大相摸次郎能高(中村家先祖)の時代考証 (第2版) 吾妻鏡(鎌倉幕府歴史書)の史実
 
  • 吾妻鑑の仁治2年記述に野与党関係の以下の3件がある。
     野与党一族が鎌倉幕府から高く評価された時期である。
    1. 仁治二(1241)年9月7日 横山五郎跡の相模国新田・垣内、恩賞として細工所の野世(与)五郎に与えられる。
    2. 仁治2年(1241年)11月:箕勾師政承久の乱(1221年)で戦死した父(箕勾政高)の勲功により20年後に子息が多磨野荒野を恩賞として拝領した。 
      箕勾政高は箕勾姓と文字「高」より大相摸次郎能高の弟と推定され、野与党同世代の道智助員[13」承久の乱戦死の記録とも年代的に整合する)
    3. 1241年12月野与党の栢間左衛門尉・多賀谷兵衛尉ら、武蔵野開発の奉行として下向する。
     箕勾政高および道智助員を野与党系図(抄)に補足した。

    桓武天皇[1]−−−平良文[5]−−−野与基永[9]−−
     −−箕勾経能[12] ―+―箕勾太郎能元[13]
                   +―大相摸次郎能高[13]
                   +―箕勾?郎政高[13]――師政(14) 
                   | (1221年承久の乱戦死・系図欠落)
                    +―須久毛六郎経元(13)

      ――道智助基[12]―――太郎助員[13]承久の乱戦死

    「いざ鎌倉、家之子郎等引き連れて」の時代、党の仲間、親兄弟揃って承久の乱に駆けつけ、野与党として大きな勲功を上げた。 仁治二(1241)年に箕勾師政が恩賞として拝領した多磨野荒野(武蔵野の未開拓の土地)の位置は定かではない。

    栢間左衛門尉・多賀谷兵衛尉らが武蔵野開発の奉行として下向したのは、野与党が元荒川と綾瀬川間の低湿地を開拓して治水技術の実績を積んでいたことが評価されたものと推定される。

    承久の乱に生き残って凱旋した箕勾次郎能高は、既に「大相摸郷」に移り住んで、水田開発を進めていたものと考えられる。大相摸次郎能高は承久の乱(1221年)時に20才代と仮定すると、生年は十二世紀末頃、大相摸郷開発は十三世紀前半、没年は十三世紀後半である。
     過去帳記載の没年延久3年(1071年)と比べて、180年程度のずれがある。 

          平成18年7月29日 晴耕雨読軒(管理人)