琉球・沖縄史年表

 沖縄の歴史年表に少し自分なりの解説を加えました。
年表を作成していると、当時の人々の気持ちが何となくわかってきます。
(18世紀以降はまだ解説を加えていません)




   11世紀以前  海の外からの刺激〜社会の変化

   12世紀     伝説〜グスク時代

   13世紀     グスク時代〜三山時代

   14世紀     三山時代〜進貢貿易の始まり

   15世紀     琉球王国の誕生〜全盛期

   16世紀     全盛期〜衰退へ

   17世紀     植民地支配の始まり

   18世紀     長い植民地支配〜社会の変化

   19世紀     大国の荒波〜琉球王国滅亡・沖縄県誕生

   20世紀     戦争の時代〜アメリカ統治〜復帰



 11世紀以前  (海の外からの刺激〜社会の変化)

世紀 西暦 主な出来事 日本及びアジアの動き
7世紀 605 流求初めて中国史に現れる(台湾説有力) 隋、大運河起工
607 隋の煬帝、使いを流求に派遣するも言語通ぜず島人1人を連れ去る(台湾説有力) 遣隋使の派遣(小野妹子)
進貢貿易の開始
法隆寺創建
608 隋の煬帝、再び流求を招撫するも従わず島人の布甲を取って去る(台湾説有力) 小野妹子帰国、再び隋へ
隋使来航
609 隋の煬帝、流求を攻め、城を焼き男女千人を虜にして帰る(台湾説有力) 小野妹子帰国
610 隋の武賁郎将陳稜、流求を撃つ(台湾説有力) 高句麗、製紙法を日本に伝える
8世紀 714 信覚(石垣)球美(久米)の文字現れる  
715 この頃南島から往来多し(南島という言葉は、南の島々を漠然ととらえたもので、沖縄とは限らない)  
720 大和朝廷、南島人232人に位を授ける 『日本書紀』編纂
727 南島人123人入朝し位を授ける 渤海使来航
753 阿倍仲麻呂、吉備真備らの遣唐使船漂着
阿児奈波(沖縄)初めて日本史に現れる
 
9世紀 803 空海の『性霊集』に留求の二字初見  
840 遣唐使船大隅国に着き、南海賊地で戦って得た兵器をもたらす  
853 唐商欽良暉漂着 遣唐使の派遣停止(894)
進貢貿易の中断
10世紀 この頃から、グスク土器や九州産石鍋が使用される 唐滅亡(907)
高麗、朝鮮統一(936)
北宋、中国統一(979)
927 『延喜式』に南島は太宰府の管轄と記述
11世紀 この頃から、亀焼系土器(類須恵器)が使用される 院政始まる(1086)
 11世紀以前の琉球は、まだ周辺の国からもはっきりとは認識されていないようです。ただ、遺跡の出土遺物からはっきりしていることは、この頃までは九州との関係が深かったようです。また、10世紀頃から土器形式に大きな変化が現れ、社会の変化が顕著に見られます。グスク時代の前段階といったところでしょうか。

 私の勝手な想像では、日本における「遣唐使の廃止」と中国における「唐の滅亡」が、それまでゆ〜っくりと緩やかに流れていた琉球の社会的変化に加速をつけた外的要因になったのでは?と考えています。

 「遣唐使の廃止」は、中央の貴族にとっては何ともないかもしれないが、それに携わってきた多くの一般の船乗りや商人にとっては生活に関わる大きな問題です。彼らは九州から南の海へ頻繁に行くようになったのではないか?(九州長崎産の滑石製石鍋が入ってきており、土器形式に劇的な変化が見られる)(後の時代、堺や薩摩の商人に先駆けて、博多商人が最も早くから琉球で貿易ルートを確立している)

 「唐の滅亡」の後、北宋の統一まで中国は混乱します。この時期に周辺地域への難民亡命者がいたはずで、そういった人たちが琉球にもやってきて社会的な刺激を与えたのではないか?(以後、階級社会が急速に進展していき、各地に按司(あじ)と呼ばれる有力者たちが現れる)

以上のようなことから、そう考えるのですがいかがでしょうか?(単純すぎる?)

 ちなみに貝塚等の調査結果から、もっと古い時代の縄文時代は、奄美諸島から沖縄本島までは九州文化圏で、宮古・八重山諸島は東南アジア文化圏にあったようです。両者は次第に交流を通じて同じ文化圏に統一されていき、次の世紀から中国の影響を強く受けるに至って、奄美諸島から宮古・八重山諸島まで一つのまとまった琉球文化圏を形成していきます。

 12世紀  (伝説〜グスク時代)

12世紀 1153 浦添城の高麗瓦造られる(1273年・1393年説もある) 北宋滅亡、南宋建国(1127)
保元の乱(1156)
平治の乱(1159)
平清盛、太政大臣となる(1167)
1165 源為朝、運天港に漂着と伝わる(為朝伝説)
1180 舜天、浦添按司となる 源頼朝、伊豆で挙兵
1186 利勇の乱、天孫氏滅ぶ 壇ノ浦の戦い(1185)
源頼朝、奥州平定(1189)
源頼朝、鎌倉幕府開く(1192)
1187 舜天、中山王に即位
この頃から、中国製陶磁器の搬入が見られる  
 12世紀に入ると、中国では北方民族の圧迫によって首都を南部に移して「南宋」となります。中国にとって政治的には屈辱的な時代ですが、経済的には飛躍的に発展する時期です。

 日本でも、平氏政権の誕生により政治の担い手が貴族から武士へと変化していく時期です。また、それまで公的には途絶えていた中国との貿易(私貿易)を再開する時代でもあります。中国南部に首都があるわけだから、琉球は中継地としての役割も果たしていたことでしょう。

 そういう時代の流れを大きく受けて、琉球の社会的変化も加速度を増していきます。本島中部の有力者舜天が、この世紀の末に中山王に即位しています。そういう中で、多くの伝説が残っています。

 伝説はそのまま信じてはいけませんが、そういうものが生まれた時代背景を考えるにはとても良い材料です。何もない所には伝説など生まれないのだから.....。今後の研究に期待したいですね。

 13世紀  (グスク時代〜三山時代)

13世紀 1229 英祖、伊祖城で生まれる ジンギス汗、モンゴル統一(1206)金の滅亡(1234)
1238 舜馬順煕、中山王に即位
1249 義本、中山王に即位  
1253 英祖、摂政となる 日蓮、日蓮宗を開く
1260 英祖、中山王に即位 フビライ汗(世祖)即位
1265 僧禅鑑来琉し仏教を伝える。浦添に極楽寺を創建
浦添ようどれ陵創建(英祖王の墓)
 
1266 大島諸島、中山に初めて入貢 南宋滅亡、元の統一(1279)
元が日本を攻める(1274/1281)
元がジャワを征服(1292)
1273 浦添城の高麗瓦造られる(1153年・1393年説もある)
1291 元が入貢を求めるがこれに従わず(台湾説有力)
1296 元が攻め、130人を虜にして帰る(台湾説有力) 鎌倉幕府、徳政令を出す(1297)
マルコ・ポーロの『東方見聞録』(1299)
1300 大成、中山王に即位
この頃から、中国製陶磁器が大量に輸入される  
 この頃になると、各地でグスク(城)の築城が盛んになってきたと考えられます。各地に有力者(按司)がそれぞれグスクを形成し、三山(中山・山北・山南)の勢力も明確なものとなっていきます。

 大島からの入貢の記述も見られることから、琉球文化圏の範囲も明確になってきています。また、仏教が鎌倉時代の日本から伝来しています。「おもろさうし」の中で、勝連城の繁栄を称える詩に「鎌倉のように栄えている」というものが残っていることから、大和(日本のことを「ヤマト」と言っていた)への憧れもみられます。

 征服王朝である元による南宋の滅亡は、大量の亡命者難民を産んだことも想像されます。また、元の時代は私貿易も更に盛んになりますから、琉球への影響も大きかったと想像されます。

 14世紀  (三山の鼎立〜進貢貿易の始まり)

14世紀 1309 英慈、中山王に即位 日本商船、元で貿易(1306)
1314 玉城、中山王に即位  
1317 宮古島人60人余り乗る貿易船が、シンガポールへ行く途中台風に遭い中国温州に漂着。14人救助
(東南アジアへの私貿易船の存在を示す史料)
この頃、元に入る日本人僧多い
1322 怕尼芝、中北山を滅ぼし北山王となる  
1337 西威、中山王に即位 建武の新政(1334)
1338 察度、浦添按司となる 室町幕府開く
1350 察度、中山王に即位 アユタヤ王朝興る(1350)
この頃、倭寇横行(1355)
1361 この頃までに察度が首里城に移る(異論有り)
1368 僧頼重、那覇に護国寺を開設 明の建国(1368)
明の使者、博多に来航(1369)
明の使者、博多に来航(1370)
南朝、明に使者を送る(1371)
明の使者、博多に来航(1372)
明、義満の国書を拒否(1373)
1372 中山、初めて中国に進貢 (以下、省略)
1374 甘藷を移植
1380 南山、初めて中国に進貢 (以下、省略)
1383 北山、初めて中国に進貢 (以下、省略) 明、日本船の来航を禁止
1389 シャムとの通交始まる
以後、他の東南アジア諸国とも盛んに交易

 (以下、省略)
中山、王子玉之を朝鮮(高麗)に遣わす
朝鮮の使者来琉
以後、朝鮮とも交流
 (以下、省略)
 
1390 宮古(与那覇原勢力の真佐久)、初めて中山に入貢 南北朝の合一(1392)
宗氏による朝鮮との国交開始(14c末)
1393 尚巴志、佐敷按司となる
浦添城の高麗瓦造られる(1153年・1273年説もある)
1396 武寧、中山王に即位
北山王攀安知、明の冊封を受ける
 1368年の明の建国を受けて、中山・南山(山南)・北山(山北)の各勢力がそれぞれ王として明に進貢しています。ここから中国との貿易は私貿易から公貿易と変わっていきます。(当時の東アジア全体に当てはまる)

 中国側の資料に、琉球国「中山王察度」の文字が現れ、これまでの”伝説”が”史実”であることを証明してくれています。また、三山が争っている琉球に対して「使いを遣わして、争うのをやめなさいと申し渡した」という興味深い記述もみられます。

 また、1317年に遭難した宮古島人の目的地がシンガポールだったことや、察度の送った貢物の内容に東南アジアの産品が含まれていたことから、それ以前から既に東南アジアとの間に私貿易が存在していたことがわかります。朝鮮との国交も開拓しようと働きかけており、琉球王国統一の前段階で、琉球船がかなり広い範囲で活動していたことを示しています。

 15世紀  (琉球王国の誕生〜全盛期)

15世紀 1404 中山王武寧、南山王汪応祖、明の冊封を受ける
シャム船来航、交易する
義満、明に使者を派遣(1401)
義満、明の冊封を受ける(1402)
進貢貿易(勘合貿易)を開始(1404)
1405 来遠駅(琉球館)福建泉州にできる
1406 尚巴志、中山王武寧を滅ぼす
(攻めたのは浦添城か?首里城か?)
尚思紹(尚巴志の父)、中山王に即位
これ以後(〜1427の間に)首里城へ移る(異論有り)
他魯毎、南山王に即位
義満死去(1408)
義持、進貢貿易を中断(1411)
博多で琉球との貿易始まる(1414)
1416 尚巴志、今帰仁城を攻め、北山を滅ぼす
1422 尚巴志、中山王に即位
護佐丸、座喜味城に移る
この頃、喜納焼始まる(読谷)
応永の外冦(1419)
朝鮮との国交中断
明、北京に遷都(1421)
1427 首里城前に龍潭(池)を掘る
(琉球最古の金石文、『安国山樹華木記碑』より)
この頃には確実に首里城が王城であった
 
1428 中山門(国門)創建 正長の土一揆(1428)
1429 尚巴志が南山を滅ぼし、琉球統一
(第一尚氏)
義教、進貢貿易を再開(1432)
1439 尚巴志死去
1440 護佐丸、中城城に移る 明との進貢貿易をめぐって大内氏と細川氏が対立しはじめる
1441 島津忠国、足利義教から琉球を賜る(侵略を正当化させるために薩摩が後世に作った話)
1453 志魯・布里の乱で首里城炎上
1454 大世通宝を鋳造
1458 中城城主護佐丸滅ぶ
勝連城主阿麻和利滅ぶ
万国津梁鐘鋳造、首里城正殿に掛ける
 
1461 世高通宝を鋳造  
1466 喜界島を征討 雪舟、進貢船で明へ(1467)
応仁の乱始まる(1467)
1469 琉球館、福州に移転
1470 金丸(尚円)、クーデターにより王に即位
(第二尚氏)

金円世宝を鋳造
 
1472 明への進貢、2年1貢制となる(それまでは特にきまりが無く、1年に2・3回行くこともあった)  
1474 宮古の仲宗根豊見親、宮古を統一し中山に入貢
1476 尚円王死去  
1477 尚真王即位(琉球王国最盛期の王)
首里城歓会門、久慶門創建
応仁の乱終わる(1477)
1478 武器を王府に収めさせる(刀狩り)  
1480 室町幕府、薩摩を介して来貢を促す
薩摩を介して幕府が琉球船を勧入
山城の国一気(1485)
加賀の一向一揆(1488)
戦国時代始まる(1491)
コロンブス新大陸発見(1492)
1481 薩摩へ初めて綾船を遣わす
1492 円覚寺創建
1500 八重山のオヤケ・アカハチを征討
(八重山の慶来慶田城との勢力争い)
 
 14世紀末から三山の王がそれぞれ明に進貢していたが、そのことが琉球内の勢力争いに拍車をかけ、統一を早める結果になった。南山の佐敷按司から身を起こした尚巴志が中山王武寧を滅ぼし、続いて北山、南山を滅ぼして琉球統一を果たす。(これを第一尚氏王統という)

 しかし、まだ各地に有力な按司がいてその王権も不安定なものだった。尚巴志の死後、王位継承の争いである志魯・布里の乱、有力按司の護佐丸阿麻和利の乱と続くが、その後有力按司に推された金丸が、クーデターによって王位に就くという事件で混乱に終止符を打つ。(これ以後を第二尚氏王統という)

 金丸は、即位後「尚円」と名乗り明の冊封を受ける。彼の死後、王位継承をめぐり一悶着あるが、息子の「尚真」が即位してからは王権も安定して最盛期を迎える。ここら辺の出来事は、尚円の妻で尚真の母である「オギヤカ」の存在が大きいといわれている。

 明への進貢貿易が始まった14世紀末から、東南アジアにほぼ毎年出かけていた16世紀中頃までが琉球王国の全盛期と言えるでしょう。

 しかし、応仁の乱の前後から日本海域の治安が悪化したことから、琉球船は朝鮮や堺に直接行くことを止め、それに伴って日本海商(中国商人含む)が盛んに琉球にやってくるようになる。以後、朝鮮や日本との交易は日本海商(中国商人含む)を仲立ちとしたものとなる。しまいには、琉球使節を偽装した日本海商が朝鮮に現れたりして、治安ははなはだ悪くなる。また、16世紀になるとポルトガル船も東南アジアに姿を見せ始め、後半には東南アジアへも直接行くことを止めてしまい、以後日本海商(中国商人含む)は直接東南アジアに向かうようになる。

 ただ、正式な国交による進貢貿易と私貿易(密貿易)では品物の質・量が違うため、日本へ来航しなくなった琉球への領土的侵略の意識が薩摩(日本)の中に芽生えていく。まず薩摩は、博多商人の琉球行きを妨害し、「琉球→薩摩→堺」の交易ルートを作って琉球貿易の独占を図りはじめ、次第に領土的野心をむき出しにしはじめる。

 16世紀  (全盛期〜衰退へ)

16世紀 1501 玉陵を築造
仲宗根豊見親宮古頭職となる
朝鮮に使いを遣わす
これを最後に朝鮮との直接的な国交は途絶える
以後は博多・対馬の商人を介した間接的な交流
 
1502 弁財天堂創建、朝鮮からの方冊蔵経を納める  
1506 明への進貢、1年1貢制となる
久米島具志川按司を征討
 
1508 首里城北殿創建(政務の中枢、冊封使の歓待) 三浦の乱(1510)
朝鮮と国交断絶
1516 三宅国秀、室町幕府の許可を得て琉球征服を計るが、薩摩がこれを阻止する(これも薩摩の作り話で、翌年恩着せがましい書状を琉球に送っている) ポルトガル人、広東に来航
1519 園比屋武御嶽石門、弁が嶽の石門創建  
1522 明への進貢、2年1貢制となる
鬼虎の乱(与那国島)を平定
マゼラン一行世界一周成功
1523 瑞泉門の龍樋、明より渡来 寧波の乱(1523)
進貢貿易の中断
1526 各間切の按司を首里城下に集住させる  
1529 守礼門(首里門)創建  
1531 『おもろさうし』巻1編集  
1537 大島を征討(薩摩が触手を伸ばしていたのでは?) 進貢貿易の再開(1538)
1543 首里城東南の城壁を拡張、継世門建造(〜1546)
(明らかに外国の脅威を感じている)
種子島に鉄砲伝来(1543)
明、日本の進貢を拒否(1547)
キリスト教伝来(1549)
1554 那覇の港に屋良座森城三重城(砲台)を築造
(琉球に来航する船の性質が変わってきている)
1556 倭寇を撃退する ポルトガル、マカオを占領(1557)
この頃、琉球三味線日本へ伝来
1559 日本商人の刀を、琉球滞在中は預かって帰国時に返却する方針を薩摩へ伝え、理解と協力を求める
(それまでに一体何があったのだろう?)
1570 東南アジア諸国との交易を断つ  
1571 大島を征討(薩摩に対する琉球の主張では?) 室町幕府滅亡(1573)
長篠の戦い(1575)
信長、安土城完成(1576)
秀吉、姫路城を築く(1577)
1574 この頃から薩摩が威圧的態度をとるようになる
1577 大友氏、琉球に遣使
1579 守礼門(首里門)に「守礼之邦」の扁額を掲げる
(これも薩摩の脅威に対する自衛の一つでは?)
 
1582 豊臣秀吉、琉球を亀井茲矩に与える
(琉球守と書いた扇を与える、実質は伴わない)
本能寺の変(1582)
1588 秀吉、薩摩に命じて琉球を招諭す 秀吉、大阪城を築く(1583)
秀吉、関白となる(1585)
秀吉、太政大臣となる(1586)
秀吉、倭寇禁止と刀狩り(1588)
秀吉、全国統一(1590)
1589 秀吉、琉球に使者を派遣
秀吉に使者を派遣
1591 秀吉が朝鮮征伐の食料供出を琉球に命ず(と、薩摩が通達)  
1592 秀吉が琉球の兵賦を督促(と、薩摩が通達)
亀井茲矩、琉球征服を計る(これも薩摩の作り話で、食料供出に応じない琉球に対する脅し)
秀吉、朝鮮侵略(1592)
1593 食料を薩摩に送る(軍事的脅威を感じている)
薩摩、続いて輸送せよと命ず(追い打ちをかける)
秀吉、台湾に入貢を促す(1593)
1594 薩摩の命令に対し、琉球の窮状を訴え、これ以上の食料供出拒否の意向を伝える(かすかな抵抗) オランダ、ジャワに来航(1595)
秀吉、朝鮮侵略(1597)
秀吉死去(1598)
関ヶ原の戦い(1600)
イギリス東インド会社設立(1600)
1597 宮古島に中国より甘藷伝来
 16世紀は、琉球にとってもかなり激動の時代だった。北からは日本(秀吉、薩摩)、南からはポルトガルなどの驚異を感じながら、南海の小国がどのように生きていくか、かなり厳しい選択をしなければいけない時代だったと思う。年表を作成していて、薩摩との外交上の”生々しい攻防”が感じられた。

 一般的には、「ポルトガルや倭寇の驚異に対して海防を強化した」という認識で語られている。しかし当時の琉球が、ポルトガルに自国を侵されるという驚異を感じていただろうか?あるいは、倭寇(私貿易船)が自国の主権を侵す存在だと感じていただろうか? ましてや、が進貢・冊封という関係以上のことを琉球に要求して主権を侵すことはまず考えられない。

 当時の琉球は、薩摩(帯刀した日本商人も含めて)に、主権を侵される危険性を割と早い時期から感じていたのだと思う。薩摩侵攻前夜の二度にわたる大島征討は、奄美大島の按司が反乱を起こしたというわけではなく、触手を伸ばしていた薩摩に対する軍事的主張(国境問題)であったと見ることができる。

 そのことは、後に奄美大島に薩摩が侵攻した際、大島島民は激しく抵抗しており、征服した後に薩摩は、奄美における「琉球的なるもの」(=資料)を収奪して全て処分していることからも伺える。その後、琉球や奄美における歴史認識は、薩摩の都合の良いように徹底的に歪曲され現在に至る。その後270年間のあまりに長い植民地支配が、沖縄・奄美・鹿児島の歴史研究の障害になっていることは否めない。

 また、守礼門に「守礼の邦」の扁額を掲げたことも、薩摩の軍事的脅威に対する自衛的主張を表しているのではないか? そして、琉球が感じ始めていた主権を侵される脅威は、世紀末には確信に変わり、次の世紀にそれは現実のものとなる。

 17世紀  (植民地支配の始まり)

17世紀 1603 袋中上人、明に入国を拒否されて琉球に3年間滞在し浄土宗を伝える。その時伝えた念仏踊りが、現在のエイサーの起源だと考えられている。 オランダ東インド会社設立(1602)
江戸幕府開く(1603)
1604 薩摩、琉球王を問責する フランス東インド会社設立(1604)
1605 野国総官、中国より甘藷を移入
儀間真常、甘藷伝播栽培法を研究
朝鮮との国交再開(1605)
1606 薩摩、琉球征服を幕府に請い許される 江戸城増築工事始まる(1606)
1608 薩摩、琉球を招諭するが、琉球はこれを拒否  
1609 薩摩軍、琉球に侵攻
以後、薩摩の琉球支配始まる
尚寧王、薩摩へ連行される(江戸へ)
平戸にオランダ商館を設置(1609)
家康、名古屋城を築く(1610)
1611 薩摩、「掟十五条」を出す
大島諸島、薩摩に分轄
尚寧王、帰国(薩摩への屈辱的な誓約書に署名)
謝名親方は薩摩で斬首(誓約書への署名を拒否)
幕府、キリスト教を禁止(1611)
この頃、東南アジアに日本人町ができる
1612 明への進貢、10年1貢制となる
薩摩に琉球館が置かれる
琉球人の日本化するのを薩摩が禁止
 
1613 薩摩に年頭使者を派遣(以後、毎年恒例となる)  
1614 イギリス船来航 大阪冬の陣(1614)
大阪夏の陣(1615)
ヌルハチ、清を建国(1616)
オランダ、ジャワに進出(1619)
山田長政、シャムで活躍(1620)
1619 冠をして八つの身分に分ける
宮古の各村に在番を置く
1620 尚寧王死去。遺命により玉陵(王墓)に葬らず
1621 尚豊王位に就く(以後、王の即位に薩摩の承認を得ることが慣例となる)  
1622 南蛮船八重山に来航、キリスト教を布教する
明への進貢、5年1貢制となる
 
1624 薩摩が苗字衣服の日本風を禁止
薩摩、琉球に大和横目を置いて監視
オランダ、台湾に城を築く
1626 薩摩、将軍及び天皇に琉球楽童子に楽を奉せしむ 二条城完成
1628 首里城南殿創建(薩摩の役人用) 長崎のキリスト教徒処刑
1629 宮古の在番役人常駐制になる シャムで山田長政毒殺(1630)
1630 八重山でキリシタン罪で火あぶりの刑
1631 薩摩、琉球に在番奉行を置く
1332 八重山に在番奉行を置く  
1633 明への進貢、2年1貢制となる 参勤交代制定(1635)
1634 薩摩の命により平田宗次の弟を処刑
1636 薩摩、中山王号をやめさせて国司と呼ばせる
(薩摩が支配者意識をむき出しにし、翌年の先島への人頭税導入など、過酷な植民地経営を始める)
1637 先島の島民に人頭税を課す 島原の乱
1639 南蛮船八重山に漂着、幼女1人を連れ去る 鎖国令
1640 南蛮船八重山に漂着 長崎に出島を置く(1641)
明滅亡、清の統一(1644)
1646 砂糖・ウコンを初めて薩摩へ送る
1647 三司官の隔年薩摩滞在を免除  
1649 茶道職を置く(大和的教養)  
1650 羽地朝秀、『中山世鑑』編集  
1652 羽地朝秀、羽地間切総地頭になる  
1654 農村から町方(首里・那覇・泊・久米)への移住を禁止  
1658 羽地朝秀、薩摩に3年間滞在する  
1660 首里城正殿炎上  
1661 羽地朝秀、薩摩へ正殿復興の援助陳情に行く  
1662 砂糖奉行を置く  
1664 守礼之邦の扁額を常掲する  
1665 北山監守、首里に引き上げる  
1666 羽地朝秀、摂政となる
(薩摩の掟十五条を強化する改革を断行)
薩摩への貢祖の3分の1が砂糖代納になる
 
1667 聞得大君を王妃の次の位とする
大和芸能を奨励
 
1669 年2回(春・秋)各地に巡察使を送る  
1670 士族に系図の提出を命ずる(身分制の強化)  
1672 辻・仲島に遊郭を設ける(身売りによる私娼が増えたため、一般女性への影響を避けるため)  
1673 『羽地仕置』できる  
1675 羽地朝秀、死去  
1687 宮古に漂着した南蛮人を薩摩〜長崎へ転送 生類憐れみの令
1688 薩摩、京都に琉球唐物問屋を設置
(貿易品や、砂糖・泡盛などを高額で売りさばく)
 
 1609年から1879年まで、これまで琉球の人々が経験したことのない植民地支配の時代がやってくる。現在でも、鹿児島の歴史や特産品の紹介の際、薩摩の過酷な支配や琉球からの文化伝来を無視した論調の記述が見られることは残念である。明らかに琉球は薩摩の厳しい植民地支配のもと、過酷な税を取り立てられて疲弊していく。しかし、逆に文化的には薩摩を支配し、様々な文化が琉球から薩摩へと伝わっていく。

 ちなみに薩摩側の資料(島津家文書など)はもちろんのこと、これ以後の琉球側の資料も薩摩の検閲を受けることになるので、薩摩に都合の悪いものはない。逆に羽地朝秀の『中山世鑑』のように、古琉球を”否定”し薩摩の”善政”を賛美するような記述も生まれてくる。そうやっていつの間にか、最も大切な”誇り”も失っていくことになる。(直轄地となった奄美諸島においては、琉球的な資料は全て薩摩が没収し処分したというから、いかに薩摩が支配する上で不利な資料だったかが伺える)

 明への進貢貿易もそのまま継続されたが、それまで自国に入っていた貿易の利益は薩摩の利益になった。その後270年間も、「薩摩の利益のため」に「自国の利益にならない貿易」を「王国存続のため」だけに続けることになる。貿易の利益は薩摩を潤し、冊封使歓待の費用は薩摩による貸し付け.....ん?何かおかしい...。
そうです!これが植民地というものなのですね。(そうやって経済的”依存体質”ができあがっていく)

 琉球側も、当初明からの貿易品をわざと粗悪なものにしたり、ごまかしたりして小さな抵抗をしたりしていたらしいが、薩摩の知るところとなりむなしい抵抗に終わる。貿易による利益が従来のように国庫に入ってこないうえに、薩摩への上納が義務づけられた状況下で税制も薩摩に決定権があり、おのずと民衆への負担も重くなる。人頭税が導入された離島においてそれは更に過酷さを増すことになる。
(1611年に薩摩が琉球に出した「掟十五条」を参照)

 270年間、利益の搾取を目的とした植民地支配を受けたらその国の経済はどうなるだろうか?その国の人はどうなるだろうか?アフリカやアジアの旧植民地地域については客観的に見られる人も、このことを直視する人は少ない。むしろ、タブー視する向きが多い。沖縄の人も、先人が過去に受けてきた”差別や偏見”と”教育”のおかげでこれに真正面から向き合おうとしない。

 歴史認識を歪曲して薩摩の侵略を正当化(支配を受けるのは歴史の必然だったとか、王府は以前に奄美・先島を侵略したとかいうとんでもない論理)したり、現在の文化的伝統を独自のものと主張せずに、史実を認めるだけでいいんです。「過酷な植民地支配を行った」「○○○は琉球より伝わった」と......。それが良いとか悪いとかいう話ではなく、そのことが正しい歴史認識と先人が残してくれた琉球文化に対する尊重につながるのではないでしょうか。

 18世紀  (長い植民地支配〜社会の変化)

18世紀 1701 蔡鐸、『中山世譜』編集  
1702 島津氏、琉球地図を幕府に献納  
1704 甘藷、琉球から薩摩へ渡る
南蛮人漂着を薩摩に通達
 
1708 程順則、『六諭衍義』を中国で自費印刷して持ち帰る  
1709 首里城正殿、南殿、北殿、火事で焼失  
1713 『琉球国由来記』編集  
1718 士族女子の遊女禁止 植民地支配による社会の変化と士族の疲弊を表す顕著な出来事。貧士は首里を離れ、地方の農村に開拓移住した。こうして出来た集落を、屋取(やーどぅい)集落と言う。  
1725 蔡温、『中山世譜』改修
制服を改定
貧士の転職を許す
 
1728 蔡温、三司官となる  
1729 先島役人に家譜編集を命ずる  
1730 貧士の転職を奨励する  
1731 『琉球国旧記』編集  
1732 蔡温、『御教条』を発布  
1733 首里、久米、那覇、泊などの職人の税を免除
模合法を設け、士族を相互扶助させる
識名園創建
 
1734 平識屋朝敏ら、16人処刑  
1735 各間切に検者を派遣  
1737 身分による屋敷・建物の制限令出る(〜1889)
(那覇は開港場のため制限無し)
青木昆陽、甘藷を広める(1744)
1748 『宮古島旧記』編集
1755 唐手(空手)中国より伝わる  
1756 『琉球見聞録』『琉球国史略』を冊封副使の周煌が著す  
1759 『六諭衍義』を豊川親方英正が和訳する  
1761 蔡温、死去  
1771 明和の大津波(宮古・八重山で12,036人死亡)  
1777 薩摩に漆器の技術を伝える  
1791 怕(ハチマチ)の綏(エイ=紐)の区別を設ける  

 19世紀  (大国の荒波〜琉球王国滅亡・沖縄県の誕生)

19世紀 1816 イギリス人バジル・ホール来琉
イギリス艦40日間滞在する
イギリス、シンガポール占領(1819)
1821 オランダ船2度漂着
1822 オランダ船漂着  
1827 イギリス船来航  
1831 イギリス船来航  
1832 イギリス船来航  
1837 イギリス船2隻来航  
1840 イギリス船3隻来航 アヘン戦争
1843 八重山・宮古にオランダ船来航  
1844 フランス船・イギリス船来航  
1845 イギリス船・フランス船来航
与那国島に外国船来航
 
1846 フランス艦3隻来航
イギリス船来航、ベッテルハイム滞在する
 
1847 フランス艦3隻、汽船1隻来航
薩摩藩、守衛のため兵100余人を派遣
外国船しきりに来航
 
1848 フランス船・イギリス船来航
外国船各地に来航
 
1849 イギリス船来航
アメリカ船久米島に来航
 
1850 イギリス船来航  
1851 中浜万次郎、アメリカ船で来航
ルーマニア船来航(?)
外国船具志頭沖に来航
外国船八重山に来航
  
1852 中浜万次郎、薩摩へ送還
ベッテルハイム、琉球語研究を始める
外国船具志頭沖に来航
イギリス船、八重山に漂着。清人380人を置き去り、砲撃する。生存者172人、翌年清に送還する
 
1853 ペリー来航(5月)、沖縄島・西表島を調査
外国船宮古・八重山に漂着
ペリー江戸へ(12月)
ペリー浦賀に来航
1854 ペリー再度来航
ベッテルハイム帰国
琉米修好通商条約
日米和親条約
英・露とも和親条約
1855 フランス艦来航、琉仏修好通商条約
外国船漂着
仏・蘭とも和親条約
1856 アメリカ捕鯨船来航  
1857 フランス艦2隻来航
オランダ船多良間島沖で難破。27人救助
 
1858 フランス船来航 日米修好通商条約
蘭・露・英・仏とも修好通商条約
1859 アメリカ船2度来航
オランダ船来航、琉蘭修好通商条約
桜田門外の変(1860)
生麦事件(1862)
薩英戦争(1863)
英・米・仏・蘭艦隊下関砲撃(1864)
大政奉還(1867)
王政復古(1868)
版籍奉還(1869)
1862 薩摩で琉球通宝鋳造(琉球では使用されず)
薩摩から牧志朝忠に出頭命令。渡航途中、伊平屋島沖で投身自殺
1869 島津久光、鹿児島県知事となり、薩摩・大隅・日向・琉球を管理することになる
1871 宮古島民、台湾に漂着し54人殺害される 廃藩置県
1872 琉球藩となる(国王尚泰は藩王)
琉球藩、外務省管轄となる
東京〜横浜間鉄道開通
1873 ドイツ船宮古で座礁、救助する  
1874 琉球藩、内務省管轄となる
最後の中国への進貢
琉球人殺害を理由に台湾出兵
1875 福州琉球館廃止。最後の帰唐船入港
日本軍分遣隊来琉
 
1876 日本が琉球と清の国交断絶を交付
藩王、使いを遣わし歎願する
渡清を禁じられて進貢船欠航
幸地親方、密書を持って清国に出航する
日朝修好通商条約(1876)
西南の役(1877)
大久保利通暗殺(1878)
1878 日清間で、琉球を分割する案が出る
英・米公使へ分割問題の仲裁を依頼
1879 廃藩置県令下る、尚泰王退位(3/11)
松田道之、琉球処分官として来琉
(随員32人、警官160人、軍隊400人)(3/25)
琉球藩を廃し、沖縄県となる(3/27)
首里城明け渡し(3/31)
尚泰、東京へ(5/27)、東京在住命令下る
鹿児島琉球館を廃止
清、琉球の分割案を提出(1879)
(アメリカ大統領案)
日本、分島増約案を提案(1880)
1884 大東島を調査し、沖縄県管轄とする 日清戦争(1894)
下関講和会議(1895)
1899 初のハワイ移民団出発

 20世紀  (戦争の時代〜アメリカ統治〜復帰)

20世紀 1901 大東島に本土より移住始まる 日英同盟(1902)
日露戦争(1904)
ポーツマス講和会議(1905)
韓国総督府設置(1905)
アメリカで排日運動(1906)
韓国併合(1910)
清国滅亡(1912)
アメリカで排日移民法(1913)
第一次世界大戦(1914〜18)
中国へ21ヵ条の要求(1915)
シベリア出兵(1918)
国際連盟成立(1920)
関東大震災(1923)
満州事変(1931)
満州国建国(1932)
日中戦争始まる(1937)太平洋戦争始まる(1941)
マニラ占領(1942)
シンガポール占領(1942)
ミッドウェー海戦(1942)
ガダルカナル戦敗退(1943)
1903 ハワイ移民団出発
1904 マニラ・メキシコ移民団出発
1905 ニューカレドニア移民団出発
1910 初めてマングースを県内に放つ
1922 鉄道開通(嘉手納線)
唐手(空手)を本土で盛んに普及する
1933 那覇〜首里間の路面電車廃止
1942 民間人の竹槍訓練始まる
1943 防空演習各地で盛んに行われる
1944 県庁役人家族、本土へ引き上げ始める
学童疎開、台湾・九州へ
学童疎開船対馬丸、魚雷を受け沈没
沖縄全域に空襲、那覇市90%全焼
サイパン陥落
ビルマ、雲南軍全滅
台湾沖航空戦敗退
本土空襲
1945    硫黄島陥落(2月)
3/23 大空襲
3/25 慶良間上陸
3/31 那覇沖の神山島(チービシ)上陸
4/ 1  嘉手納上陸
4/ 2  嘉手納飛行場占領、宜野湾へ進出
4/ 5  沖縄島を南北に分断、北部に軍政府を置く
4/ 6  嘉手納・宜野湾で激戦
4/ 8  首里城下の司令部に艦砲射撃始まる
4/ 9  本部半島に上陸、津堅島占領
4/11 那覇北方の日本軍陣地に米軍殺到
4/13 米軍政府、読谷村に設置
4/16 伊江島上陸
4/22 浦添占領
4/26 米軍前線突破
4/27 日本軍首里方面の米軍を総攻撃
5/17 石嶺占領
5/21 首里要塞占領
5/24 日本軍飛行場を逆襲
5/28 首里城下の司令部、南部へ撤退、首里占領
5/31 那覇突入
6/ 6  那覇飛行場占領
     太田少将、「沖縄県民かく戦へり。県民に対
     し後世特別のご高配を賜らんことを」の電報
     を打つ
6/11 米軍バクナー中将、降伏勧告
    牛島司令官、これを拒否
6/12 阿南陸相より知事宛に激励の電報
6/13 太田少将戦死
6/18 米軍バクナー中将戦死、知事戦死
6/21 米軍ヨセフ司令官任命
    牛島司令官、陸相宛に決別の電報を打つ
6/23 牛島司令官、最後の一人まで戦えと指示し
    て摩文仁で自決、組織的戦闘終結

6/24 米軍掃討戦を開始
7/ 2  米軍沖縄戦の終了を宣言
    
この間、各地でゲリラ戦が行われる 広島に原子爆弾(8/6)
ソ連、対日宣戦(8/8)
長崎に原子爆弾(8/9)
無条件降伏(8/15)
9/2  日本軍の残存部隊と米軍間で降伏調印式
    沖縄戦完全終結
 
         中華人民共和国成立(1949)
朝鮮戦争(1950)
警察予備隊(1950)
サンフランシスコ平和条約(1951)
日米安全保障条約(1951)
1953 奄美諸島本土復帰 自衛隊(1954)
ベトナム戦争(1965)
小笠原諸島本土復帰(1968)
1967 イリオモテヤマネコ発見
1970 コザ暴動   
1972 沖縄諸島本土復帰、再び沖縄県となる   

 21世紀

貴重な自然や文化遺産を失うことなく、戦争などのない平和な世の中にしたいですね!


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