平成10年3月1日作成 (令和6年6月9日追加)
そういえばそんな事もあった。その2
私が実際に見た事は (見)、人から聞いた話は (聞)
なお、内容や年代は記憶違いの場合もありますが御了承ください。
平成14年10月12日追加
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そういえばバラのトゲを鼻の頭につばでくっつけてよく遊んだなあ。(昭和? )(くっつけ)
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幼なじみのo君と「英語の上達は外人としゃべるに限る」と築港広潟の三井造船外人住宅街に
まんじゅう持参で出かけていったが、誰も出てきてくれず、まんじゅうを食べながら帰った。(中学生の頃)(行)
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玉にある三井グランドの横、今の百十四銀行の場所に「衆楽館」という映画館があった。(昭和20年代?)(聞)
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玉に太陽館という洋画専門の映画館があった。(旧須田外科向かい)(昭和50年代まで?)(見)
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玉に大映という映画館があった。(旧パチンコオメガ、現在は駐車場)(昭和40年代まで?)(見)
夏休み前等に小学校で映画の割引券をくれたので映画館の中は奥玉小学校、玉小学校、宇野小学校等の
生徒が入り乱れて、スクリーンに映る大きな大魔神と共に館内は異様な興奮状態だった。
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玉の大映の裏筋、今の佐伯整形外科向かいにも東映系の映画館があった。(昭和40年代まで?)(聞)(見)
その映画館は後に「うさはらし」という飲食店に変わったが今は建物もない。
そのまた二つ裏筋にも日活系の映画館が昭和40年代にできた。(旧オーバルスポーツコム玉野)(見)
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渋川海水浴場にある松林には昔は野生のリスが住んでいた。(昭和50年位までか)(聞)
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昔のNHK紅白歌合戦は日本を代表するビッグバンドが伴奏していた。かっこよかったなあ。
原信夫とシャープス・アンド・フラッツ、小野満とスイング・ビーバーズ 、有馬 徹とノーチェク・バーナ
宮間 利之とニュー・ハード、ダン池田とニュー・ブリード等
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岡山市との合併問題の話が出ている。行政の問題に対して感情的な話はしてはいけないと思うが
玉野市がなくなったら寂しいという気持ちはひょっとしたらとても大切な事かも知れない。(平成14年10月24日)
平成14年11月12日追加
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玉の大映の裏筋に東映系の映画館があったがその裏筋、今の辻井税理士事務所さん近くにも
映画館があった。その後(ヨシオカヤ)というスーパーになり、
昭和40年頃はその建物をスーパータマヤの倉庫として利用していた。(聞)
平成16年1月16日追加
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玉野高校の用務員室横に自転車のパンク修理セットが用意されていて
結構重宝した。(今もあるのかな)(昭和50年頃よく使用)
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玉商店街は昔は一方通行でなくバスも通っていた。
この商店街の中でのバスのすれ違いには運転手さんにとって最高のテクニックが必要とされていた。
特にたくさんの自転車が停めてある秀文堂書店前付近ですれ違う時はとても大変で
乗っている子供達もとても興奮した。(昭和時代)
平成18年7月23日追加
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昔、木製のりんご箱を利用して鳥かごを作るのが流行した。
玉1丁目にあった玉野バードセンターでりんご箱用鳥かご金網を
買って来て鳥かごを作った。(作)
平成20年11月15日追加
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宇野の総合文化センターに昭和26年頃の玉野の絵地図(俯瞰図:ふかんず)が
飾ってある。昔、藤井にあった「おそごえ海岸」や日比や宇野の塩田が描かれている。
日比劇場、衆楽館、第二東洋劇場と云った施設名や、競輪場の裏山のクレー射撃場
王子が岳の清峯温泉も描かれている。(見)
飾ってある場所:文化センター入ってすぐの第一会議室左側(平成20年11月14日確認)
現在は展示なし(令和6年6月9日追記)
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宇野駅に連絡船のあった頃の昔の写真が飾ってある。
駅全体写真と連絡船の2枚。
(入ってすぐ右上)(平成20年11月14日確認)
現在は展示なし(令和6年6月9日追記)
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西部警察 PART-III 第39話「激闘!! 炎の瀬戸内海」では宇高国道フェリーで
船内ロケが行われた。噴水とエスカレーターのある豪華船で撮影され
舘ひろしさん、石原良純さんがそのエスカレーターをかけ登ってくるシーンが
あるらしい。1984年(昭和59年)放送(聞)
平成21年9月15日追加
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夏の夜、玉原2丁目の原っぱ(玉原バス停横)で移動映画が行われた。(昭和30年代か40年代前半か)(見)
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1968年、玉原の山が大火事で焼けた。
その後広大な焼跡を企業団地と宅地にする事が決まり、造成工事の大勢の工事関係者の為に
玉原2丁目の原っぱ(玉原バス停横)に大きな飯場が建てられた。
食堂も風呂も備わったかなり大きな飯場だった様に思う。
そこに住んでいたお兄さんたちにキャッチボールをして遊んでもらった事がある。(昭和43年)(遊)
飯場;作業員の宿泊施設
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玉野市民会館で吹奏楽の演奏会をした時、メンバーの誰かが宇野のデオデオの所にあった
レストラン有明さんの店内にあったミラーボールを借りて来て
ステージの天井に吊るした。(昭和50年頃)(見)
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児島半島の最高峰であり玉野市の最高峰でもある金甲山山頂には
レストハウスもあったし、その下の駐車場の横にはおばあさんが店番をしているちいさな売店もあった。
(平成のはじめの頃まで営業か?)(買)
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玉原小学校ができる前の奥玉小学校では児童の数がものすごく多く
教室が足りなくなってグラウンドの隅に建てたプレハブが教室になっていた。
夏暑く、冬寒かったらしい。(昭和40年代後半から廃校まで)(聞)
玉原小学校は昭和51年4月1日 開校
奥玉小学校は平成14年 玉小学校に統合というかたちで廃校になる
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玉野市玉の三井グランドに音楽評論家の湯川れいこさんが来られて
レコードコンサートが行われた。(かなり昔の夏休み?)(聞)
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三井造船の三友会館に世志凡太さん、村田英雄さんが来られた。(かなり昔?)(聞)
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玉野市民会館に「NHKでおなじみの 素人のど自慢」が来た。
なんかちょっと変だなと思いながらも最後まで見たが
昔良くあった「美空スズメ公演」のたぐいの「NHK素人のど自慢」に似せた公演だった。
(かなり昔?)(聞)
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意味もなくはげ山の大仙山に登って玉の町を俯瞰した。 (かなり昔?)(聞)
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宇野駅前の確か「大黒屋」さんと云う店で細長い形をした大判焼きのようなものを売っていて、
そこのカレーまん(?)がとてもおいしかったそうだ。
その味は濃くもなく薄くもなく、その後数々のカレー遍歴を経てもなお、あの味をわすれられないという
方もいらして、あれが玉野名物になればよかったというほどの物だったらしい。(聞)
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むかし玉港に直島とかを結ぶ定期航路の木造の連絡船が入っていた。
現在のアフリカのアマゾン川を走るおんぼろ連絡船を小さくしたような船だった。
(かなり昔?)(聞)
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瀬戸大橋が出来た頃、橋の上は高速道路にも関わらず
車を止めて景色を見る人が続出してかなり危険だった。(昭和63年)
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少し前までは瀬戸大橋の通行料金は高すぎる、もっと安くと言う意見ばかりであったが
民主党が高速道路無料と言ってくれたおかげで、フェリー等の他産業への悪影響が
真剣に議論される様になり、いい方向に話がまとまればいいと思う。(平成21年9月16日)
平成22年8月25日追加
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玉野市玉にある臥竜山の山頂近くには日の丸を描いた岩があり
昔は麓からその赤く描かれた日の丸がよく見えた。
その山を日の丸山と呼ぶ人もいたそうだ。(昭和の時代?)(聞)
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昔、ビラまき飛行機がよく飛んできていたが、
今でもビラはまかないが宣伝飛行機はたまに飛んでくる。(見)
スポンサー:荻野生光園さん
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昔の船は鉄板を溶接ではなくリベット(ピンみたいな物)で
打ち付けてあり、三井造船玉野事業所近くの玉小学校の校歌にも
「瀬戸の海から大仙山にひびくこだまは船打つ槌の」
とリベットを打つ響きが歌われている。(聞)
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造船所のある玉の町の朝夕の自転車ラッシュは昔は今よりもっと凄く
特に三友会館の横にあった門は競馬のゲートみたいになっていて
終業の合図とともに皆一斉に出てきて凄かった。(昭和30年代〜40年代?)(聞)(見)
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昔は夏になると渋川行きのバスは海水浴客で超満員になり
居り場の無い車掌さんは扉に両手でぶら下がっている事も
あったという。(昭和30年代)(聞)
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ラジオの短波放送を聞いて楽しむBCLブーム全盛の頃
雑誌「初歩のラジオ」に広告の出ていたエレックセンターでスターの
SR-100Kという短波ラジオを買った。(昭和40年代後半)(買)
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瀬戸大橋の出来る前のお盆時期の高松行きのフェリー待ちの列は
とても長く、一度どこまで続いているのか見に行った事があるが
秀天橋よりまだ向こうの紅陽台近くまで並んでいた。(昭和の瀬戸大橋開通以前)(見)
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玉野市電が出来る前の頃の玉の白砂川は奇麗で水量も多く、
お母さんが川で洗濯をしていたと懐かしい思い出を話してくださる方もいる(昭和20〜30年代)(聞)
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まだ玉ひめ神社前のガソリンスタンドが無かった頃、その場所で
よく三角野球をしたもんだ(昭和30年代)(聞)
平成23年1月16日追加
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春休み、夏休み中、突然転校する子がいて始業式に「誰々さんは転校しました。」と言われて寂しい思いをした事がある。
三井造船千葉工場が出来た時はクラスの半数近くの生徒が転校したと云う話を聞いた事がある。(昭和30年代)(聞)
平成24年11月5日追加
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子供の頃、玉野の祭りと云えば造船祭りと玉ひめ神社の輪くぐりだった。(昔)(見)
(ユーチューブに昔の造船祭りのニュース映像あり)
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昔、プラモデルが子供のオモチャとして一般的だった頃、三井造船で実際に進水した船の
ブラモデルが造船所の職場の中で注文を取って販売されていた事がある。(買ってもらった)(昔)
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昔、造船所の横にあった三友会館の事務所横に温かいうどんが27秒で出てくるうどんの自動販売機があった。
学校からの帰りによく寄り道をして食べた。(昭和49年頃)(食)
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高校生のとき吹奏楽コンクールで「高度な技術への指標」というスイングジャズ調の課題曲を演奏した。
カップミュートが必要だった為、そのうどんの黄色い容器をカップミュートに改造してコンクールに出場した。
(センパーイ、その話内緒でしょ。あっ、そうじゃった、うどん屋さんごめんなさい。)(昭和49年)(吹)
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そのうどん自動販売機も三友会館も既に無いが、宇高国道フェリー乗り場向かいの
自販機コーナーに同型のうどん自動販売機が長い間置いてあった。
しかし平成16年の台風による高潮被害で壊れて撤去されたそうだ。(平成16年)(聞)
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51年もの歴史ある宇高国道フェリーが平成24年(2012年)10月17日をもって運行を休止された。(平成24年)(見)
平成25年5月27日追加
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玉原から荘内に向けて行くと天王池の横に出る。そこを下りかけてすぐに右へ行く細い道があるが
昔はその細い道が幹線でバスも通っていた。(昭和?年代)(見)
平成25年10月31日追加
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玉原野球場北側のサッカー場付近は大きな池だった。昭和55年の航空写真にはまだ池が写っている。(見)
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三井病院正面玄関入ってすぐ右側に公衆電話をおいてある「ほこら」みたいな小部屋があるが
そこは昔下駄箱があり下足番のおじさんが靴を預かってくれていた。昭和?年頃まで(預け)
平成27年6月11日追加
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モンブラン:栗の色の絞り出したクリームがラセン状にくるくる巻かれて
てっぺんに栗がちょこんと乗っている美味しいケーキ。
昭和40年代前半、玉商店街の玉野バードセンターの向かいくらいにあったケーキと同じ名前の
喫茶店で初めて食べた。
大きくなるまでモンブランというケーキはその店が作ったオリジナルだと思っていた。(昭和40年代前半)(食)
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モンブランを初めて食べたのが昭和40年代前半と覚えていた訳:
店内のジュークボックスでかけた曲がテイストオブハニー(蜜の味)という曲だった。
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テイストオブハニー(蜜の味):
ハーブアルパートさんのトランペットの印象的なメロディーが一度聞いたら忘れられない。
いつの頃の曲だったか調べたら大ヒットしたのは昭和40年頃。
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ジュークボックス:
お金を入れてボタンを押すと音楽が鳴る箱。
玉野市でもあっちこっちにあったと思う。
令和4年9月18日追加
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渋川海水浴場の東端(今のキャンプ場付近)の
山の斜面にはいくつかの
バンガローが建っていた
小学校だか中学校の時だか忘れたが、
先生にあの付近には行かないように言われた。
僕は子供は行ってはいけない
大人の世界なんだなと思った。
令和5年10月4日追加
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玉原から奥玉へ下ってすぐ左に曲がって
皿池に行く途中に結構大きな病院があった。
両備の路線バスが乗り入れていた時期も
あったように思う。
(思い違いかもしれませんが)(昭和の頃)(乗り)
(補足説明)いつの頃か皿池は埋立てられて
皿池公園になっています。
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三井造船所の大きな社宅街が玉や和田、奥玉にあった。
各社宅街には社宅専用の銭湯があり
大人たちが入る前の夕方は子供達の
裸の社交場だったそうだ。(昭和の頃)(聞)
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岡山県下最大で西日本屈指の渋川海水浴場に
マリンホテルという観光ホテルがある。
空気の澄んだ日は備讃瀬戸航路を行き交う船が遠くに見られ
夕方、海岸を散歩するととても気持ちがいい。(歩き)
(直島観光で有名な宇野港から
特急バスで20分前後なので意外と近い。)
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日比にある日比製煉所では門の横に
(現在の西門の東側付近)一般の人が入れる
貴金属ショップがあった。
(銅の製煉時に副産物として金が取れる為)(昭和の頃)(見)
令和6年1月7日追加
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玉野からほど近い繊維の街児島の田ノ口に
スキーウエアの製造卸の会社があった。
お値打ちのB品とかがそこで買えると
聞いたので仲間たちと出かけた。
畳の間に所狭しとスキーウエアが
ハンガーに吊るされていた。
その時はスキー用の手袋を
買って帰ったように思う。(1980年代)(行く)
令和6年5月12日追加
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玉野市玉原の志池下の水車小屋へ行く道の入り口に
「エサエビあります」と看板が出ていた。(昭和の頃)(見)
(たぶん水車用の水の取り入れ口で
川エビがたくさん獲れたのだろう)
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玉野市玉にある玉比咩神社(たまひめじんじゃ)
の鳥居は、僕の子供時代は木製だった。
現在の鳥居の裏に昭和37年7月と
彫られているのでそれ以前か(見)
令和6年6月9日追加
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三井造船の和田の清輝寮の駐車場内に
一時期プールがあった。(昭和の頃)(聞)
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夏休みに渋川海水浴場で子供を対象とした
神伝流の講習会が開催されていた。
休憩時間に小学校の女性の先生が飴玉を
みんなに1つずつ配ってくれて
それがとても嬉しかった。(1960年代?)(行)
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昔は市内を高松の自動車学校の送迎用車がたくさん走っていた。
通学用のフェリー代はサービスだった。(平成中頃まで?)(行)
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玉野の景色で好きなのは、
渋川から見える遠くに霞む大都会高松の景色だったりする。(見)
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