Stepping ∞ Out


ふう、と小さな溜め息を吐いて大きな木の根に寄り掛かる。聞こえて来る鳥のさえずりと緩やかに髪を撫でる風に、既に懐かしい想い出になりつつある故郷をフロドは思い起こしていた。
目を閉じると今迄の事は全て夢であれば良いのに、と願う。再び目を開ければ其処には何時もと変わり無い袋小路の庭に自分は寝そべっていて、ビルボやサムが迎えに来るのだ。

こんな所で寝ていると風邪をひいてしまう、と心配げに言いながら。


「そんな所で寝ていると、風邪をひいてしまわれる」

バサリ、と落とされた大きな布と共に掛けられた声に驚いてフロドは目を開けると、呆れた様な顔をして見下ろすアラゴルンの姿があった。

「幾ら此処が春の様に暖かいとは言え、その姿で眠るには些か無茶だと申し上げる」
「……申し訳ありません。とても気持ちが良かったものですから」

今朝方、サムが折角の機会だからと言ってフロドが着ていた服を剥ぎ取って洗濯してしまった為、今はエルフ達から借りた薄手のシャツとパンツと言う出で立ちだった。言われて初めて身体が冷えているのを自覚し、彼が本当に心配してくれているのが判ったので素直に謝罪をする。アラゴルンは軽く溜め息を吐いた後、僅かに苦笑して隣を指差した。

「隣に座っても宜しいか?」
「はい」

慌てて布を身体に巻き付けて、フロドは隣を開けた。被された布は彼のマントだったのだが、今返してしまうと怒られてしまう予感がしたので有り難くそのまま借りる事にした。

静かに隣に座り込んだ彼は、フロドと同じ様にそよ風に暫くあたってから呟いた。

「なる程。確かに気持ちの良い風だ」
「そうでしょう?」

お互いに視線を合わせてクスリと笑う。穏やかな一時に二人は心が安らぐ様な気がしていた。

「ところで他の連中は何処へ行ったのだ」

ふと訪ねられた質問に、フロドは素直に答えた。

「ギムリは今日も朝からレゴラスに連れられて森の中へ。他の皆は、先程ボロミアと一緒に鹿を狩りに出掛けました」

それを聞いたアラゴルンは眉を顰めた。今迄彼に纏って居た穏やかな空気が消え、周囲の温度が一気に下がった気がしてフロドは首を傾げた。


「皆、と言う事は、今迄貴方はお一人で居られたのですか」
「はい」

あっさりと答えるフロドに、アラゴルンは深い溜め息を吐いた。


「何と言う事を。貴方は御自分の身を軽んじておられる」

キョトン、とした表情でアラゴルンを見詰めた後、静かに微笑んで言った。


「此処はガラドリエル奥方様の森です。何を危険な事があるとおっしゃるのですか」
「確かにこれ以上無い程安全な場所と言えましょう。ですが、それでもお一人でおられるのは良く無い。その事をサムは私より判っていると思っていたのだが…」

憤って行き先の失った怒りがサムに向かい始めたのに気付いて、フロドは慌てて説明をした。


「サムに罪はありません。彼は残ると言っていたのですけれど、僕が一人になって考えたい事があるからと無理に行って貰ったのです」
「フロド?」
「貴方も直ぐ戻って来るから大人しく此処で留守番をしていると…御心配をお掛けしたなら謝ります。ですからサムや他の皆を叱らないで下さい」
「……一人で何を?」
「別に、たいした事ではありません」

にこりと笑った顔に小さな、しかし強固な拒絶を見出して、アラゴルンは僅かに表情を曇らせた。

「私には言えない事ですか?」

大きな目を静かに見開いてフロドは驚き、目の前の彼をじっと見詰めた。アラゴルンの真直ぐに己を見据える強い真剣な眼差しに戸惑い、フロドは一瞬睫を震わせ目を伏せた。


「そんな事では…。ただ、此処に来る迄に色々な事が有り過ぎて、皆疲れているでしょうから。此処に居る間は僕の事に構わず、それぞれに自分の時間を過ごして少しでも気分転換をして頂きたいと思っているだけです」
「貴方の身を案じる事は、貴方の負担になっておられるか」

はっとして閉じていた目を開け、アラゴルンの顔を仰ぎ見る。フロドは緩く首を横に振り、どう言ったら良いのか困惑した表情が徐々に悲し気に、そして切な気に揺れる。その青い瞳に吸い込まれそうになっている己に気付いて、アラゴルンは僅かに戸惑う。


「いいえ。負担になっているのは僕の方です。ですからせめて今だけでもその負担を軽くして差し上げたいのです。貴方も、どうか僕の事は構わずお出かけになって下さい。…この地は裂け谷同様、貴方にとって所縁の在る大切な想い出の場所なのでしょう?」

今度はアラゴルンの方が驚いてしまった。居心地の悪い表情をした後、彼は少し怒った様に訊ねた。


「……誰がそんな事を…」

彼の過去を知っている者は多くはいない。そしてそれをフロドに伝えられる者など限られている。考えを巡らしている彼の様子を見て取って、在らぬ人々に誤解が及ばぬ様、フロドは頭を振って返事を返した。


「いいえ、ガンダルフでもレゴラスでもありません。裂け谷でアルウェン姫が教えて下さいました」
「……彼女が?」

確かに彼女がフロドを裂け谷迄連れて行ってくれたのだから、面識はあって当然だった。連れ帰った後もアラゴルン達が到着する迄エルロンドと共に看病をしていてくれたらしく、再び旅立つその日迄に何度か二人が会っていたと言う事を本人からも聞いてはいた。何故彼女が其処迄してフロドを気にかけるのかはアラゴルンにも判らなかったが、ともかく二人の気が合っているという事だけは知っていた。


「はい。裂け谷でのお話共々、楽しげに語って下さいました。旅立つ前に、貴方方お二人が出会ったという林に案内して下さったのですけど、とても静かで美しい場所でしたね。さぞかし素敵な出会いだったのだろうと、つい見蕩れてしまった位です」

邪気の無い笑顔でそう言われたのだが、彼との出会いを大いに反省しているアラゴルンとしては、居心地の悪くなる会話ではあった。


「話には及びません。……その、」

言い淀む彼の様子をフロドは正確に読み取り、お互いの出会いを思い出して笑った。


「ああ、僕との出会いと比較されて気になされていらっしゃるのでしたら御心配には及びません。あれはあれで僕の人生の中でどの出会いよりも印象のある、想い出深い出会いでしたから。ある意味忘れ得ぬ貴重な出会いを、僕は大切に思っています。だからどうぞお気になさらないで下さい」

にこりと微笑まれてそう言われるが、アラゴルンはこれをどの様な意味として捕らえて良いのか判らず複雑な気分で顔を顰めた。そんな様子のアラゴルンを見て、フロドはクスクスと笑う。

心地良い雰囲気が再び訪れて、二人は暫くそのまま黙って微風に吹かれていた。
流れる雲を見詰めるフロドの瞳が、次第に愁いを帯び始めたのに気付いてアラゴルンは僅かに顔を顰める。
初めて出会った頃は警戒されていたものの、その後暫くは先程の様に他のホビット達と共に屈託無い笑顔を見せる事が少なく無なかった。けれど、旅が続き、フロドが一番心を許せていただろうガンダルフを失い、彼は無邪気に笑う事を滅多にしなくなってしまった。
時たま見せる笑顔は、少し淋しそうに、周りから距離を置いて微笑むだけだった。そして今の様に物思いに耽る様子は、見ている側の胸を切なくさせるに十分な程沈んだ空気を纏っていた。
辛い事は一人で抱え込んでしまうのがフロドの悪い癖だと、サムが呟いていたのを思い出す。
彼の心を占める指輪の脅威は、誰にも代わってやる事が出来ない。だがそれ以外の事は出来うる限り助けてやりたいと周りの誰もが思っていたが、彼はやんわりと、だが強固にそれを拒む。

……それがアラゴルンには気になっていた。

「ボロミアは苦手であられるか?」

突然のアラゴルンの言葉に、フロドはビクリと身体を震わせ驚いた表情で彼を見た。心配気な表情で己を見詰めるアラゴルンに、フロドは慌てて首を左右に振って否定した。

「いいえ、そんな事は。とても面倒見の良い素敵な方だと思います。平素の僕でしたら、ピピン達と同様、剣を習ったり話を聞いたりと懐いた事でしょう。今は……」

そっと目を閉じた彼を、アラゴルンは切ない思いで見詰めた。


「今は、それは僕には許されない事です。でも、彼がとても良い方だと言う事を僕は知っています。皆と同じ、大切な仲間だと思っていますよ」

大切な仲間故に、不用意に近付いて指輪の影響を受けさせたくは無かった。指輪を見る時の彼の目は、明らかに平静を損なっていた。彼が指輪に完全に心を奪われる事が無い様、指輪が彼を呼び掛ける事の無い様、自分は極力近付かない様にしなくてはいけないとフロドは思っていた。それはボロミアに対してだけで無く、他の仲間達にも……そう、今目の前に立つ彼に対しても。

けれど、生来の己の性格からして、近しい人々と心の距離を持つと言う事はフロドには決して生易しい事では無かった。好意を素直に受け取る事が出来ない等、彼には苦痛以外の何者でも無かったのだから。

ふと思い出した様にフロドはクスリと笑い、気難しげに己を見詰める彼に明るく話し掛ける。

「そう言えば、最近あの二人が僕に自慢するのですよ。ボロミアに、平和を取り戻したらゴンドールに招待して貰うのだって。彼があんなに大切に思っている故郷ですから、きっととても素晴らしい御国なのでしょうね」

笑顔で話す彼の表情がとても寂しそうで、アラゴルンは胸が痛くなった。そんな顔をして欲しくは無いと思い、彼は慌てて自分でも予想していなかった言葉を掛けていた。


「ゴンドールは私の祖国でもある。では、平和になったその時は、私が貴方を招待しても宜しいか?」
「……え」

思いきり驚いた顔でまじまじと見詰められ、アラゴルンは失言だったろうかと内心焦り、後悔し始めた。だがしかし、不思議と彼を誘う気持ちが本気である事に気付いていたので、この優しく繊細な、それでいて芯の強い小さな人に『社交事例』だと受け取られない様にゆっくりと念を押すように真面目な顔で再度問うた。


「貴方に私の国を見て貰いたい。迷惑で無ければ、だが」

フロドは驚いて固まっていただけなのだが、その沈黙に居心地悪気なアラゴルンの様が可笑しくて、耐えられずについ噴出してしまった。暫く膝を抱えて笑っているフロドを所在無げに見守っていたアラゴルンだったが、流石にフロドも申し訳無く思って慌てて涙を手で拭い、彼を見詰める。


(まだ、アラゴルンはゴンドールの王になる事を迷っている筈。…でも、彼は交わした約束は守ってくれる人だ)

その気持ちが嬉しくて、フロドは己の頬を赤く染めて此れ以上無い程の笑顔で答えた。
アラゴルンが望んでいた、その屈託の無い笑顔で。

「いいえ! 嬉しいです。その日を楽しみにしていますね」




全ては指輪を葬り去った後に。




END


みやさんに捧げてた代物です。多少手直しして再利用♪←すんません…。
基本的に指輪話は何故か切な系になってしまいます。明るい話が書きたいんですけどね〜…何でかなぁ?(遠い目)



20050525