ビオクリマティック・デザインのように 101

■■1 民家園へ行こう

2008年12月21日


 東京・世田谷の西のはずれ、野川の流れる近くに、次大夫堀公園がある。次大夫堀(六郷用水)は、江戸時代につくられた用水路(1616年完成)で、現在の狛江市元和泉の多摩川から世田谷を経て大田区の六郷水門まで全長23kmに及び、その名は開削工事を指揮した代官小泉次大夫に由来する。その流路を復元し、またその用水を利用していた近在の農家の古民家を移築して、公園として整備したものである。また少し下流(現丸子川)の岡本公園にも、もうひとつ民家園がある。

 次大夫堀公園に移築されているのは、かつての大蔵村の名主の家であった旧安藤家、喜多見村の養蚕農家の旧加藤家、喜多見村の登戸道・筏道の交差するところに建っていた半農半商の旧城田
家。それぞれの元の用途にふさわしく、旧安藤家は南に前庭を持ちその周囲に生け垣がめぐらされ、旧城田家は東側の街道を模した道に店を構え主屋を南に向けて建ち、旧加藤家は少し奥まって前庭と畑を前に東向きに建っている。

 これらの建物の方位は、移築前と同じになるよう配慮されている。これは、使われていた当時を知る上で重要なことだ。配置は地域ごとに特色があり、かつての世田谷では必ずしも真南向きではなく、内陸部では南から東寄りに向き、多摩川に近いほど南から西寄りに向けて建てられ、屋敷林や高生垣も同じ向きに配置されていた。建物が少なく舗装もされていなかったその頃、土ぼこりを舞い立てて吹抜ける強い風を避けて、建物の配置は決められた。また、養蚕が盛んになった後、曳き家して南向きに変えたケースもあったという。

 fig.1-1 旧城田家の南側


この三軒を中心に、消防小屋と火の見櫓、土蔵、街道筋に建つ長屋門なども移築され、高札場(法令・禁令などの掲示板)が再現され、木挽きや鍛冶の作業場、畑などもあり、小さな集落の一角のように構成されている。この民家園の脇を次大夫堀が流れ、水田もつくられている。

fig.1-2 東から見る旧加藤家とその前の畑

 『生きている古民家』をテーマとするここでは、囲炉裏には火が焚かれ、家の中にあがり、展示されている民具にも触れることができる。季節の年中行事にちなんださまざまな催しが開かれ、また紙漉き、蕎麦打ち、糸つむぎ、機織り、藍染め、鍛冶仕事などの体験教室も折々に行われ、伝統的な生活文化を学ぶ場にもなっている。

 fig.1-3 南から門越しに見る旧安藤家の前庭と主屋

古民家のひとつ、旧安藤家を見てみよう。200年近く前に建てられた村名主の家で、間口13.5間・奥行き6間、広さもつくりも随分と立派な家で、世田谷の名主屋敷の典型である。
 間取りは、南の広い前庭に面して、西側が土間、続いて田の字が二つ並んだ形で8つの部屋がある。土間のすぐ脇は、板間のヒロマと北側の囲炉裏のあるダイドコロ、ここが普段の生活の中心だった。ダイドコロに続いて北側にナンドが二つ。ヒロマの東隣に、式台(玄関)に続く仏間と十畳の座敷、一番東は一二畳と八畳の座敷がある。ヒロマの前から奥の座敷までエンガワが回り、エンガワの外は雨戸、手前に障子がある。ダイドコロとナンドの北側にも同様のエンガワがある。
 壁は、柱の間に土壁をつくる真壁づくりで、外壁は1.2mぐらいの高さまで下見板張りである。屋根は寄棟の茅葺で、縁側より半間ほど軒が張りだしている。

 ここでの冬の暮らしはどんなだったのだろうか。一年のうちでもっとも日が短く、そして太陽高度が最も低い冬至の日の、この家の様子をシミュレーションしてみよう。

◇ ◇ ◇

 今年の冬至は12月21日、次大夫堀公園(北緯35度37分、東経139度36分)では、日の出時刻6時47分、南中時刻11時40分、日の入り時刻16時32分、日が出ているのは9時間45分、夏至より5時間近く昼が短い。ちなみに、冬至は一番日が短いが、日の出時刻が一番遅いのは1月7日頃、日の入り時刻が一番早いのは12月7日頃、これは、太陽の南中を1日の基準とする真太陽時と、現在私たちが日常的に使用している時間、平均太陽時の均時差によるものである。
 その冬至の正午近く、というのは太陽が一番高くのぼる頃(このあたりで仰角約31度)、南の広い前庭はとても日当たりがよく、風がなければぽかぽかと温かく気持ちがよい。農作業のための空間であったこの広がりのおかげで、建物への日差しを遮るものもなく、軒先から3mほど中まで日が差し込む。当時は、昼間は家の中で過ごすことはなく、前庭や、障子をあけたヒロマのエンガワの日溜まりで作業をした。
 南中の前後では、太陽の仰角が低いほど、日差しはより部屋の奥まで差し込むが、奥まで入るほうがいいわけでもなく、受ける日射エネルギーの密度は小さくなり、ぽかぽか感は弱まる。
 日が傾くと、雨戸と障子を閉ざして寒気を遮る。土間の北側にあるかまどと板間のダイドコロの囲炉裏が、この家の熱源である。それは部屋全体を暖める<暖房>ではなく、火の近くで暖をとる<採暖>だった。綿入れなどを着こんで、寒さをしのいだ。

 家の中にあがり、座ってみよう。日本は床に座る文化なので、座ったときに見える外の景色、軒先が見える角度、光のようす、低い位置から見る室内の造作などにも目を向けてみたい。
 晴れた日中、外から土間へと入ると思いのほか暗いが、すぐに目は慣れる。今は展示のために天井に電灯照明もあるが、昔は外から差す太陽光だけだった。直接室内に差し込む光のほかに、前庭の白い地面からの反射光が、部屋の奥まで届いている。障子を閉めれば、障子越しのやわらかい拡散光が室内を満たす。また畳も光をやんわり反射して、部屋全体をほの明るい雰囲気にする。
 そして夜、電気のなかった時代の夜の灯りは、行灯や油皿など、床置きか手元近くの灯りだった。昔の灯りは「暗かった」せいもあるが、畳や障子面の反射も考えると、和室の照明は床近くにあるほうが、理にかなっているのかもしれない。

fig.1-4 旧安藤家のドマ

 冬至にここを訪れるなら、それぞれの家の仏壇に、かぼちゃの煮物を供えてあるのを見ることができる。一番日が短い冬至は、「明日からは日が長くなる日」でもあり、古くから世界各地で祝祭が行われ、中国や日本では一陽来復と言って、この日を境に春に向い、運が向いてくるとされている。この日には「ん」のつく食べ物を食べると運を呼び込めるといい、冬に栄養を取るためにも、かぼちゃ=なんきんを食べるのだそうだ。冬至にはまた、柚子湯にも入るが、これも強い香りで邪気を祓うと同時に、血行促進効果のある柚子で冬を乗り切る、先人の工夫だった。

 次大夫堀民家園では、このあと1月には新年正月の飾り付けや供え物、鏡開きなどの年中行事が行われる。元日は開園しており、竹馬や羽子板、カルタなど昔の遊び道具で遊ぶことができる。

◇ ◇ ◇

 木造建築群の防火の管理上の問題などにより、公園の中で民家園がさらに柵で囲われていて、次大夫堀の流れや水田との一体感が損なわれているのが少し残念である。しかし、こういう場所を訪れて、昔の人々の住まいに触れ、そこでの暮らしを思いを馳せてみるのは、楽しいものだ。古民家に宿泊できるようにして、一日過ごせるというような工夫もあるといい。それは、昔はよかったと懐かしむためではなく、また昔は大変だったと進歩を礼賛するためでもない。ひとの生活(と生活の場)の中で、ずっとつながってきているもの、更新されたものなどを振返って見ることは、今やこれから先を見通していくときの手掛かりになると思うからだ。

 さて、民家を見てきたところで、ひとつ考えてみたいことがある。木と土、藁、萱、紙などでつくられたこのような民家、今でいえば「自然素材」の家である。現代のわたしたちは、なんとなく感覚的に、自然=良い、人工=悪い、と思いがちなところがある。では、自然の素材を使って人間がつくった建物、これは、人工物だろうか。それとも自然物だろうか?
 辞書によれば、人工とは「人手を加えること。また、人手を加えてつくること」。ならば、建築は当然、人工物だろう。
 では、動物の巣はどうだろうか。ふつう、私たちはそれを自然物と見なしている。しかし、それには動物の手なり足なり、嘴なりが加わっている。それを「猿工」「熊工」「雲雀工」…と呼んでもよいし、あるいは逆に人間のつくる建築もまた、自然物のひとつであるということもできるだろう。

そのような人工/自然の概念や、昔の住まいなどをヒントにしながら、これからビオクリマティックな住まいと暮らしについて、考えていきたい。

〈インターネット新聞JANJANに掲載〉