|■|| Christmas ||■|
Said-m
静けさが漂う一室で、室井はたまっている書類を読んでいた。もう既に時刻は定時を大きく上回っていたので、部屋に居るのは室井とその部下の中野だけだった。熱心に書類に目を通している室井に資料などを運んだり片付けたりしていた中野だったが、ふと時計を見上げて「あ」と小さな声を漏らした。小さくとも静まり返った室内、それも直ぐ側に居た室井に聞こえない筈も無く、室井は見ていた書類から目を外すと中野に視線を移した。中野は集中を妨げてしまった事に申し訳なさそうな顔をした。
「どうした?」
「…いえ」
何でも無いと言うにしては何やら落ち着かない様子で…と言うか、明らかに焦っている様な表情をしていたので、怪訝そうに室井は再度問うた。
「何か用事でもあったのか?」
「いえ、大丈夫です」
とても大丈夫とは思えない程、彼はそわそわと視線を彷徨わせていた。何事だと思い視線を走らせると、その先にあるカレンダーが目に映る。そしてそこで初めて今日が何日で何の日だかを理解した。室井は己の目の前にある書類を一瞥すると、腕時計を見て言った。
「私はもう暫くこれらを読んでいるが、就業時間はとっくに過ぎているんだ。他の皆と同じく君ももう帰り給え」
「いいえ。上司である貴方が働いておられるのに、私だけさっさと帰る訳には参りません」
生真面目に答える中野に室井は内心苦笑する。
「大事な用なんだろう?」
「プライベートな事です」
いっそムキになって答える彼を、室井は不思議な思いで見詰めた。
数日前の廊下での出来事を思い出す。確か、度重なるデートのキャンセルの所為で恋人に捨てられそうになっているのだと、中野が同僚に愚痴を零していたのを室井は偶然聞いてしまっていたのだった。世間に踊らされているとは言え、恋人達には大切なイベントの日である。こんな日に約束を破ったりしたら、それこそ別れを告げられるのはそういう事に疎い室井でさえも明白だった。重要な仕事を放って行くのであれば容赦しないが、単に自分の付き合いで居残っているだけであるならば、引き止めておく必要は室井には無かった。
「今の時間は私にとってプライベートみたいなものだ。書類を読んでいるだけだから一人で居た方が捗る」
「しかし…」
そう言われてしまうと中野は返答に窮してしまう。それでも引き下がるのを躊躇する様に、室井も軽く溜息を吐いて命令した。
「何かあれば連絡する。帰り給え」
「……」
困った顔で戸惑う中野に、室井はふと表情を緩める。
「今日はありがとう。明日も宜しく頼む」
「…はい」
漸く室井の気遣いに気付き、中野は深々と頭を下げて礼を告げ、退出した。
一人きりになった室井は、持っていた書類を机の上に置くと深く息を吐いて背凭れに寄りかかる。
「クリスマス、か」
行事には縁の無い生活を送っていた為、今日が何の日なのかをすっかり忘れていた。
ふと振り返って窓の方に視線を移すと、窓ガラスに張り付いた雨粒が幾筋にも流れていた。
「雨が降っているのか」
立ち上がって窓の外を眺める。街灯りがくすんで見える。こんな時間のこんな天気の中でも外は人で賑わっている様だった。クリスマスで彩ったイルミネーションが、ビルの上からでも映えて見える。
暫し眺める室井の脳裏には、気が緩むといつも思い出してしまう一人の男の事が過ぎった。
この雨の中、彼は外を走り回っていたりするのだろうか。それとも何とか有休をもぎ取って、誰か綺麗な女性と会っていたりするのかもしれない。
例えば同僚の恩田すみれとか…。
自分で考えた事柄に、胸の痛みを覚える。それが何の痛みなのか、知っていて気付かないフリをするのももう慣れてしまった。室井は雑念を追い払おうと、軽く頭を振った。
ピリリリリ…
携帯が鳴る。即座に手に取り画面を見て相手を確認すると、今思い描いていた人物からの電話だった。
「…はい、室井です」
(あ、俺です、青島です。今大丈夫ッスか?)
少しざわついた気配が伝わって来て、彼が今外に居るのだと言う事が判る。
「ああ。どうした? 何かあったのか?」
(え? あ、はい、さっきテレポート駅の方で通報があって外走ってたんですけど、大した事無かったんで署に帰る所っス。……すいません、何か無性に室井さんの声が聞きたくなって、電話しちゃいました)
「……」
突然そんな事を言われても、どういう意味に捉えれば良いのだろうかと戸惑う。自分が女性であれば、或いは青島が女であったなら誤解を招きそうな発言である。しかし室井も青島も同じ男で、理想を共鳴しているとは言え、単なる上司と部下と言う間柄でしか無い。
期待など、出来る筈も無かった。
「……何を企んでいるんだ?」
(はぃ?)
声を聞きたかったのは自分の方だと室井は思う。けれど青島がそんな風に自分の事を思う筈は無いと、それならば何か厄介事を持ち込もうとしているのかと思ってそんな風に問うと、青島は素っ頓狂な声を出した。
(何スか、それ)
「…君が私に連絡を寄越すのは、大抵厄介事ばかりだからな。前置きは良い。何がして欲しいんだ?」
半分嫌味のつもりでそう言ったのだが、少しばかり拗ねた口調になってしまったのは否めない。割り切れない想いに内心己を嘲笑う。
(……反論する余地無いっスけど、それってあんまりな台詞じゃありません?)
「事実だ」
(そうですけど、今言った事も本当っスよ)
「何がだ?」
(アンタの声が聞きたかったんです)
ドキリ、とした。
胸が、顔が熱くなる。たった一人の人間の台詞や行動に一喜一憂する己を、室井はまだまだ未熟だと思う。そして今この場に誰も居合わせていなかった事に安堵の溜息を吐いた。
(何でそこで溜息吐くんスか?)
零れた溜息を呆れられたのだと誤解したらしく、心外だと言わんばかりに文句を言う青島に、いっそ怒鳴りたくなる自分を抑えて答えた。
「…用が無いなら切るぞ」
(ちょっ…! え、待って室井さん!!)
大慌てで引き止める青島に内心苦笑する。からかわれておかしな期待を持つ無様な真似はしたくなかったから。だからさっさと用件を聞いて、この電話を切ってしまいたかった。
……例え自分が本当は彼の声をずっと聞いていたいと思っていたとしても。
「だから何なんだ」
促す室井の言葉に、受話器の向こうで息の詰まる気配がした。
(………用が無ければ電話しちゃいけませんか?)
「え?」
落ち込んだ様な低いトーンで発される彼の台詞を、室井は幻聴では無いのかと己の耳を疑った。
(今日、何の日だか知ってます?)
「何の日って……クリスマスの事か?」
(へぇ、室井さんでも気付いていたんですね)
「……」
どう言う意味だと言ってやりたかったが、先程思い出したばかりと言う後ろめたさがあったので、辛うじて無言で応じた。
(クリスマスの夜って、特別な気がしません? なんて、世間の例に漏れず、俺も無心論者っスけどね)
悪びれずにそんな事を言う青島を相手に、室井は何と言うべきか返答に窮する。青島はふざけた口調を収め、いつにない真剣な口調で語る。静かに、優しく、室井の心に届けとばかりに。
(それでも、こんな日は会いたくなるんです。自分が大切に思っている人に。……神聖な夜だから)
「…意味がよく判らない」
そんな筈は無い。
室井は静かに目を瞑る。
彼の言葉に惑わされてはいけない。
期待してはいけない。
歯を食いしばり、携帯を強く握る。胸が熱くなって震えてしまいそうな自分を、室井は心の中で叱責した。
そんな室井の焦りを知らず、青島は甘さを含んだ声で優しく笑う。
(良いですよ、それでも。ただ、俺はアンタの声が聞きたかった。……アンタは?)
「え?」
突然問われた言葉に頭が真っ白になる。
(アンタは、俺に会いたいと…声を聞きたいと思ったりしない?)
どうしてそんな事を聞くのだろう?
自分の押し隠した思いを気付かれた?
白を切り通すべきか悩んだが、青島の声が不安に揺れている様な切な気な口調に変わっていたのに気付き、室井は瞼を伏せて静かに呟く。
「……しない訳無いだろ」
(え?)
吃驚した様な声で聞き返す青島だったが、室井はもう一度言う気は無かった。
「勤務中なんだろ。早く署に戻って仕事しろ」
(え、ちょっと室井さん!?)
慌てる青島に笑いを堪える。
「電話、ありがとう。…嬉しかった」
(……む、)
言い終えない青島の呼びかけを無視してプツッと電源を切る。
この想いを彼に伝える気など全く無い。けれど、こんな日は自分の気持ちに素直になりたかった。
室井は立ち上がり、雨の降る夜の街を窓越しに見詰める。
「…雪に、変わるかもしれないな」
神聖なる冬の夜
会いたい人は只一人だけ
END
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