今年も、たくさんのランナーたちが全国のマラソン大会に参加し、
42.195kmという過酷なレースに挑戦しています。
“日本マラソンの父”と呼ばれる金栗四三さんのことは有名です。
日本人で初めてのオリンピック選手。
箱根駅伝をはじめ、多くのマラソン大会実現に尽力。
ランナーの高地トレーニングをいちはやく導入・実践するなど、
日本の長距離選手の育成に懸けた生涯。
そして、1912年に出場したストックホルム五輪のマラソンを、
「54年と8ヶ月6日5時間32分20秒03」
という歳月をかけて「完走」したエピソード(※)は、
いつの時代にあっても人々の胸を打ち、語り継がれています。
しかし、日本マラソンの黎明期(れいめいき)において、
金栗さんをはじめ多くのランナーのシューズを開発し、
金栗さんとともに世界のマラソンに戦いを挑みつづけた
「もうひとりの男」
が存在していたことを、私たちは長い間知りませんでした。
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金栗さんは、ストックホルム五輪のマラソンを足袋で走りました。
その足袋をつくった「播磨屋(はりまや)足袋店」が、
後にシューズメーカー「ハリマヤ」となります。
「ハリマヤ」のシューズを履いて走っていたランナーは幸せです。
あれほど日本人の足に合ったシューズはありませんでした。
だから「ハリマヤ」がなくなって、
もう20年以上の年月が経っているにもかかわらず、
オリンピアサンワーズには、「ハリマヤ」を愛する人々から、
今もなお、たくさんの声が届きます。
「ハリマヤ」を語る時、人は誇らしげで、自慢げで、少々照れくさそうです。
なぜなら、私たちが「ハリマヤ」を語る時に語っているのは、
「青春」という言葉でしか呼びようのないものであるからです。
「ハリマヤ」の名ととも、私たちの胸には、
ただひたすら走りつづけていた
「あの頃の自分」がよみがえってくるのです。
私たちにとって、「ハリマヤ」とは、そういうシューズです。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
金栗さんのストックホル五輪からちょうど100年の今年、
私たちのもとに、ある女性からお手紙が届きました。
その女性は、あなたにとっては「曾孫(ひまご)」にあたる方で、
「もうひとりの男」であるあなたのことを、私たちに教えてくれました。
私たちは、はじめて知りました。
「ハリマヤ」をつくったのは、あなただったんですね。
1903年、あなたは東京大塚に小さな足袋店を創業する。
そこに、学生だった若き金栗青年が足袋を買いに訪れる。
―――このふたりの出会いこそが、
日本のマラソンとランニングシューズの
壮大な物語の“はじまり”でした。
金栗四三さんが“日本マラソンの父”と呼ばれるのであるならば、
あなたがつくったシューズは
“日本のランニングシューズの原点”と呼ばれてもいいはずです。
「ハリマヤ」はなくなってしまったけれど、
そのシューズづくりの技術は、未来へとつながるべきものです。
今日も、日本のどこかでマラソン大会が行われています。
たくさんのランナーたちが、思い思いのランニングシューズを履いて、
42.195kmに挑んでいます。
金栗さんとあなたの物語は、今もつづいています。
(2012.12.18)
(※)
【消えたランナー、金栗四三の54年8ヶ月6日5時間32分20秒3】1912年。金栗四三は、第5回オリンピック・ストックホルム大会に日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場するも、レース途中にあえなく棄権してしまった。これを大会側に申告しなかったため、金栗四三はレース中に“消えたランナー”とされた。1967年。スウェーデン五輪委員会がストックホルム五輪の55周年記念式典に“消えたランナー”を招待する。白髪になった75歳の金栗四三はコート姿で競技場を走り、特別に用意されたゴールテープを切って「完走」した。その瞬間、場内にはアナウンスが流れた。「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了します」
“日本マラソンの父”金栗四三氏(左)
(2012.12.18更新)