戴冠式が終わり、静寂な空気を放つゴンドールの城の中庭で、フロドは一人歩いていた。植え替えられたばかりのまだ幼い白い木の前まで辿り着くと、そこで立ち止まり城を仰ぎ見る。じっと見詰める瞳に僅かに翳りが現れ、それを打ち消す様に左右に首を振った。
「フロド」
呼びかけられた声にビクッと身体を竦める。そっと振り向くと、そこには華美過ぎては無いにしろ高貴な衣装に身を包んだ、今まで以上に風格を備えたこの国の新しい王が立っていた。
「……ア……陛下」
膝を折って頭を垂れて礼をとるフロドに、アラゴルンは顔を顰める。近付いて己も同じく膝を折り、両手でそっと彼の肩を起こして真っ直ぐに見詰めると、真剣な眼差しで言った。
「貴方は、私に頭を下げる必要は無い」
「……でも」
「必要無いのだ」
「……」
戸惑った表情をしているフロドにアラゴルンは苦笑し、手を差し伸べ共に立ち上がった。服についた埃を軽く掃って視線を戻すと、彼の吸い込まれそうな程の青い瞳は再びゴンドールを見詰めていた。その愁いを帯びた眼差しが、アラゴルンには気になった。
「ここで何を?」
「…目に焼き付けておきたいと思って」
―――貴方の統べるこの国を。あの人の理想の姿を。
共に帰りたいと願い、己が力で守り続けたいと誰よりもこの国を愛しく想っていた彼の、待ち焦がれた王の傍らに立って笑っている姿を見る事を…出来る事なら望んでいたけれど。
今はもういない失った仲間を思って、フロドは静かに目を伏せる。
さらりと身体を撫ぜる風はまだ肌寒く、アラゴルンは見に纏っていたマントを脱ぐとフロドの肩に掛ける。気付いて慌てて返そうとする彼にアラゴルンは目で制し、それとは違う台詞を発した。
「ホビット庄へ?」
「はい。……明日、発とうと思っています」
「明日?」
驚いた様に目を見開く。いつでも出掛けられる旅の用意はされていたが、フロドの身体の回復とアラゴルンの即位に立ち合う為に旅の仲間達は長い間ゴンドールに留まっていたので、いざ本当に旅立つとなると酷く胸が痛んだ。
「ええ。長い間家を空けてしまいましたから。皆も帰りたがっていますしね」
「……そうか」
城を仰ぎ見るアラゴルンの顔は無表情で何を考えているのか読み取れなかったが、フロドには彼が仲間と…そして思い上がりでなければ自分と別れる事に寂しさを感じていてそれを耐えているのだと判った。
一度目を伏せて気持ちを切り替えると、顔を上げて微笑んで言った。
「そうだ。まだお祝いの言葉を述べていませんでしたね。アルウェン姫とのご結婚、おめでとうございます」
「……」
「幸せになって下さい」
―――どうか、僕の分まで。
「フロド。……私は」
言いかけたアラゴルンの口元にフロドは己の右手を当て、その先を止めた。
聞いてはいけない。言わせてはいけないと思うから。
「僕の懺悔を聞いて頂けますか?」
儚げに笑って告げた彼の言葉に、アラゴルンは驚いた顔をした後静かに頷いた。
「僕はそんな風に、貴方に…人々に感謝をされる価値は無いのです。使命を成し遂げたのは僕の力ではなく、沢山の人に守られ助けられたからに他ありません。それなのに…共に在る仲間を傷付け、時には犠牲を強いてきたと言うのに、僕は最後の最後で貴方を……皆を裏切ったのですから」
「……フロド?」
怪訝そうな表情で様子を窺うアラゴルンの視線を避け、左手の失った人差し指を見詰める。
「ボロミアが指輪に惑わされかけていると知りながら、一人になるのが怖くて旅立つ決心がつかずに結果死なせてしまいました」
「それは貴方の所為ではない」
即座に否定するアラゴルンに、フロドは困った様に微笑む。
「皆と別れた後ゴンドール兵に捕まって、道案内を失う訳にはいかないという理由で法を犯したスメアゴルを庇い僕達を解放してくれと…それによって自らが死刑になるかもしれないファラミアを、使命の為と説得して見逃して貰いました」
「……」
その話なら本人から聞いていた。悲壮な程に必死で、そして苦しそうに指輪の誘惑と戦う彼を『守ってやりたい』と思ったのだと。多分、兄もそうだったのではないのだろうかと、苦笑するその姿は懐かしい彼とよく似ていた。
「その後、僕を信じてずっと側に居て助けてくれていたサムを疑って、酷い言葉を浴びせたのです」
それもアラゴルンはサム本人から聞いていた。指輪の誘惑に身も心もやつれていたとは言え、スメアゴルの嘘に騙されて一度でも疑ってしまった事を口には出さずともフロドがどれ程悔やんでいるのかを理解していた彼は、どうしたら負担を無くす事が出来るだろうかとアラゴルンに漏らしていたのだ。
「それに。…モルドールの火口で、僕は指輪を…投げ入れる事が…出来ず……………我が物にしようとしました」
「……」
痛々しい程の表情で震える様に言葉を紡ぐ彼を、アラゴルンは息を呑んで見詰めた。
「あの瞬間。僕は…僕を信じて指輪を託してくれた皆を裏切り、見捨てたのです」
「フロド」
泣き出しそうなのに泣かない姿が、より一層儚げに見えてしまう。
「あの時スメアゴルが僕から指輪を奪い取らなければ。足を滑らせ、共に火口へ落ちていかなければ。指輪はサウロンの手に渡り、世界は滅び、仲間の命は消えうせてしまったでしょう。僕は…」
「フロド」
堪らず、アラゴルンは腕を伸ばしてフロドの身体を抱き寄せる。何者からも護り抜こうとするかのように。
「命の保障は無く、死ぬより辛い闇との戦いを何の罪も無い貴方に強いた我々が、貴方を責める資格のある筈が無い。咎を悔い改めなければならないのは、寧ろ我々の方なのだから。貴方は自分を責める必要は無い」
フロドは腕の中に納まったままで、小さく首を横に振る。
「あれは…僕が、自分で持って行くと言ったのです」
「そう。あの場の紛争を収め、中つ国を、故郷を守る為に。私は出来る事ならモルドールの火口まで、傍らで貴方を守り続けたかった。けれど指輪の魔力から仲間を守る為に貴方は旅立ち、サムが傍に居たとはいえ危険な道程を。…死地に向かわせた事を、後悔しない日は無かった。何も出来ない己をどれだけ呪った事か」
苦しそうに顔を顰めるアラゴルンを見て、フロドは驚き慌てて首を横に振った。
「何もだなんて。貴方も他の皆も、自分達に出来る限りの事をして僕等を助けてくれていたのでしょう? ガンダルフから聞きました。サウロンと一万にも及ぶオークの兵の目を逸らせる為に、黒門の前に来て囮になってくれていたと。それなのに僕は…」
「気に病むことは無い。どんなに命を懸けて敵と戦う事が出来ても、重荷を背負う事は誰にも出来なかったのだ。貴方以外の誰も」
「……」
「貴方以外、モルドールの火口まで指輪を持って辿り着く事は出来なかった。だからもし指輪を捨てる事が出来なかったとしても、貴方を責められる者は誰もいない」
「それでも…僕は」
そっと目を伏せ、静かに瞼を開ける。
「僕は自分が許せないのです」
大きな青い瞳から零れる透明な雫を、アラゴルンは指でそっと拭う。
「フロド。どうかこれ以上、自分を責めないで欲しい。貴方に、もう苦しみも悲しみも味あわせたくは無いのだ」
「……」
そっとフロドの手をとり、癒える事の無い失われた人差し指の付け根に口付ける。この純粋で穢れの無い無垢な人を、身も心も傷付けてしまった全ての出来事に憎しみを覚え、守り抜く事が出来なかった己の不甲斐無さを…誰にでも良いから責めて欲しかった。
フロドはするりと抜き出した自分の手を見詰め、彼には似合わない己を嘲る様に口元を歪めて笑った。
「この失われた指とナズグルに刺された傷跡、蜘蛛の針に刺された痕の痛みは消える事が無いのだと、ガンダルフがおっしゃっていました」
「……」
「この痛みを和らげる為に…僕は彼らについて行こうと思っています」
自分の為に行くのだと告げる彼の本意をアラゴルンは正確に読み取り、何処までも己を悪く言う彼の発言に眉根を寄せた。
「故郷を、中つ国を救う為に?」
「……」
大切なモノを守り抜く為に、自分の気持ちを抑えて犠牲にする覚悟を誰にも言わず、寧ろ軽蔑すら望む彼の心の傷をどうしたら癒せるのだろうか。誰にも頼らず一人で罪を抱え、そして自分達には何も求めず去ろうとしている彼を、止める術は無いのだろうか?
いいや、そうではない。彼の為、なのではなく、ただ自分は別れたく無いのだ。
―――彼と。
「友人を仲間を…………私を置いて?」
「アラゴルン…」
やっと名を呼んでくれたフロドを、アラゴルンは再び抱き寄せ腕の中に閉じ込める。驚いたフロドは身を離そうとして…彼の腕が震えている事に気付く。戸惑いながらアラゴルンの背にそっと両腕を回し、そしてしっかりと抱き返した。この優しく力強い体温を忘れる事の無い様に。
暫く抱き合った後身体を離すと、フロドはアラゴルンの額に口付けを落とした。アラゴルンは驚いた顔でフロドを見詰める。フロドはフワリと笑った。
「ありがとう。でもどうか貴方も…二つのものに引き裂かれず、欠けることのない一つのものとなって、手に入れた幸福を失う事の無い人生を送って下さい。僕の願いはそれだけです」
静かに語られた言葉はどうしようもなくアラゴルンの胸を打った。
彼は自分の気持ちを知っていたのだ。そしてそれを解っていても表に出すことをせず、今まで誰にも気取られる事は無かった。それはきっと、応える事は出来ないと知っていたからなのだろう。
例えお互いが同じ気持ちであったとしても。
「それは…その言葉は彼にも?」
「………はい」
「そう、か。…それは彼もさぞかし辛かろうな」
今この場にいない、己と同じ立場に立たされるであろうもう一人の気持ちを思って苦笑いする彼を、フロドは困惑した様に見詰めて俯いた。それに気付いてアラゴルンはそっとフロドの頬に手をやり、顔を向かせて微笑んだ。
「そんな顔をしないでくれ。困らせたい訳では無いのだ」
辛く悲しい出来事が多かったけれども、それでもこれだけは断言出来る。
「貴方に会えて良かった」
王としてではなく、馳夫として共に傍に居て守っていてくれた時と同じ笑顔で伝える言葉に偽りは無くて。
「僕も。貴方に会えて良かったと思っています」
まだ指輪に出会う前の極上な笑顔を贈った。
立ち去るフロドを姿が見えなくなるまで見詰め、近くの段に座り込む。こんな気分の時にはパイプ草が欲しいな、と思う。切実に。
「行かせてしまって良かったのかい?」
「レゴラス」
いきなり現れた友人に驚き、そして眉を顰める。
気配にまるで気付かなかったとは。幾ら気が緩んでいたとはいえ、己の勘の鈍さを内心叱責し、八つ当たりも含めて軽く睨んだ。
「盗み聞きか? 性格悪いぞ」
「聞こえてしまっただけだよ。エルフは耳が良いものでね」
悪びれずに言うレゴラスに、アラゴルンは苦笑する。不思議と気分が穏やかになるのは、エルフの力なのだろうか。暫しお互い言葉も無く、流れる雲を見上げていた。
「折角生き延びて再会出来たのに。彼の地へ旅立ってしまったら、幾らヌメノールの血を受け継いでいる君とは言え二度と会う事は出来ないんだよ?」
「……判っている」
「僕には判らない」
―――去り行く大切な人を何故引き止めようとしないのか。そして…二人を同時に愛する事が、どうして出来るのか。
口には出さずとも、アラゴルンにはレゴラスが言いたい事はよく判った。
「そうだな。私も不思議でならない」
「?」
「判らなくて良いのだ。レゴラス」
一人のドワーフを一途に想い続け、全てを捧げているエルフの友に、笑ってそう告げる。
傍らに立つ事が出来なくても、声を聞く事も姿を見る事も叶わなくても。
ただ貴方の幸せを祈り続ける。
そんな愛に出会えた事を、誇りに思う。
それはきっと永遠に。
END
私のフロドのイメージは博愛主義です。皆大好きで見返りを求めないと言う…。←夢見がち?
彼が一番望むものって何でしょうねぇ。<原作なら間違いなくビルボでしょうが(笑)
20040823
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