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鈴木鵞湖(〜明治三(1870)年)・外9家
   寄書=山水図画賛(萩原秋巌・外11家賛)

山水図は、当時江戸(或はその周辺の地)に居住していたと思われる当代一流の画家――9家が、中国湖北省黄州府城西北を流れる漢水門外の景勝の地=赤壁を、宋の大詩人蘇軾(=蘇東坡)の名文『(前)赤壁賦』の故事にちなんで描いた寄書である。当該作家を、落款(署名)・印章の順序で以下に列挙し、若干の説明を付加しておく。
 なお、赤壁の地は三か所あり、古戦場跡は、湖北省嘉魚県西部を流れる揚子江左岸のこと。

 松田柳亭(幕末・明治前中期(1860〜1900)年頃)――右中に、模写炯樹及尖岩壁者 柳亭生(白文方印・朱文方印)とある。名は利貞。江戸の人。文晁派の鈴木鵞瑚に師事。
 鈴木菊潭 (天保一三(1842)〜明治七(1874)年) ――右下方に、書挟葉樹者 向栄生(朱文長方印)とある。名は欣、字は向栄、通称悦太郎。江戸の人。文晁派の鈴木鵞湖のだが、早逝した。
 石井鼎湖 (〜明治三〇(1897)年)――右下方に、写照葉三木者鼎湖漁子(白文方印)とある。名は重賢。江戸の人。文晁派の鈴木鵞湖の(二)男。近代の洋画家――石井柏亭・石井鶴三の父。
 鈴木鵞湖 (〜明治三(1870)年)――右下方に、作人物并船者 我古山樵木雄(白文長方印・白文方印)とある。名は雄、字は雄飛、別号に我古山人など。下総の人。江戸に出て、谷文晁に師事して一家を成す。山水・花鳥画に定評あり。石井鼎湖の父、近代の洋画家――石井柏亭・石井鶴三の祖父。
 久保田蔦峰 (幕末・明治前中期(1860〜1900)年頃?)――「拝写玉兎 蔦峰重信(朱文楕円印)」とある。名は重信。鈴木鵞湖に師事。
 竹本石亭 (〜明治二一(1888)年)――作瀑布者 石亭(白文長方印)とある。名は正興、通称又八郎。対松堂は別号。幕臣。江戸の人。文晁派の相沢石湖(〜弘化四(1847)年)に師事、後に、わが国の諸派の画法を究めて一家を成した。
 福島柳圃 (〜明治二二(1889)年)――写古樹断岸 柳圃(白文方印)とある。名は寧、通称重二郎。黙神草堂は別号。武蔵国(神奈川)の人。四条派の大家・柴田是真に師事、後に南画に転じて一家を成した。
 春木南溟 (〜明治一一(1878)年)――補松者 南溟(朱文方印)とある。名は秀煕、字は敬一、通称卯之助。別号に耕雲漁者・香山楼など。江戸の人。父=文晁派の春木南湖に師事。花卉・山水図に定評あり。
 阪田鴎客 (幕末・明治前中期(1860〜1900)年頃?)――写遠山 鴎客(白文方印)」とある。伝不詳。
 中島杉陰(弘化二(1845)年〜)――描波瀾者 杉陰(合印――白文方印=朱文方印・白文長方印)とある。名は栄之、字は樞発。暗香浮動山荘は別号。江戸の人。文晁派の鈴木鵞湖に師事、後に南北合一派として画法を究めた。

 本山水図の賛は、当時江戸(或はその周辺の地)に居住していたと思われる当代一流の書家――12家が、前記蘇軾の名文『(前)赤壁賦』の全文を合書したものである。 同文については、教科書――大修館書店『新高等漢文(巻三)』(昭和三十九年刊)所収の教材――を参考として〈別掲〉する。それと同文とを比べると、それぞれ傍線で示した、本文の異同が二か所(植村蘆洲横空横江・桑野松霞扁舟輕舟)、本文の脱落が一か所(石井潭香而卒莫消長也)ある。
 なお、当該作家については、同文の揮毫の順序で以下に列挙し、落款・印章の外、若干の説明を付加しておく。

 萩原秋巌 (〜明治一〇(1877)年)――落款秋巌(白文方印・朱文方印)。名は?、字は文侯、通称唯助。別号に大飛・松?堂・古梁漁史など。江戸の人。書は菱湖の高弟として一家を成した。菱湖四天王の一人。
 植村蘆洲 (〜明治一八(1859)年)――落款蘆洲○(白文方印・朱文方印)。名は正義、字は子順。大沼沈山(〜明治二四(1901)年)に師事した江戸の能書家で、詩も能くした。
 巻鴎洲 (〜明治二(1869)年)――落款掖山々人巻紀(白文円印・朱文方印)。名は之紀(己)、字は百里、別号は掖山山人。江戸の人。 父・菱湖に書法を学び、菱湖流を継承して一家を成し、菱湖四天王と共に斯道の普及・大衆化に努めた。
 伊藤桂洲 (幕末・明治前中期(1869〜1900)年頃)――落款桂洲(白文方印・朱文方印)。名は明徳、字は明卿、通称新平。別号に天香・菊逸など。江戸の能書家。
 樋口逸斎 (〜明治一〇(1877)年)――落款逸斎観之(白文方印・朱文方印)。名は観之、字は子順、通称昌之助。江戸の能書家。
 関雪江 (〜明治一〇(1877)年)――落款雪江 篆(白文方印・朱文方印)。名は思敬、字は鉄卿、通称忠蔵。草聖――関思恭を祖とするの家法を継承。同家五世。江戸の人。土浦藩士。
 桑野松霞 (幕末・明治前中期(1860〜1900)年頃?)――落款松霞老人(白文方印・朱文方印)。伝不詳。
 高橋石斎 (〜明治五(1872)年)――落款石斎(朱文長方印・白文長方印)。名は豊珪、字は子玉、通称幸次郎。別号に松谷・煙岳など。尾張藩士。江戸に出て書法を究めて一家を成した。
 石井潭香 (〜明治三(1870)年)――落款潭香(白文円印)。名は徽言、字は士励、通称唯一。市川米庵に師事した江戸の能書家。太政官大録。
 柳田正斎 (〜明治二一(1888)年)――落款正斎(朱文長方印)。名は貞亮、字は節夫。下総佐原の人。昌平黌に学んで後、中国の書法を究めて一家を成した。泰麓の父。高斎単山 (〜明治二三(1890)年)――落款単山常(白文長方印・白文長方印)。名は有常、字は子垣、通称精一。本姓高橋氏。巻菱湖に師事した江戸の能書家。
 大沼沈山 (〜明治二四(1891)年)――落款沈山仙史(白文方印・朱文方印)。名は厚、字は子寿。別号熙熙堂。菊池五山(〜安政二(1855)年)に師事した江戸の能書家。詩にも優れ、『沈山詩鈔』・『房山集』などの著書がある。

 文久元(1861)年、当家二十四代七郎右衛門正廸(=中村有道軒二世)は、大相模・久伊豆神社に石の鳥居を奉納する。そのセレモニーが、故人となった前代・万五郎政敏(=中村有道軒一世・万延元(1860)年没)への鎮魂をも意図したものであったとすれば、翌文久二(1682)年は、愈々壮年期を迎えた、自らの新たな人生へのスタートともなっていたはずである。

ちなみに、蘇軾『前赤壁賦』は、萩原秋巖の揮毫する「壬戌之秋七月既望」の詩句で始まっている。その年が、中国・宋の元豊五(1082)年を指すものであるのは歴史的事実であるが、めぐりめぐって、壬戌をこの国の当代として考えてみるなら、文久二(1862)年に符合するものである。おそらく、その年が、同人にとっては、本図の寄書を小脇に抱えての趣味人としての思いに駆られた、永いお江戸通いのスタートであったのではあるまいか。

なお、この寄書に名を連ねてもらえた書・画――22家のうち、最も早いことになる巻鴎洲の他界が明治二(1869)年であるから、いずれにしても、その年までには、大願成就と相成っていたことになろう。全体の構成を任されたと思われる文晁派の大家=鈴木鵞湖とその=菊潭及び(二)男=鼎湖の三者が、とっつきになる右前方のをまとめていることが面白い。

本図の図柄は、言うまでもなく、蘇子(=蘇軾)が(=楊世昌)を招いてべた赤壁の下で、を酌み交わしながら、明月を愛で、した、とある『前赤壁賦』の故事の世界の再現であり、このの叙述のは、変化の中に不変を見据えた蘇軾の透徹した眼識である。そこには、未来に向けられた、家運に対する後継者としての強い祈念も籠められているわけである。