棋聖再降臨 幽霊編 8




自分の部屋で碁盤を広げて一人棋譜並べをしていたヒカルは、隣で先程手渡した詰碁集を読んでいる佐為に視線を注ぐと声を掛けた。

「なあ、佐為」
(駄目です)

続けるつもりの言葉を一刀両断されてしまい、ヒカルは不貞腐れた顔で佐為を睨む。

「まだ何にも言ってねェじゃん」
(言わなくても判ります)

顔を上げる事すらせずつれない言葉を吐く佐為に、持っていた本を転がして身体ごと顔を近付ける。

「なあ〜、佐為ぃ〜」

甘える様に顔を覗き込まれ、佐為は呆れた顔で溜息を吐くと、秀麗な眉を顰めてヒカルを窘める。

(駄目ったら駄目です。今日は棋譜の勉強をするって約束でしょう?)
「だってつまんねェんだもん」

口を尖らせて拗ねる姿は、初めて出会った子供の頃を思い起こさせて微笑を誘うが、今は和んでいる場合では無いと無理矢理難しい顔をしてみせた。

(つまらないって…)
「折角佐為が居るのに何で一人で棋譜の勉強なんてしてなきゃいけないんだよ。こんなのいつでも出来るじゃん」
(と言っていつもやってなかったでしょ? 棋譜並べも棋士にとって必要な勉強なんですから真面目にやって下さい)
「……ケチ」
(ヒカル)
「判ったよ! やれば良いんだろ、やれば」

そう言ってクルリと背を向け再び棋譜並べを始めるが、暫くすると手が止まる。こちらを窺っている気配を感じてはいても、佐為は知らんフリを決め込んでいた。
けれど、佐為がヒカルの様子を気にならない筈も無く、折角手渡された詰碁集や海外棋戦の棋譜を開いていても全く頭に入らない状態だった。

ヒカルが私と打ちたいと言ってくれるのは何よりも嬉しい。でも、ヒカルの成長の為には一人で勉強する事も大切な事。……我侭を言わない様に耐えている私の気持ちも知らず、全く困った人ですね。

ふう、と軽く息を吐くと、何時の間にか自分を見詰めているヒカルと目が合った。

「なぁ、佐為」
(打ちませんってば)
「そうじゃなくて」
(?)
「オマエ、昔はあんなに“打ちたい、打たせろ”って言ってたのに、今はあんまり言わなくなったよな」

真面目な顔で問われた内容に内心ドキリとするが、気付かれない様になるべく平静を装って首を傾げてみせた。

(…そうでしょうか)

一拍間が空いてしまったのを見逃さなかったヒカルは目を眇める。

「オレに遠慮してる?」

真意を問うかの様に顔を覗き込まれて問い掛けられ、嘘が下手な佐為は間近で視線を合わせたまま話し続ける事は出来ず、慌てて眼を逸らしつつ否定する。

(そうではありません。あの頃の私は…余裕がありませんでしたから。今はヒカルの協力のお陰で沢山の人と打たせて貰ってますから、十分満足してますよ)

そう、それは嘘では無い……けれど真実でも無い。

「嘘吐け。夏休み一杯ずっとネット碁三昧してたってまだ足りないと催促しまくってた癖に」

間髪入れずに突っ込みされる。佐為の考える事など、ヒカルにはお見通しなのだろう。ヒカルの考えが佐為に丸判りなのと同様に。それはお互いが相手にとり憑きとり憑かれている関係からという理由ではなく、長い間の付き合いからだと理由が変化している事に、今は二人共口に出さずとも気付いていた。

(……い、良いんです! ヒカルは私の心配より自分の心配をなさい。昨日和谷に負けたのは誰ですか?)

それでも無理矢理話を逸らそうと痛い所を突けば、ヒカルも勢いが弱くなる。

「う。…あ、あれはちょっと調子が悪かっただけだ。次は絶対ェ勝つって!」
(……)

疑いの眼差しで見詰められ、居心地悪げに顔を背ける…が、当初の問題を思い出して直ぐに向き直り、真面目な表情で問う。

「それより、今日はオマエ全然打ってねェじゃん。オレと打つのが嫌なら、ネット碁でもするか?」

ヒカルの優しい申し出に飛びつきたい気持ちは山々だったが、それでは結局彼の時間を潰してしまう事になる。自分は流石にパソコンに触る事は出来ないのだから。

(別にヒカルと打つのが嫌な訳じゃありません。そんな訳無いでしょう?)
「だったら打とうぜ。最近オレばっか打っててつまんねェだろ? 今更遠慮なんかすんなよな」
(そんなに気を遣わなくても良いですよ。私は打てなくても……そうですね、三人目にとり憑いた時にでも沢山打たせて貰いますから)

軽口のつもりで言った佐為の言葉にヒカルは笑顔を凍りつかせ、佐為を驚いた顔で見詰める。青褪めた表情で黙ってしまったヒカルに佐為は戸惑い、困惑げに微笑みを向けた。

(昔、ヒカルがそう言ったんですよ。三人目に打たせて貰えって)
「……そんな事言ったっけ?」
(言いましたよ)

都合の悪い事はすぐ忘れてしまうヒカルに、全くもう、と佐為は大きい溜息を吐いただけだったが、溜息を吐きたいのはこっちの方だと、ヒカルは思いっきり不機嫌になる。
その一言は(自業自得とは言え)今の自分には冗談では済まされない発言で、過去の自分を呪い殺せるものなら殺したいと思った。

(だから良いんです。今は…ヒカルの成長を見守って、一緒に過ごせるこの時をただ大切にしていたいだけですから)

本心からの言葉なのだろう。けれどフワリと微笑んだ佐為に笑い返す事は出来ず、両手をぎゅっと握り締める。

「だから、オレが生きてる間は碁を打つのを我慢出来るって?」
(…え、ええ。……多分)

何故ヒカルが怒っているのか判らず、佐為は戸惑う。自分が打ちたいと言わなければ、ヒカルは自分自身で打つ時間が増えるのだ。今の自分はヒカルの成長を妨げる存在でしかない。それが判っているから…それだけはしたくなかった。彼の時間を奪う事は出来ない。もう、これ以上。
…それがヒカルをより悲しませる結果になるとも気付かずに。

「それでオレが死んだら他の奴にとり憑くってのか?!」

泣きそうな顔で責めるヒカルの言葉に、佐為はどう答えて良いのか判らなかった。本当は、ヒカルが亡くなった後の事なんて想像する事は出来なかった。虎次郎を失った時は悲しみで頭が真っ白になり、気が付いたら碁盤に魂を委ねていた。自分の意識を保てる様になったのは、それからどの位経ってからだったろう。漸く気持ちが落ち着いた頃、幼いヒカルに出会ったのだ。碁を打てると言う喜びはもとより、ヒカルと心を通わせるその日々が楽しくて嬉しくて、それがどれ程佐為の心を明るくした事だろう。

今度ヒカルまでを失ったら自分は……まだ神の一手を目指していられるのだろうか?

それでも消えずに一人残されたのならば、自分に出来る事は碁を打つ事だけだ。この先どんなに辛く悲しい別れが待っているとしても、己が存在する限りその相手を求めるしかない。それが自分の存在している理由の全てなのだから。

(だって…今までそうでしたし。又消えてしまわない限り、碁を打ち続けたいと思う気持ちは…きっと変わりません。…変えられないでしょう?)

悲しげに微笑む佐為の気持ちがヒカルには判らない。判るのは、彼がいつか自分では無い人を選ぶ日が来ると言う事だけだ。自分に向けられた笑顔や眼差しを、知らない誰かに同じ様に。

「オマエ…! 本っ当に碁が打てれば誰でも良いんだ?」
(そっ…そんな事言ってません!)
「言ってる様なモンじゃねーか!」
(だって、それじゃあ私はどうしたら良いんですか?)

――それしか私には残されていないと言うのに

口に出来ない続きの言葉を飲み込み、泣きそうな顔で問いかける佐為に、ヒカルは自分の方が泣きたいと思ってしまう。
離れたくない。ずっと一緒に居て、自分だけを見ていて欲しいと思っているのは自分だけだと思いたくない。彼を手放す気など、ヒカルには全く無いのだ。

例え、それが自分の死後であったとしても。絶対に。

握り締めた拳を開いて胸に当てると大きく息を吸う。
伝えなければいけない。自分の本心を、偽らずにはっきりと。そうでなければ、この鈍感な幽霊には永遠に伝わらないだろうから。自分が如何に、この愛しい幽霊に執着しているのかと言う現実を。

「佐為」
(はい)
「三人目は無いぜ」
(? 何でですか?)

真っ直ぐ見詰めて真剣な表情で言うヒカルの様子に、佐為は不思議そうに首を傾げた。

「オレ、オマエを残して死ぬつもりねェもん」
(?? だって、ヒカルは…人はいつか亡くなるものですよ)
「うん」

ヒカルが何を言わんとしているのかいまいち判らない佐為は、神妙に次の言葉を待っていた。

「だからさ」
(はい)
「オレが死ぬ時は、オマエも連れて行くから」
(……は?)

あっさりと言われた言葉は佐為の想像を超えていて、直ぐに理解する事は叶わなかった。キョトンとした顔をしている佐為を見て、ヒカルは薄く微笑む。その表情からはいつもの子供っぽい気配は失われ、何時の間に身についたのか男臭さすら感じさせる。するりと伸ばされた手が佐為の頬にかかった髪を優しく掻き上げ、その仕草に佐為は思わず息を呑む。

「虎次郎はオマエを残してさっさと成仏しちゃったけど、オレはそんなつもりないから」
(え? ちょ、ちょっとヒカル?)
「嫌だって言っても聞かないからな」
(あのっ…)
「ずっと一緒だ」
(ま、待って下さい! だってそんな、連れて行くって…)

神の一手は?

そう口に出しそうになって、佐為は慌てて口を閉じた。そんな事を言ったら、ヒカルは又「やっぱりオレより碁の方が大事なんだ」と言うだろう。今の佐為にとって、ヒカルも碁も両方とても大切なモノだ。比べるなんて出来る訳が無い。

どちらも大切。どちらも失えない。

困り果てた佐為の様子に、ヒカルは苦笑を浮かべる。

ほんっと、佐為って判り易いよな。

碁と自分を天秤にかけて迷う佐為に、ヒカルは内心満足していた。だって佐為にとって碁は…神の一手は『佐為が存在する全ての理由』なのだという事を知っているから。悩んでくれるだけでも嬉しかった。何も考えずに自分を選べ、と贅沢は言わない程度に自分だって大人になったのだ。それでも譲れないモノはあるけれど。

「へーきだよ」
(?)
「オレ、もっともっと強くなる。塔矢や塔矢元名人、日本だけじゃなく韓国・中国・台湾の棋士達の誰にも負けねぇ位強くなってやる」
(ヒカル…)
「それで佐為、オマエにも勝てる様になったら。そしたらさ」

間近にあるヒカルの瞳をじっと見詰める。何時の間に、こんな大人っぽい表情をする様になったのだろう。落ち着かない心に僅か戸惑う。

「一緒に神の一手を極めよう」
(……!)

ヒカルの真摯な言葉に、佐為は声を失う。

想像する事をとっくの昔に放棄していた。ヒカルと自分が共に神の一手を目指す事など。

自分の存在がヒカルの為に在ったのだと思ったあの時、全てをヒカルに託したつもりだった。神の一手を極めるのは自分ではなく、ヒカルが…若しくは他の誰かが何時の日か辿り着くのだと思っていた。それで良い、と思ってはみても、やはり自分自身でと望んでしまうのは仕方の無い事。そんな佐為にヒカルは言うのだ。共に神の一手を目指そうと。

佐為の瞳から雫が落ちた。

「さ、佐為…?」

いきなり泣き出した佐為の様子に、ヒカルは焦って誰も居る筈の無い自分の部屋で左右を見渡し、慌ててポケットからハンカチを取り出して佐為の涙をそっと拭う。

「おい、泣くなよ」
(だって…)

ハラハラと零れる透明な雫を止める事も出来ず、ヒカルは困り果てて頭を掻くと、意を決して佐為の背中に手をやり、自分の肩に引き寄せた。佐為はそのままヒカルの肩に顔を埋め、声も無く泣いた。

ヒカルの優しさが、想いが嬉しくて、困らせてしまうと判っていても、涙は当分止められそうに無かった。


神よ。 この為に、再び私とヒカルを出会わせてくれたのですか?






END

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原作の最終回はヒカルと佐為が神の一手を求めて本気で打ち合うのだと思っていましたが、叶えられなかったので自分で書いてみました。…打ち合ってませんけど(笑)将来競える仲になれたらなーと願いを込めてます。

一応これで終了のつもりでしたが、ちょっとしたアホネタが思い浮かんだので続きがあります。宜しかったらもう少しお付き合い下さいませ。


20050130