PAUL RODGERS
Photo by Yoshifumi Ogawa



ポール・ロジャースへのインタビュー

text from 『ルーディーズ・クラブ』
聞き手*山川健一


アメリカ南部の黒人の音楽と、
イギリスのマーキーのようなクラブの音楽がなぜ結びついたのか?


山川 ぼくらは今、1960年代から70年代にかけて、つまりロックが生まれた時代にすごく興味があって調べてるんだけど、あなたががブルースやロックに出会った頃の話を聞きたいんですよ。ミドウスバランの出身ということですが、そこはどんなところだったんですか。

ポール いわゆる工業地帯というか、鉄鋼や造船関係の工場ばかりの町だった。正直言って、ぼくにとっては、そこから何とかして抜け出したいという町だったな。「ロンドンに出ていくんだ、音楽がきちんと盛り上がっているロンドンに、一刻も早く行きたい」と、そればかりを考えていたよ。当時は、ロックにしろなんにしろロンドンが中心だったからね。だけど、今にして思えば、地元にもなかなかいい音楽シーンがあったなと思うよ。当時、友人が所有していた「パープルオニオン」というクラブがあるんだ。この間ニューキャッスル でそいつに電話したら、店を再開したいと言っていたけどさ。当時、ヒット・チャートに入る前のオーティス・レディング、サム&デイヴ、ウイルソン・ピケットなんかの輸入盤をどんどんかけていたし、売れる前のスティーヴィー・ワンダーとかトラフィックとかが演奏していてね。なかなか盛り上がってはいたんだなと、今にして思うよ。


山川 そうした状態の中からロンドンに出ていって、当時の、60年代のロンドンはどんな感じでした。

ポール すばらしかったよ! 60年代といえば、ポートビル・ロード、カーナビー・ストリート、キングズロード、あのへんの街がみんな盛り上がっていて、ファッション的なものがあふれていたんだ。ファンタスティックだったよ。

山川 あなたは後にジミ・ヘンドリックスへのトリビュートアルバムを発表することになるわけだけど、そのころロンドンでジミ・ヘンドリックスに会うことがあったんですか?

ポール ワイルド・フラワーズの頃だったけれど、お金が無くてジミ・ヘンドリックスが演奏しているクラブに入れなくて、外で一生懸命聴いていたよ。あと、バンドのメンバーとジミが、タクシーから出て、会場に入っていくのを見たんだ(笑)。

山川 そのワイルド・フラワーズの頃、一度ロンドンから故郷に帰ろうとした、というエピソードを本で読んだんですが。

ポール うん、そういうことがあったよ。厳密に言うと、ある晩、ライブをして30ポンドぐらいのギャラしかもらえなかった。それでバンドは車のエンジンをかけてノウレッジに行こうとしたのさ。何もかも白紙に戻そうとおもって。でも、車がオイルか何かが切れたのか……道で壊れてしまった。メンバーは頭にきて、「俺は家に帰る!」「俺も家に帰る!とヒッチハイクして故郷に帰ってしまったんだ。
 ぼくも、クロスロードで立って車を待っていた。でもそぼくは、故郷には帰らなかった。まだあきらめるわけにはいかない、と思ったからさ。それでヒッチハイクして、ロンドンに戻ってきたんだ。あれは、ターニングポイントだったね。

山川 そのクロスロードはどこだったか憶えていますか。できれば、そこに行って写真が撮れればと思うんだけれど。

ポール 二十数年まえのことだからね。ロンドンのノウレッジへ向かう道だったんだけれど。演奏をしたクラブも、良く考えれば思い出せるかもしれないけれど、いずれにしてもそのクラブ自体はもう無いと思う。

山川 青春時代のロンドンで、思い出に残っている場所で今も残っているところはありませんか。

ポール 余り残っていないね。フィンズベリーパーク・アストリアという通り。その通りの側にみんなでアパートを借りていた。ぼくも懐かしくてついこの前その場所をたずねたんだけれど、アパートは取り壊されて、今では教会が建っていたんだ。他にはやっぱりマーキークラブが、フリーにとっては忘れられない場所だったんだ。でも今は、移転してしまったからさ。

山川 ポール・コゾフに会ったのはそのころですか?

ポール そう。ロンドンに戻って、なんとか身を固めようと、住む場所をも見つけて、やがては、ブラウン・シュガーというブルースバンドに入ることになるわけだけど、その当時よく行ったクラブの名前が、「ピックルピックル」というところでさ。「パープルオニオン」につづいて、またタマネギだな(笑)。そこで、ポール・コゾフと出会った。ある時、わざわざ彼の方から会いに来てくれたんだ。ぼくは彼の名前は耳にしていた程度で、知らない人だったけれど、彼の方から「凄く君の歌が好きなんだ、一緒にセッションしてくれないか」と言われた。長い髪にパンタロンで、パンツも末広がりでテントみたいな風貌の男だったけれど、一緒にやってみたら、その瞬間からばっちりフィーリングがかみ合ったよ。

山川 ザ・フリーというバンド名はアレクシス・コナーが付けたという説があるんだけど、ほんとうの話?

ポール イエス。音楽の哲学みたいな部分で、彼の影響は大きかった。音そのものよりも、音と音の間(ま)、空間の方が重要なんだとか、弾かないものも大切なんだということを、教えてくれたのが彼だったのさ。

山川 ほんとうにフリーの音楽をぼくらが最初に聴いたとき、間というものが東洋の墨絵みたいで驚いきました。

ポール うん。彼から教わった重要なことは、音楽というのはどこにでも存在するのだということ。静けさの中にすら音楽はあるんだ、ということなんだ。

山川 あなたは、そうしたブリテッシュ・ロックそのものを、創ってきた立場なわけだけど、ブルースとロックの関係というのを、自分の中ではどう位置づけていますか?

ポール 例えばサイケデリック時代のロックというのは、アシッドの入ったブルースという言い方をしてもいいんじゃないかと思うね。クリームだって完璧にブルースがベースだったし、レッド・ツエッペリンもそうだった。ジョー・コッカーなんかはソウルがベースだったけれどね。ジャニス・ジョプリンも完璧にブルースがベースだった。彼女はアメリカ人だけれど、ブルースの影響を受けたロッカーというのは非常にたくさんいる。いわゆるアメリカ南部の黒人の音楽と、イギリスのマーキーのようなクラブの音楽がなぜ結びついたのか、とぼくも良く聞かれるんだけれど、ぼくにも良く分からないんだ。ただ言えるのは、誠実でピュアなエモーション、感情的に訴える何かが共通してあったということは言えると思う。

山川 これは難しい質問だけど……。

ポール いいよ、なんでも聞いてくれよ。

山川 ぼくは日本人なんで不思議に思うんだけど、ブルースはアメリカ南部で生まれましたよね。なんでロックは、スウィンギング・ロンドンで生まれたんだろう。

ポール うーん、どうしてだろう。ぼくに言わせてもらえれば、ブルースにはパワフルでセクシュアルな表現というのがある。それが60年代のイギリスの状況に通じるものがあったのかもしれないよ。それだけじゃなくて、底辺に流れている誠実な気持ちということなのかもしれないけどさ。歌詞なんか書いてしまえば単純なものに思えるかもしれないけれど、凄く強い訴えるものを持っている。それは性的な関係を歌った歌に限らず、すごく愛情を感じさせるものが多いよね。エルモア・ジェームスの歌で「君がうまくいってないとき、ぼくも傷つくんだよ」という歌があるんだけれど……。

山川 それは、ぼくもエルモア・ジェームスでいちばん好きなナンバーだなあ。

ポール これなんか、ぼくも凄く感じるものがあるんだよ。君の質問の主旨とちょっと違った答えになっっちゃたけれど。

山川 でも、面白い意見だと思いますよ。ロックとブルースって、やっぱりもの凄く強い絆で結ばれてるんだな、と思います。それで、あなたはフリーの後、バッド・カンパニーなんかで活動していくわけですけど、その活動の折々でブルースを聴いてました?

ポール いつもブルースに戻って行くんだ。そのたびに新鮮な感動をおぼえるよ。それでも、ブルースを聴かないですごす時間もある。だけど、何かのきっかけでふと耳にすると、やっぱりこれだったんだよな、ここからぼくは始まっているんだなと、そこに戻って行くのさ。

山川 未来のことも聞きたいんだけど。まず、ぼく自身もロックの世界の住人だと思っているんだけど、ロック一般というものが、21世紀にまで生き延びると思いますか。

ポール うーん。それは今後いかに強力な曲が出てくるかどうかにかかっているんじゃないかな。強力な曲が出てくれば、生き残れるだろう。そうとしか言えないね。今は、今まであるもののリサイクル状態が続いていると思うんだ。それにしても、かつてほど強力な曲を耳にしないような気がする。もしこれから出てくる曲が単なるノイズであったり、ヘヴィさとか音の大きさだけに頼っていくものであったら、残念ながら生き残っていくことはできないだろうと思うよ。今、クラッシックと呼ばれるようになった曲のパワーに改めて驚かされているところなんだ、ぼく自身の曲なら〈オールライト・ナウ〉とか〈シューティング・スター〉、〈ランウエイ・ザ・バック〉なんか。ああいった曲の強さだよ。今度の《ナウ》のアルバムの中の曲も、自分としては強力な曲だと思っているけどさ。これから、クラシックと呼ばれる曲になっていってほしいと思ってるよ。

山川 〈オールライト・ナウ〉の話が出たので、聞きたいんだけど、あれは、どうやってあういう曲が書けたんですか? ぼくはもう何百回って聴いてるけど。

ポール 過去最高にコマーシャルな曲なのに、実はブルースをベースに書いた曲なんだよね。日本以外でも人気があって、ライヴではやらないでは済まされないと言う曲なんだ。あの曲は、とにかくライヴでアピールができる強力な曲がもっと欲しいと思ってた時に、なんかこんな感じといって、コーラスの部分を口づさんだ。(オールライト・ナウ……と歌いはじめるポール・ロジャース)。みんなで歌うようなかんじになっていたら、アンデイが聴いていて、分かった、分かった、と言って、コードを付けてくれたんだ。結局コーラスを先に考えてしまったので、コーラスからさかのぼって、「ある女の人がいた……」とかいう歌詞のストーリーを後から組み立てていって、あの曲ができたんだ。

山川 じゃあ、ライヴで目立つ曲を作ろうと思ってあの曲ができたわけだ!

ポール イエス。イエス。イエス。いつもそうなんだけれど、曲を書くときはライヴの状況を頭の中で思い描いている。客の前でやったらどうなるのかなと考えながら創っているよ。

山川 それはロックの秘密ですね。

ポール 聴衆というのもバンドと同じように、ショウの一部だからね。

山川 あなたはいくつかのバンドを経て、様々なジャンルのミュージシャンと一緒にやっていますよね。元キング・クリムゾンのメンバーや、ザ・フーのメンバーともやってるし、もちろんレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとも一時期いっしょだったでしょう。そういうあなたは、ブリテッシュ・ロックのヒストリーに関してどんな感情を持っていますか。

ポール 確かに、イギリスからは優れたミュージシャンが出ているよね。一時期ロック界のほとんどをイギリスのミュージシャンが占めていたこともあった。シーンそのものが変質しているので、今はそれほどではないのかもしれないけれど。でも、そういう状況があった一つの理由として考えられるのは、イギリス出身のミュージシャンはお互いに対して非常に厳しい、ということが言えると思う。常に批判的であれ、という状況だからね。そういった批判的な状況を生き延びることができれば、どこにいっても生き延びることができると思うよ。

山川  ヴォーカリストとしてのあなたにうかがいたいのですが。最近の傾向として、ヴォーカルは2の次という曲作りが多い気がするのですが。メロディではなく、ビートの時代というか。

ポール どうなんだろうね。とにかくぼくが朝目覚めて毎日起きてくるのも、ステージがあるからだという気がする。とにかくみんなの前でプレイをしたいという気持ちがあるんだ。そのプレイをするにあたって、すばらしい優秀なバンドがいることが条件なんだよ。一人でもバンドの中で実力が劣る人がいると、バンドの質が全体として落ちる。つまり全員が優秀なミュージシャンであってこそ、お互いにステージの上で白熱したやりとりができる強力な状況がうまれるんだ。他のヴォーカリストのことをぼくは知らないけれど、自分が歌うということ、音楽をやるということは、そういうバンドとの関係の上に立ってこそなのさ。さらにそれ以前に曲が良いということも大前提だけどね。もちろんヴォーカリストのぼくにとっては、歌というか、メロディってものはすごく大事なのさ。

山川 曲はギターで書くんですか。

ポール うん。ギター、アコーステックギター、それからピアノ。たまにベースでも書くよ。

山川 これからの予定は?

ポール 明日東京でライブをするよ。イギリスに戻って7日間ほどツアーを、その後アメリカで、レイナード・スキナードと一緒にツアーをするよ。

山川 レイナード・スキナード! 楽しそうですね。

ポール 9月に関してはまだ決まっていなくて、10月になったら、ロニー・スコッツと一週間、ブルースをやろうかということになっている。

山川 ブルースとロックの間を行ったり来たりしながら進んで行くんですね。お手本にしたいと思います。

ポール せっかくブルースを再発見できたんだから、この気持ちをキープしていきたいなと思っているんだよ。ブルースからいろいろなものを貰っているから恩返しをしたいんだ。いまだに〈ローリング・ストーン〉という曲を、ライブのセットリストに入れて演っているんだけれど、たぶんオリジナルからは想像もつかないようなアレンジになっているんだ。いろんなやり方を試した結果、ほとんど書き直したに近い曲になっている。それが今、凄くいい感じになっていて、演奏する度にくらくらするほどなんだ。

山川 あなたにとってマディ・ウオータースは特別なミュージシャンですか?

ポール そうだよ。マディ、ハウリン・ウルフ、アルバート・キング、エルモア・ジェイムス、他にもね。ブルースマンは特別さ。

山川 この質問で最後にしたいのですが、ちょっとシビアな質問なので、答えたくなかったら答えなくてもいいです。ポール・コゾフが亡くなった時、ぼくらも凄くショックだったんだけれど。あなたはどういう状況で彼の死を知り、どんな風に感じましたか。

ポール バッド・カンパニーのツアーで、アメリカに行っていたときだったんだよ。実は亡くなる4日前に、ロサンゼルスのサンセット・ブルーバードにある会場、ロキシーってところで、一緒にセッションをしたんだ。その時バックステージで撮った写真も残っていると思うけれども。その後、バッド・カンパニーのツアーはニューオリンズまで移動していて、そこで知ったんだ。彼の奥さんが電話をしてきて、「周りの人は、あなたが傷つくかもしれないと思って隠しているかもしれないけれど、いずれ新聞か何かで読んでしまうと思うから、話しておいた方がいいと思って」という電話だった。ひどい話だと思った。ほとんど飛行機で飛んで帰ろうと思ったけれど、その時行っても、自分には何もできないと思ってね。そのままツアーを続けたんだ。

山川 今日は初期の話から、いろいろはなしていただけてありがとうございました。イギリスに行ったら、あなたの青春の足跡もたどろうかな。ワイト島へも行くつもりなんですよ。 ザ・フリーも1970年に、ジミ・ヘンドリックスやザ・フーといっしょに出演したでしょう?

ポール おいおい、あれはジョークじゃないの? ほんとにロンドンまでいくのかい。じゃあ、ちょっと待ってくれよ。アドレス帳をとってくるよ。友達のテレフォンナンバーを教えておいてあげるよ。参考になるかもしれないだろう? その時期、ぼくはロンドンにいないからさ。

(ポール・ロジャースはそう言うと、ほんとに自分の部屋に手帳を取りにいってくれ、具体的なアドバイスをいろいろしてくれたのであった)

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