棋聖再降臨 幽霊編 2




ヒカル




懐かしい声がする。




ヒカル




優しく胸に染み込む様に自分の名を呼びかけるその声音に、ヒカルは泣きたくなって来る。どんなに望んでも、どんなに願っても届かない、その声の持ち主をずっと捜していた。
その頃の焦燥感が蘇り、ヒカルは必死で手を伸ばし叫ぼうとした。


消えるなっ


「佐為っ!」
(はい)
「…えっ?」

漏れ出た己の呼び掛けに返事が返って来た事に驚き、そして伸ばした自分の手はしっかりと佐為の手を掴んでいた。
多分うなされていただろう自分の様子を心配していたのか、目覚めたヒカルと目が合うと、佐為は安心した様にふわりと笑った。

(おはようございます、ヒカル)
「あ、…ああ」

そうか、あれは夢じゃ無かったんだ。

佐為が再び現れた昨晩、又消えてしまうのでは無いかと心配で寝られずにいたヒカルに、佐為は笑ってずっと側に居ますと約束してくれた。それでも不安は完全に払拭されなかったが、ヒカルの身体を心配する佐為に促されて渋々ベッドに潜り込んだ。暫く眠れずそっと佐為の姿を盗み見していたヒカルだったが、隣に存在する優しい気配に高揚した気持ちが自然と静まって、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

佐為がオレの側に居る…。

思わず目の前の幸せに浸っていると、優しく微笑んでいた佐為は少し困った顔をした。

(あの、ヒカル?)
「え、何」
(その…手を)

そろそろ離して貰えませんでしょうか?と遠慮がちに言われて、ヒカルは自分が佐為の手をずっと握り締めていた事に初めて気が付いた。

「うわっ、ごめん!」
(いえ、それは良いのですけれど…)
「?」
(今日は研究会に行くから、いつもより早く起きると言ってませんでしたか?)
「あ……」

寝起きのボケた頭で昨日の和谷との電話のやり取りを思い出す。
確か、本日午後に予定されていた森下先生の研究会が都合により午前に変更になったので「遅刻すんなよ〜」と念を押されたのだ。そしてからかい半分の和谷の口調にムキになって自分は「しねぇよ!」と思い切り良く返事を返した様な気が…する。
恐る恐る時計に目をやると、針は『集合時間にギリギリ間に合うかどうか』と言う微妙な時刻を指し示していた。

「げ! こんな時間?!」
(何度も起こしたんですけど、ヒカルってば全然起きてくれないんですもん)
「んな事言ったって…。ああ、もう良いや! とにかく急いで行かなきゃ」

バタバタと着替えて階段を下りるヒカルの後を佐為も一緒についていく。階下には夫を会社に送り出した美津子が朝食の後片付けをしている姿があり、ヒカルを見ると怪訝そうな顔をして声をかけた。

「ヒカル、今日は午後からじゃなかったの?」
「午前になったんだよ! 今から棋院に行って来る」
「朝ご飯は?」
「食べてる時間ないからいらない!」

仕度もそこそこに、二人は慌てて外に飛び出した。全速力で走って電車に飛び乗ったヒカルは、弾む息を整えながら手摺りに凭れ掛かった。

(間に合いますか?)
「…多分」

小さな声で返事を返し、ふと周りを見渡す。
それなりに混雑した車内の人々は、特に変わった様子も無く普段の光景だった。

今朝もオレは佐為に触れた。なのに、やっぱり他の人に佐為は見えないんだな…。

彼の姿が見えていたら、彼の外見上当然注目されて視線を感じる事は間違い無いだろう。その気配が全く感じられないと言う事は、本当に佐為は誰にも見えていないのだ。

自分にしか佐為を見る事が出来ないと言う事に、優越感を全く感じないと言ったら嘘になる。けれど、他の人に佐為を知って欲しいと思っている自分も居るのだ。

『佐為に全部打たせて自分は打たない』と言う言葉は、結局受け入れて貰えなかった。本当に消えてしまいかねない程嫌がる佐為を、それ以上困らせたく無かったから。ヒカルは自分の意見を撤回する事に同意した。けれども自分だけ打ち続けて佐為が打てないと言う状況はヒカルも嫌だったので、その内絶対佐為が心置きなく打てる状況を作ってやると約束して話は落ち着いたのだった。

今んトコ、まだ全然良い案浮かばねぇけどな…。

深く溜息を吐いてそんな事を考えていると、電車は市ヶ谷の駅に辿り着いた。二人は電車を降りて外に出、棋院への道程を歩いて行く。佐為は懐かしいその道程にキョロキョロと辺りを見回し、身に覚えの無い目新しいモノを発見する度ヒカルに訊ねてはしゃいでいた。その様は昔と全く変わらず、ヒカルはつい笑みを零した。ヒカルはヒカルで『振り向けば佐為が其処に居る』という事実に幸せを感じていたのだが、しかしその分不安は増して来る。

これで夢だったりしたら、暫く凹むな、オレ……。って言うか、正直立ち直れるか自信ねェかも。

暗くなりつつある考えを振り切る為に、首を左右に思い切り振ってその原因たる存在…佐為の姿を確かめようと辺りを見回してハタと足を止める。佐為は何かに視線を向けたまま、身動きせずに少し遅れた所で立ち止まっていたのだ。
何に気をとられているのか気にはなったが、それより今は時間の方が心配だった。此処から棋院までさして時間のかかる距離では無いとは言え、そろそろ急いで貰わないと集合時間に本気で間に合わなくなる。

「さ…」
「進藤!」

後ろから、同じく歩いていたらしい和谷がヒカルの姿に気付いて声をかけ近寄る。呼ばれたヒカルは佐為に向けかけた顔を和谷の方に向け、少し離れていた佐為も振り返って和谷とヒカルを見た。

「いや〜、参った。久し振りにネット碁やってたら寝るの遅くなっちゃってさ、ちょっと寝坊しちまった。そんなんで遅刻なんかしたら森下師匠にどやされちまうぜ」
「何だ、結局和谷も寝坊したんじゃん」
「そう言うおまえもだろ、進藤」
「ハハハ」

いつも通りの他愛ない会話のやり取り、いつも通りの朝。
…だったのだが、次の和谷の台詞でヒカルは硬直してしまった。

「ところでさ」
「何?」
「その人、誰?」
「……へ?」

訊ねる和谷の視線はヒカルの背後に向かっていた。ヒカルが振り向くと、其処には近くに戻って来た佐為が立っていた訳で。勿論そのもっと後方には誰もいない。

(もしかして、私の事でしょうか?)

同じく後ろを振り返って誰もいない事を確認した佐為は、小首を傾げて呟く。ヒカルは暫く真っ白になっていたが、ハタと我に返ると固まってしまった脳みそを回復させる為に頭を左右に思い切り振った後、焦りを押し隠そうと努力しながら和谷に問い返した。

「……わ、和谷? こいつが見えるのか?」
「? 何言ってんだよ。其処に居るんだから見えてんに決まってるじゃねーか。何なんだ、その格好。仮装かコスプレか? 今日、棋院で撮影か何かあったっけ?」
(『カソウ』? 『こすぷれ』って何ですか、ヒカル)
「え、ええ〜?!」

“和谷に佐為が見える”と言う大事件に気が動転しているヒカルの様子を他所に、佐為は妙な所に興味を示し、そんな場合では無いと言うのにいつもの好奇心旺盛振りを発揮してヒカルに訊ねた。ヒカルは和谷にどうやって誤魔化してこの場を逃れようかと考えようとしているのに、佐為のおねだりのお陰で混乱していた頭が更に混乱する。
その慌て振りを怪訝そうに見ていた和谷の視線に気付き、ヒカルは佐為をひとまず黙らせ、必死で言い訳を捜す為に頭をフル回転させた。

「こ、こいつはオレの従兄弟で…棋院を見学したいって言うから連れて来たんだ。こんな格好なのは…えーと、えーっと……そ、そうだ! こいつの実家が寺なんだ」
「寺?」
「そ、そう」

ウンウンと頷くヒカルに同乗して佐為も頷く。和谷はまだ納得しかねる様子だったが、とにかくこういう場合は押し切ってしまった方が勝ちだとばかりに会話を進める事にした。

「とにかく棋院に急ごうぜ。遅刻したら森下先生に雷落とされるぞ」
「え? あ、いっけね。走るぞ、進藤!」

当初の目的を思い出した和谷は、慌てて棋院に向かって走り出す。ヒカルと佐為も同じく慌てて後をついて行くのだった。

棋院に着いた三人は、エレベーターの前に立って昇りのボタンを押す。降りてくるのを待つ間、和谷が二人に振り返って先程から気になっていた当然の疑問とも言える事柄を訊ねた。

「進藤。研究会の間、彼女はどうすんだよ?」
「え? …彼女…って、コイツの事?」
(なっ?! 誰が彼女ですかっ!)

面食らって動揺するヒカルと、顔を赤くして怒り出した佐為の様子に和谷は焦った。

「え、違う違う。そーゆー意味じゃ無くって…別に進藤の恋人だとかって言う意味じゃなくってだな」

そんな野暮な事聞かねェよ、と慌てて弁解するが、そもそもの問題が間違っている。

「和谷、根本的に違ってるって。コイツ、こう見えても男だし…」
(こう見えてもってどういう意味です?)

ヒカルのフォローにならないフォローにムッとする佐為を、和谷は驚きの眼差しで見る。

長い睫毛、切れ長の瞳に薄紅の唇。真っ黒で艶やかな髪は腰まで長く、白く滑らかな肌を一層際立たせており、ラインの分かり難い服装とは言え、プロポーションは良いだろうと思わせる雰囲気を醸し出していた。女にしてはかなり背が高いとは思うし、そもそも烏帽子を女は被らないだろうと思ったが、それらを差し引いても男だと思うには非常に難しかった。

「…男?!」
(どうして其処で驚くんですか!)

憤慨してしまった佐為に、和谷は慌てて謝罪する。

「いや…だって。すいません、あんまり綺麗な人だったんでつい…」

佐為にとっては侮辱に感じるのかもしれないが、佐為を見て男だと思う奴は殆どいないと確信しているヒカルは和谷に同情した。
確かに声は女にしては低いし背も高過ぎるけれど、男と見るには佐為はあまりにも綺麗過ぎた。これ程の美貌と優美な仕草を備えている人を、ヒカルは他に見た事が無かった。

素直に謝る和谷に、佐為もいつまでも怒っているのは大人げ無いと思ったらしく、気を取り直して溜息一つ零す。

(まぁ、良いでしょう)

そう言って笑って許す事にした。その薄く微笑んだ顔が又綺麗だったので、和谷はうっかりと見蕩れかけてしまったが、ヒカルのムッとした視線に気付いて慌てて我を取り戻す。

「で、あの、進藤と従兄弟だってのはさっき聞いたんですけど、名前聞いても良いですか?」
「(あ)」

二人でハモってお互いの顔を見る。『佐為』の名前は不味いだろう。『sai』に関連付けられる事は目に見えている。困ったヒカルの顔を見た佐為は、少し考えた後にこりと笑って名乗った。…己の『姓のみ』を。

(申し遅れました。私は藤原と申します。どうかお見知りおき下さいませ)
「え、あ、はい」

丁寧にお辞儀をして挨拶をする佐為に、和谷は何故か顔を赤くする。男だと分かっても、やはり佐為の笑顔は人を魅了するに十分な効力を持っていた。そんな二人を何となく面白く無い気持ちで見ていたヒカルは、先程の和谷の言葉を思い出した。

お母さんも電車に乗っている間の周りの人も佐為を気にする様な素振りはなかったのに、何で和谷には見えるんだろ…。ともかく、コイツの姿が他の人に見えてるんなら今までみたいに一緒に研究会に連れて行くって訳にはいかないよな。

そんなヒカルの考えが佐為に聞こえたのか、ふと目が合った。

「オマエ、オレが研究会に行っている間、その辺ぶらついていろよ」

一人にするにはかなり心配なのだが。と言うか、自分が知らない間に又消えてしまうのではないかと言う不安は常にヒカルの心に付き纏っていたので、出来れば目の届く範囲で側に置いておきたかったのだが…この際そんな事は言っていられない。

(そうですね。そうします)

仕方ないですもんね、と殊勝にも文句も言わずに同意した佐為だったが、やはり落胆した様子は隠せない。そんな彼を見て、和谷が拳を口元に当てて少し考えた後ヒカルに問う。

「なぁ。棋院に関心があるって事は、藤原さんって囲碁をやるのか?」
「え? あ、うん」
「じゃあ、研究会に一緒に参加すれば良いじゃん」
「ええっ?!」
(良いんですか?)

和谷の言葉を聞いて、佐為の表情にパアッと笑顔が広がる。

「ああ。森下師匠は囲碁好きだったら文句は言わないから大丈夫だと思うぜ。オレが頼んでやるよ」
(それはとても嬉しいです。感謝します、和谷)
「え? いや、ハハハ」

あまりにも嬉しくて、佐為は溢れんばかりの笑顔を和谷に向けてお礼を言う。和谷も照れ臭そうに頭を掻きながら、満更でも無い顔で笑い返した。

あ〜、もうっ、無闇に笑顔を振り撒くな!

喉元まで出掛かった言葉を飲み込んでいるヒカルと、そんなヒカルの様子に全く気付かないで友好を深めている二人は、開いたエレベーターに同時に乗り込んだ。



ヒカルの受難は始まったばかりだった。




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20030706