棋聖再降臨 幽霊編 1




ヒカルはいつも通り、自分の部屋で棋譜を並べていた。今、並べていたのは秀策の一局。何百と残された秀策の棋譜を毎晩並べているうちに、ヒカルはその殆どを覚えてしまっていた。
手を止めては考え込む。彼の人が何を考え、何を思って打っていたのかと。

「やっぱり此処でツケるより、オレは先にこっちをオサエておいた方が良いと思うんだけどな」

呟いたヒカルの独り言に、思いがけず返事が返って来た。それも、想像もしなかった声が。

(成る程。それは面白い手ですね)
「……………………え?」

驚いて碁盤を挟んだ向かいを見上げるヒカルの視線の先には、忘れもしない懐かしい…絶望的なまでに会いたいと望み続けていた人が鎮座していた。
あまりの事に声も出ずに口をパクパクとさせているヒカルに、その人は困った様に微笑んだ。

「さ……佐為?」
(ただいま、ヒカル)

夢を、見ているのだと思った。若しくは願望が高じてついに幻覚迄見る様になってしまったのだろうかと思った。それ程、ヒカルには信じられない出来事だったのだ。
佐為が、己の目の前に再び存在する等と言う事は。

「オマエ…佐為?」
(はい)
「本物?」
(ええ)

小首を傾げて不思議そうに答えるその姿は、まだ鮮明に残る記憶そのままだった。それでも、まだ確かめずにはいられない。

「オレの、幻覚じゃ無いんだ?」
(幻覚ではありませんよ。…幽霊ですけど)

はにかんだ笑顔でそんな風に言う様も変わらない。相変わらずボケててノンビリしていて……そして優雅で綺麗なのだ。

「……」
(? ヒカル?)

黙って俯いてしまったヒカルの様子に、佐為は優しい声で呼びかけて心配げに覗き込む。するとヒカルは徐に顔をあげて、佐為に向かって思い切り怒鳴った。

「…オマエッ!!! 一体今迄何処に消えてたんだよ?!」

開口一番出てきた言葉はあまりにも陳腐な台詞だと、ヒカルは思った。突然の再会に、驚きと戸惑いから喜びに移る前に今までの悲しみと胸の痛みまで混じってしまい、そして一気に怒りに繋がってしまった結果だった。
本当は嬉しかった。泣きたい位嬉しくて、普通なら抱き締めて再会を素直に喜びたかった位なのだが、長年幽霊として付き合っていた為に『佐為に触れる』と言う事がヒカルの頭に無かったのと、あまりにも出会った頃と変わらない能天気そうな相手の反応に、喜ぶより先に責めたくなってしまったのも無理ない話だ。
一方、いきなり怒られた佐為は吃驚してヒカルを見詰めると、(ええっと)と少し考えてから困りきった顔で呟く。

(何処、と言われましても…)
「オレが、あの後…どれだけ捜したと…。どんなに心配したとっ…」

思わず涙ぐんで言葉に詰まってしまったヒカルを見て、佐為は慌ててパタパタと手を振った。

(え?! あ、えっと、あの、その、ご、ごめんなさい! えーと、あの、私もよく判らないんです。私自身、あのまま消えると思っていたので…と言うか、消えた筈なんですけど、気が付いたら此処に座っていまして。……どうして私は又此処に居るのでしょう?)
「オレが知るかよ」
(そうですよねぇ…)

あまりに以前と変わらぬ佐為の態度に、ヒカルは今までの事の方が夢だったのかと思いそうになる。無かった事にするにはあまりにも苦く切ない日々ではあったのだが、蓄積された痛みと苦しみが佐為の存在を感じる事で懐かしさとともに心が癒やされていくのを感じ、ほっと息を吐く。そして安心すると、ずっと溜まっていた愚痴がつい零れ出た。

「消えるって分かってたんなら、何で消える前にオレに何も言わなかったんだよ」

拗ねた調子で訴えたヒカルの台詞に、佐為は慌てて言い返す。

(え、勿論言おうとしましたよ。でも、最後迄言い切る前に意識が途切れてしまって…。それより何より、どうやらヒカルに声が届かなくなってしまっていたみたいです)
「……!」

その言葉にヒカルははっとする。
あれからずっと『どうして何も言わずに佐為は消えたのか』と思っていた。佐為にとって自分はその程度の存在でしか無かったのだろうかと不安に思う事が無いでも無かったが、夢の中で佐為から受け取った扇子と笑顔を思い出す度、その不安を払拭して来た。
佐為はちゃんと自分に伝えようとしてくれていたのだ。その事がとても嬉しいと感じるとともに、佐為の行動に…気持ちに気付いてやれなかった自分に胸が痛んだ。

(本当は、もっと早くヒカルに言っておけば良かったのでしょうけど)

困った様な微笑を浮かべてヒカルを見ると、ヒカルは苦しそうな表情で佐為を見詰めて呻く様に呟いた。

「それは…オレが……」
(ヒカル?)
「オレがオマエの言葉を信じなかったからだろ」
(……)

佐為は言葉を失った。
あまりにもヒカルが痛々しくて。
今にも泣きそうなのに、必死で耐えるその姿は佐為が良く知るヒカルとは別人の様で。
流れてしまった時を実感した。

「じーちゃんのお蔵で碁盤を見た後、オマエ言ってたのに。自分はもうすぐ消えちゃうんだって。なのにオレ、全然信じてなくて…」

絞り出す様に紡ぐ言葉が辛くて、佐為は殊更明るく言った。

(あれは…あの時は仕方ありません。私だって信じられませんでしたし、ヒカルはずっと私と一緒だと信じてくれていたのでしょう?)
「信じてたよ。オマエがいなくなるだなんて考えた事無かった」

だからいなくなった時、死ぬ程後悔した。佐為の事は何でも判ると思い上がっていた自分。子供だったからと言うにはあまりにも身勝手な言葉や態度ばかりだった事に気付いても、許しを請いたい相手はもういない。どうする事も出来ない事があるのだと言う事を初めて知った日だった。

「会いたかった。ずっとオマエに会いたかったんだ、佐為」
(ヒカル…)

痛みを伴った泣きそうな笑顔を浮かべるヒカルの表情に、佐為は己の存在が消えてしまったという事実がヒカルをそれ程までに傷付けてしまっていたという事に気付き、切なくなった。
ヒカルは一端瞳を閉じると、今までの表情とは打って変わってスッキリとした笑顔で笑って言った。

「あの時、オレ決心したんだ」
(?)
「オマエにもう一度出会えたら、今度はオマエに打たせてやるって」
(私に?)

佐為は小首を傾げた。打たせて貰えると言われて、正直とても嬉しかった。けれど、手放しで喜べないのはヒカルの言葉に不安を感じたからだった。

「全部、オマエに打たせてやるよ。塔矢とも、塔矢元名人とも、緒方さんや他の沢山の棋士達とも全部」

いっそ晴れ晴れとした表情で続けられた言葉に、佐為は思わず絶句した。

(ぜ、全部って。だってそんな事をしたらヒカルは…)
「オレは良いんだ。オレは打たないから」
(…え?)
「オマエに打たせてやる。オレは…そうだな。オマエと打てればそれで良いよ」

信じられなかった。
あんなに自分が打つのだと一生懸命に夢中になって碁を勉強していた彼が。

ヒカルが、打たなくなる?

(なっ………?! 何が良いのですか!)
「佐為?」

今度はヒカルが吃驚して佐為を見詰めた。顔を真っ赤にして今にも泣きそうな、怒りを含んだ表情で睨みつけられて、ヒカルは怪訝そうな顔をした。

(何でそんな簡単に碁を打たないだなんて言えるのです?!)
「か、簡単じゃねーよ。オレだって…碁を打ちたくない訳じゃねェ」

責められる事を不本意に感じて、佐為を睨み返す。自分だって打ちたいと思わない訳が無い。もうすっかり碁を打つと言う行動は自分の中で日常化しているのだ。人生そのものと言っても良いかもしれない。
けれど、それ以上に無くしたくないモノがある。

そう、目の前に。

(だったら…)
「オレが碁を打ち続けるより、オマエが打っていた方が他の連中だって嬉しいだろ」
(他の人達なんて関係無いじゃないですか)
「もぉ、煩いな! オマエだって打ちたがってたんだからそれで良いだろ」
(良くありません!)
「何なんだよ! まだ何か文句あるってのかよ」

喜ぶと思っていたのに。

何故佐為がこんなにムキになって反対するのかヒカルには判らなかった。只、自分は佐為の喜ぶ顔が見たいだけなのに。
ヒカルの言葉に佐為は喜ぶどころか怒り、そして哀しんでいた。

(ヒカルが碁を打たなくなるなんて、そんなの嫌ですっ! ヒカルは何の為に今まで頑張って来たのですか。塔矢はどうするのです? 和谷や伊角さんは?? 他の皆だって、ヒカルを待っているのに)

塔矢の名前を出されて一瞬怯む。佐為の存在に気付きつつありながら、「君が打つ碁が君の全てだ」と言って己を生涯のライバルとして認めてくれた彼。自分が碁を打たなくなると言う事は、その彼の想いを裏切る結果になってしまうのだろう。
でも…。

「そんなの…。オマエが代わりに打ってやれば、オレなんかが打つより喜ぶだろ」
(私は喜べません)
「佐為」
(何でそんな事言うのですか? 私、ヒカルには碁を打っていて欲しい。それにヒカルの身体はヒカルのモノです。私の為に犠牲になる必要はありません)

佐為の頑ななまでの拒絶な態度に、ヒカルの心は傷付いていた。今更、と思われているのだろうか。それとも、…自分では駄目だと言うのだろうか?

「何でだよ?! 虎次郎にはさせてたじゃねェか」
(あの時は…! あの時の私はそうする事が相手の人生を奪ってしまうと言う事に気付いて無かったのです。今は判るから…私はヒカルには自分の人生を生きていて欲しい)
「自分の人生って何だよ? オレがオレの意思でそうしたいと思ってんだからそれで良いだろ」
(駄目です)
「佐為!」

断固として否定し続ける佐為に、ヒカルは焦れる。どうしていつも気持ちが伝わらないのだろうと歯痒く感じる。
又、自分は繰り返しているのだろうか。
自分は…自分には彼を理解する事は出来ないと言うのだろうか?

(私はヒカルの打つ碁が好きです。だから…私の為に犠牲になると言うなら、私はヒカルの前から姿を消します)
「…なっ」

ヒカルは言葉を失った。
あの痛みをもう一度味わえと言うのか、この人は。

(私がいなければ、ヒカルは自分で碁を打ち続けていくでしょう?)

寂しそうに微笑む彼に、ヒカルは動揺する。完全に擦れ違っていた。お互いがお互いを想う故に、譲れない言葉が相手を更に傷付けている事に気付けないでいるのだった。

「何で…なんでそうなるんだよっ?!」
(ヒカルの人生に、私の存在は必要ありません)
「ふざけんな!!!」

心底怒りを込めた叫びに、佐為は大きく目を見開いた。此処まで怒ったヒカルを佐為は今まで見た事が無かった。反論を許さない、断固たる意思を持った表情で言う。

「オマエ、二度もオレの前から姿を消そうだなんて許さねェからな! これだけオレの人生狂わせといて、今更逃げ出そうったってそうはさせねェ」
(ヒカル…?)
「オマエのいない日々なんて二度と過ごしたいとも思わない。絶対オマエは手放さねェからな!!!」

反射的に手を伸ばして佐為の腕を掴もうとし、すり抜ける筈だったそれにしっかりと掴まる事の出来た掌の感触に、お互いの動きが止まった。

「……触れる?」
(触って…ますね)

しっかりと掴んだ腕の感触は、男にしては細く華奢な印象を受けたが現実のモノだった。唖然として動きの止まってしまった佐為をじっと見詰めていたヒカルは、もう一方の腕をそろりと上げて彼の頬に触れた。
微かに触れるその掌の動きと自分を見詰める真剣な眼差しに、佐為は戸惑い身動きが取れなくなってしまう。

(ヒカル?)
「佐為…オレ」
(あの…)
「オレ、ずっとおまえに触りたかったんだ」
(え…)

いつの間にか壁に追い詰められ、見詰められたまま顔を近付けられた佐為はちょっとしたパニックに陥っていた。

(ひ、ヒカル?!)
「佐為…」

息がかかりそうな程近付いたヒカルの顔を見ていられなくなり、佐為は思わず目を瞑る。ヒカルもそのまま目を閉じ、そして……。

「ヒカル、和谷君から電話よ」
「!」

いきなりドアを開けて声を掛けてきた美津子にヒカルは心臓が飛び上がる程驚き、佐為から慌てて身を離した。
そして現状に気付いて言葉を失う。いつの間にか自分の部屋に現れた佐為の事を彼女に何て誤魔化したら良いのかと思い悩んでいると、美津子は訝しげな顔で再度声を掛ける。

「何度呼んでも返事もしないし降りてこないから。どうするの? 電話に出ないの?」
「え…で、出るよ」
「そう。じゃ、早く降りて来なさいね」

何事も無かった様に踵を返す美津子に、ヒカルは慌てて呼び止めた。

「お母さん!」
「何?」
「え…と」
「何なの? おかしな子ね」
「見えないの?」
「何が?」
「いや…その」
「何かあるの? …別に変わった所は無いと思うけど? ほら、和谷君を何時までも待たせないで電話に出て頂戴」
「あ、うん」

さっさと出て行ってしまった美津子を呆然と見送り、ヒカルは佐為の方へ振り返った。

(お母さんは私が見えないみたいですね)
「何で? …触れるのに」
(とにかく…ほら、和谷の電話に出て来て下さい)
「でも…」
(私は消えませんから)

にっこり笑ってそう言う佐為に、ヒカルは渋々といった感じで部屋から出て行く。それを見送った佐為は、ヒカルの姿が消えると近くにある碁盤に視線を落とした。暫し見詰めた後、そっと手を伸ばして碁石を触ろうとして…すり抜けてしまった己の手に、僅か失望感を味わう。

(やはり…其処まで都合良くは出来ていないですね)




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 20030610