Gusuku Sites and Related Properties of the Kingdom of Ryukyu
琉球王国のグスク及び関連遺産群

勝連城

首里王府にとっては反逆者、地域民衆にとっては英雄として伝わる阿麻和利(あまわり)の居城


 概要

 勝連城は、南城(ヘーグシク)、中間の内北城(ニシグシク)と呼ばれる三つのエリアから成る、二つの台地とその間の平地を取り囲んで築かれた大規模な城である。中間の内と南城は、城壁が根石を残すのみでほとんど残っていないので、一般には高くそびえる北城だけが勝連城だと思われているが、実際はかなり大きな城だ。

 はっきりした築城年代は不明だが、発掘調査によって宋代の磁器が出土していることから、13世紀末〜14世紀初めに築城されたものと考えられている。全盛期は14世紀末〜15世紀前半で、それを裏付ける元末〜明の青花や青磁などが出土しており、これらは良質で高級な品が多く、中には世界的に見ても数の少ない貴重な物も含まれていて、首里王府に匹敵するかなり強い勢力だったことが伺える。また、その繁栄ぶりを鎌倉に喩えた詩が残っていることから、日本商人との繋がりも強かったことが予想されている。

 15世紀前半、最後の城主阿麻和利は、その人望から民衆に推されてクーデターを起こし、勝連城10代目の城主になったと伝えられている。そして、1458年に策略を使って首里王府を動かし、忠臣の誉れ高い中城城の護佐丸を滅ぼした後、首里城を攻める計画を立てていたところを首里王府に知られて攻め滅ばされた。

 とされているが、実際は「統一間もない首里王府の権力は完全ではなく、各地に有力な按司(豪族)がそれぞれ勢力を持っており、護佐丸や阿麻和利はその中でも最も力のある勢力だった。そして首里王府の策略によってその2大勢力が滅ぼされた」というのが真相らしい。あるいは、「護佐丸と阿麻和利は、奄美地方における影響力を競っていたのではないか」とも考えられている。

 発掘調査の成果から、一の郭以外からは15世紀後半〜16世紀の陶磁器も出土しており、阿麻和利が滅んだ1458年以降も、1526年に尚真王が行った各按司の首里集居までは使われていたことがわかっている。

勝連城平面図

 大正から昭和初期にかけての軍国主義の時代に、道路工事や護岸工事などにこの城の石垣が利用され、中間の内と南城の城壁は根石を残すのみで往事の面影はない。(日本軍は、米軍の上陸がこの近くの海から行われると想定して大規模な防塁を築いており、今も海岸線にその一部が残っている) また、これ以前まではアーチ式石門も残っていたらしい。

 現在、発掘調査や復元作業が進められており、今後が楽しみな遺跡である。「戦争」という不幸な時代に失われた地域の文化や誇りを取り戻す上でも重要な意味を持つ。
-------------------------------------------------------------------------------------
※書物などでは南城と中間の内をひっくるめて四の郭と扱っているが、南城と中間の内の境はかなりの高低差があり、民間伝承上の呼び名が明らかに違う領域ととらえていることからしても分けて考えるべきだと考え、五の郭と記入してあります。また、この地図では南城の郭の範囲は書かれていません。発掘調査の成果に期待したいと思います。

 城門

勝連城城門1勝連城城門2
三の郭の城門(内側から見ると低いが外側は絶壁)

勝連城城門3勝連城城門4
一の郭の城門(直角に曲がる構造で、進入しにくい)

勝連城城門5
(同上、外側のようす)

 城壁

写真が多いので2ヶ所に分けました。城壁の写真はこちら 

 拝所

勝連城拝所1勝連城拝所2
二の郭にある拝所

勝連城霊石1勝連城霊石2
一の郭にある霊石(抜け穴のよう?)

 遺構

勝連城殿舎跡
殿舎跡(二の郭)

勝連城遺構1勝連城遺構2
殿舎跡内の遺構(二の郭)        すり鉢状遺構(三の郭)

勝連城遺構3勝連城遺構4
  発掘中の城壁(五の郭)       僅かに残った城壁(五の郭)

勝連城遺構5勝連城遺構6
南城にはこのような遺構がたくさんある(五の郭)

TOP↑


   

Copyright © 2001-2005 Bali & Okinawa チャンプルー All Rights Reserved.