棋聖再降臨 転生編3




向かい合う彼の真剣な姿を愛しいと思う。幼さの消えた凛々しい面差しと深い眼差し。そして碁を打つ姿はすっかり一人前の棋士で。嬉しくて自然に口許が緩む。花開くように笑む彼女に気付いた周囲の人間は思わず見惚れ、対局していたヒカルも一瞬息を呑んだ後…僅かに眉を顰めた。それに気付いた彩は、自分の不謹慎な態度を改め慌てて表情を正す。

そう、楽しくて仕方なかった。成長したヒカルの碁は、彩にとって新鮮且つ懐かしい想いを呼び起こさせ、この時間が永遠に続けば良いのにとさえ思った。

――思いもよらない所に打ってくるヒカルの手。それがどんな風に形作られていくのか、私はいつもワクワクしていたのでしたね。

対してヒカルの方はと言えば、手加減等まるでしていない筈なのに全く縮まらない差に頭を悩まし、ともすればほんの僅かの気の緩みであっと言う間に差を開かされてしまうだろう予感を感じさせて、相手の棋力の高さに内心舌を巻いていた。
ただならない気迫と打ち筋。彼女の研ぎ澄まされた一手一手に確信する。

――…佐為だ。

間違いない、と思う。彩に佐為がとり憑いているという可能性はヒカルの中で最早失われた。凛とした神々しいまでの気配は彼女自身から感じており、昔の自分の様に彼にとり憑かれているのならば僅かにでも視線が彷徨ったりする筈である。だが、彼女は盤上から一瞬たりとも目を離さない。
己の考えもよらない、けれど確実に急所を狙って打つ様は、以前よく彼にこてんぱんにしてやられていた事を思い出す。

彼にもう一度会えたなら、強くなった自分を見て欲しかった。同じ位強くなったと思えた事は未だに無かったけれど、それでも少しは対抗出来ると思っていたのに…。

――くそぅ、勝てねェ!

幾らハンデがあったからと言っても、全く差を縮める事の出来ない自分の弱さに苛立ち、内心腹立たしささえ感じる。これで本気でないと言われたら、本因坊の座を返上しなくてはならない気さえしてくる。

悔しくて腹立たしくて…けれど嬉しくて。変わらない強さが愛しかった。

あまりにもハイレベルな内容に、周囲の人間は息を呑んで目を見張る。ヒカルの相手が新人プロだという事すら既に忘れ、ただひたすらに作り上げられる見事な盤上を見詰めていた。

長く短い時間が過ぎ、決着が明らかになったと判断したヒカルは手に持った扇子をパチンと打ち鳴らした。

「ありません」

いっそ清清しい思いで告げたヒカルのその一言で、周囲の人々はざわめいた。









検討は又今度、と異例中の異例(と言うかあり得ない例)で無理矢理彩を引っ張って周りの人々の追及を逃れたヒカルは、人気の疎らな公園まで辿り着くと、それまで黙って後ろを着いて来た彩をベンチに座らせた。

「……」
「……」

沈黙が漂う。

この少女が佐為だと判っていても、最初に何と口に出して良いのか判らず、ヒカルは頭をガシガシと掻いた。

――いっそオマエから名乗り出てくれたら良いのに。

そんな勝手な事を思いつつ、そう言えば記憶が無いという事もあるんだという可能性にハタと気付く。その場合、現状をどう弁明すべきかと内心焦りを覚え、そんな簡単な事にすら気付かない程の衝動だったのだと…己の彼への想いの深さを今更ながら思い知る。

果たして彼女は自分のこの行動について、どう思っているのだろう?

ちらりと彩に視線を移すと、彼女は風に揺れる木々を眩しそうに眺めていた。その表情が佐為と重なり、ヒカルは自然に言葉が口をついて出た。

「……何で、とか聞かないのか」

静かに問うたその声に、彩はゆるりと視線をヒカルへと向ける。何も言わずじっと見詰める澄んだ黒い瞳に、思わず吸い込まれるのではないかと思った。

「……怒らない、のか?」

記憶が無ければ訳の判らない問い掛けでしかない。もしかしたら、判っていても知らない振りをされるかもしれない。自分にとって佐為は掛け替えの無い大切な人だけれど、彼が同じ様に思っているとは限らない。
あんな状況でさえなければ見向きもされない立場なのだとの自覚はあった。

緊張を抑え込む様にぎゅっと拳を握り締めて問うヒカルの姿を真っ直ぐに見詰めていた彩は、穏やかな表情のまま首を傾げる。サラリ、と光を帯びた艶やかな髪が小さな肩を滑り落ちた。

「どうして、ですか?」

幼い少女の軽やかに響く音。それは記憶する佐為の声とは違うけれど、懐かしい眼差しと穏やかで優しげな口調がヒカルの胸を打つ。本当にこの少女は――。

「強くなりましたね、ヒカル」
「……っ!」

フワリと春の陽だまりのような笑顔を向けて告げられたその言葉は、ずっとヒカルが佐為から聞きたかった言葉だった。望んで、切望して――それさえ得られれば何もいらないとすら願い、そして己の愚かさ故にそれは永遠に与えられる事は無いのだと絶望していた。

それが、今目の前にある。

触れるのが怖かった。手を伸ばしたら消えてしまうのではないだろうかと眩暈すら覚える程の恐怖がヒカルを襲う。
…けれど慈しむ微笑みを己に向けて惜しげも無く注がれ、ヒカルはその誘惑に耐えられずに恐る恐る腕を伸ばして少女をぎゅっと抱き締める。彩はその突然の行為に驚きもせず、ヒカルの震える大きな肩に手を置き、大切なものを包むようにきゅっと抱き締め返した。

穏やかに吹く風が二人を包み、優しく撫でて行く。お互いの体温が伝わって、これは夢では無いのだと実感させる。

本当に、再び廻り逢えたのだ、――と。

ヒカルは黙り込んだまま身動きせず、彩を抱き締めた腕に僅か力をこめる。彩も黙ってそのままにされていて、そういえば彼の体温を感じるのは初めてだと改めて気付き、ヒカルの腕の中で薄く笑った。

あんなに近くにいたのに触れたのは初めてで、それが彩には嬉しかった。

「大きくなってもヒカルは泣き虫ですね」
「……るせ」

クスリと笑いながら言った彩の言葉に、照れ臭そうに文句を呟いた。そういう所も変わっていないと彩は思い、懐かしさに胸が込み上げる。

「……私を責めないのですか?」

静かに問う彩の台詞に、ヒカルはゆっくり身を離すと赤くなった目で見詰める。不安そうにヒカルの言葉を待つその姿に苦笑を漏らすと、コツンと額を合わせて微笑む。

「バァカ。それはオレの台詞だって。何でオレがオマエを責めるんだよ」
「……だって。黙って突然消えてしまって…ヒカルを酷く傷付けたでしょう?」

佐為が消えた後のヒカルの連続不戦敗記録は囲碁界では有名だった。世間では未だに原因は謎なままだったが、元凶である彩には聞かずとも判る。

その頃どれ程ヒカルが傷付き苦しんでいたのかを――。


「それはオマエが悪い訳じゃないだろ。オマエの様子がおかしい事に気付かなかったオレが悪いんだ」

苦い顔で笑うヒカルを見ても、彩は頷く事は出来なかった。

「いいえ。あの時私は…私が消えてしまった後ヒカルがオロオロすれば良いんだと、そんな風に思ったりしました。ヒカルがどれ程胸を痛めるかも考えず、私は…」

辛そうに目を伏せて懺悔する彩の言葉に、ヒカルは過去の自分の愚かさを実感する。

「そうオマエに思わせる位鈍かったオレが悪いんじゃん。オマエはじーちゃんのお蔵で言ってくれてたのに」
「……」

あの頃の自分は、佐為の機嫌が悪いだけだと思って深く受止めもしなかった。一人悩んで切羽詰った彼の想いをただの我儘だとあしらい、それに対してイライラしてさえいた。
何て幼く自分勝手だったのだろう。甘え過ぎていた己の自業自得だ。佐為が己を見限っても不思議は無かった。だから彼が自分に会いたいと思う事は無いかもしれないとヒカルは思っていたのだ。

「…こうして会いに来てくれたって事は、オレの事嫌いになった訳でも、惚ける気でも無いって思って良いんだよな?」

確かめる様に問い掛けたヒカルの言葉に、彩はキョトンとした表情をする。そんな一つ一つの仕草や表情が、彼女を佐為本人だとヒカルに実感させる。

これは己の都合の良い夢や幻では無いのだと。

「私がヒカルを嫌いになる訳無いじゃないですか。ヒカルこそ?」
「それこそある訳ないだろ。ずっと…ずっと逢いたかった……佐為」

だらしなく声が震えそうになる己に内心呆れる。もういい大人になったのだからと、格好付ける位の余裕が欲しかった。…けれどそれも仕方無い。
もう一度出逢う事を、どれ程望み続け、どれ程焦がれた事だろう。願いが叶う事は無いのだと諦め様として諦められなかったのだ。今までずっと。

「私も…逢いたかった」

嬉しそうにはにかんだ顔を間近で見てしまったヒカルは、クラクラと眩暈を感じて彩の肩を再び引き寄せ抱き締めた。彩は不思議そうな表情をし、僅かに顔を上げて様子を見ようとするが身動きは出来なかった。

「……ヒカル?」

心配そうな響きを含んだ声で呼ばれるが、ヒカルは顔を上げる事が出来ない。許されるならば、泣き喚きたい程嬉しくて大声で叫び出したかった。この腕の中の存在がそれ程に愛しいのだと、世界中の人に伝えたい。
いつまでも動かないヒカルに彩は段々不安になり、優しくポンポンと背中を叩いて声を掛ける。

「ヒカル、大丈夫ですか? 具合でも悪いのですか?」

相変わらず的の外れた心配をする彼…もとい彼女に苦笑が浮かぶ。判ってねェなと思いつつ、頭に浮かんだ事は。

――うわ、やべ。コイツスゲー柔らけェ。

何だか良い匂いもする、と其処まで考えて、そう言えば彩は少女だったのだと思い出した。
人気の無い場所とはいえ、成人男性と幼い少女が抱き合っているのだ。傍から見たらヤバイ光景では無いのだろうか。


「悪ぃ! ゴメン、佐為」
「え?」

突然パッと身を離されて謝罪され、何が起こったのか判らず、彩は不思議そうに首を傾げる。

「何がですか?」
「え…と。いや、その、いきなり抱きついちゃったりしてさ」

しどろもどろに視線を彷徨わせながら言い訳をする。顔も赤くなっているだろう。抱き締めていなくとも、他人が見たら不審人物以外の何者でも無い気がする。

「? 別に構いませんよ。嬉しくて抱きつきたいのは私も同じですから」

ニコリと一転の曇りも無い笑顔を向けられて、ヒカルは益々居心地が悪くなる。

「…それだけじゃないんだけど」

小さく呟いたヒカルの台詞が聞こえなかったらしい彩は、現状を思い出してヒカルに向かって再び身を乗り出した。無防備な彩の行動に、ヒカルは思わず息を呑んで身を引いた。

「そう言えば、逃げ出しちゃって良かったのですか? 検討もしないで出て来てしまいましたけれど…」

近過ぎる距離に焦りながらも、気を紛らわせるように現実を思い出す。

「あー…。後ですっげー怒られるんだろうなぁ」

ヒカルは今時珍しく携帯を持っていないので、連絡のつかない状況にきっとヤキモキしている事だろう。多分実家には連絡されているだろうけれど、碁の事を何も知らない親相手では『帰宅したら連絡を寄越す様に伝えてくれ』との伝言があるだけであろう。
…そしてそれをいつすべきか、暫く頭を悩ませそうだ。

ヒカルの難しそうに思案している様子を見て、彩が楽しそうに明るい表情で笑う。

「ヒカルは大人になっても叱られてばかりなんですね」
「ばかりじゃねーよ! ったく、オマエと関わるといっつもこうなるんだよな」

暢気に他人事の様な感想を述べる彩に、ヒカルは拗ねて口を尖らせる。そんなヒカルを見て、彩は時が逆戻りした感覚を覚える。

「私の所為?」
「良いよ。どうせ惚れた方が負けなんだしな」
「何ですか、それ」

呆れた顔で見詰める彩の視線が優しくて、ヒカルは微笑まずにはいられなかった。この後こっ酷く叱られるだろう事すらどうでも良いと思える位、今のヒカルは幸せだった。
……ただ一つの難点は。


「厄介なのは塔矢なんだよな。絶対オレがオマエと対局してるの知ってるだろうし、今日はアイツも対局だったからあの場にいなかったけど、棋譜だって後で見るだろうし…」

絶対気付くよな〜、とブツブツ言っているヒカルに彩は首を傾げて問う。

「まだ話して無かったのですか?」
「……」

咎められている気がしているのか、目を逸らして黙り込んでしまう。そんな彼の様子に彩は笑う。
本当に、不器用で繊細な所も変わっていないのだ。それが彩には嬉しい。


「大丈夫ですよ。塔矢は変わりませんから」
「――うん」

心の中を見透かされている様に優しく言われて、ヒカルは苦笑するしかなかった。これではどちらが子供なのか判らない。佐為の記憶があるとは言え、彼女は正真正銘の子供で自分は大人なのに。
そう言えば、彩としての自我はどうなっているのだろうとふとヒカルが思っていると。


「では、これから二人で検討しましょうか!」

徐に立ち上がってヒカルの手を取る彩は、零れんばかりにキラキラとした子供の様な瞳を向けていた。いや、実際子供であるのだからおかしくは無いのだが、何だかこの展開は懐かしい気がする。

「…へ?」

一瞬何を言われているのか判らなかったヒカルは、ポケッとした表情で彩を見返す。彼女は呆れた様に眉を顰めて両手を腰に当てた。

「何を呆けているのです。日々精進怠れば、あっと言う間に千年の時が経ってしまいますよ。ささ、参りましょう」

グイグイと手を引っ張る彩に慌てて立ち上がるけれど、突然の話題転換に頭が付いて行かない。

「い、行くってドコへ?!」
「検討出来れば何処でも良いのですが…ヒカルの立場を考えると、その辺の碁会所と言う訳にも行きませんね」

マグネットも持って無いし、目隠し碁にするには細か過ぎると頭を悩ませている彩をじっと見て、コイツはホントに碁の事ばっかだよなーと懐かしいやら悔しいやらと心の中で言いたい事が渦巻く。今までの雰囲気ぶち壊しだなと思いつつ、言葉にしたのは別の台詞だった。

「オレんち来るか?」
「え。良いのですか?」

驚いた顔でこちらを見る彩に、思わずヒカルの目が泳ぐ。疚しい気持ちで誘っている訳じゃないのだから、と誰に言うでもなく心の中で言い訳をする。

「最近片付けて無かったから散らかってるけど、それで良ければ…」
「行きます!」

元気良く手を上げて嬉しそうに同意する彩を見て、心の中で複雑な心境をぼやく。

――いきなり男の部屋に行くって抵抗無いのかコイツ? …ってある訳ないか。元男だし、外見上年齢差あり過ぎだし…。コイツそう言う事に全然自覚無いしな。

条件がどうこうと言うよりは、昔からこういう性格だったとこめかみを押さえる。そもそも自分相手に意識するとか警戒するとかある訳無いのか、と落胆するけれど、自分はそうはいかないんだよなぁと小さく溜め息を吐く。


こちらを見て無邪気に微笑む彩の姿に、大人になった筈の己の忍耐を心の中で確認するヒカルだった。







close

うわ〜、長かった! 会話するまで長いよあんたら…と言う感じでした。てかここまで引っ張っておいてアッサリ正体発覚というのは意外性があるんだか無いんだかよく判りませんね(爆)。ずっとひたすら判らないままってのも面白かったかもしれませんが、それじゃヒカルが可哀想過ぎますしね…。
とりあえずひたすらラブラブに出来る様頑張ります! 頑張らないとラブラブにならない辺り困った奴ですんません。つか、更新速度何とかしないと……(遠い目)。


20070314