武蔵七党と野与党の歴史
「新編 埼玉県史 別編(年表・系図)」所載の内閣文庫所収「諸家(武蔵七党)系図纂」には、武蔵七党には横山党(小野氏)、猪俣党(横山党から分岐)、野与党(平元宗が祖)、村山党(野与党から分岐)、西党(日奉氏)、児玉党(有道遠峯貫主)、丹党(多治比(丹比・丹治)氏の流れを汲む、桑名峯時貫主)、以上七党が一つにまとめられ、私市党は別の系図(東京大学史料編纂所蔵「浅羽本系図」)として所載され、綴党は所載されていない。
私市党系図(東京大学史料編纂所蔵「浅羽本系図」)によれば、(武蔵埼玉郡大田荘鷲宮大明神依為氏人、姓号私市云々、但、不見姓氏録)となっており、私市党は大田荘の鷲宮神社の氏人と判断され、久伊豆神社の氏人である根拠は少ない。
武蔵七党は小領主の集団である。横山党が57家、猪俣党が32家、野与党が23家に分かれている。かれらより有力な児玉党、丹党の構成員は7、80家に及ぶ。村山党、西党が20家余り、私市党はやや小規模で10数家である。300余りの中流武士が武蔵七党を構成していた。かれらはすべて小地名を名字にしており、武蔵七党の分布の範囲は、武蔵国とその周辺の関東地方西南部に限られている。かれらは、互いの勢力範囲を協定して平和共存していた。そのさい、各自の領地の地名が名字にされた。つまり、「野与」の名字を名のる武蔵七党の構成員がいれば、野与の地に武蔵七党の他の者が干渉することはなかった。
野与党系図は、当初は、七党間の相互協調を確認する必要から始まり、各党の間に相互に補完しながら伝達・記録されて始まったものと思われる。「野与党」は先の系図『武蔵七党の野与党系図』に所載され、桓武平氏の平良文(=村岡五郎)から3代目平元宗(=野与元宗)の二人の男子〔基永(=野与党祖)と頼任(=村山党祖)〕のうち、野与荘司になった野与基永を党祖としているが、『野与荘』の位置は諸説あるがまだ特定されていない。ホームページ「与野の郷土史」に:「与野の歴史(昭和63年発刊、編者:与野市総務部市史編纂室)」に与野の地名の由来が示されているので一部抜粋する。
与野という地名は、正和3年(1314)に作られた「融通念仏縁起(ゆ
うずうねんぶつえんぎ)」という絵巻物の中にはじめて出てきます。
(途中略)
「与野」という地名の由来 は必ずしも明らかではありません。
※「与」は○と○の間をさし、「与野」とは台地と台地の間に広がる
土地をいう。
※利根川と荒川に挟まれた肥沃な土地「野与庄(のよノ庄)」に拠点
も持った野与党(武蔵武士団)からの由来。
これらのことから、古い時代の「与野」とは、与野市域と浦和市西部
の湿地・自然堤防地区であったことから地形と立地に由来すると考
えるのだ妥当だと思います。
与野の南上峰遺跡(上峰2丁目・内道)…平安時代の遺跡
この時代の遺跡は、荒川低地に近い与野市台の西側に多く存在して
いることが明らかになっています。また、与野市の地形から見て市
域内に水田が少なく、市域の西側から荒川河川敷に広がる肥沃な
低地を利用して水田の開発が進んでいたようです。
野与荘の位置
与野は「野与荘」〜(のよノ荘)〜「与野荘」と転化したものと考えられる。「与野」の地名が文献初出する正和3年(1314)より「野与庄(のよノ庄)」の存在がはるかに古い。
氷川神社系図と文書によると、氷川神社の社務家は、兄多毛比命を祖とし、八背のとき大部直を賜り、不破麿に至って武蔵宿禰姓を賜った。代々武蔵国造であり、氷川神社に奉仕した。知られる人物としては、足立郡司武蔵武芝がいる。武芝の子武宗は野与二郎を名乗り子孫は野与氏を称した。氷川神社の社務職は武芝の娘が菅原正好に嫁してその子孫が相承した。後世に至って、物部氏に受け継がれ、社務家は角井氏を名乗っている。
武蔵武芝は(平)将門記にも記された事件で、足立郡司職を奪われて所領と氷川神社社務司職を終に取り戻せなかったが、西角井家系図で補うと、野与二郎(=武蔵武宗)は(平)元宗を養子に迎え、野与党と村山党に血筋を委ね、氷川神社社務司職は女子を通して菅原家に引き継ぎ、野与党とは以下の系図が繋がる。
(武蔵武宗の婿)
(平)忠頼――(平)胤宗――(平)元宗 +―近宗
| |
|―――+―基永(野与党祖)
(足立郡司) | |
武蔵武芝―+―武宗(野与二郎)―女子 +―頼任(村山党祖)
|
+―女子 (氷川神社社務司)
|――(菅原)正範――行範(足立郡司)―
菅原正好
武蔵武芝の居館は現さいたま市浦和の「調神社」の位置だったとされている。野与武宗から受け継いだ「野与荘の位置」は、武蔵国足立郡の中に位置する現在の与野付近であったと考えるのが自然である。
平成十八年七月二十九日 晴耕雨読軒(管理人)