棋聖再降臨 幽霊編 7




ある晴れた昼下がり。日本棋院に向かって歩いていた二人は、何やら少々揉めている様子だった。

「だってさ〜」

不貞腐れた顔で言い訳をするヒカルに、佐為は秀麗な眉を寄せて嗜める。

(だってじゃありません。見ていたテレビを突然消されたりしたら、お母さんだって吃驚するでしょう?)
「そんな事言ったって仕方ねェじゃん! ……アイツの顔見たく無かったんだから」

拗ねて小さく呟いたヒカルの台詞に、佐為はキョトンとした顔をして首を傾げる。

(? アイツって誰です?)
「…オマエには関係ねェよ」
(又そう言う…)

そっぽを向いてしまったヒカルに溜息を漏らす。年頃の男の子なら隠し事の一つや二つあっても当然だとは思うが、そうあからさまに言われてしまうと佐為としてもあまり気分の良いものではなかった。

(だいたいヒカルはですね…)

いつもの小言に突入しようと向けた視線の先に見知った人物を見付け、佐為は気を取り直してそっぽを向いたままのヒカルの肩をトントンと軽く叩いた。

(ヒカル、塔矢ですよ)
「え?」

佐為の視線を辿って振り向くと、気難しい顔で何かを考え込んでいるアキラが目に映った。あまりにも真剣なその表情に声を掛けようか一瞬ヒカルは迷ったが、それより先にこちらに気付いたアキラは二人を認識するとたちまち柔らかな表情になり、心持ち早歩きで近付いて来た。

「佐為さん、こんにちは。先日も父との対局ありがとうございました。相変わらず素晴らしい一局で、見ているボクもとても勉強になりました。あ、あの、それで…宜しければ、今度ボクとも相手をして頂きたいのですが」

礼儀正しく挨拶をした後遠慮がちに願い出た申し出に、佐為は嬉しそうに笑って頷いた。

(こんにちは、塔矢。ええ、こちらこそ勿論喜んで。行洋さんはお元気にしていますか?)
「はい。今は中国に向かう準備で慌しくしています。一週間程したら帰国するので、その後又佐為さんと対局したいと言っていました」
(そうですか。それは楽しみですね。気をつけて行っていらっしゃいませとお伝え下さい)
「はい」

お互い笑顔で楽しげに会話を交わす様を見て、ヒカルは些か不機嫌になる。

「……おい、ちょっと待て。何でオマエ等そんな仲良さそうなんだよ? てか、塔矢。先に佐為に挨拶すんのかよ!?」
「ああ。キミも元気そうだね、進藤」

憤然と喚くヒカルを意に介す風も無くさらりと受け流すアキラの態度は、彼の扱いが既に堂に入っていた。佐為はふと(今までの苦労の賜物でしょうか…)等とアキラの成長振りを感慨深げに見詰めていたが、対照的に“そう言う部分ではあまり成長が見られない”もう一人の方を見て、複雑な心境を軽い溜息と共に吐き出した。

「オマエなぁ!」
(ヒカル。八つ当たりはいけません)

子供を嗜める様に優しく言い諭す佐為の言葉でヒカルは「うっ」と黙り込む。そんな二人の様子を不思議に思ってアキラは首を捻って何事かを訊ねた。

「どうかしたんですか?」
(それがですね。家を出る前に突然ヒカルが…)
「あー煩いっ!!! 二人で会話を進めんな!」

佐為の言葉を遮る様に喚くヒカルを、アキラは呆れた顔で見やった。

「…煩いのはキミの方だろう? 全く、さっきから子供みたいに騒いで…」
(ヒカルは自分だけ除け者にされたみたいで拗ねているのですよ)
「拗ねているというか、単にヤキモチを焼いているだけでしょう」
「や…!? だ、誰がヤキモチなんかっ!!」

真っ赤になって怒り出すヒカルに、佐為は一瞬驚いた顔をしてその後ニッコリと微笑んだ。

(ああ、そうだったのですか。大丈夫ですよ、ヒカル。私は塔矢を取ったりしませんから)
「え…いや、佐為さん。そうではなく…」

佐為の天然ボケ振りに、ヒカルだけでなくアキラも脱力した。こんなやり取りを目の当たりにすると、今までのヒカルの苦労が忍ばれると思うけれど…それも幸せの内かと思うと同情する気も余り無かったりするアキラだった。

「あ〜、もう良い!! ほらっ、行くぞ塔矢。今日も勝ってやるかんな!」
「そうはいかないよ。この間みたいにそう度々上手くいくとは思わないで貰いたいな」

先日の天元リーグ戦で敗北してしまったアキラはムッとして睨みつけるが、ヒカルは得意げに笑った。

「ふん、負け惜しみかよ」
(ヒカル。油断大敵だと先程も…)
「煩いな。佐為は黙ってろ」
「対局前に随分威勢が良いな、進藤」

間に突然入ってきたその声に、3人は驚いて視線を向ける。トレードマークのメガネを光らせ、いかにも高そうなスーツをそつなく着こなしているその姿は。

「げ、緒方先生!」

何気に身を引いたヒカルを他所に、アキラは近付いて挨拶を交わす。

「緒方さん、こんにちは。今日はどうしてこちらへ?」
「いや、棋院に用事があったんでね。ついでにキミ達の対局を見学させて貰おうと思って待っていたんだ。今日の勝利者が次の私の相手だからね。どちらが自分と対局する事になるのか、興味が湧くのは当然だろう?」
「……佐為を誘いに、の間違いじゃねェの?」
(ヒカル)

胡散臭そうに問い返すヒカルに佐為は慌てたが、緒方は気にする風でもなく楽しそうに笑っていた。

「ははは。まぁ、あながち間違いでは無いな」
「緒方先生相手にだって、佐為は渡さないからな!」

殊更ムキになるヒカルを緒方は面白そうに見やり、意地悪く笑みを湛えながら挑発する。

「別に佐為さんはキミのモノじゃないだろう?」
「オレのなの!」

間髪入れずに惚気るヒカルの台詞に、アキラは思い切り脱力感を味わう。

「………アレ、放って置いても構いませんか?」
(えーと…)

何となく居た堪れなくて、佐為は明後日の方向を見詰める。

「じゃあ、こうしないか? キミがアキラ君に勝ったら私は大人しく帰るとしよう。アキラ君が勝ったら佐為さんを一日貸して貰う。どうだ?」
「何でそんな賭けしなくちゃなんないんだよ」

仏頂面で言い返すヒカルを、莫迦にした様に口元を上げて見せた。

「自信が無いのか?」
「じょっ…!」

無視して先に対局の間に行こうとしていたアキラは、二人の不穏なやりとりに慌てて戻って間に割って入る

「ちょっと待って下さい! 勝手にボクと佐為さんを巻き込まないで下さい。進藤、キミも緒方さんの挑発に簡単に乗ったりするなよな」
「だって…」

むくれて文句を言おうとするヒカルの声を遮る様に、今まで黙っていたj渦中の人である佐為が言葉を紡いだ。いつもよりトーンの低い、静かな口調で。

(ヒカル。緒方さん。…まさか神聖な対局を、賭けの対象になんてするつもりではありませんよね?)
「………」
「………」

にっこりと微笑む無言の迫力に、二人は言葉を無くして頷くしかなかった。





佐為がヒカルの師匠であり『sai』である事は、今や日本の囲碁界では公認になっていた。そして恐れていた“佐為が幽霊である”と言うことも、信じる信じないはともかく認知されていた…のだが、だからと言って流石にヒカルの対局する場にいつも同席するのを許可される筈も無く。今回も戸惑いがちに声を掛けられた。

「申し訳ありませんが、藤原さんはお隣のモニター室でお待ちしていて頂けますか」
(はい。ありがとうございます)

既に慣れたもので、最初は(口にこそ出さなかったが)些か不満に思っていた佐為も今では大人しく頷いて素直に指示に従うようになっていた。それに今日みたいにモニターででもヒカルの打つ碁が見られるのは嬉しい事だったので、感謝の気持ちをこめてニッコリと微笑んで礼を言っただけだったのだが、佐為に笑顔を向けられた相手は必ずと言って良い程見惚れてしまう為、今回も例に漏れず案内した男は暫しぼうっとしていた。
老若男女問わず好感を持たれる佐為故にそれも仕方が無いかと判っていても、やはり良い気分はしないヒカルを面白そうにちらりと見て、一緒に付いていた緒方がからかい混じりに言った。


「じゃあ、私もそちらに行こうかな」
「佐為。変なコトされそうになったら叫ぶんだぞ」

速攻で真剣にそう言い聞かすヒカルに、アキラは眩暈を感じて頭を押さえる。

「進藤。幾ら緒方さんでも男性相手には…」
「男でも幽霊でも相手は佐為だぞ」

それは君だけだろうと言い返したかったが、真面目にそう言われてしまったので自然と視線が佐為に移動する。サラリと流れる艶やかな黒髪。透き通る様な滑らかな白い肌。端正な顔立ち。女性と見紛う美貌を備えたこの青年に、興味を持たない人が居るだろうかと逡巡したアキラは、躊躇った後小声で告げた。

「………一応、気をつけて下さいね、佐為さん」
「オマエ等、先輩に向かって言いたい放題だな」

小声でも側に居れば聞こえるのは当たり前で、心外だと口では文句を言いながら、しかし目は笑っていた。それでも佐為には申し訳なさが先にたった様で、緒方に向かって非礼を詫びる。

(………すみません)
「いや、貴方が謝る事では無いだろう。さ、行こうか」

緒方にエスコートされる形で自分から離れて行く佐為を、ヒカルは複雑な心境で見送る。そんなヒカルにアキラは呆れた顔で溜息を吐いた。

「……進藤。集中出来なくて負けたなんて言い訳は無しだからな」
「するかっ!」

ヒカルは集中すべく、後ろポケットに差し込まれたいつもの扇子を取り出し、ぎゅっと握り締めた。







ヒカル達の対局が見られる様、隣のモニター室に設置されている画面にて盤上を見守っていた二人だったが、食い入る様に画面を見詰めている佐為の横顔を眺めて緒方はふと笑みを零した。

「貴方とは、以前からゆっくり話がしたかった」

いきなり話し掛けられた事で現実に戻った佐為は、緒方の意図が判らず首を傾げた。

(私と…ですか?)

不思議そうに純真無垢な瞳を真っ直ぐに向けられ、内心の焦りを押し隠して笑みを返した。

「ええ。…ずっと謎の棋士だった『sai』の正体が、進藤に取り憑いている幽霊だと塔矢先生から初めて聞いた時はからかわれているのかと思って憤慨していたりもしたが、棋譜とネット碁での先生と打つ貴方の碁はまぎれもなくあの『sai』だと判って……あの日から居ても経っても居られなくなっていた」
(……)

佐為が『sai』だと知ると、大抵の碁打ちは佐為と打ちたがった。佐為が幽霊であると言う事を知られてしまっても、恐れられる所か興味津々で質問攻めに合う事も今や日常茶飯事になりつつある。普段は隣に常にヒカルが居る為、一部を除いてあまり直接話す機会が無かったが、こうして少し離れた場所で誰かと二人きりになるなど滅多に無い事なので、佐為は内心戸惑っていた。そんな彼の心を知らず、緒方は視線を逸らさず見据えたまま話を続けた。

「今直ぐに、と言いたい所だが、弟子である進藤の対局が気になるでしょう。…今度私と手合わせ願えるだろうか」
(ええ。ヒカルの許しがあればいつでも)

微笑んでさらりと返された言葉に、緒方は僅かに眉を顰める。

「……貴方は」
(はい?)

純粋な瞳でじっと見返す佐為の姿に偽りは無く、彼がその事について何の疑問も持たずにいる事を知る。緒方は一端口を閉じ、逡巡した後深い溜息を一つ吐いて呟いた。

「貴方は何故、進藤に取り憑いているんだ?」

突然振られた疑問に、佐為は不思議そうに首を捻った。そんな事、今更聞かれるとは思わなかったので。

(何故、と言われましても…。初めて会った時、私が見えるのはヒカルだけでしたから…)
「今は違うだろう。それこそ塔矢先生や貴方の強さを求める大勢の棋士に取り憑く事も今なら出来る筈なのに、何故未だに進藤なんだ?」

佐為は驚いたように目を見張った。そんな事は今まで疑問に思う事も無かったし、だから考えもしなかった。けれど、それはもしかして間違っていたのだろうか?

(それは、…ヒカルから離れた方が良いと?)
「そう言う訳ではない。が、進藤は貴方の指導のお陰でもう十分強くなった。リーグ戦まで辿り着き、タイトル保持者を脅かす程にな。一人前の棋士として、もうこれからは他の者と同じく自分自身の力で成長していくべきだろう。だから貴方はもう自分自身の碁を打っても良い筈だ」
(…私は)

自分自身の碁を打ち、神の一手を目指す?
ヒカルから離れて?

考えた事も無かった。傍らにヒカルがいないという事。その意味。

その昔、確かに自分は一人で神の一手を目指し、帝の囲碁指南役として仕えていた。沢山の人に囲まれながら、実際自分は一人だった。気の許せる、心を通わせる人は誰もいなかった。あの時はそれでも幸せだった。碁が打てるのなら、と。

でも今は?


―――佐為


笑って名前を呼んでくれていた人を失った時の辛さ。


―――佐為


求め、交わす言葉と向けられた眼差し。

(…私は)

失いたくない。もう二度と。
永遠を望む事は不可能だと判っていても……。

(私が離れたくないのです。例え自分の碁を打てないとしても。……ヒカルが私をいらないと言うまでは)
「……それは」

バタン、と音を立てて扉が開く。息を切らせて走って来たのだろう、ヒカルが其処に立っていた。

(ヒカル)

突然現れたヒカルの姿に驚く佐為とは対照的に、緒方は待ってましたとばかりにニヤリと笑ってからかう言葉を投げ掛けた。

「何だ、進藤。もう負けたか」
「負けてねェ! 佐為! 大丈夫か? 変なコトされなかったか?!」
(ヒカルったら…)

こんな時にふざけて…と、佐為は先程の真剣な会話の事を忘れて呆れ顔で溜息を吐く。

「佐為さんに触れるのはオマエだけなんだから、不埒な真似など出来る訳なかろう」
「そんなの判んねーじゃん! 言葉のセクハラとかだってあるんだぜ」
「失礼な。桑原のジジイじゃあるまいし」

緒方も大概不遜な台詞を吐きつつ、ヒカルの姿を見て安心した様な表情でいる佐為に苦笑を漏らす。

「進藤! 勝手に飛び出して行くんじゃない! 幾らお昼休憩だからって少しは真剣に…」
「何だよ、真剣に打ってるし、今の所オレの優勢なんだから良いだろ。佐為、腹減った。飯食いに行こうぜ」

ヒカルの勝手な言い分に、アキラは堪忍袋の緒が切れ声を荒げた。

「キミはっ!!!」
(ヒカル)

窘められたヒカルはたちまち不機嫌な顔になる。対局中は全ての事を忘れているとはいえ、傍らに佐為がいないと言う事はヒカルには耐え難い事だったから、我に返れば直ぐに会いたいと急いてしまう態度を諌められてもヒカルには納得出来ない。

「だって…」
「判った。それじゃ、皆で食事に出掛けるとしようか。要するに、進藤は佐為さんが側にいないのが不満で、アキラは進藤が佐為さんばかりに気を取られているのが不満なんだろう?」
「なっ…」
「お、緒方さん?!」

図星を指されて顔を真っ赤にして言葉を失っている二人を他所に、隣で困った様に己を見詰める佐為に笑みを浮かべ、さり気無く手を差し伸べる。

「美味い蕎麦屋を知っている。さ、行こうか」
(私は食べられませんけれど。それに、あの…)

困惑したままの表情で緒方が差し伸べた手をじっと見る佐為に、緒方は「雰囲気ですよ」と笑って手をとるフリをした。佐為も苦笑して抗わずに手をとったフリをして付いて行くと、緒方は満足げな顔をした。

「食事が出来ないと言うのは残念だな。今度貴方を美味い店に誘いたかったのだが。…ああ、でも進藤から食べさせて貰えば食べられるかもしれませんよ」
(た、食べさせて…?)
「出来れば私がやってさしあげたい位だが」

とんでもない事をさらりと言ってのけている緒方だったが、幸いにもその台詞はヒカルの耳には入って来なかったので、訪れていただろう一悶着は回避された。
部屋を出掛かった時、緒方はふと先程の会話を思い出して振り返る。

「…ああ、そうだ」

(?)
「さっきの話。アイツが貴方を手放すなんて事はありえないから、安心してずっと側にいられますよ」
(え)
「佐為! 何付いてってんだよ!」

中睦まじく(とヒカルには見えた)会話を交わし、あまつさえちゃっかり至近距離に顔を近づけている緒方から奪い返すかのように両肩を掴んで己の方に引き寄せた。突然の事にぼんやりとしている佐為に苛立ったヒカルは、彼の細い腕を手に取って自分の手を握らせる。

「ほら、行くぞ」
(……はい)

恥ずかしさを誤魔化す様に仏頂面で促すヒカルと、そんな彼の態度を嬉しそうに笑って返事を返す佐為を、緒方は眩しそうに見詰める。

「全く、相変わらずだな…。緒方さん? 行かないんですか?」
「ああ、今行くよ」

アイツが連れて行く場所など、きっとファーストフード店あたりだろう。まぁそれもたまには良いかと思いつつ、自分が今羨望の眼差しで二人を見ている事に気付いていた。


オレは…羨ましいのかもしれないな。お互いが、お互いを必要とする二人の関係が、な。


らしくもない己の感情に苦笑する彼に、気付く者はこの場には居なかった。







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ちょっと緒方さんが書きたくて軽い気持ちで書き始めたら何故か妙に長く……(汗)。


20041003