中村七郎右衛門正廸
大般若転読経(抜粋全六百巻=全十冊)<写経>

俗称大般若経大般若波羅密多経のこと――原始仏教(小乗)を止揚した大乗仏教の根底をなすの理によって究極の知恵=般若を得ることを説いた般若経のすべてを、660年から663年にかけて、唐の玄奘(=俗に三蔵法師とも)が一六会二十万頌六百巻にまとめる形で訳出したものである。  ちなみに般若心経は、その大般若経六百巻の総要で、観世音菩薩が、それによって無上正等菩薩を得ることを仏弟子舎利子のために説き明かしたものとされている。本書は、右の大般若経全六百巻のそれぞれから、初・中・終章のしかるべき三部分を転読経として抜粋し、全十冊にまとめ上げた、 当家二十四代中村七郎右衛門正廸個人の手になる写経>で、経箱の表扉には、同者の筆跡で為令法久住 大般若転読経箱 書写中村正廸拝とある。起筆の時期は定かではないが、四年間と算定するその筋の見方によると、文久三(1863)年九月――嫡子(=長男)咸弥正義の夭逝後から、本写経>第六百巻の末尾に、慶応三丁卯季春二月十有九日―― 後継嫡子(=二男)可三郎正光の没した、まさにその当日を記した真大山(大聖寺)三十一世大僧都法印(戒澄)朱文方印・花押>=落款(署名)のある跋中邨氏(大)般若転読経○からして、擱筆は慶応三(1867)年二月十九日である。 (二)男ながら、神道無念流中村有道軒道場希望の星最後の砦として、若年にしての奥義を得、道場主である父=中村有道軒二世の指南代として、いわゆる塾頭の地位にあった腕利き後継者の可三郎正光が慶応三=一八六七年、二十三歳で夭逝、文久三(1863)年に嫡子(長男)咸弥正義が二十一歳で夭逝したことに重なる当家二十四代――神道無念流中村有道軒二世の悲運は、やがて同道場廃絶の決断を生むことになるが、そのこととは別に、南無阿弥陀仏を内に唱えつつ高僧の礼書を求めて関東十八檀林の古刹を巡行、さらには、本写経>と共に深められた、失意と諦念との狭間に孕まれていた信仰とでも言うべき奇特な執念は、書画の収集と合わせて、同者の人生を驚異のスケールに帰一させていたとも言うことができる。勿論、同者の、東方村(上組)世襲名主の立場が、明治維新――明治五年の新区制では、南埼玉郡第二区に編入された旧二村(東方村・見方村)の戸長、同十一年の郡区町村編制法では、旧三村(南百村が加わる)の戸長へと変わり、自宅がいわゆる戸長役場にされてはいたが、その責務については、いっさい支障を来たさなかった由である。 本書は、当家の歴史の語り部のような存在であった当家二十七代養母中村千枝二十三回忌を記念して、当家サロン中村古書画コレクションの展示作品に加え、遅ればせながらに新装・公開するものであるが、その修復新装に関しても、虫に閉じられた全十冊のすべての頁を、一枚一枚丁寧に剥がしては糊づけする稀有の辛抱を克服してくれた武士嘉伸経師・外全宗舎諸経師のご苦労に対する時、万感の謝意を表さずにはいられない。(畳紙のは仏智の象徴――法具=羯磨金剛で、経師の推奨。) なお、当家二十五代重太郎は、正光の没後、の名の伏せられた借腹の嫡子、つまり、太郎ねて育てねばならなかった当家二十四代の数奇な命運を語り継ぐ名づけを負わされている。