そして彼は碁石をニギる




進藤ヒカルが事故に遭い、呆気なくこの世を去って幾数日後。
塔矢邸にて、己の部屋でアキラは一人物思いに耽入りながら碁盤をぼんやりと見詰めていた。
失ったものの大きさに眩暈がする。嘆いていても始まらないと判っていても、一人で居る時はどうしようもなく孤独を感じ、誰にともなく問いかけていた。

何故、彼は自分を置いていってしまったのだろうと。

深い溜息を吐いて片手で顔を覆う。目を閉じて彼の顔を思い浮かべると、今にも声が聞こえて来る気がした。

(塔矢)

そう、そんな風に。


(塔矢? 寝てんのか?)

幻聴がいつもよりはっきりと聞こえる気がして、アキラは顔を顰める。いつまでも捕われている訳にはいかないのだから、と自分を叱責しようとして目を開けると、目の前にはその元凶である彼…進藤ヒカルが立っていた。
生前と全く変わらず飄々とした表情をしているヒカルと、その後ろにやや困った顔で控えめに佇む平安装束を纏った見知らぬ麗人が、吃驚して固まったアキラを見詰めている。

(よう、塔矢、久し振り)

何事も無く単に暫く振りに会ったかの様に平然と挨拶をしてくるヒカルに、一瞬アキラは今迄の事が夢だったのかと自身を疑った。…だが、そんな筈は無いのだ。だって自分は彼の葬儀に参列したのだ。花を捧げて、彼の遺体が燃やされるのを、その骨が埋められるのを、深い悲しみと絶望を押し殺して見送った筈だった。

なのに何故、目の前に変わらない彼が立っているのだろう?

自分の目がおかしくなってしまったのかと、手で目を擦ってみる。次に頬をつねってみて痛みを確認し、それでも消えない二人の姿にじっと両の瞳で凝視する。…額には薄っすらと汗が滲んでいた。そんなアキラの様子に同情した佐為は、面白そうにその様子を眺めて成り行きを楽しんでいたヒカルを突付いて説明を促す。

(ほら、ヒカル。塔矢が混乱してますよ。説明してあげて下さい)
(えー。面倒臭ぇなぁ)

ガシガシと頭を掻いて文句を言うが、とりあえず言う通りに説明しようとヒカルは塔矢に近付こうとした…が、途端、アキラは飛び退く様に後ろに下がってヒカルとの距離をあけた。悲鳴こそ上げなかったが、色を失った表情は傍目から見てもヒカルを怖がっているのが判る。アキラの突然の反応にヒカルは吃驚して一瞬戸惑うが、次の瞬間明らかにムッとした表情をする。

(……どーいうイミだよ?)
「なっ…! 何でキミが?! だ、だって、キミは死んだ筈だ!」

幽霊に出会ったら、幾ら知り合いとは言えごく当たり前の反応だった…が、ヒカルは塔矢のそんな行動に腹を立てた。

(だったら何だよ。オマエな、それが今までライバルとして共に競い合ってた奴に対しての態度だってのか?)
(…ヒカル。そこで責めては塔矢が可哀想です)

佐為は眉を顰めてアキラを弁護するが、ヒカルは憤慨した感情を抑えるつもりは無かった。

(だってあんまりだと思わねぇ? たかが幽霊になっただけであーいう反応されて、腹立たねぇ訳ねぇじゃん!)
(たかがって…幽霊に遇ったら誰だってあんな風になります。ヒカルだって最初は私に遇った時、気絶したじゃありませんか)
(それとこれとは別だろ!)
「…あの…」

何やら緊迫感の無い言い争いに、アキラは先程まで感じていた恐怖心を忘れ、戸惑いつつもとにかく反れてしまった会話を戻して状況を把握しようと試みるが、話している二人はそんなアキラの努力に気付かない。

(別じゃありませんよ。その後だって、ずっと私に身体を乗っ取られるんじゃないかとか疑っていた癖に)
(そ、そんなの…だって仕方ねぇじゃん! オレ、幽霊に遇ったの初めてだったし)
(塔矢だって初めてでしょう?)
(でもオレと塔矢は知り合いだぜ!)
(知り合いでも何でも、生きている時と死んでいる時に出会うのは違うんですよ)
(そんなの酷ぇ! 差別だ!)

己の存在を忘れて延々と続きそうな二人の会話に、アキラは自分の堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた気がした。

「ストップ!!! とにかく二人とも、黙って!!」

(ハイ)
(はい)

キレてしまったアキラに、ヒカルと佐為は言い合いしていた口をピタリと閉じる。
アキラは黙らせた事に満足すると、とにかく今迄の二人の言葉を簡単にまとめてみた。

「…つまり、進藤は生前までそちらの方にとり憑かれていて、事故に遭ったと同時に一緒に幽霊になってしまったと言う事か?」
(そ。なんだ、説明しなくても判ってんじゃん)
(ヒカルとは大違いですねぇ)
(オマエな…)

悠長な二人の掛け合いに、アキラは眩暈を感じて頭を抑える。

「その人にとり憑かれていたからキミが死んだ訳じゃ無いんだな?」
(え? 違う違う! コイツがオレにとり憑いたのはずっと前からだぜ。取り殺されるならもっと早く死んでたよな、オレ)
(だからとり殺したりしませんってば!)
(判ってるって。いちいちムキになんなよ)

むくれてしまった佐為を宥めるヒカルを、アキラは珍しいモノを見るかの様に眺めていた。ヒカルは思った事を何も考えずに発言しがちで、しかも相手の気持ちとか感情とかをあまり気にかけない方だった。それなのに、何故か憎まれずに不思議と友人が多い。それ故か、こんな風に誰かの機嫌をとる様な態度など見た事が無く、アキラは自然と二人の関係に興味が湧いた。
が、そんな場合では無いと、我に返ってそもそもの疑問を問い掛ける。

「それで、何でボクの所に来たんだ?」
(…何だよ、折角会いに来てやったのにその迷惑そうな顔)

素っ気無いアキラの問い掛けに、ヒカルは拗ねて文句を言う。再会を喜んで欲しかったのだろうか?と思ったりもしたが、しかしアキラには文句を言う権利はあっても文句を言われる筋合いは無いと確信していた。

「来るなら実体で来い!」

憤慨したアキラに、ヒカルは(あのな)と呆れた顔をする。

(無茶言うなよな〜。良いじゃん、幽霊でも。いちいち細かいんだよな、塔矢は)
(そんな言い方失礼ですよ、ヒカル)
(だってさー)

何かとアキラを庇う佐為に、ヒカルはすっかり拗ねて頬を膨らます。そんな仕草はとても幽霊には見えない。対する佐為の様子も自然体で、拗ねたヒカルを呆れつつも優しく微笑んで見詰める様は世間で言う所の幽霊と言うイメージを覆す程人間らしさを感じさせた。唯一幽霊だと思えるとしたら、その透き通る程の美しい姿だろうかとアキラは思った。切れ長の澄んだ瞳、すっきりと通った鼻筋、薄く紅をひいた唇、肌は絹の様に白く滑らかで、長く豊かな黒髪は艶やかに光を帯びていた。こんなに美しい人を見るのは初めてだと思うのに、何故か懐かしさを感じている自分を不思議に思った。

ともかく、すっかり恐怖心を無くしていつも通りになったアキラは、容赦なくヒカルに言いたかった文句を言う。

「だいたいキミが死んだのだって、キミの不注意が原因だったんだろう?」
(何だよ、オレの所為かよ?)
(まぁ、あれは確かにヒカルの不注意ではありましたねぇ…)
(あ、オマエまでそんな事言うんだ)
(だって…)
(だいたいあン時オマエが…)

再び延々と続きそうな言い争いに、焦れたアキラは言葉を挟む。

「理由はどうだって良い!」
(塔矢?)
「キミが死んだと聞いて、ボクがどれだけショックを受けたか、キミに判るか?」
(……)
「生涯のライバルだと思っていたキミを失ったと思ったボクは、それこそ碁をまともに打つ事さえ出来ない状態になっていたって言うのに…」
(塔矢…)

俯いて押し殺した様に告げるアキラの声は少し震えていた。ヒカルは自分の死によってアキラが相当な打撃を受けた事を知り、申し訳なく思いつつもある意味感動していた…が。

「悲嘆に暮れていたボクの目の前に、よくも飄々とそんな姿で現れられたな、進藤!」

厳しい顔でビシッと人差し指で指され、ヒカルは思わずホールドアップとばかりに両手を挙げる。確かに緊張感の無い登場の仕方ではあったので、その事に関しては責められても仕方が無い。けれど幽霊であるのは死んでしまったのだから当たり前の事で、それはこの際諦めて貰うしか無かった。

(そんな姿っつったって、死んでんだからしかたねぇだろ! そんなに文句言うなら成仏するぞ!?)
「え…」

ヒカルの言葉に、アキラは驚いた顔で固まる。
そう、ヒカルは既に死んでいるのだ。本当ならもう二度と会う事など無かった筈が、今こうして姿を見て話をする機会を得ている。これには何の意味があるのだろう?とアキラは冷静に考えようとする。

「成仏って……そんな。だいたいキミはどうして幽霊なんかになったんだ?」

(幽霊ってのは、心残りがあって成仏出来ない奴がなるもんだろ)

莫迦にした様に呆れてあっさりと返されるが、アキラには意外な台詞だと思えた。ヒカルは確かに負けず嫌いだったが、あまり物事に執着する性格では無かったので、成仏出来ない程心残りがあるとは思えなかった。

「心残り? キミが?」

アキラのあまりに意外そうな様子に、ヒカルは自覚があったのか怒りもせずに何気に視線を逸らして自分の頭を掻いた。

(オレはまぁ…オマエとの対局が出来なくなっちまうってのが、まぁ心残りと言えば心残りだけど。一番の原因はコイツかな)

大人しくヒカルの傍らで二人の会話を聞いていた佐為は、いきなり話を振られて吃驚した顔をする。

(私?)
「彼が? 彼は一体何者なんだ?」

気になっていたが聞きそびれていた佐為の正体をアキラは訊ねる。ヒカルはまだ佐為の正体を告げていなかった事を思い出し、ちょっとした悪戯心で曖昧に答える。

(コイツ? コイツは……オレの連れ合い)
「連れ合い?」

幽霊を連れ合いと言い切るヒカルの思考がアキラには読めない。そもそも連れ合いと言うのは夫婦とか恋人を指して言うモノでは無いのだろうか?と疑問に思っているアキラを他所に、ヒカルは平然と話を進める。

(コイツは神の一手を極めたいって言う心残りがあって、その為に千年も成仏出来ずにじーちゃん家の蔵の碁盤に隠れてたのをたまたまオレが見つけて…それから今までオレにとり憑いて碁を打ったり打たせられたりしてた訳なんだけど、オレ死んじゃったからもう碁を打ってやれないじゃん。でもコイツはまだまだ打ちたいって言うし、だからってオレはコイツを置いて一人で成仏する気は無いんだよ)

さらっととんでもない発言を事も無げに言うヒカルだったが、聞かされた佐為とアキラはそれぞれ違う意味で驚いた。

(ヒカル?!)
「進藤?」

二人の驚きを気にも留めず、更にヒカルは爆弾発言をする。

(だからまぁ、コイツを強引に連れて行くんなら、オレは成仏出来る訳)

これには佐為も頭の中が一瞬真っ白になり、そして慌てて非難の声を上げる。

(ヒ、ヒカルってば何て事を。それって横暴です〜!)

(うるさいな)
「……」

佐為の苦情を一言で一蹴するヒカルに、アキラは唖然とした顔で見詰める。


(そう言う訳だから、コイツの相手してやってくれねぇ? あ、その後オレとも打ってくれよな。コイツと目隠し碁も良いんだけど、やっぱ局面がある方が気分良いし、オマエともまだ打ちてぇし)

自分と打ちたいと言われる事は嬉しいと感じていたが、どう考えても佐為のついでとして言われた様な気がして素直に喜べない。

「要するに、彼とキミが碁を打ちたいから。その為にキミは此処に来たのか?」
(うん)

悪気も無くヒカルはあっさりと頷く。あまりにも相手の事を考えて無さ過ぎるヒカルの発言に、アキラは眩暈を起こした。

「…き、キミは…」
(何だよ?)
「ふざけるな!」

久しく聞いていなかったアキラの名台詞に、流石のヒカルも怯んだ。後ろに控えている佐為も吃驚し、思わずヒカルの背にしがみつく。

(な、何がだよ)
「何でボクが幽霊になったキミ達の相手をしなくちゃならないんだ?!」
(だって、オマエオレ達の姿が見えるみたいだし。コイツとも打ちたいって言ってたじゃねぇか)

しがみついていた佐為を指差してそう言われ、アキラは怒りを忘れて戸惑う。

「ボクが…? え、その、彼は一体…」

アキラの視線を受けて、佐為は居住まいを正して自己紹介をした。

(申し遅れました。私は佐為。藤原佐為と申します。宜しくお見知りおき下さいね、塔矢)

にっこり微笑んで告げられたその名に、アキラは自分の耳を疑った。

「さ…さいって……」
(あの『sai』だよ)
「……!」

声も無く驚いているアキラを見て、ヒカルは満足げに笑う。

(ホラ、打ちたくなって来ただろ?)

にぃ、と笑うヒカルにしてやられた気分で、思わずじろりと睨みつける。完璧にからかわれているのが悔しくて、何か言ってやらなくてはと考えを巡らそうと視線を移した先に、困った顔で二人の様子を伺う佐為が居た。

この人が『sai』。

父である行洋も含め、あらゆる碁打ちが対局を切望する人物が、今己の目の前に居る。どれ程その正体を知りたいと、会いたいと願っただろうか。その願いは唯一その存在を知っていると思われたヒカルを失ったと同時に永遠に叶わなくなったと思っていたから、今の境遇は千載一遇のチャンスと言えた。
アキラは一つ溜息を吐くと、この非常識で魅力的な申し出を素直に受ける事にした。かなり不本意ではあるけれど、拒否するには勿体無さ過ぎて。
例え幽霊であるとしても、生涯のライバルと囲碁の神様との対局のチャンスを断るなんて出来る訳が無かった。

「…判った。だがボクにも条件がある」
(条件?)
「キミと佐為さんの相手をする代わりに、二人はボクが生きている間はずっと成仏しない事」

アキラの条件に、今度はヒカルが唖然とする。
それは、要するにずっと自分にとり憑いていろと言う事だろうか?

(……オマエって物好きだなぁ)
「キミに言われたく無い!」

碁好きにも程がある、呆れた顔で呟かれるが、幽霊である佐為にずっととり憑かせていたヒカルには言われたくないアキラだった。

(あの…)

とりあえず話が纏まったのを見計らい、佐為が控えめに声をかける。二人が振り向くと、佐為は子供の様に目を輝かせて言った。

(塔矢行洋とも対局させて下さいねv

無邪気な佐為のオネダリに、ヒカルとアキラはガックリと力が抜ける。

(一番の囲碁莫迦は、やっぱ佐為だよな)

そう告げるヒカルの表情は、生前に見たどの表情より良い顔をしていた。

とても幽霊らしくない二人に囲まれて過ごすのも悪くないかなと、アキラも頷いて笑う。

そしてアキラの、長くて楽しい苦労人生は始まった。




END




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小説「そして彼女は拳を振るう」の小畑先生のイラストを見て煩悩のままに書きました。イラストしか見てないので内容は全然関係無かったりします(苦笑)。単にヒカルと佐為の幽霊にとり憑かれるアキラ君が書きたかったと言う…又もや不幸にしてゴメンナサイ、てな感じです〜。
でも振り回されてるアキラ君が好きな私。アキラ君大迷惑?(爆)
しかし、ヒカルは何故死んだのか? 謎の交通事故は謎のままご想像にお任せ致しますv

20031120