棋聖再降臨 幽霊編 6




今日の対局で久し振りに塔矢に勝ったヒカルは、塔矢との長い検討が終わった後も仲間内で検討しようと誘われ、半ば強引に引き摺られる様にして和谷の部屋に来ていた。散々皆で検討をし終えた後そのまま飲み会へと突入して、今は伊角と佐為の四人が残っていた。とは言え、主役のヒカルは最初から調子良く次々と飲み続け、良い気分のまま早々に酔い潰れて佐為の隣で寝てしまっていたのだが。
気持ち良さそうに寝ているヒカルを佐為は優しく見守り、顔にかかった金色に淡く輝く前髪を梳いて愛しげに微笑む。そしてそのまま向かい側で飲みながら談笑している二人に視線を向け、彼は真剣な口調で切り出した。

(伊角さん、和谷。教えて頂きたい事があるのです)

神妙な面持ちでそう言われ、二人は不思議そうに顔を見合わせてから頷いた。

「何でしょう? ボク達に分かる事でしたら遠慮なく聞いて下さい」
(それでは…あの…)

言い難そうに言葉尻が淀んで俯きかけるが、ぎゅっと唇を噛むと勢い良く顔を上げて二人を真っ直ぐ見据えて問うた。

(私がヒカルの側にいなかった時の事を教えて下さい)
「……!」

伊角は息を呑んで驚いたが、和谷は「何だ、そんなコト」と肩の力を抜いて軽い調子で笑った。

「俺達に聞くより進藤に聞いた方が良いんじゃないの?」
(そう…なんですけど)

再び視線を落として困り果てた佐為に代わり、伊角は和谷の配慮の足りない台詞に溜息を吐いて嗜めた。

「聞ける訳無いだろ。藤原さんが消えた後の事だぞ。あの時の進藤を、オマエだって知っている筈だ」
「…あ」

ようやく状況を理解した和谷は、すまなそうに肩を落として伊角と佐為を見た。

「藤原さん。貴方が訊ねているのは、貴方が消えた後の進藤の事ですね?」
(はい)
「進藤には…聞きましたか?」
(…いいえ。でも)

伏せ目がちに小さく答える彼が何だか儚げで、伊角は戸惑い優しく問いかける。

「でも?」
(再会した時、私に全部打たせると言っていたんです)

伊角も和谷も、目を丸くして息を呑む。

「え?」
「それって…」

―――藤原さんに全部打たせるという事は、つまり…。

確かに佐為と打ちたいという願望は多くの棋士達が持つであろう事は判りきった事実だが、ヒカルの碁を知っている人間からすると、彼の碁も失わせるには惜しいと思うだろう。ヒカルの底知れない強さは、その先を見ていたいと思わせる何かがあった。特に彼のライバルであるなら尚更。

(消える前に私がずっと『自分に打たせて』と言っていたから、きっと喜ぶと思ったのでしょうね。でも今は…私もヒカルに打っていて欲しかったから、直ぐ断りました)

ほっと胸を撫で下ろした二人だが、悲しげな彼の表情に何故か胸が痛んだ。

(再会してからのヒカルは、いつも酷く優しくて…。いいえ、以前から彼が優しい子供だと言う事は知っていました。只、子供故に表に出すのが不器用なだけで、その心はちゃんと私にも伝わっていました。けれど、今のヒカルの優しさは…時々息が詰まりそうになるんです)

胸を押さえ、ぎゅっと強く瞼を閉じる。心の痛みが、見ている者にも伝わる様な表情だった。そっと目を開け、静かに紡ぐ言葉はまるで独り言の様に小さく儚げで。

(私は側に居るのに。ヒカルの事を想っているのに。…ヒカルはいつも悲しい位に私を失う事を恐れているんです)

二人は暫し声を失って、今にも消えそうな表情でヒカルの寝顔を見詰める佐為を眺めていた。
伊角は真実を告げても良いものか躊躇したが、下手に隠して誤魔化すよりは二人の為だと思い、なるべく佐為を傷つけない様に言葉を捜しながら話し始めた。

「貴方がいなくなった後、進藤は二ヶ月間全く碁を打たなかったんです。…碁を、やめる気でいたみたいです」
(……っ!)

佐為は声を失った。ヒカルが碁を打たなくなる等、考えた事が無かった。いつも楽しそうに打っていた姿を思い出す。自分が打とうと言えば、文句を言いながらもそれでもいつも真剣に相手をしてくれていた。確かに再会した時、ヒカルは「全部佐為に打たせてやる」「自分は佐為とだけ打てれば良い」と言っていたが、本気であると思わなかった。…いや、思いたく無かったと言うのが本当だろう。

「棋院にも近寄らねェし、やっと捕まえて説得しようとしても逃げちまうし…」

ぼやく和谷に頷き、伊角は佐為を見詰めて言った。

「オレはプロになる前にどうしても進藤と打ちたかったんで、家に行って説得して打って貰ったんです。その対局途中…」

言い淀む伊角に、佐為と和谷は視線を注ぐ。暫し躊躇った後、意を決して告げた。今まで誰にも話していなかった、二人だけの出来事を。

「泣き出したんです。声も出さずに、只碁盤を見詰めて。その時こう言ってました。『打っても良いのかもしれない』と」
(………)
「……」

佐為は今にも泣きそうな顔で黙り込んだ。震えそうな身体を抑える為、ぎゅっと手を握る。


―――私は…

自分が消えてしまうと気付いて焦っていたあの時、ヒカルとの意思が伝わらなくなった悲しさから意地悪な思いが頭を過ぎった。

ヒカルなんて、私がいなくなってオロオロすれば良いんだ


本当にそれを実行するつもりなんて無かった。ただ、最後に声が届かなくなってしまい、実際その通りになってしまっただけで。でもそれは言い訳にしかならない。
だって再会した時のヒカルの言動が、彼の心の全てを現していたから。

―――私は、ヒカルをそれ程までに傷付けていた?

和谷も驚き、寝ているヒカルを見た。あの頃の姿を微塵も思い出させない程、今のヒカルは穏やかに眠っていた。

「そっか…そんな事があったんだ。あの後オレ達に会いに来た進藤はいつも通りの進藤で、まるで何にも無かったみたいにあっさりしてたから『心配して損した』とか皆で文句言ってたんだけど……理由については深く聞けずにいたんだよな」

判ってやれなかった自分を反省して落ち込む和谷に、伊角は微笑して軽く肩を叩いてやる。

「それで良かったんだよ。オレだって理由は知らなかったし聞けなかった。多分聞いても答えてくれなかっただろう。進藤は、あの時一人で悲しみを乗り越えて成長したんだ」

伊角の言葉に、佐為は伏せていた顔を上げる。

「だから、もう心配無いと思います。今は多分、幸せ過ぎて怖いんでしょう。…貴方を再び失う事が」
(私は…)

その時、ヒカルが身じろぎした。小さく唇が動いたが、言葉は聞き取れなかった。それでも、佐為にはヒカルが何と呟いたのか判っていた。

自分の名を呼んでいるのだという事を。

捜し求めて伸ばした手を、そっと握り締めてやる。するとヒカルは安心した様に、けれど手放したくないとばかりにキュッと握り返した。佐為は涙が零れそうになるのを必死で堪え、もう一方の手を添えて優しく包み込む。他にどうして良いのか判らなかった。


切なくて、…愛しくて。


「それは藤原さんにもどうしようも無い事でしょう。それは進藤も判っていると思います。だからせめて、一緒に居られる間は思い残す事の無い程幸せな時を過ごしていて下さい。そして…もし万が一再び消えてしまう事があったとしたら、その時は…しっかりと進藤に伝えてやって下さい」
「なかなか納得しねェと思うけどな」

拗ねた様に付け足す和谷の台詞は、ヒカルの気持ちを代弁しているけれども和谷自信の気持ちも大きく含まれている気がして、伊角は興味深げに和谷を見詰めた。

(はい。ありがとうございます、伊角さん、和谷)

ヒカルは幸せ者ですね、と泣き笑いを浮かべながら、傍らで眠っているヒカルに向かって微笑む。見ている者を切なくさせる微笑だった。







二人が帰った後、和谷は部屋に泊まって行く伊角の為に客用布団を押入れから出しながらぼやく様に呟いた。

「しっかしさぁ、進藤ってホント幸せ者だよな」
「そうだな。人生が変わる程の出会いなんて、滅多に無い事だしな」

食器を片付けながら相槌を打つ伊角に、和谷はシーツを敷く手を止めてその後姿をじっと見詰めた。

「伊角さん」
「ん?」
「伊角さんも、オレに黙っていなくなったりしないよな?」
「……」

驚いて手を止め振り向くと、其処にはいつに無く真剣な表情で己を見詰める和谷の姿が在った。突然予想外の事を言われ、伊角は黙り込んで和谷をしげしげと見詰めた。

「な、何だよ?」

じっと見詰められて居心地悪そうに聞き返す彼が可笑しい。きっと自分でもらしくない発言だと思っているのだろう。
でも、伊角は和谷の素直な気持ちがとても嬉しかった。

「いや。それはそのままオマエにも返すよ、和谷」






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このコンビ好きです♪ ノーマルのつもりですが別にどっちでも良い感じ。←いい加減な!(爆)

20040515