棋聖再降臨 幽霊編
/番外(後編)
いつもの様にヒカルの部屋で対局していた佐為は、次の一手を考え込んでいるヒカルに向かってごく自然に問い掛けた。それはまるで明日の天気の話をしているみたいにあっさりとした問い掛けだったが、内容はヒカルにとって爆弾に近いものだった。
(どうしてヒカルは虎次郎…いえ、高永夏を嫌っているのですか?)
「――え? ええっと?! な、何だよいきなり…」
動揺して持っていた碁石を盤上に落としてしまいそうになる。思わずワザとかよと佐為を睨むが、心配そうに自分を見詰める彼の様子に文句を言う事も出来なくなってしまった。
(ヒカルが誰かを嫌うなんて、珍しいですよね? 彼と何かあったのですか?)
「……」
眉間に皺を寄せて黙り込んでしまったヒカルの様子に、佐為は首を傾げて益々不思議そうな顔をした。
(記憶は無いみたいですけど、どうやら以前と人柄はそんなに変わってないみたいですし。…そんな顔をしないで、少しは仲良くして下さいね?)
優しく言い諭す佐為だったが、北斗杯の一件から彼の印象が悪かったヒカルとしては仲良くする等冗談では無かったし、今は庇う佐為の言葉すら腹立たしく感じて強く反発した。
「何でアイツが虎次郎だって思うんだよ。証拠も何にもねェじゃん」
(判りますよ、そんなの)
「…っ」
きっぱりと断言する佐為に、ヒカルは胸が苦しくなる。迷いも無く生まれ変わった姿が判ると告げる佐為にとって、虎次郎と言う存在は今も尚深く重いものなのだろうか。
――それは何よりも……自分よりも?
(どうしました?)
「そんなに…」
そんなにアイツが好き?
声に出して問う事は出来なかった。
頷かれたら、心臓が凍ってしまうと―――本気で思った。
両手をぎゅっと握り締め、唇を噛み締める。
(え?)
「……何でもねェよ」
(ヒカル)
あまりにもらしくないヒカルの様子に佐為は戸惑い、心配げに名を呼ぶ。目を逸らして自分を見ようとしないヒカルに、佐為は不安が増してくる。こんな彼は見た事が無かった。
「アイツが虎次郎だってんなら、思い出させてアイツの所に行けば?」
心にも無い言葉が口を突いて出る。
そんな事になったら自分はどうなるのだろう? 自分で言った事なのに、無様に取り縋って引き止めるかもしれない。
我知らず嘲笑が漏れる。ただならないヒカルの様子に、佐為は益々動揺する。
(ヒカル?!)
「オマエ、アイツの事ずっと褒めてたじゃん。優しい虎次郎なら、オマエに十分打たせてくれるだろ。…優しくねェオレなんかの側に居たって……」
(ヒカル!)
ヒカルの台詞を遮る様に、佐為はピシャリと強く名を呼んだ。ヒカルはびくりと肩を揺らして振り返る。本気で怒っている様子の佐為に、投げ遣りになっていた心が一瞬怯む。
「な、何だよ?」
(ヒカルは私が迷惑なんですね? だからそんな意地悪言うんですね?)
悲しそうに、寂しげに言い放つその台詞に、ヒカルは慌てて首を振って否定する。
「ちがっ…! オレは…」
(やっぱりヒカルは私の事なんて…)
「違う! 迷惑だなんて思ってねェ! 違うんだ!」
必死に告げるヒカルの姿に、佐為は黙って顔を見詰める。擦れ違って傷付け合うなんて事は、お互いもうしたくは無かった。言葉を惜しんで誤解した挙句取り返しのつかない状態になるのは御免だと、思っているのは自分だけじゃ無い。それだけは判る。…判っている。
「そんなんじゃねェ。オマエを高永夏にだって…誰にだって渡したくねェ。オレが好きなのはオマエだけだから…」
(それは…)
私だって、と続けようとした佐為の言葉を遮る様に、首を左右に振ってヒカルはきっぱりと言った。拳を握り、血を吐くかの様な低い声で。
「でも、オマエが好きなのはオレじゃない」
(!?)
自分の気持ちを否定されて、佐為は驚いて声が出せない。どうしてそんな風に思うのだろう? ヒカルの気持ちが佐為には判らなかった。
「負けたくねェけど…認めたくなんかねェけど! オレなんかよりずっと優しい虎次郎の方が…オマエ、好きだろ?」
(……ヒカル)
泣きそうに顔を歪ませて告げるヒカルの告白に、佐為は自分の発言がヒカルにずっと不安を抱かせていたのだと知る。
「悔しいけど…まだアイツに勝てる自信は無い。けどっ! でも、オレ頑張るから! 頑張って碁も強くなるし、もっとずっと優しくなるから、だからっ…!」
(ヒカル)
ふわりと優しく微笑んで、両手でヒカルの顔を包み込む様に触れた。佐為のその掌を温かいとヒカルは感じ、不覚にも涙が出そうになった。
(ヒカルは十分優しいですよ?)
「……」
(どうしてヒカルは私がヒカルを好きじゃないなんて思うんです?)
綺麗な黒曜石の瞳でじっと見詰められ、ヒカルは佐為から目が離せなくなる。無邪気でいて聡明な、時には厳しいけれど常に優しくて誠実な佐為。自分に対して純粋に好意を寄せてくれているのは判っているけれど、だからこそ自分の想いが穢れているように感じてしまう。
「好きでいてくれるのは知ってるし、疑ってなんかない。だけど、オマエが言う『好き』とオレの『好き』は……違うんだ」
(違う?)
首を傾げて不思議そうな顔をする。そう、その違いがヒカルの胸をいつも痛くさせるのだ。
「オレは……オマエが好きなんだ。誰よりも、一番」
(……)
「オマエの一番は…オレじゃないだろ?」
悲しげにそう問うヒカルに、佐為は切ない気持ちになる。何故こんなにも彼の心を深く傷付けてしまっているのだろう。その理由が佐為には判らなかった。
(どうして…そう思うんです?)
「だって……オマエ、オレを置いていなくなったじゃん」
ハッとしてヒカルの顔を見る。あの事に関しては、自分にはどうする事も出来なかったと…だから許して貰えたのだと思ったのは、やはり都合良過ぎたのだろうか。もし許されなかったとしても、ヒカルに責められるのだったら仕方ないと思っていた。けれどヒカルは佐為を責めるのでは無く、自分自身を責めている。それは佐為には耐え難い事だった。
(あれは……)
「判ってるよ。あれはオレが悪かったんだ。オマエの気持ちを思いやれなかったオレが、ずっと一緒に死ぬまで過ごした虎次郎以上に好きになって貰えるなんて…身の程知らずだって判ってる。だけど……諦めたくないんだ、オマエを」
俯いて苦しそうに告げたヒカルの告白に、佐為は驚き目を丸くした。そしてヒカルが何を恐れ、何を求めていたのかを、漸く佐為にも理解出来た。安心させるようにフワリと優しく微笑む。
(ヒカル)
「…」
(ねぇ、ヒカル。確かに私は一度、アナタを置いて逝ってしまいました。でもね、ヒカル。どうして虎次郎の生まれ変わりである高永夏が存在しているのに、又再び私がアナタの所に蘇ったのか、……判りませんか?)
「…どういう意味?」
佐為の言いたい事が判らず、やっと顔を上げて佐為を見たヒカルの目は少し赤くなっていた。それを痛ましげに見詰める。彼の不安を少しでも取り除いてあげたいと、佐為は心からそう思った。それがどういった感情から湧き出た気持ちだかはまだ判らなかったが。
(私が戻りたいと願うのは…一番に会いたいと思うのは、アナタだけですヒカル)
「……っ」
驚いて目を丸くする。信じられない、と言葉に出さずともその目が伝えていた。そんなヒカルの態度に苦笑する。誤解させ続けて苦しめていた自分を叱責したい気持ちに駆られた。
(私はヒカルが好きですよ。ヒカルは私とアナタの『好き』が違うと言いますけど、もしそうだとしてもどうしてそれじゃいけないのです? 今一番傍に居たいと願うのはヒカルにだけなのに)
「佐為…」
(傍に居ても良いですか?)
じっと自分を見詰めて告げられた言葉は、ずっと自分が望んで求め続けていたものだった。差し伸べられた手を握り返す以外、ヒカルには考えられなかった。
「居てよ。ずっと…傍に。佐為」
(ヒカル)
「何処にも行くな」
(はい)
柔らかく包み込む様に抱き締められ、佐為の胸に埋める様に頭を傾けていたヒカルは心から安堵すると共に、身体が熱くなって来るのを感じた。自分はもう子供では無いし、彼も…例えそういう面では子供っぽいとは言え当然立派な大人だ。知識位はあるだろう。誤魔化し続けているのはもう限界かもしれないと、惜しいと思いつつ顔を上げて佐為との距離を少しとる。ヒカルに真剣な表情で見詰められ、不思議に思いつつも切り出される言葉を大人しく待っていた。ヒカルは一度すうっと深く息を吸い込むと、静かに吐いて再び佐為の瞳を真っ直ぐ見据える。
…ずっと心に秘めていた本心を伝える為に。
「佐為」
(はい)
「さっきオマエ、オレとオマエの『好き』が違くても問題ねェって言ってたけど、やっぱ問題あるんだよ、それって」
(どうしてですか?)
キョトンとした表情で問い返す佐為に、やはり直接伝えなければ自分の想いは理解して貰えないのだと実感した。幽霊だから仕方ないとも思うが、この浮世離れした性格は元からにも思える。だとしたら、さぞかし生前は周りが苦労したのだろうと思わずにはいられない。しかしそこが気に入っているのだから始末に終えないと自分でも思う。
「オレ、オマエを独占したいって思ってるし」
(独占?)
「イロイロしたい事あるし」
(何を?)
「……」
――本当に鈍いな、コイツ。
思わず深い溜め息が零れそうになるのを無理矢理押さえ込むと、意を決して告白した。もうこうなったら直球で行くしか手は残されていないのだから。
「オマエに触りたい」
(…? それの何処が問題なんです?)
すり抜けてしまった以前ならともかく、今はヒカル限定とは言えヒカルは佐為に触れる事が出来る。何故戸惑うのか佐為には判らなかった。
あっけなく許可をくれた佐為に、意味が判ってないと知りつつも確認を取る。
「触って良いの?」
(ええ)
「…んじゃ、遠慮無く」
キョトンとしたままの佐為の頬に軽く手をそえ、顔を近付ける。息がかかる程の距離にヒカルの顔があり、佐為が驚いて何かを言う前に唇を重ねられた。
(………)
軽く触れるだけの口付けをして身を離すと、佐為は目を大きく見開いたまま身動き出来ずに固まっていた。そんな彼の姿にヒカルは苦笑する。
「判った?」
(……ど……どういう…)
「だから、オレはこういうコトがしたいの。オマエと」
(私と?)
「そ」
にっこり笑うヒカルに、佐為は頭の回転がしどろもどろになる。一体今何が起こって、何を話しているのだろう? こんなに混乱したのは千年の間にあっただろうか? 思考がグルグルと同じ所を回って整理がつかない。
(ど、どうして…)
「言ったろ? オマエが好きだから」
(で、でも…)
「嫌だった? 気持ち悪い?」
(え…)
「なぁ、どうだった?」
(どうって…)
先程の感触を思い出して、かああっと真っ赤になってしまった佐為にヒカルの顔は綻ぶ。
鈍感な彼にも、流石に意味は伝わった様だ。
「触っても良いんだよな?」
(こっ…。こういう意味では…)
「駄目なの?」
(だ、駄目って言うか……えっと…)
困惑しきった佐為をじっと見詰める。拒否されない自信は五分五分だった。期待半分、不安半分と言った感じでヒカルに目を逸らさず真剣な瞳で見詰められ、佐為は身動き出来ずに固まっていた。
好き嫌いで言うのなら、当然好きに決まっている。でもそれは、肉親とか親友とか師弟とかそういった類のモノで…。
嫌だった? 気持ち悪い?
嫌では無かった。寧ろ嬉しいと感じる自分に驚いた。普通、男にキスされたら、幾ら親しい間柄でも気持ち悪いと思うのが日本男児として普通だろう。それを嬉しいと感じたのであれば自分は。
(…かっ)
「か?」
(………考えさせて下さい)
真っ赤に染まった顔を隠す為に俯いてしまった佐為の額に、ヒカルは笑って了承のキスを落とす。ビクリと震えはしたが、逃げ出さないその態度で殆ど返事は決まった様なモノだ。後は相手の心の準備を待つだけで良い。それでも出来れば―――
「なるべく早く、な?」
待ち続けた春は、すぐ近くに来ているのかもしれない。
END
20051025