【ハリマヤヒストリー】金栗四三氏と播磨屋足袋店との出会い。世界で戦うために改良を重ねるマラソン“足袋”。50年にわたる試行錯誤から誕生したマラソン“シューズ”。日本のランニングシューズはいかに進化してきたのか。ハリマヤの歴史を最後のカタログ(1989年度版)から
【それは足袋からはじまった。】1903年、文京区大塚に生まれた「ハリマヤ足袋(たび)店」。当時、店の近くにあった東京高等師範学校の学生、金栗四三らは、とくにこの店の足袋を愛用していた。それから8年後のストックホルム五輪は日本マラソン界の幕開けとも言うべき年であった。
【金栗選手の初舞台】ストックホルム五輪予選に、金栗選手は「ハリマヤ足袋店」の足袋を履いて出場していた。折り返し地点を過ぎた時点で足袋の底は剥(は)がれ、はだしで走った。11月も半ばを過ぎた泥道は冷たく、悪条件に悪条件が重なる。しかし、ゴール直前で先頭を走っていた佐々木選手を抜いて見事優勝。当時の世界記録を27分も更新した記録だった。
【走るための破れない足袋】それから金栗選手とハリマヤ足袋店との共同開発が始まった。材料選びから始まって、さまざまな改良・改善を経て、日本初の「マラソン足袋」が誕生した。ストックホルム大会には、日本の選手達はこの「マラソン足袋」を履いて出場。しかし、ストックホルムの石畳のコースに布製の足袋ではショックが大き過ぎて膝を痛めてしまう。この大会で金栗選手は、実力を発揮できないままついに棄権。苦い経験を生かし再度、挑戦は続く。
【改良に改良を重ね・・・】足袋の底に丈夫なゴムをつけ、ショックをやわらげる凸凹(でこぼこ)を加えた改良足袋が生まれた。金栗選手達は、下関〜東京間1,200kmを20日間かけて走破する実験で満足すべき成果を得た。1919年には、足袋の“こはぜ”を取り除き、甲ひもタイプの「金栗足袋」が誕生した。1928年のアムステルダム五輪ではこの足袋をはいた山田選手が4位、津田選手が6位に入賞した。さらに1936年のベルリン五輪では、日本代表選手の孫基禎選手が優勝。1951年、ボストンマラソンに出場した田中茂樹選手は2時間27分45秒で優勝。いずれも「金栗足袋」をはいていた。その翌々年、さらに改良を加えたマラソンシューズの第一号ともいうべき「カナグリシューズ」をはいて出場した山田敬蔵選手がボストンマラソンで優勝した。
【若き選手達のために。】日本のマラソンの歴史はそのままハリマヤの歴史。これからもより速く走るためのマラソンシューズを目指し、あらゆる研究・改良が続くだろう。あとに続く選手達の栄光のために。ひたすら走り続ける若き選手達のために。
金栗選手がストックホルム五輪ではいた足袋(ハリマヤ特製マラソン用第1号・1911年)
孫選手がベルリン五輪優勝時にはいた「金栗足袋」(1936年)
田中選手がボストン優勝の時にはいた「金栗足袋」(1951年)
山田選手がボストン優勝の時にはいた「カナグリマラソンシューズ」(1953年)
1989年度版、ハリマヤ最後のカタログの見開き2ページにわたって紹介されている「ハリマヤの歴史」の全文を掲載しました。一字一句、原文のままです。
上の4足の足袋やシューズの写真、説明文もすべてカタログに紹介されているままに掲載しています。しかし、それぞれの足袋やシューズが、各説明文にあるとおりにオリンピックやマラソン大会のレース本番に使用されたものかどうかは、よくわかりません。
ストックホルム五輪予選での金栗選手の世界記録は、25マイル(40.225キロ)での記録。
1928年アムステルダム五輪4位の「山田選手」とは山田兼松選手のこと(後出の山田敬蔵選手とは別人)。6位は津田晴一郎選手。
(2012.12.18更新)