仮説・琉球統一の過程

尚巴志による琉球の統一過程について、私なりに検証してみました。
これはおかしいぞ〜!というのがあれば、ぜひメールでご指摘下さい!
(赤色の文字は記録や伝承、紺色の文字がそれに対する仮説です)


 14世紀の山南(南山)

玉城城の玉城按司が次男を大城城へ、三男を糸数城へ配置した。

 この頃の山南は、「南山城(山南王の居城、島尻大里城とも言う)とともに玉城城の勢いが強かった」と単純に捉えるか、あるいは「この頃からすでに大里城(山南王の弟汪英紫の居城、島添大里城とも言う)の勢いが強くなっていたため、南山城の”ディフェンスライン”として大城城糸数城を築城した」と捉えるか?
 地理的に見ても、玉城城〜糸数城〜大城城のラインは、大里・佐敷方面の東部勢力に対する”ディフェンスライン”と捉えることができる。
大城城大里城(汪英紫)に滅ぼされた。
佐敷城(尚巴志)がその敵を討ち大里城(汪英紫)を滅ぼした。
 しかしその後、汪英紫の子である汪応祖が山南王になっているのはおかしい。また、それ以前に汪応祖は、山南王子の居住する豊見城城の城主だったという伝承もある。佐敷城の尚巴志は、大里城を滅ぼした後に大里城に入り、そこで力を蓄えて1406年に中山王武寧を滅ぼしたことになっているが、何かしっくり来ない......。

 私の考えは、中山・北山・南山と滅ぼして琉球統一を成し遂げた尚思紹・尚巴志父子は、その前段階、山南王位を奪い取った汪英紫・汪応祖父子と協力関係にあったとする見方である。そこで、以下に明への遣使と明や朝鮮の記録から、琉球統一のシナリオを仮定してみた。

 14世紀後半〜15世紀前半(琉球の統一過程)

年代 遣使した王(王叔) 記録上の出来事と仮説
山北 中山 山南
1372   察度   中山王「察度」が初めて明へ進貢する。『明実録』
1373        
1374   察度    
1375        
1376   察度    
1377   察度    
1378   察度    
1379        
1380   察度 承察度 山南王「承察度」が初めて明へ進貢する。『明実録』
1381        
1382   察度    
1383 怕尼芝 察度 承察度 山北王「怕尼芝」が初めて明へ進貢する。『明実録』
1384 怕尼芝 察度 承察度  
察度  
1385        
1386   察度    
1387   察度 承察度  
1388 怕尼芝
怕尼芝
察度
察度
(汪英紫) 山南王叔「汪英紫」が初めて明へ進貢する。『明実録』
汪英紫は、大里城を本拠とする按司で、承察度の叔父にあたる人物。この頃までには後背地の佐敷城とは同盟を結び、前面の大城城を滅ぼし、糸数城・玉城城なども支配下において山南王の住む南山城を脅かす存在になり、王とは別に独自に進貢するまでになっていた。
1389        
1390 怕尼芝 察度    
1391   察度 (汪英紫) これ以後、山南王「承察度」と山南王叔「汪英紫」が交互に進貢していることから、両者の間に何らかの協約が存在していたと思われる。両者の力は均衡していた。
1392   察度
察度
承察度  
1393   察度
察度
(汪英紫) 尚巴志、佐敷按司となる。
1394   察度 承察度 中山王「察度」が、朝鮮滞在中の山南王子「承察度」の引き渡しを求める。『李朝実録』
承察度は山南王なので、これは承察度本人ではなく、単純に承察度の息子(王子)と捉える。王子を外国へ派遣するということは、外交上相手を尊重する方法としては一般的なことだ。ただ、仮に亡命だったとしてもなぜ中山王「察度」が山南王子の引き渡しを求めたのか?これは謎だ。
1395 a 察度
察度
(汪英紫)  
1396 攀安知
攀安知
武寧
武寧
承察度
(汪英紫)
この年、承察度と汪英紫の進貢が重なっている。汪英紫が交互に進貢するという協約を破ったのでは?
1397 攀安知 武寧
武寧
(汪英紫) 島添大里城の汪英紫・汪応祖父子が、後背地にある佐敷城の尚思紹・尚巴志父子と同盟を結び山南王承察度を攻めた。この後、汪英紫は南山城(南山王の城)へ、汪応祖は豊見城城(南山王子の城)へ、尚巴志は大里城(南山王叔の城)へ移った。
一般に言われている「尚巴志は大里城を攻め滅ぼして大城城の敵を討った」のではない。その後の山南王が汪応祖となって、繁栄していることからしてもそうは考えられない。むしろ、汪英紫・汪応祖父子と尚思紹・尚巴志父子は同盟関係にあったと見る。
この時、承察度は朝鮮へ亡命した。
1398 攀安知 武寧
武寧
武寧
  山南王「温沙道」が中山王に逐われ、朝鮮に亡命してこの地で客死する。『李朝実録』
温沙道とは、戦いに敗れて亡命した承察度のこと。
1399       この間の進貢記録がないのは明側の政変による混乱のためらしい。
1400      
1401      
1402      
1403 攀安知 武寧
武寧
汪応祖 この年から汪英紫の子である汪応祖の進貢が始まって、山南も安定期をむかえる。
1404 攀安知 武寧 汪応祖 山南王従弟「汪応祖」が、山南王「承察度」の死去を伝える。『明実録』
汪応祖は汪英紫の子で、承察度とは”従兄弟(いとこ)”にあたることから、『明実録』のこの記録はそのまま読める。
1405 攀安知 武寧 汪応祖
汪応祖
汪応祖
この後、しばらく山北の進貢が途絶えるのはなぜか?
1406   尚思紹 汪応祖 中山王武寧、尚巴志によって滅ぼされる。
尚思紹、中山王に即位。

尚巴志は南山王「汪応祖」とは同盟関係を維持しながら、中山を攻め滅ぼす。そして、浦添城に入って父尚思紹を中山王とする。
1407   尚思紹 汪応祖  
1408   尚思紹 汪応祖  
1409   尚思紹 汪応祖  
1410   尚思紹 汪応祖  
1411   尚思紹    
1412   尚思紹 汪応祖  
1413   尚思紹 汪応祖
汪応祖
 
1414        
1415 攀安知 尚思紹 多魯毎  
1416 尚思紹 多魯毎 山北王「攀安知」、尚巴志によって滅ぼされる。
中山王となった尚思紹と尚巴志の父子は、山南王との同盟関係は維持しながら山北攻略に向かう。
今帰仁城には、山田城の護佐丸を配置する。
1417 尚思紹 多魯毎 この後、しばらく山南の進貢が途絶えるのはなぜだろうか?
1418 尚思紹    
1419 尚思紹
尚思紹
尚思紹
   
1420      
1421      
1422 尚巴志
尚巴志
  尚巴志、王位に就く。
北山監守に尚忠(王子)を派遣する。
護佐丸は新たに築城した座喜味城に入る。

尚巴志は、護佐丸をよっぽど信頼していたか、その力に警戒心を強めていったのか。いずれにしても、護佐丸がかなり力を持っていたことがわかる。
1423 尚巴志   尚巴志が王位に就いてから中山と山南は交互に進貢している。両者の間に何らかの協約が結ばれたことが考えられる。また、山南はしばらく途絶えていた進貢を再開することになる。
1424   多魯毎
多魯毎
明使、詔勅をもって来琉。
1425     冊封使「柴山」、来琉。
1426 尚巴志
尚巴志
   
1427   多魯毎
多魯毎
柴山、再び来琉。
1428 尚巴志   柴山、三度目の来琉。
1429 尚巴志
尚巴志
多魯毎
多魯毎
南山王「多魯毎」、尚巴志によって滅ぼされ、琉球の統一成る。
尚巴志が滅ぼしたのか?あるいは元々同盟関係にあることから、多魯毎の死をもって山南王を廃したのか? ただこの年に、交互に進貢するという山南との協約を、尚巴志が破った可能性がある。
1430   柴山、四度目の来琉。明主、琉球の統一を賀す。
(柴山は、以後1433年まで毎年来琉し、計7回を数える)
※1405年以降の中山の遣使回数は若干異なるかもしれません。(増える可能性有り) この部分は私の手元に大雑把な感じの資料しかないので........。細かい資料を入手次第手直ししたいと思います。

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