棋聖再降臨 転生編4




「あら、ヒカル。早かったのね?」
「ああ、うん」

玄関で迎え入れた美津子の日常通りの様子から察するに、家にはまだ棋院から連絡が来ていないようだった。内心ホッとしつつ適当な相槌を打つヒカルの後ろから、彩はヒョイと顔を出して美津子を見た。

――ああ、ヒカルのお母さんだ。

懐かしさに笑みが零れる。美津子は突然現れた少女を見て驚き、そんな彼女に彩はニッコリと極上の笑顔を浮かべて礼儀正しく挨拶をした。

「お初にお目にかかります、藤原彩と申します。突然お邪魔して申し訳ありません。ですが、お会い出来てとても嬉しいです」

丁寧に深々と頭を下げられて、美津子も慌ててお辞儀をする。

「こ、こちらこそ。ええっと…ヒカル? こちらのお嬢さんは?」
「え…っと」

何て言えば良いのか一瞬口籠ったヒカルに、彩は曇りの無い笑顔で言葉を挟んだ。

「私は進藤先生の弟子です。どうぞお見知りおき下さいませ」

人好きのする笑みを浮かべた美少女を見て、息子しかいない母親としては心動かない筈が無かった。今時珍しい楚々とした仕草に感動し、ただひたすらにまじまじと見詰める。

「まあ…。こんな可愛らしいお嬢さんがヒカルのお弟子さん? あらまあ」

ひとしきり感嘆の溜め息を漏らしていると、ヒカルが居心地悪そうに眉を顰めた。

「お母さん」
「あ、ああ、そうね。どうぞ中へ入って頂戴な。後で何か飲み物持って行くわね」
「どうぞお構いなく」

お邪魔します、と言って脱いだ靴を綺麗に揃えると、迷い無くヒカルの部屋へ歩いて行く彩の後ろ姿に美津子は一瞬不思議そうな表情を浮かべた。
彩は後ろからついてくるヒカルに弾んだ声を掛ける。

「お母さん、お変わりなく元気そうで何よりですね」
「何懐かしんでんだよ」
「懐かしいですよ。あれから13年経っているのですから」

ガチャっとドアを開けて部屋に入ると、彩は立ち止まって動かなくなった。先程までとは打って変わって陽気な雰囲気を消してしまった彩の様子にヒカルは戸惑う。

「どうした? 佐為」
「……あの頃と、同じです」

感慨深げに呟く彩の台詞に、ヒカルはその事実を思い出す。

「…ああ」

見上げる彩の視線を受けて、ヒカルはちょっと困った顔をした。

「あそこにあった番組の映らないテレビがパソコンになったのと、本棚の漫画が碁の本に変わりましたけど…変わったのはそれだけですよね? 後は私の記憶にある姿そのままではないですか」
「……良いだろ、そんなの」

ぶっきら棒に顔を背けて言うヒカルをじっと見詰める。
幾ら無頓着な人間であったとしても、10年以上も部屋の中が変わらずにいられるとは思えない。理由が知りたくて、彩は無言で見詰めた。けれどもその疑問にヒカルは答えるつもりは無かった。


「ほら、検討するんだろ。やんないのか?」
「やります!」

碁盤を取り出して目の前に置けば、彩の意識はたちまちそちらに向いてしまう。些細な好奇心などすっかり忘れ、懐かしい碁盤を愛おしそうに撫でている。
計算通り誤魔化せた事に、ヒカルは内心ホッと胸を撫で下ろしていた。

――オマエといた時を忘れたくなくて、わざとそのままにしていたなんて

「本人に言えるかよ」
「?」

ボソリと呟いたヒカルの台詞に、彩は不思議そうに首を傾げるのだった。








そしてその数時間後。

並べられた数刻前の棋譜を前にして、ヒカルは憮然とした表情でそれを睨んでいた。

「何を不貞腐れているのです?」
「…オマエ、ずりぃじゃん」
「?」

何を言われているのか判らない、とばかりに瞬きを繰り返し、不思議そうに首を傾げる。サラリと流れる柔らかな黒髪から現れた白い首筋に気を取られそうになりつつも、グッと堪えて目の前の少女を睨み付ける。
油断すると直ぐに見惚れる自分に内心焦っているヒカルだった。


「確かにオレ、ずっとずっと強くなったけど、5目半のハンデの上にオマエの先番で勝てる訳ねェじゃんか!」

ビシッと指差す先には綺麗に並べられた盤上と散らばった碁石。あの後何度検討を繰り返しても、ヒカルの勝機は見出せなかった。致命的なミスが無かったのだけが、唯一の救いであると慰められなくも無い。事実彩はそう言うのだが、とても素直に褒められていると喜ぶ事は出来なかった。かと言って、これがハンデを抜きにした互い戦だったとすれば勝てたのかと問われれば、迷い無く頷く自信はヒカルには無い。……心底悔しいのだけれど、力の差があり過ぎるのだ。しかも彩は最初の方は手加減していたのだと口に出さずとも判るだけに、ヒカルの胸中は穏やかではいられない。
十数年経った今でも尚、彩は佐為だった。それが悔しくて嬉しい。


そんなヒカルの複雑な心中に気付かず、彩はただ拗ねている子供を諭すように言葉を紡ぐ。

「仕方ないでしょう? 私は今は新初段。プロになったばかりなのですから」
「嘘吐き」

間髪入れず突っ込む一言に彩は呆れた顔で見詰める。本当にどちらが子供なのか判らないと彩は思い、心の中で苦笑した。

「嘘吐きって…」
「歳も実力も誤魔化してんじゃん」
「誤魔化してませんよ。本当の事じゃないですか。…確かに『佐為』であった記憶はありますけど」
「それがズルイってんだよ」

口を尖らせて文句を言うヒカルに、彩はたまらず噴出して笑ってしまった。そんな彩の様子にヒカルは益々頬を膨らませた。

「そんな事言われても…。もう、ヒカルは背が伸びて碁が強くなっても中身は全然変わらなかったみたいですね」
「どういう意味だよ、それ」
「そういう意味です」

にっこりと微笑んで言われ、ヒカルは益々不貞腐れて背を向けるように転がった。
そのまま無言で動かなくなったヒカルの背を、彩はじっと見詰めて首を傾げた。

「ヒカル?」

呼びかけても微動だにしないヒカルに、すっかり拗ねてしまったのかと僅かに困った様子でそっと近付き顔を覗き込んだ。するとヒカルは待ってましたと言わんばかりの悪戯な笑みを浮かべてこちらを見、両手を伸ばして彩を引き寄せた。

「ひゃっ…?!」

吃驚してバランスを崩した彩を受止め、彩はヒカルの身体に包まれるように抱き締められていた。慌てて身体を起き上がらせようとしたけれど、拘束した腕を緩める事もしないヒカルの様子に彩は首を傾げる。

「ヒカル?」
「ん?」

驚く程優しい瞳をして自分を見詰めているヒカルの視線を間近で受けて、公園で同じ様な事があったにも関わらず彩は何故か動揺して頬を染める。
心臓の音が驚く程速い。ヒカルに聞こえてしまうのではないかと心配になる程動揺している自分と、そして何故それを知られたくないと思うのか、その理由が彩には判らず益々焦りが募って、更に顔に熱が集まって来る。

「えっと、そろそろ離して貰えませんか?」
「んー…」

離す所か益々強まるヒカルの腕に、彩は自分の心臓が早鐘を打つ様に大きくなっている事に気付いて何故か焦った。自分の首筋に顔を埋められ、相手の体温が直接肌に感じられて軽いパニックを起こしてしまいそうになる。

「ヒ、カルってば…」
「うん、もうちょっと」

甘えるように摺り寄せるヒカルの髪がくすぐったい。いたたまれない気持ちと理由の判らない焦燥感を何とかしたくて、軽く身動ぎをした際に自由になった片腕をそのままヒカルの背に回して仕返しとばかりに抱き締め返した。

「え…。さ、佐為?」

慌てだしたヒカルを見ると、先程までざわついていた胸が落ち着いてきて、彩は訳が判らずともホッとする。思わず零れた笑みを見て、ヒカルは子供扱いされた様な気がして拗ねた表情で睨んだ。

「……少しは意識位しろよなー…」
「はい?」

小さく呟かれたヒカルの言葉を聞き漏らした彩は首を傾げた。
腕を緩めて彩の顔を覗き込めば、彩はヒカルと視線が合うとフワリと微笑した。クリッとした黒曜石の瞳が柔らかく細められ、僅かに弧を描いた艶やかなピンクの唇に引き寄せられる様にヒカルの顔が近付く。彩はただ黙ってぼんやりとそれを見詰めていて――。

「ヒカル〜? ドアを開けて頂戴」
「………っ!!!」

母の呼び掛けで、ヒカルは慌てて両腕を離すと立ち上がった。顔が例えようも無く熱い。
ガリガリと頭を掻くと、のんびりした所作でドアまで歩いて行く。ガチャっと音を立てて開けた扉から美津子が二つのグラスとお茶菓子を持って立っていた。

「これ、新しい飲み物あげて頂戴」
「あ、ああ」

ぶっきら棒にそれを受け取るヒカルに気にせず、座ったままキョトンとこちらを見ている彩に視線を向けて笑いかける。

「ゆっくりしていって頂戴ね。夕飯は食べて行けるのかしら?」
「…え? いいえ! そこまでご迷惑は掛けられません。そろそろお暇しますので、お気にせず」

パタパタと両手を横に振って辞退をすると、美津子は僅かに落胆する。

「あら、そうなの? 残念だわ。…そうね、おうちで用意されてるでしょうものね。じゃあ今度は是非食べていって頂戴ね」
「あ、はい。是非」

嬉しそうに会話する美津子と彩を黙ってやり過ごしていたヒカルに気付き、美津子はその顔を見て首を傾げる。

「…ヒカル? アンタ、具合でも悪いの? 顔が赤いわよ」
「……っ! だ、大丈夫だよ」
「そう? 風邪でもひいて、彩ちゃんにうつしたら承知しないわよ」
「判ったからさっさと出てってよ」

グイと押して部屋から追い出す。ふう、と息を吐いてから、背後にいる彩にそろそろと振り返る。

「あー…。えっと、とりあえず送ってく。で、又打とうな?」
「はい、勿論です!」

先程の事など忘れたかの様にパッと表情を輝かせて頷く彩に、ヒカルは内心大きく溜め息を吐いていた。

――前途多難、だなァ…

再会出来た事は奇蹟とも言うべきで、しかもお互いそれを喜べた事は何よりも嬉しいけれど、色々と問題は山積みだ。
自分を意識して貰う努力もさながら、繋がりを維持していく努力もしなければならない。あの頃とは違って二人には立場も年齢差もあって、それがどれ程障害になるのか判らない程ヒカルはもう子供ではない。努力しなければ側に居る事など叶わないのだ。
けれどもそれすらもヒカルにとっては苦には思わない。可能性があると言う事がどんなに幸せな事かを思い知っているのだから。

――今度は絶対離さないからな?


ヒカルの差し出した手を躊躇無く握り返した彩の小さな手の温もりに、心の中でそう決心するヒカルだった。







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遅! 遅くなってすみませんでした〜! ホントに大した話じゃないのに何でこんなに時間かかるかな…。そしてお約束の展開でスンマセン。そう簡単にはあげないよ!(え〜?!)
このシリーズは登場人数少なくてちと不満です。もっと色々出したいけど…無理かな〜…。ある意味二人の世界なんだろか…(違)。


20070921