『武州大相模不動明王瑞像記』

      越谷市郷土研究会  加藤幸一

(原文)
  武州大相模不動明王瑞像記
  武州埼玉郡大相模郷眞大山者
  阿遮之霊区瑜伽之浄場也舊有
  寺窓一巻其文纔十餘帋惜哉至
  寛文中而泯焉曽讀古志者語曰
  昔在南京良辨僧正神化無方開
  導奘利方到東國卜築相州大山
  精修嚴勵于?阿遮明王現形慰
  諭辨辨瞻仰生希有想便自刻木
  模其相貌長  例侍者負所至
  必随垂過此村俄而重如盤石雖
  百千人不可擧之即識有縁之地
  當留之験將妥奉于此而誓曰如
  尊意則輕亦若前試再擧之飄然
  猶控毛矣遂創一于安置供養自
  璽以來郷称大相模山號眞大山
  寺名不動房云(後略)
(口訳)

 武蔵國の大相模にある不動様のめでたい像の記録
 武州(武蔵國)埼玉郡(さきたまぐん)大相模郷(おおさがみごう)の眞大山(しんたいさん)は(「者」=「は」)、不動尊の霊域で、瑜伽(ゆが、ヨーガ)の浄(きよ)い土地でもある。もと寺誌(じし)一巻があり、其の文は(わずか)十余紙だったが、惜しくも、寛文年間(1661〜1672)に紛失した。  注@
 曽て(この)古誌を読んだ者が、語る処によると、昔奈良にいた、良弁(ろうべん)僧正(そうじょう)は、神のようにあらゆる方向を教化し、大きな利益を開き導き、方(まさ)に東国に来て、相模國大山(おおやま)に(寺を建築する地を)(ぼく・占って選ぶ)して築き、心清らかに身を修め一生懸命に励んでいた。その時、不動明王が形を現し、良弁を慰め諭した。良弁は仰ぎ見て、非凡な考えが生まれ、自ら其の顔かたちを模倣して木に刻んだ[長さ一尺七寸(51.5cm)]。おつきの人に負わせ、(行く)所には必ず随行させた。此の村に来られた処、(にわか)に磐石(ばんじゃく・大きな岩)のように重くなり、百人千人と雖(いえど)も之(これ)を持ち挙げることができない。そこで有縁(うえん)の地で、之(これ)を留めるべき験(しるし)とわかった。将に此(ここ)に妥(やすら)かに奉ろうとし、誓って曰く、「尊意ならば、前のように軽くなりますように。」と。試みに再び持ち挙げてみると、おおとりの羽毛のようにひらひらとしていた。(そ)れ以来、郷は大相模と称し、山は眞大山と号し、寺は不動坊と名づけたという。 注A
 (後略)

(注)
 『武州大相模(おおさがみ)不動明王瑞像記(ずいぞうき)』は越谷市内の大相模の西方(にしかた)にある眞大山(しんたいさん)大聖寺(だいしょうじ)に現存している巻物の縁起状で、当時の住職英山(えいざん)の依頼によって享保十四年(1729)八月に江戸の宝林山霊雲寺第三世の慧曦(えぎ)が文を作り、光天が書いたものである。約一五〇〇字の漢字よりなる漢文で著されている。ここには次にあげる内容が見られる。

注@寺誌(じし)の紛失    寛文年間(1661〜1672)

注A不動坊の起こり
    ・良弁創建説(古誌)と大相模郷・眞大山不動坊の名づけ

※ここではいつのことか年代が明記されていないが、後の資料によると天平勝宝二年(750)となる。良弁は華厳宗第二祖、東大寺大仏造立に尽力し東大寺初代別当となる。

密教は既に七世紀後半には断片的な形で我が国に伝えられてはいたが、延暦二十三年(804)に入唐した空海(真言密教・東密)・最澄(台密)によってもたらされて本格的に盛んになることから、不動坊の起こりが奈良時代であることに疑問が残る

 平成十六年一月二十四日〈於・越谷中央市民会館〉
  (こしがや)市民大学第1講座(未来に挑あPARTK)
  「第5回 越谷歴史と旧家のコレクション」予稿集からの転載です。

      平成十八年七月二十九日 晴耕雨読軒(管理人)