『良弁塚』  裏面碑文拡大表示

大聖寺の石碑   越谷市郷土研究会  加藤幸一


所在地 越谷市 西方 大聖寺境内
   現在は惣門の南西にある。もとは県道を渡って大相模中学校に通じ
   る道の西側の林家の敷地内(惣門の南方約六十メートル地点)にあっ
   た。戦後になって現在地に移転した。
大きさ 高さ三二〇センチ 幅百五十二センチ 厚さ十六センチ
表 面 良辨塚 一百二十一祐尊上人筆
裏 面(碑文)
  良辨大僧都者 相州鎌倉の住 藤原姓 染屋
  太郎太夫時忠の也 寿山おもへらく 佛
  道化縁の為には 聖賢 再来もありなむ
  僧都 幼けなくして 鷲乃翼に乗せられ 南
  都東大寺の山中に飛入しとそ 成長の後
  歴行脚の路次 此処に笈をおろし 休息
  せられしに 不思議に 笈おもくして 挙ら
  されば、こゝそ 有縁の地なるへきと 終に
  此塚に とゝまりしと也 其時の笈佛は 今
  当山の本尊と仰く 不動明王是也 予も雲
  水の頭陀なから 爰に杖を止め 仰き奉り
  いとまの折々 藏経を讀誦し 大般若六百
  軸を細書し 法華経二十八品 一字一石に
  書写し 又 昔 傳教大師 伊勢太神宮 日参の
  節 太神口授の法花経 一萬枚の切紙小書
  し 此塚に納 且 武蔵相模の境しな乃坂下
  今井村 金剛寺の先代 一百二十餘齢にし
  て 一品親王より 栢樹院 号を給ハられ
  し寿山祐尊上人へ 予も折ふし 相見し 四
  方山を語りしふし 老僧のたまハく 其許
  ハ 我らと同名なりとて 念頃にかたられ
  ける 序に いはわれけるハ 我ら父ハ 下総 猿
  島郡 蓮臺村の長 染屋氏の支族 江戸に住
  居して まうけられしなり かゝる由来を
  思ふに 良弁大僧都ハ 深き有縁なりとて
  良弁塚の三字を書し給ひし 予 是を此塚
  のしるしと致さは 普く結縁ともなりな
  むと 石にきさみて 建之
  天保八 丁酉菊月 沙門壽山 謹識

解説

良弁・・華厳宗第二祖。東大寺大仏造立に尽力し、初代別当となる。二歳の時、大鷲にさらわれ、東大寺境内の杉の枝に置かれていたのを、通りかかった義淵が助けて養ったという良弁杉伝説がある。この『良弁塚』によると、ここ大相模不動坊を開山する。

・・国訓ではめいで兄弟姉妹の娘。古くはの意にも用いた。

寿山・・この碑を書いたお坊さん。西方福寿院墓地にある青面金剛の碑にもこの人の名が出てくる。なお当時の大聖寺の住職は、大聖寺境内にある天保九年の庚申塔の碑によると法印戒如である。 

祐尊上人・・今井村金剛寺の先代の住職で寿山祐尊上人とも言う。祐尊百二十歳の時の碑の表面の良辨塚の字を書いた。
出典
  平成十六年一月二十四日〈於・越谷中央市民会館〉
  (こしがや)市民大学第1講座(未来に挑あPARTK)
  「第5回 越谷歴史と旧家のコレクション」予稿集からの転載です。

       平成十八年七月二十九日 晴耕雨読軒(管理人)