棋聖再降臨 幽霊編 3




最初は突然現れた佐為の姿格好に驚いたものの、和谷とヒカルの説明で森下九段率いる門下生達も快く受け入れてくれ、佐為は研究会に無事参加する事が出来た。
ヒカルに『余計な事はしない、言わない事』と念を押された甲斐あってか、佐為はなるべく大人しく見ているだけという立場に徹する様心がけていた。たまに意見を聞かれた時のみ答え、それだけでもその読みの深さと的確で鋭い指摘に驚かされ感心されたりはしていたが、とりあえず問題無く仲間になれた。共に意見を述べ合い語る事の出来る現状を喜ぶ佐為の姿に、最初はヒカルも素直に喜んでいた。

それ以外の事に関しては別であるが。

「藤原さんは、どちらに住んでいらっしゃるんですか?」

と冴木が笑顔で訊ねれば、

「いや〜、同じ男性とは思えない程お綺麗ですね。失礼とは存じますが、お仕事は何をなさっておられるんですか?」

と白川がのんびり問い、

「進藤君とは従兄弟だそうですが、囲碁は進藤君から教えて貰ったんですか? それともその逆ですかな? とても一介のアマの発言とは思えない鋭い指摘の数々。いや、世辞抜きにして、プロにならないとはとても勿体無い気がしますな」

などと森下まで感心しながら言い出す始末。
次々と合間を縫って佐為に話しかける人々に、ヒカルは気が気では無かった。佐為の正体がバレる事を心配していると言うのもあるが、そもそも佐為に近付かれる事自体気に入らなかった。

自分にしか見えなかったからこそ独占出来たのだと、今更ながら痛感していた。

佐為が自分に関心を向けてくれているのは、自分しか佐為の姿を見る事が出来なかったからだ。

じゃあ、他の人間も佐為を見る事が出来る様になったら?
彼の声を聞く事が出来る様になったら?

そんな事を、ヒカルは今まで考えた事など無かった。
『sai』との対局を望む棋士は数え切れない程存在するだろう。そして佐為も沢山の者と打つ事を望んでいる。強い者との対局を、その中で神の一手を極める事が彼の願いであり望みであるのだ。彼がその相手として自分を選んでくれると言い切る自信は、今のヒカルには見出せなかった。
自分の考えに陥って、段々と気持ちが沈んでしまったヒカルは暗い気持ちのまま俯いてしまった。
佐為は周りの人々から次々と声をかけられては戸惑いつつ返事を返すが、その度に困った表情で縋る様な視線をヒカルに向けていた。
周りの人間は二人の関係が単なる従兄弟同士と言うには不思議な雰囲気を醸し出している事に薄々気付いていたが、その辺りは何となく突っ込めずにお開きとなった。



「進藤。明日うちの研究会来るだろ?」
「え? う、うん」

まだ落ち込んだ気持ちを引き摺ったままだったヒカルは、和谷の問い掛けに慌てて頷く。何となくヒカルの様子がおかしい事に気付いていた佐為は、心配げに見つめる。

「藤原さんもどうですか?」
(え?)

ふいに自分に振られた言葉に佐為は驚く。佐為だけでなく、それを聞いたヒカルも大いに慌てた。

「和谷?!」
「さっきの森下師匠の研究会でも良い発言してたし、実はかなり出来る人なんだろ? 人数多い方が盛り上がるし、オレも一局手合わせして欲しいしさ」

純粋に佐為と打ちたいという思いと、不思議な雰囲気を持つ二人の関係を知りたいと思う少しばかりの好奇心で、和谷は佐為を勧誘した。佐為はこの誘いをとても嬉しく感じたが、ヒカルの立場上気軽に返事を返す訳にはいかなかった。

(ど、どうしましょう、ヒカル?)

困り果てた佐為はヒカルの表情を伺う。ヒカルは焦って首を横に振った。

「ダメッ! 絶っっ対ェーダメ!!」
「何でだよ?」
「何でって…だって…」

対局したら佐為が『sai』だと言う事がバレてしまう…というのは建前で、本音はこれ以上佐為を他の人間に教えたくなかった。
佐為を知れば、大抵の者はその強さに惹かれ、その人柄や姿に魅かれるだろう。そして佐為がその中の誰かに魅かれないとは限らない。


やっと出逢えたのに。
やっと再び手に入れたのに。
離れて行くなんて耐えられない。


「とにかく駄目。帰るぞ、佐為」
(え、あ、はい)
「ちょ、ちょっと待てよ、進藤!って……え?」

引っ張る様に腕を取り、理由も告げずに佐為を連れて行こうとするヒカルに慌てて抗議をしようとした和谷は、ヒカルの最後の台詞で驚愕する。

「……さい?」
「……っ!」

しまった!

手で口を押さえても、零れてしまった言葉は戻せない。どうして良いか分からない佐為はただヒカルと和谷を交互に見やり、ヒカルは冷や汗をかきながら頭は目まぐるしく必死で言い訳を考えていた。しかしそんな事で、今の和谷を誤魔化せそうにはなかった。

「今、藤原さんを『さい』って呼んだよな?」
「…そ、そうだっけ?」
「誤魔化すなよ、進藤。藤原さんは下の名前を『さい』と言うんだな? 『sai』…藤原さんはあのネットのsaiなのか?」
「な、何言ってんだよ、和谷。こいつがそんな大層な奴な訳無いだろ」

あくまでも惚け様とするヒカルに、焦れた和谷は矛先を佐為に向けた。

「藤原さん。貴方は以前ネット囲碁界を震撼させた、あのsaiなんですか?」
(え…っと…)

嘘の苦手な佐為は心底困り果てた。真剣な瞳で問い質す和谷の熱意にジリジリと圧され気味な佐為の態度に、堪り兼ねたヒカルは佐為を自分の後ろに庇う。それが反って和谷の反感を煽った。

「何で隠そうとするんだよっ! 高みを目指す棋士なら誰だって…『sai』はあの塔矢行洋だって対局を望む程の人物なんだぞ?!」

そんなの判っている。
皆が佐為との対局を望み、佐為も又強い者との対局を望んでいる事など、言われなくても判っている。

ヒカルは唇を噛んで黙っていた。
黙っているヒカルに、和谷は益々憤りを感じる。あまりのヒカルらしかぬ態度に、焦れた和谷は更に言い募る。

「オマエ一人が独占して良い人じゃないだろ?!」
「…オレはっ」
(和谷)

責められ、言葉に窮して苦しそうに…辛そうにしているヒカルを見て、佐為は戸惑い困惑していた表情を収めて何事かを決心した表情に変わり、和谷に向かって静かに呼びかけた。
一触即発な状態だった和谷とヒカルの動きが止まり、二人は一斉に佐為を見る。
佐為はにっこりと微笑んだ。

(ヒカルを責めないで下さい。私が名乗れないのはヒカルの所為ではありません。仕方ないのです。私はこの世に存在しない身なのですから…)
「藤原さん…?」

ゆるりと佐為は自分の手を和谷に向かって差し伸べる。和谷は戸惑いつつその手を取ろうとして……すり抜けた自分の手に硬直した。恐々と顔を上げて佐為の顔を伺う和谷に、佐為は儚げに微笑する。

(私は魂だけの存在。幽霊なのです)
「……っ!」
「佐為」

顔色が蒼くなって黙ってしまった和谷を寂しそうに見詰める佐為の様子に、ヒカルは佐為が傷付いている事を感じて優しく名を呼ぶ。振り返った佐為は微笑を浮かべていたが、今にも泣きそうだとヒカルは思った。

(ヒカル。ごめんなさい)
「謝るなよ。元はと言えば、オレがオマエの名前を呼んだのがいけなかったんだし」
(でも…ヒカルに迷惑が)
「イイからっ! 責任感じて消えたりすんなよ? その方がオレには堪えるんだから」
(ヒカル…)

沈んだ表情で俯いた佐為を慰める為、ヒカルはそっと手を伸ばして頬にかかった髪を優しくかき上げてやる。
暫し立ち直れずに呆然と二人を見ていた和谷は、そのヒカルの行動にハッとする。

「オマエ…触れんの?」

キョトン、とした表情をして和谷を見返すヒカルは、一瞬何を言われたのか理解出来なかった。佐為のサラサラと滑る艶やかな黒髪に触れている己の手に気付いて、(ああそうか)と納得し、少し自慢げに笑う。

「触れるよ。…って言っても、触れる様になったのは再会してからだけど」

そのまま髪の一筋を掴み上げ、その毛先に軽く口づける。驚いた佐為が顔を上げると、ヒカルは彼の瞳を見詰めて微笑する。
何時の間にか出来た二人の世界に和谷は一瞬ダメージを受けて気が削がれかけたが、慌てて気を取り直し再び問いかける。

「幽霊だろ? 何で触れるんだ?」
「知らねェよ」

何となく良い雰囲気をぶち壊された気がして、ヒカルは少し不機嫌に答える。しかし和谷は構ってられないとばかりにどんどんと疑問を投げかける。

「それに、再会してからって何だよ? そもそも何時から藤原さんは…その、進藤にとり憑いてたんだ?」

尤もな和谷の質問に、佐為は想いを馳せる様に一瞬遠くを見詰め、そしてヒカルを見て微笑んだ。

(私がヒカルと出逢ったのは、ヒカルが小学生の時です。その時はまだ、ヒカルは囲碁の事を全く知りませんでしたね)

佐為の笑顔が戻って安心したヒカルは、己も又昔を懐かしむ様に佐為を見て笑う。

「そうそう。囲碁なんてぜ〜んぜん知らないオレは、コイツのワガママに付き合って何度も打たせられたんだ。……あン時佐為に出逢わなかったら、オレは碁を知らないまま生きてたんだろうな」

ヒカルの台詞で、和谷は誰もが不思議に思っているヒカルの囲碁経歴を思い出した。

「じゃあ、やっぱり『sai』がオマエの師匠だったんだ」
「うん。佐為の存在を知らせる訳にいかなかったから、オレに師匠はいないって事にしてたんだけど…本当はずっと言いたかった。オレの師匠は佐為なんだって、大声で自慢したかったんだぜ」
(ヒカル…)

ヒカルの真剣な台詞に佐為は感動し、暫しお互い見詰め合う。そんな二人の世界を再度見せつけられ、和谷は少々居心地悪げに視線を彷徨わせるが、ふと思いついてヒカルに声をかける。

「ちょっと待ってろ」

和谷は徐に携帯を取り出して電話を掛け始めた。

「和谷?」
「あ、もしもし。伊角さん? オレ、和谷だけど今平気?」
(どうしたんでしょう、伊角さんに電話なんてして)

意図が読めずに不思議そうに二人が見守る中、和谷は電話の向こうの伊角と話を進める。

「あ、うん、ちょっと伊角さんの意見も聞きたくて。え? そう、ちょっと込み入った話になるんだ」
「お、おい、和谷!」

何をしようとしているのか理解したヒカルは、慌てて和谷を止めようとする。が、和谷はやんわりと手を上げてそれを遮った。

「大丈夫だよ、伊角さんなら」

一瞬携帯を遠くに離して小声でヒカルにそう言うと、又再び伊角と話し出す。

「うん。今進藤と棋院を出た所。平気? じゃあ、いつものマックで待ってるよ」
「和谷!」

強引に話を進められ、ヒカルはどういうつもりだと詰め寄った。そんなヒカルに和谷は溜息を吐くと、顔を近付けて聞き分けの悪い弟に言い聞かせる様に言った。

「ずっとこのままって訳にいかねぇだろ? 姿が見えなかったって言う以前ならともかく、今はオレ達にも見えるんだし、まさかどっかに閉じ込めとくって訳にいかねェじゃん。どうせこれからどうしたら良いのかなんて、オマエ考えてねェだろ」
「うっ…」

和谷の指摘に図星を突かれ、ヒカルは押し黙ってしまう。佐為は自分が口出しする事も出来ないので、大人しく二人の様子をじっと見詰めていた。

「かと言ってオレにも良い案は浮かばねぇし。伊角さんなら何か良い考えが浮かぶかもしれないぜ。大丈夫、力になってくれるって、絶対」
「でも…」
(ヒカル)

励ましてくれる和谷の言葉を有り難いと思いはしていたが、まだ不安は完全に取り除けず素直に頷けないでいたヒカルに向かい、安心させる様に佐為は名前を呼ぶとにっこり微笑んだ。

(大丈夫ですよ、きっと。伊角さんなら疑わずに真剣に話を聞いてくれるでしょう)

その言葉に何の根拠も無かったが、佐為がそう思うなら信じてみても良いかなとヒカルは思った。

(それにしても、伊角さんはあれからも囲碁を続けていたのですね。良かった、会うのがとても楽しみです)
「オマエ……能天気過ぎ」

佐為の相変わらず天然な台詞に、ヒカルはガックリと肩を落とした。





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20031013