言わせると、人間の身体は宇宙の写し絵だと言う。頭が地球で、体は太陽系に広がっていると。天文学者が聞いたら、怒り出すような大胆な説だが、人と宇宙の関係は次元のエネルギーを感知できないと本当にはつかめない。人智学者のルドルフ・シュタイナーも「間の内臓器官は惑星のエネルギーに影響されている」と言う。
 かつて、地球には、水晶の結晶に閉じこめられたエネルギーを解放することのできた文明時期があった。ダイヤモンドなどの美しい宝石は、膨大な圧力エネルギーを結晶という形に変換して保有している。アトランティスは、その技術を受け継いだ文明だった。ある周波数の振動でエネルギーを抽出できたという。信じられないだろうが、小さな鉱物ひとつで巨大な飛行艇が動かせたとされている。
 今の人類が武力で争いを解決することなく、あらゆる生命体と調和する道を選ぶことができたら、やがて、空間から無尽蔵のエネルギーを抽出できる時代も来るだろう。そのとき、人は宇宙をもっと身近に感じるようになれるかもしれない。

 じっと星を見つめていると、星が揺れて見えた。
 星が揺れるのは、大気のレンズのせいだと天文学者の誰かが言っていたが、本当は星は自分の意志で揺れているのだとギリシヤの哲学者は明かしている。
 じつは宇宙に出ると、地上ほどには星が見えない。真空のために光が屈折しないで直進するからだ。すると、実際には遠くの星がそのまま遠くの小さな光の点としてしか映らない。近くには、月以外には星がない。宇宙飛行士たちは、宇宙空間が真闇のように感じると言う。その中でひときわ青く輝く宝石のような星を見る。それが地球である。地上からはこんなに星が見えるのに、宇宙に出ると見えなくなるなんて・・・・。  じつは大気が凸レンズの役目をして、星の光を集めてくれるのだ。それも宇宙からの贈り物のような気がする。
 星をただ眺める人もいれば、星に願い事を託す人もいる。流れ星に願いを託すのは、いつの頃から始まった風習なのか?
 素敵な恋人が現れますようにと願う人もいれば、世界が平和になりますようにと願う人もいる。二度と戦争の起こらない世の中を、と祈る人もいる。ゼェペットじいさんが作った木彫りの人形ピノキオは、「ぼくは、人間になれますか?」と星に尋ねた。「E.T」を制作した映画監督のスティーブン・スピルバーグも子どもの頃、ピノキオの話が大好きで、自分も星に願ったのだと言う。「どうか、素敵な映画を作らせてください」と。 今も世界中の願いが星に託されている。その量は、もしかしたら天空の星よりも多いかもしれない。
 星に願いを託すこと、星と人間の関係を知り、運命を読みとろうとする占星術的な試み、それらは、すべて「チャネリング」である。
 チャネリングとは、文字どおりテレビのチャンネルを変えるように、違った意識や知識を受信することを言う。
 今までは、一部の人たちの霊的な能力だと思われてきた。だが、誰もが星に願ったことがあるように、チャネリングはどんな人も日々知らないうちに行っている普通の作業なのである。
 一般に、「チャネリング」と聞いて、腰の引けてしまう人でも、「地球をきれいにするビジネスアイデアを生み出す方法」とか、「薬のいらない健康な体を作る」とか、「あなたの子どもの運を良くする」という、キャッチフレーズなら多くの人が心惹かれるだろう。実は、それらすべてがチャネリングなのである。
 芸術家が、スポーツ選手が、発明家や起業家が、そして、遺跡を発見する考古学者たちが、意識的に、あるいは無意識に行ってきた自らの変革は、チャネリングによるものなのだ。
 自分の内側の知識の宝庫から、天の叡知から、知識や才能を引き出すことが、すでにチャネリングである。

 ぼくたちは、二四時間チャネリングをしている!

 テレビの深夜番組は、朝方近くまで放送するようになった。また、衛星回線によるチャンネルも飛躍的に増えた。深夜の放送は、歓迎している人たちもいるのだろうが、ほとんどの人は眠っている時間である。それでも勝手にスイッチが入ってチャンネルボタンが押されるわけではないから、眠っている人も困らない。でも、枕元で誰かがスイッチを入れたら寝ているどころではなくなる。
 ぼくたちの頭の中にもテレビの受信装置のようなものがある。それは、深夜番組どころか、二四時間放送を受け続けている。それも決まった番組だけではなく、全放送局の番組を同時にである。私たちは一日中チャネリングしていることになる。中には、感動する話もあるが、痛ましい話題も多い。それらを受信しながらも普通の生活を維持できるのは、無意識に自分の生活や行動を優先し、余計なものを遮断しているからである。
 たとえば、仕事や勉強をしているとき、好きな本を読んでいるときには集中しているから、ほかのことは気にならない。人が呼んでも返事もしないほど集中する人がいるが、その人は無意識に外界の情報を遮断している。
 しかし、リラックスして食事をしているときやぼうっとしているときなど、それほど集中しなくてもいいときには、いろんな情報が入ってくる。ふと、いやなことを思い出したり、誰かのことを懐かしく感じたりする。肉眼でも、部屋の隅のシミが気になったり、窓の外を飛ぶ鳥の姿が目についたりする。外にある情報に引っ張られるのである。目的地を捜して歩いているときは、目印になる物以外は目に入らなくても、何気なく歩いているときには道行く人や店の看板などに何気なく引かれ、見てしまうのも同じである。
 それらのことすべてがチャネリングである。

 あなたを呼ぶ者は誰か?

 チャネリングには、大きく分けて二種類ある。
 無意識に行なうチャネリング(受動的チャネリング)と、意識的に行うチャネリング(能動的チャネリング)である。どちらも、天から地まであらゆるレベルの情報とつながっている。
 無意識に行われるチャネリングは、ふと、誰かのことを思い出したり、突然、理由もなしに不愉快な気持ちになったりする。自分の知らない知識や言葉が頭の中に入ってきて戸惑うこともある。
 作家のリチャード・バックは、心地よい風の中を散歩しながら、あるインナーボイス(内なる声)を何度も聞いたという。
 「私はジョナサン・リビングストン・シーガル。私の物語を書いて」
 彼は、家に帰るとすぐに書き始めた。心に浮かぶ言葉を追うように。
 それは、一羽のカモメがどうすればより高く飛ぶことができるのかに挑み、他のカモメたちに伝えようとする話であり、自分の本当の姿に気づいていく「自分さがし」がテーマとなったファンタジーだった。日本でも翻訳されてベストセラーとなった『カモメのジョナサン』である。
 また、ニューヨークの病院に勤めていた心理学者、ヘレン・シュックマン博士に訪れた声はこう語ったという。
 「奇跡に関する教えです。ノートを取りなさい」
 それは、すべての恐れを克服する「愛」の方法だった。アメリカのニューエイジのバイブルとなった『コース・イン・ミラクル』の誕生秘話である。
 この二つの例は、本人の自意識を超えた、優れた存在が向こうからチャネリング(コンタクト)してきたケースである。
 一方、意識的に行うチャネリングとは、自分の欲しい情報に自らの意志でつながることである。チャネラーと呼ばれる人たちは、自分の意志で誰かと交信し、智恵を受けたりする。多くの人には特別な能力のように見えるために、チャネラーは時に特別扱いされたりする。しかし、チャネリングは特別なことではない。
 たとえば、あなたが何かの企画を考えているとき、素晴らしいアイデアが湧いてくる。それは、あなたがアイデアの源泉と呼ばれる次元と意識的にチャネリングしたのである。
 でも、あなたはそれは自分の内側から湧いてきたと思っている。では、その内側とは何か? あなたの内側とは、宇宙そのものだと言ったら驚かれるだろうか? そこに、すべての人間の意識が竹のように地下でつながりあっていることや、生きとし生けるあらゆる生命体が、そして、人と宇宙が霊的につながりあっている次元がある。
 眠れる予言者として高名だったエドガー・ケイシーは、それを四次元的な世界であると言った。「私が相対性理論を発表しなくても、ほかの誰かが必ず発表したさ」と言ったのはアインシュタインである。
 チャネリングは、人間の普遍的な能力である。しかし、ひとつだけ注意したい。それは、いつも正しい知識を得られるとはかぎらないことである。現実の社会でも専門家の意見がいつも正しいとはかぎらないように、チャネリングした知識をすぐに聖なるものであるとか、特別の答えであると簡単に思い込むのは危険なことである。
 チャネラーと呼ばれる人の中にその危険なモデルが見られる。たとえば、テレビのショーでプロのチャネラー(霊能者も同じ)が、隠し財宝の在りかなどの一般には知られていない知識を話したとする。もちろん、普通の森や林の中ならば、掘ればその真偽は確かめられるが、地底深く、あるいは海底深くに眠っていて簡単には確かめられない場所もある。
 司会者や聴衆は驚く。しかし、本当にその人が正しい情報をチャネリングしているかどうかはわからない。誰が、その知識をもたらしたのか、どことつながってその知識を得たのかが問題になってくる。キノコの知識のまったくない人に、このキノコは食べても安全だからと聞いても、口には入れられないのと同じように。
 もちろん、中には正しい情報もある。
 エドガー・ケイシーが第二次大戦前に行ったリーディング(チャネリング)には、シスター・スーペリア(崇高なる存在)と呼ばれていた霊体(ユダヤ教ではオフィサー〔管理者〕と呼ばれていたという)が現れた。彼女は生前に、エルサレムに向かう途中の地エリコ(旧約聖書に出てくる町)にあったミステリースクール(神知学校=預言者になる修行や神秘学の指導者になる勉強を行っていたとされている)の指導者だったと語った。そして、エッセネ派の修道院が存在していたことや特定の道の名前、建物の場所の描写をしてみせたのだ。
 しかし、その当時の歴史学者やバイブル研究家は、修道院の存在など頭から疑っていた。また、ケイシーもユダヤ教についてはよく知らなかった。だが、それから10年近く後の1947年にイスラエルの死海の近くで「死海写本」が見つかり、さらにその後ヨルダン川のほとりでケルベット・クムラン修道院の遺跡が発掘されて、ケイシーのリーディングは現実となったのである。
 有名なトロイの遺跡も、シュリーマンがチャネリングで直感し、そこに必ず遺跡があると信じて掘り続けた結果である。
 現在も、アトランティスの存在やムー大陸の存在、邪馬台国の在った場所などを求める人たちは、既存の記録を越えて、見えない空間からのチャネリングを無意識のうちに試みているのかもしれない。
 しかし、誰もがチャネリングで遺跡や財宝などを発見できるわけではない。向こうが人を選ぶのだろう。「見えない次元」で、精霊や遠い昔の遺跡の関係者たちが、発見するにふさわしい人を呼び寄せているのだ。それには、情熱だけではなく、純粋性が条件となる。欲深い人や名声のみを求める人の試みが何度も徒労に終わるのはそのためではないか。あなたが隠した財産を、あなたの死後、どんな人に見つけて受け継いでほしいかを考えればわかるだろう。
 「類は友を呼ぶ」の法則は、霊的な次元でこそもっとも働くのだ。
 中国の故事に、「良い酒は、器を選ぶ」とある。チャネリングをする人が、どのように真実の人かを見れば判然としてくる。エドガー・ケイシーは、すべての人の幸福を本当に願った謙虚な人だった。
 チャネリングは単なる知識の導入だけではない。霊的な知識は、高次元の霊的な存在に管理されている。この人になら教えても良いと認められた人だけが宇宙の秘密を知ることができるのも、そのためである。正しい知識を受けるには、その人の心のあり方が大いに関わってくる。この世のすべては、個人の人格や品性に倣う。それが宇宙の法則である。

 本物を選ぶ目と意識が、低い次元のチャネリングを超える!

 ひと頃、チャネリングが流行って、多くの自称チャネラーたちが日本にやって来た。彼らは日本の各地でワークショップを開き、チャネリングをして見せた。ある人は、おもしろいショーだったと言い、別の人は、本気で信じてしまった。
 問題は、後者の人たちだった。チャネラーから「もっとわくわくすることをしなさい」と言われて、本当に自分の長年勤めていた会社を辞めてしまった人もいた。その人は、会社を辞めてからハッと我に還り、その後の生活はしばらくたいへんだったという。無責任に言葉を吐いたチャネラーはアメリカに帰ったあとだし、問いつめても「私は知らない。霊の言ったことだから」と知らん顔をするだろう。アメリカでも同じような問題は起こったらしい。
 日本にも職業的なチャネラーがいる。その中でも恐山のイタコと呼ばれる人たちは有名である。東北地方に伝承される霊と交信のできる霊能力者で、その源流は、超古代日本のシャーマンだと言う人もいる。関東では「市子」と呼ばれた。多くは盲目の霊媒体質の女性がなる。
 彼女たちは、幼い頃から非常に厳しい修業を積まされる。沖縄、久高島の野呂や平安時代の白拍子、神社の巫女など、女性が霊の「依りしろ」に成りやすいのは、一般には女性の方が霊的な感受性が強いからだと言われているが、本当は女性がその体内に霊的次元との通路である子宮(子宮は、霊的次元に存在する魂が3次元世界の肉体に受肉=イン・カーネーションするための重要な〔宮〕である)を有しているからである。
 イタコが交信するのは、すでに肉体を失った霊である。依頼するのは、自分の肉親の声をもう一度聞きたいと願う人や何か現世に言い残したことがないかを知ろうとする人たちだという。亡くなった御主人と相談したいという依頼もある。
 しかし、イタコが口寄せする霊もすべて本物とはかぎらない。ショー的チャネラーのように演技をするからではなく、幽界に留まる孤独な迷う霊が呼ばれたがって名乗り出ることがあるからだ。昔からヒミコやクレオパトラを呼ぶと何十人も自称ヒミコや自称クレオパトラが現れるという。人間の思いこむ癖は、霊になっても簡単には抜けないらしい。
 エドガー・ケイシーの研究家でもある、元アイビーリーグの教授のヘンリー・リード博士もチャネリングを研究した一人である。彼は、職業的なチャネラーに懐疑的だった。人々がチャネラーの口から出る言葉を、霊や宇宙人がしゃべっているのだと簡単に思い込む傾向をとても危惧していた。日本に来たチャネラーたちの多くに見られたように、彼らが演技をしているのかもしれないからだ。中には、チャネリングではなく、自分で霊が話しかけてきたと思い込んでいる幻覚もある。残念ながら、これが一番多くて、一番始末に悪いという。
 アメリカの某女優の書いた本によって、チャネリングやチャネラーの存在が注目されだしたときには、天の啓示を受けたと自分で思い込む人が後を断たなかった。彼女の本のもっとも評価すべきメッセージは、「チャネリング現象や不思議大好き」ではなくて、「自分に起きる現実は、すべて自分自身が作っており、すべての責任は自分にある」というところにあったのに。
 では、チャネリングは、どこで演技(思い込み)と本物を見分けるのか?
 外の意識が入ってきているときには、霊的視覚能力のある人にはエネルギー的な変化でわかるという。また、見えなくても感じでわかる。 自己顕示欲の強いチャネリング・ボイス(チャネリングの時に話される言葉)は、ほとんどがその人の「自我」から出てきた言葉である。たとえ、それが本当の霊的存在のコンタクトによって話しているとしても、自己主張の強い中身なら、その霊の存在する次元は幽界のような低い段階の世界だと思って間違いはない。
 受動的なチャネリングも能動的なチャネリングも、メビウスの輪のように表裏一体である。すべては、チャネリングする人の「人格(霊格)」に左右される。慈悲深く意識の高い人には、やはり高い次元の意識の意識体(霊格が高いという表現もある)が訪れる。そういう人は、謙虚であり、演技も思い込みもない。
 イスラエルには、毎年自称モーゼや自称キリストの生まれ変わりが何十人も現れる。現在では、さらに増えているという。社会学者たちは、戦争や飢餓などからくる、人の行き場のない集合的な不安が、誰かをスケープゴート(いけにえの羊)にしてしまうのではないかと言う。集団の不安にチャネリングした人が、自分で救世主だと思いこむのだろう。しかし、彼らもまた、不安の徒であるため、街角で『聖書』の言葉で説教はしても、自ら愛を実行したりはしない。
 アメリカ・サンフランシスコの心理学者・ジェラルド・ジャンポールスキー博士のアティトューディナル・ヒーリング・センターには、ボランティア志願の人たちが毎年訪れる。彼らは、受け付けでこう聞かれるという。
 「あなたは、愛を受けたいのですか? 与えたいのですか?」と。
 たいていの人は、与えたいと答えるが、本当はその人たちも愛を欲している人なのだという。愛を求めている自分と向き合うには勇気がいる。自分は与える側だと思ったほうが気持ちがいいかもしれない。だが常に、与えることは受けること、そのものなのだ。

 少し前、日本でも、一部の人たちの間で「前世ごっこ」が流行った。火付け役のひとつはアニメにもなったマンガ、『ぼくの地球を守って』(日渡早紀氏)だった。
 自分がかつて別の世界や超古代に生きていた竜戦士の生まれ変わりだとか、王女の転生だったと思い込み、その時の仲間を本気で捜す現象である。
 誰もが子どもの頃にかかる幻想だとは笑えない。仲間と逢えない現実に失望し、次の転生を求めて自殺をした女子中学生もいたという。子どもたちは、社会の中で居場所のない自分をもてあまし、「前世からの絆」という形の中に愛を発見しようとしたのだと思う。
 今生での家族・友人たちは、皆「前世からの絆」であることを知ってほしい。
 チャネリングや転生は、特別なことでも何でもなく、人間にとってごく自然な現象であり、恐れることも何もない。
 自分たちだけは特別な人間だとか、選ばれた人間と思っている人がまだいるとしたら、現実逃避の果てにたどり着く優越意識に陥らないことを祈りたい。人間にかぎらず、すべての生命は皆、地球に選ばれて生まれてきたのだから。あなたも人も、道にいる虫も、皆同じように尊く、大切な生命である。

 本物と、本物に見えるニセモノ

 世の中には、まだ本物に見せるニセモノが横行している。
 ようやく主婦たちが、より安全な食べ物や洗剤、化粧品などに目を向け始めてくれた。自分たちの身のまわりにあるニセモノを見分けようという意識になってきた。ある団地では、自然食のグループ勉強会や安全な洗剤の購入を呼びかけている。
 「もう本物しかいらない」というのは、恋愛で「痛い」思いをした人たちも言うことである。
 しかし、いつも言うように、社会はあなたの「外」にあるのではない。あなたの「内側」に社会も世界も存在する。逆説的に言えば、あなたがいなければ社会は存在しないのだ。
 多くの人は、自分たちは消費者で、企業やメーカーや政治家たちは供給する人だと信じ込んでいる。だから、世の中のことを憂いてはみても、自分たちは受け身だからとあきらめてしまう。
  じつは、歴史的には日本ほど受け身的な国は少ない。よその国の市民革命を見ればわかる。本当に自分たちのためにならない国や政治なら、変えようとしてきたのが世界の歴史だった。しかし、日本もそれに倣うべきだと言うのではない。力による変革は、力に捕らわれて、力の前に屈してしまう。
 同じ変えるなら、自らの意識から始めたい。例えば、消費者が供給者を動かしている事実に気づくだけでいい。食べ物でも、農薬や化学薬品のかかっていない「本物」を消費者が本気で求めだせば、メーカーや企業も買ってもらうために、本物を供給する努力をし始める。あなたが本気で、自分の意識と選択の変革に取り組めば、必ず社会も変わっていくのだ。
 チャネリングも、本物とか、ニセモノとかの次元で騒ぐより、受け取る側が目覚めることが重要である。
 たとえ、本物の霊が語ったことであっても、何でも安易に受け入れてはいけない。もし、愛も智恵も感じられない言葉なら、「そのような答えならいりません!」と冷静に拒否する強い姿勢を持つことである。
 演技をするチャネラーを見ても、批判するよりも、その人には自分に注目されたいとか、人から認められたいという強い執着(カルマ)があるのかもしれないと考えてあげて、一刻も早く妄想から脱出できるように祈ってあげてほしい。
 アメリカや西欧の研究家たちは、「霊が話す」という問題に特に重点を置く。それは、人間を「肉体」に限定してきた偏見のせいである。今の日本もそれに倣っている。あなた自身が霊的な存在なのに、なぜ霊の存在に驚くのか? その証明は、あなた自身でいつか必ずできることである。

 見るものも、見せられるものも、あなたの意識に従う

 チャネリングによって、人がどのような深遠な知識や意識を得ることができるかは、とても魅力ある課題である。天才と呼ばれる人の芸術的な才能やひらめきも皆、チャネリングである。どうせなら、自分の意識と生活を豊かにしてくれる叡知を求めたい。
 本物を求める人は、より本物と出逢っていく。しかし、誰もがいきなり本物に逢えるわけではない。タバコの害や化学調味料でマヒした味覚の人が、なかなか本物と本物に見えるニセモノの味が見分けられないように、日頃から本物に接していく姿勢が必要なのだ。
 その一番の姿勢とは何か?それは、あなたが本物になっていくことである。少なくとも、そういう決意を持つことで、初めてスタートできるのだ。
 オリンピックに出たいと願うスポーツ選手が、日頃から体や精神を鍛えているように、高い叡知や意識とつながりたいと願うなら、まず自分の意識や心を磨くことである。
 わずか六歳で交響曲を作曲したモーツアルトのような天才に見られるように、無垢な子どもに入る天才の智恵や意識、あるいは引き出された天才(外から来るものも、内側から引き出されるものも、実は同じ次元から来る)は、一見何の努力も精進もしていないように見える。しかし、その人の過去生での努力や運命の克服の苦労を知ることができれば、なるほどと納得させられるのだ。そういうスタンスで、人と才能の関係を見なければ、宇宙の調和的な愛や進化は見えてはこない。
 何度も言う。人間は霊的な存在である。
 たとえば、あなたが無公害のエネルギーを研究する人だとする。あなたはこれまでの人類が壊してきた自然環境に胸を痛め、なんとか誰も傷つけない安全なエネルギーを開発したいと考える。すると、あなたの周りには、かつて公害を生んでしまって深く後悔し、償いたいと願っている科学者の意識や、あるいは人類の進化を見守っている、より高い次元の科学を司る生命体たちが、あなたを補佐するように現れて新しいエネルギーへの道を照らしてくれるのである。
 しかし、ひとたびあなたが真に人類や地球への貢献を願う心ではなく、これでどのくらい儲かるのかという欲の次元に囚われたとき、すべては無効になり、あなたは栄光ある発見者の座から追われるのである。
 その人が、どの次元の存在、つまり高い意識と低い意識のどちらとチャネリングしているかを問うなら、その人の生きる姿勢を見ることである。よく、親を見れば子どもがわかる、あるいは、子どもを知れば、親が想像できると言う。高く浄まっていく意識に、より高い存在が近づくのだ。
 人はチャネリングする存在である。霊能者でなくても、だれもがテレビの受像器のように、意識する、しないに関わらず、いつも何らかの電波(意識)をキャッチし続けている。その意識の中にはあなたの友人や愛する人たちのものもあれば、すでに肉体を失って浮遊する物もある。 「類は類をもって集まる」ように、「互いに」引かれあう者同志が近づくのである。暴力的なテレビ番組や映画を見ていると粗暴な意識が近づく。情欲を刺激する場所には、同じ色情のエネルギーに動かされた人たちが集まってくる。
 だからこそ、自分が何に関心を持つかが大切になる。
 チャネリングはテクニックではない。高次の意識体とつながるには、あなたの心の態度を高潔に磨いていくしかない。




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