オケラのくりごと  サラリーマン

  オケラは学校を出てから約二十五年間サラリーマン生活を送った。 ホワイトカラーの象徴は何と言ってもネクタイと相場が決まっているし、オケラもその当時はそう思っていた。 然し今になって振り返ると、ネクタイも然る事ながら、第一は時計ではなかったかと考える。 時計を見る時は無意識だが、出勤時に家を出てから電車に乗るまでに、間に合うかなと数度、乗ってから目的の駅に着くまでに時刻通りかどうかで数度、食事の前後に数度、人に会うのに数度、そろそろ帰ろうと数度、赤ちょうちんでもう帰ろうかどうしようかで悩みながら数度、終電に間に合うかどうかで数度、タクシーを待っている間にあァア又こんなに遅くなっちゃったと更に数度、といった具合。 極く希に腕時計を忘れることがあって、その日一日何度も腕を見てはその度に、ア、そうか、今日は時計を忘れたんだっけ、と思ったものだった。 見ても減らないから良いようなものの、もし減るものだったら一週間か十日位で腕が透けて見えるようになったことだろう。 こんな調子だから滅多なことでは腕時計は忘れなかったが、うどん屋になった或日、自分が腕時計と無縁になっていることに気付いて驚いた。 そして外出の度に腕時計を忘れるのに又驚いた。 今オケラは専ら店の壁の時計と茹で時間を計るタイマーの世話になっており、あんなにオケラの世話をしてきた腕時計は、掛時計に変身してトイレの壁で余生を送っている。 さて、うどん屋の象徴とは何だろう。 止めて暫くすると判ると思うのだが、早く知りたいものだ。
  オケラの店にも少ないながらサラリーマンが食事に来られるが、彼等は皆ピ・ピ・ピ・ピ・と鳴る器具を持たされていて、待った挙句に漸くうどんが出来て、サァ食べようと箸を持ち、唐辛子をたっぷりかけたところで呼び出されて長電話、丁度食べ頃に冷めたうどんを掻き込んでアタフタと勘定して出て行く。 オケラはこれを見て、あーァ、折角熱くて旨いうどんを作ったのに、と同情しながら残念がる。 これはサラリーマンが常に管理されている例と思われている。 然し待てよ。 オケラの時には勤務中に雲隠れするのがいたが、本人はさぼりながらも気にしていて、遠出はせず、時々会社に電話を入れ、何もないことを確認していた。 この場合、自分の知らない間に会社で何かが起きているのではなかろうか、という自律神経が働いていて、不安が基調になっている。 然し、今のピ・ピ・ピ・の場合は、これが鳴らない限り問題は起きていない訳で、外見とは裏腹に精神的には楽なのではなかろうか。 それが証拠に呼ばれない内はゆっくり漫画を見ているというお客様が結構多いように思うのだが、これもオケラの偏見だろうか。
  お客様の中に何の仕事か常に団体で来店されるサラリーマンのグループが何組かあって、この人達に提供するときには不断よりも幾らか余計に気を使う。 下の人に先に出すと、上役に気兼ねして中々箸を取らない。 まるで馴初めの頃のアベックと同じである。 それを見ているオケラは、冷めちゃうんじゃないか、伸びちゃうんじゃないかと気が気じゃない。 何回か見えると、誰が一番偉いか見当が付いて来るから、本意ではないが出来るだけその人を先にする。 然し、何時も偉い順に作れるとは限らないから、下の人が待っている場合は、オケラの方から、うどんは待たないで下さい、不味くなります、と声を掛けてやる。 これで、店から言われたんじゃァ仕方がないと下役は食べられるようになる。 これを何度か繰返すと、後は提供順に箸を取るようになる。 オケラにも覚えがあるが、何とも面倒な社会である。 この点現場作業員の方があっさりしている様だ。
  例えば出入りの八百屋がうどんを食べに来る。 帰りにはオケラが有り難うと言う。 翌朝八百屋に仕入れに行く。 釣銭を渡しながら八百屋が有り難うを言う。 ガス屋とも床屋ともスナックのマスターとも同じ関係である。 それまでオケラの住んでいた社会では、一度出来たお互いの上下関係は、社の内外を問わず生涯変わらなかった。 取引先との個人的関係も同様である。 仮に夫々に取引のある五つの会社から、退社後の夕方、十人づつ公園に集めたとしよう。 この五十人の集団に、偉い順に自ら並んで貰うとしたら、程なく一番金を払う会社の一番偉い人を先頭に、一番金を貰う会社の一番下っ端まで、会社の格や、役職、年齢、学歴、社歴、その他諸々を独自に勘案して一列に並ぶことだろう。 こんな風だから共に子連れで取引先の偉いサンに遊園地ででも出会おうものなら、それはもう完全な悲劇である。 相手のオ子サマの接待で自分のガキの面倒など到底見られず、折角サービスしようと思っていた肝心のガキに白い目で見られることになる。 所が八百屋とガス屋と床屋とマスターにうどん屋を加えて、さあ一列に並べと言っても、何時までもゴチャゴチャしていて収拾がつかない。 当初オケラはお客様である八百屋に敬語を使った。 オケラの経験ではこの関係は常に変わらない。 だから次に八百屋に買いに行った時、言葉を失ってしまった。 その都度上下関係がコロコロ変わるのが理解出来なかった。 まして老いも若きも原則として平等だなんて、オケラはこの年になって初めて知った。 オケラの常識の崩壊とそれまでの教育の瓦解である。 こうなってしまうと、もうサラリーマンに簡単には戻れそうにない。 うどん屋の象徴が何か判るとき、オケラは何をやっていることだろう。 そしてメケラの運命や如何ァにィ‥‥、デデンデンデーン。

−−−−−−−−−−1992.03記


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